最終章 告白とシクラメン

少しの間、二人の間に沈黙が訪れる。さっきまでは何事もなく元気だったはずなのに。なんで。どうして。こうなることは必然だったのか、偶然だったのか。あまりに突然と起こった出来事に転げ落ちないようあずきの体を支えている私の体は、石のように固まってしまっていた。

「そう静かにならないで、大丈夫だよ。みやちゃん」

 間を嫌うようにえへへとあずきは笑う。

「でも、」

 でも、私はなんとなく感じ取ってしまう。あずきはもう長くはないのではないのだろうか、ひょっとすると彼女はこのことを全て知っていて、その上で今まで私に沈黙を通していたのではないだろうか、と。

「大丈夫だって、死ぬわけじゃないんだから」

「本当に?」

 私はその顔を唖然と見続ける。事実を知るのが怖くて、でも嘘は言って欲しくはなくて、心臓はバクン、バクンと跳ねうつ脈を丁寧に一つ一つ味わっているかのように鼓動していく。

「大丈夫、大丈夫。もう、みやちゃんは疑い深いなぁ」

「あずきちゃん、」

 あずきの体を支えている私の腕に力が籠ってしまう。

「そんな疑心暗鬼なみやちゃんには! えいっ!」

 あずきの伸ばした腕が今度は空を切ることはなく私に向かってくる。

「えへへ、今度はちゃんと触れた、かな?」

「あずきちゃん」

 私の頬に触れている温かいあずきの掌が肌を上下に撫でる。

「心配しなくても、みやちゃんと無事に元の世界に戻るまでは私は意地でも生きてみせるよ、だから安心して」

 宥めるような声と共にその顔に刻まれた文字は今までのどんな時よりも緩やかな速度で「大丈夫」という漢字へ変化していく。その様子に私は、これは単なるはったりで、あずきの空元気なのだとわかりつつも少なからずどこかで安心を覚えてしまう。

 「うん」

 私はゆっくりと頷く。だからなのか。この安心を心にずっと留めておきたくて、一度抱き着かれた体温を手放してしまうのが怖くて、腰に回っていた私の左腕は自然と徐々にその高度を下げあずきの膝関節へと移動する。

「みやちゃん?」

 自分が今、どんな状態になっているのかあまりわかっていないであろうあずきは顔を右に、左に、動かす。

「何してるの?」

「体、動かさないでいてね。少し移動するから」

 そのまま私はあずきを自身の体に近づけ、力いっぱい立ち上がる。

「うん、わかった」

 なんとなくあずきも自身の状況を理解したのか私の胸に顔を鎮め、静かになる。それを確認するなり私は一歩、一歩慎重にあずきを落とさないように数十歩先の小さなテーブルの側にある椅子へ向けて歩いた。

  

  いつも歩く時の何倍もの時間をかけて、ようやく私は椅子へとあずきを座らせる。途中、少しだけ魔がさして腕の中で体を縮こめているあずきの顔をみたくなったけれど、思った以上に全身に力が入ってしまい、結局それは叶うことはなかった。

「椅子に座ったからもう自由に体を動かしていいわ」

 座らせても尚、頑なに動こうとしないあずきに少なからず動揺しつつも私は言葉をかける。一つ一つ、今行っている動作を教え込まなければ、何が起こっているのか把握ができない。目が見えなくなる、ということはそういうこと。わかっていても当事者ではない第三者がそれを意識して注意を向けるのは、中々に難しいことなのだと目の前の現実に嫌でもわからされてしまう。

「ん、ありがと」

 恐る恐る、ゆっくりと膝を伸ばしてあずきは地に足をつける。

「あずきちゃん、何か飲みたいものとかある?」

 自分に落ち着きを取り戻させたくて、私は給湯器へと手を伸ばす。

「ん~と、お茶が飲みたいな」

 地に着いた足をおぼつかなくあずきは右へ左へと動かした。

「わかったわ」

 すぐさま私は給湯器へ水を入れ、お湯が沸くのを待ってから旅館備え付けの高そうなインスタントのお茶を陶器の中に注ぎ込む。

「はい、どうぞ」

 コップを左手で掴んで、取っ手の部分があずきの右手にかかるように私はお茶をあずきへと渡す。

「少し暖かいから口の中やけどしないようにね。それとコップの外側も温かいから今触ってる取手、離さないように」

「うん、わかった。ありがとね、みやちゃん」

 受け取るなり口元にコップを持っていきふーふーと誕生日ケーキのろうそくをかき消すかの如く勢いよく陶器の中の熱をあずきは冷ましにかかる。

 その様子を卓を挟んで眺めつつ、私もコップの中に入れたインスタントコーヒーの粉を水に濡らして一口口に入れる。 

 口の中で苦みのある液体を少しだけ含み、唇と飲み口を切り離すと鼻から残っていた空気が僅かに漏れだしていく。早急に元の世界に帰れる方法を探さなければいけないはずなのに私の頭の中ではあの時こうしておけば、もっとやり方に工夫をしておけばとたらればばかりが流れ込んできていた。今までそうだったのだから今になってそんな簡単に解決策が出てくるわけがないのに。自分に起こっていた異変にすら気が付けなかったのに。目の前の現実を正しく捕えようとすればするほど、底なし沼で足をもがくかの如く私の思考は無理難題で沈み込んでいく。

「みやちゃん」

「どうしたの?あずきちゃん」

 自然に下を向いてしまっていた顔を声のする方へと向けると、冷え始めたコップを膝元で右往左往に取っ手を伝って動かせながら、じっとあずきが私を見ていた。

「真剣に考えてくれてる途中にごめんね。あの、お願いがあるんだけどいいかな?」

「何?」

 あずきを見つつも私の体は熱を帯び始める。今のあずきのお願いなんて遺言くらいしか思いつかない。そんなの聞きたくないしまだ一緒にいて欲しい。お互いが静寂を切り開く解を探しながら二人の間にまた沈黙が訪れる。

「その……」

 勇気を振り絞るかのようにあずきはぎゅっとコップを握り直し、たどたどしくコップを自身の胸元まで掲げる。

「お茶のお代わりってないかな。あと、できればお菓子とかも食べたくなってきちゃって。よかったら、でいいんだけどお菓子も持ってきてくれると嬉しいかなって。ほら、さっき食べ損ねちゃったから」

「え?」

 お代わり?お菓子?

「えぇとお代わりって……」

 私が聞こえていないと思ったのか、再度あずきは催促をしてくる。その光景にさっきまで疑いをかけていた安心が不思議と確かなものへと変わっていく。彼女にとってはこれからのことよりも今を生きていくこと、とりわけ今この日常を変わらずに生きていくことが何よりも大切なのだと短い会話の中でわからされる。それは何か特別なことをする必要はない、いつも通りを続けていけば自ずと答えが出てくるとでも言われているようだった。

「みやちゃん?」

「ありがと、あずきちゃん。お菓子も持ってくるわね」

 私はあずきの手元からコップをそっと優しく取り上げる。

「?お礼を言うのは私の方だよ。ありがと」

「ええ」

 時間が有限ではあると知りつつも、終わりが見えるその時まで時間は無限であると人は錯覚してしまう。けれど私は、今はその無限を信じていたい。この日常を守って、生き延びたい。今度は私があずきを助ける番だ。私はもう一度給湯器に手をかけてお茶を入れた。




  翌日、私達は旅館を出発した。前と同じように線路に沿って、二人で無駄話をしながらただひたすらに歩き続ける旅を、再開した。時折、駅から出て買い物をしたり、ホテルの一番上の階に泊まったり、二人で一緒に寝袋に入って美しい星空を眺めたり、沢山の思い出を作りながら、休むことなく前へ、前へと足を動かした。けれど、手足の感覚が無くなっても、元の世界に戻りたいという思いがいくら強くても、眼前の現実は変わることはなかった。

 気が付くと今日がもう何月何日なのかもわからなくなっていって、少しずつ私達は時間に蝕まれ、体の感覚を奪われていった。そうして、沢山の時間が過ぎたある冬の日のこと、ついに私達にお別れの時はやってきた。その日はとても寒くて、そのせいか少し雪が降っていた。

「今日も寒いわね」

 もう何十泊目かわからないホテルの自動扉が開き、私達を一面銀世界の外へと誘う。

「そうだねぇ、もう寒くて寒くて仕方ないや」

 あずきは自身の両手を二の腕へと回し、わなわなとわざとらしく体を震わせた。

「さ、あずきちゃん、行きましょうか」

 慣れた手つきで私は、あずきの左腕を自分の右腕と絡めようとする。

「うん!」

 あずきは首を縦に動かす。難なく無事に腕を絡めても、あずきの腕からは手繰り寄せるだけの力は帰ってこず、私達はそのままいつも通り歩幅を合わせて前へと歩き始める。

「今日も雪が降ってるのよ」

「今日も! じゃあ、みやちゃん。後で雪だるま作ろうよ。私、めっちゃ大きいの作りたい」

「ええ、作りましょう」

 障害物に気を付けながら、私達は一歩、一歩と段々と猶予が無くなっていく時をかみしめるように雪で覆われた道路を踏みしめる。

「しっあわっせはー歩いってこないーだーから歩いていくんだね~」

 不意にあずきが歌い始める。それに応じて私も歌を歌う。聞くことだけが世界のすべてになったあずきにとって、一緒に歌うことは私とプリクラを撮ったり、テーマパークで遊んだりすることと同じく、とても楽しいことらしい。以前、あずきがそう言っていた。だから私も、歌詞を良く知らない歌でも声を合わせて歌う。

「ふふっ。一日一歩二日で三歩」

 かえるのうたのように後から続いた声は徐々にサビ手前で重なり合う。

「さーんぽすすんで二歩下がる~」

「じ~んせいはって、ありゃ?歌わないの?」

「だって、その先の歌詞知らないもの」

「ふふん。『人生はわんつーぱんち汗かきべそかき歩こうよ』だよ」

「初めて聴いた」

「ひひっ。私の勝ちだね」

「何の勝負よ」

 わっはっはっはっはとあずきは笑った。

「そうだ、みやちゃん。今日のご飯どうしよ。私、久しぶりにお肉食べたいな~」

「いいわね。スーパーに行って探してみましょう。無かったらまた明日探せばいいし」

「やった~!」

 絡めていない右腕をあずきは上に掲げる。

「明日も明後日も毎日が楽しみになってきたよ」

「ふふっ、それは良かった」

「あ~楽しいな。毎日がこんな風に続けばいいのに」

「本当にね」

 ふふっと私は笑う。

「ねぇ、みやちゃん」

 ふと、あずきは立ち止って顔を上に上げる。

「何、あずきちゃん?」

 それに引っ張られるようにして、前へ動かしていた私の足は、留まる。

「どうしてみやちゃんはさ。こんな変な被り物をした私と何の疑いもせずに仲良くしてくれるの?」

 私は横にいるあずきの顔を見る。彼女の顔の文字はいつしか「疑問」になっていた。

「理由になってないかもしれないけど、いい?」

「うん。勿論」

 あずきはこくりと首を縦に振る。本人の目の前でそれを言うのはなんだか恥ずかしい。けれど、溢れ出してくるこの想いを隠す術など不器用な私は持ち得ていない。だから。私は。私があずきと仲良くするのは。私は心の隅から隅まで勇気をかき集めて口元へと持っていく。

「あずきちゃんが、友達だから。この世界でできた唯一の私の友達。きっとこの先も一緒に居てくれる親友だから。」

 一つ一つ、口から出てくる言葉の端端に温かさを持たせて、丁寧に、零れてしまって割れないように。花畑に咲いた一凛の花を優しく摘み取るように。私はそっと言の葉の扉を開いた。

「……」

「あずきちゃん?」

 珍しく間が長いあずきに私は戸惑ってしまう。いつもなら冗談なりなんなり言ってくれるのに。

「変な間を開けないで。恥ずかしい」

 火照る顔を覚ましたくて、私は少しそっぽを向いてしまう。流石に何か言ってくれないと私が恥ずかしいだけだから早く言葉を発して欲しい。

「みやちゃん」

 数十日ぶりにあずきの腕に力が籠るのを感じる。

「何?あずきちゃん」

 そっぽを向いた顔を私はあずきへと向ける。

「自分で聞いといてなんなんだけど、私、今めちゃくちゃ嬉しくて爆発しちゃいそう」

「そう」

 また私は自分の顔の熱を冷ましたくて、そっぽを向いてしまう。

「うん、なんか、ありがとね、みやちゃん。私、みやちゃんに会えてよかった。みやちゃんみたいな優しい子に最期に出会えて」

 

最期?


「最期だなんて、どうしてそんな急に……」

 途端にするりと自分の右側が軽くなっていくのを感じる。

「あずきちゃん!」

 雪の中にめり込むように横になってあずきは倒れこんでいった。

「ごめん、みやちゃん。耳、聞こえなくなっちゃった」

「へ?」

 しゃがんであずきの体を起こそうとする私の背中に言いようのないものがするりと駆け上がっていく。

「もう、私、動けそうにないや」

 あずきはなんとか自身の指の手先を動かして、そう、言った。

「何、言ってるのよ」

 私はあずきの脇の下に腕を回す。けれども回してもその体はピクリとも起き上がろうとはしない。

「ごめんね、みやちゃん」

「謝らなくていい。あずきちゃんらしくないわ、そんなの。ほら、もう少しだけ、頑張りましょう」

 私は力いっぱいにあずきの体を持ち上げる。けれども私の体にはあずき本人が全く力を入れてないせいで、いつもの何十倍もの重さがのしかかってくる。

「はぁ、はぁ、はぁ」

 吐息は次第に濃さを増していき、体力がなくなっていっていくのを感じる。

「みやちゃんは、」

 あずきが何か言おうとするのと同時に腕が限界を迎え、そのまま脱力して私はあずきごと後ろに倒れこむ。

「優しいから、今必死に私を助けようとしてくれてるんだよね。見えなくても聞こえなくても、体の感覚がなくても、なんとなくわかるよ。ごめんね。迷惑ばかりかけて」

「何が迷惑よ。迷惑をかけているのは私じゃない。ほらあずきちゃん、諦めないで、ねぇほら」

 起き上がって私はもう一度腕をあずきの肩に回す。意識し過ぎているのか、それとも普段よりも寒いせいなのか触れ合ったあずきの肌が、いつもよりも冷たい。

「でも、もういいの」

 不意にあずきは何かをつかむようなしぐさで腕を上に挙げる。

「よくないよ」

 肩を回すのを止め、落ちようとするその手を私はとっさに掴む。

「もう、いいの」

 握っていた手が震え始める。

「よくない」

 震えを止めるように手に力が籠る。

「もう、いいの」

 終わらせてくれと言わんばかりに手が地面に向き合おうとする。

「よくない」

 それでもと私の残った体の力全てが手の中に籠る。

「いいんだよ、これで」

「よくない!」

 ぎゅっと、私はあずきの手を握りしめ続ける。

「よくなんかない!あんたが良くても私がよくない!」

 ああ、あぁ。誰か、誰か。助けてください、お願いします。冷たくなっていく体を、温めてあげてください。お願いします。なんで。どうして。人生は困難ばかりなの?何故、天は人によっては二物も三物もあたえるのに私達には少しの勇気も希望も与えてくれないの?ごうごうと風が唸り声をあげて私の声をかき消そうとする。加えて、さっきまでちらほらと降っていた雪もいつの間にか強くなっていた。

「みやちゃん。あのね」

 お腹から上がってくる何かと戦っている私の横で、あずきは顔の文字をくるくると変え「告白」にする。

「何?」

 あずきの声を逃さないよう、私はその白い球体へと耳を当てる。

「聞いてほしいことがあるの。今まで隠してたこと。私、ね」

「うん」

 ドクンと心臓が強く脈打つのを感じる。

「姫山あずきって名前、本名じゃないんだ。だから、私の本当の名前、聞いてくれる?」

 何のためにあずきは本名を隠していたのだろう。なぜ、このタイミングでそれをいうのだろう。でも、あずきがどんな名前だって私には関係ない。私はあずきの明るくて素敵な優しい心に惹かれたのだから。

「勿論」

 私はもう一度ぎゅっと強くあずきの手を握り締める。

「ごめんね、嘘をついて。でも、これを言うと貴方がどう感じるかわからなくて。最後の最後に取っておいたの。よく聞いて。みやちゃん」

 大きくあずきは一度深呼吸をする。

「いや、京」

「え?」

 言葉にはできない強烈な違和感が私の中を走り抜ける。それは、まるではじめてあずきと会ったときみたいな強烈な違和感で――。

「私の本当の名前は、」

 それまで頑なに外すところをみたことがなかったあずきの顔にのせられた丸い球体が吹雪に飛ばされ、どこかへ飛んでいく。そうして、あずきの顔が露になる。茶色の長い髪に、派手さを控えたメイクの可愛げな女の子。その存在は、そばかすが少しできてメイクも全くしていない、黒髪単発の私とは非対象的で全く違う。でも、その雰囲気はまるでかつての私の残像をなぞるかのようで――。瞬間、私の頭の中で今までの違和感がパズルピースのようにつながる。なぜ、あずきが被り物をしていたのか。なぜあずきの心情が頭の部分に書かれているのか。全てあずきに対して抱いていた謎が一つ一つ繋がって大きな立体図を形成していく。

「貴方はー」

 そう私が呟く前に、今まで姫山あずきと自称していたその娘は自信の名を呼ぶ。

「新堂(しんどう)京(みやこ)。それが私の本当の名前」

 力強く私を見つめ彼女は呟いた。

  


  「どうして………」

 じっと私は彼女を見つめる。そこにいるのはまごうことなくもう一人の私だった。

「やっと、きづいてくれた」

 目と目が合い、優しく彼女は目を細める。

「最初に、私の話をしよっか。質問はそれからだね」

 降り仕切る雪の中、一つ一つ彼女は、自分の素性と隠していた秘密について語り始める。

 私と彼女は同じ人間でありながら違うということ。彼女がいる世界では中学時代の友人達と同じ学校に進学し、仲が良いこと。

 学校からの帰り道に乗用車に跳ね飛ばされ、救急車に乗せられている中で意識を失い、気が付くと家のベッドで私と一緒に寝ていたこと。時間として私が目覚める約三ヶ月前からこの世界で目覚めていたこと。

 たまたま家を空けて散歩をしていた帰りに目覚めた私と出会ったこと。顔の球体はあずきには見えておらず私にしか見えていなかったということ。

 この世界で突然なくなったり、元からない物は恐らく命の残り火が少ない私たちの記憶がこの世界でその体を維持するためにいらないものから消しているからだということ。

 

いつの間にか手先が冷えて感覚がなくなりかけた頃、ようやく彼女は自身の知っていることを全て話し終えた。

「何か私に聞きたいこととかある?」

「色々とありすぎてわからないのだけれど……」

「そうだよね、よくわからないよね」

 相も変わらず彼女の瞳は私の顔をしっかり捕らえつつ、たははと微笑む。初めて見る笑その顔ですら、彼女が本当に違う世界で生きている自分なのだなと実感させられてしまう。

「そうだ。私、貴方のことなんて呼べばいい?京だと被っちゃうからお互い呼びづらいと思うのだけれど」

「ふふっ。そうだね。うーん。じゃあ、前と同じで『あずきちゃん』って呼んでよ。私も『みやちゃん』って呼ぶことにするからさ」

「わかった。あとその、少し気になるんだけど、『あずき』って名前は何か意味があってつけたの?」

「全然ないよ。みやちゃんに名前を聞かれて、悩んでた時にとっさに私の好きなもの詰め合わせて考えた名前」

「そう、なのね」

 もっと深い理由があったのかと思った。思わず、私は拍子抜けしてしまう。

「というか、私の声、聞こえるの?」

「うん。聞こえるよ。みやちゃんの声がしっかりと。さっきまでは駄目だったんだけどね。体が最後に頑張ってくれてるのかな。それに今は、なんと目も見えちゃうんだ。だからみやちゃんの可愛い顔、きちんと見えるよ」

「それ、自分で自分の顔を褒めているのと同じことなのだけれど」

「たっは~ばれちったか。私、自分の顔が好きなの。でも、みやちゃんの顔はもっと好き」

「そんなに、変わらないと思うのだけれど」

「いやいやいや。みやちゃんの方が可愛いよ。今度メイクしたげる。絶対私より可愛くなるから」

 いつものように会話しているせいかなんだか一気に会話があずきのペースに引き込まれてしまう。けれど、この会話の流れでもまた、私はやっぱり彼女は京でありながら姫山あずきなのだと実感させられてしまう。

「はぁ、もう。あずきちゃんは変わらないのね、どんな状況になっても」

「変わってるよ、私。この世界に来たての時は、めっちゃネガティブだったんだから。隣のベッドで寝てるのはもう一人の自分だし、誰かに助けを求めようにも近くに人はいないし、移動するにも自転車もなにもないんだからどうすりゃいいんだーって。でもみやちゃんが目を覚ましてくれてからは毎日が楽しかったし、安心したよ」

 ぎゅっとあずきは握っている私の掌を握り返す。その様子に私はあずきの私への優しさなんて知っているのに、どうしても確認がしておきたくて、図々しくなってしまう。

「私なんて放っておいてよかったのに」

「だって気になるじゃん、違う世界の自分がどんな生活をしているのか。あとね、みやちゃんが寝てる時、苦しそうな顔してたからそれも気になったの。だから少しでもお話を聞いたあげて、隣にいてあげたいってのもあったかな。結局、時間がかなりたってからしかみやちゃんのことを聞けなかったけど、ごめんね」

 心臓が早く鼓動し、体が温かくなる。

「ううん、いいの。ありがと。すっごく嬉しい」

 改めて私は、等身大の自分を認めてくれる存在がいることに嬉しくなる。

「それで、あずきちゃんはこれからどうなってしまうの?」

「うーん、それに関してはわかんない。私もなったことがないから」

 心なしか握っているあずきの手が震えていくのを感じとってしまう。

「でもね、みやちゃん」

 あずきは一度瞳を閉じた後、またその輝かしい瞳で私を捕らえる。

「きっと私もみやちゃんも元の世界では生きてると思うんだよ。なんとなくなんだけれど。私達は同じタイミングで何らかの条件が重なって、ここに飛ばされて出会ったんだと思う。私だったら車に跳ねられて、なんだけど、みやちゃんも何かこっちに来る前のことは覚えてない?」

「こっちに来る前?」

 ここに来る前、元の世界で言うとこの世界に来る前日のこと。あの日、私は何をしていたんだっけ。確か、学校をさぼってカフェを転々としながら学校が終わる時間までゆっくりと過ごして、家に帰ってご飯を食べた後、ネットサーフをしてそのあと寝て…駄目だ。何かが欠如している気がするがどうしてもそれが思い出せない。

「ごめんなさい、何かがあった気はするのだけれど、それが何かは思い出せないみたい」

「そっか。なら、無理に思い出さない方がいいかもね」

「そうね、その方がいいかも」

 私はあずきと目を合わせ、微笑みあう。

「きっと、三途の川で私達出会ってるんだよ。だから、ここから消えるってことはさ。三途の川を渡らずに戻れるってことなんじゃないかなって私、思うの。私達は答えを見つけたらきっと駄目だったんだよ。これが正解だった。答えを見つけなくてもいい時だって人生には山ほどあるって言うし」

「そうね、そうかも」

 涙がまたこみあげてきそうになって私は空を見上げる。わかってはいるけれど、あずきが消えてしまうのはやっぱりさみしい。残された私はこれから消えるまでどうしたらいいのだろうか。

「みーやちゃん」

「うん?」

 あずきの顔を見る間もなく視界が急に降下して私の体は少し後ろへと倒される。それはあずきが体を起こして私に抱き着いてきたからだった。

「ごめんね、みやちゃん。一人だけ残して先に行ってしまうなんて」

 あずきは私の腰に回した腕をしっかりと強く結び、強く私を抱きしめる。

「いいの。あずきちゃんだって、私を長い間待っていてくれていたじゃない」

 私も自分の腕をあずきの腰に回して強くあずきを抱きしめる。

「でもね、みやちゃん、待っていれば必ず道は開けていくから。私がそうであったように。あなたもきっとそうなる。その証拠に、どんどんと身体の感覚が無くなっていったりしてない?」

「体の、感覚。」

 私は手足や指先を伸ばしたり、曲げたりする。私と同じように前触れがあずきにもあったということか。だとしたらあずきは……

「あ、そうそう、そんな感じ。だから順番なんだよ、これは。私が先に道を開いて元の世界に戻る、安全だったらこっちにおいでよ。私、みやちゃんを迎えに行くからさ」

「本当?」

「うん!勿論」

 ぐっとあずきは私に向かってサムズアップをする。冗談めかしに励ましてくれているのはわかっていても、その元気さに私の心は少しばかり照らされる。

「けれど、元の世界に戻ってもあずきちゃんにはもう会えないじゃない。私は貴方と一緒じゃなきゃ、」

 図々しいとはわかっていても漏れだした私の心の声は止まることなく悲鳴を上げる。

 元の生活に戻っても、あずきのいない世界で私はまた自分の中にいる大きな敵と戦わなければいけない。それは、私にとって途方もなく苦しくて辛いものであるのは間違いなかった。なら、私はいっそここで、とどめていた涙がまた頬を伝ってしまう。

「みやちゃん」

 私を抱きしめている腕にまた一段と強く力が籠っていくのを感じる。

「大丈夫だよ、みやちゃん。みやちゃんならきっとこの先も乗り越えられる」

「どうして、そう、思うの?私は貴方ほど強くないのに」

 涙一粒一粒が意味を持ちながら、雪のカーペットを滴り落ちる。

「だって、」

 さっきよりも一層あずきの笑顔が輝かしくなる。

「みやちゃんは、違う世界にいる私じゃん?大丈夫だよ。私にできることならあなたにだって絶対にできる。逆に、みやちゃんにできることは私にもできたりするんだよ」

 凄いでしょ、えっへん。とあずきは呟く。本当に、貴方は。

「そう、かな?」

「うん!」

 こくりと大きくあずきは首を縦に振る。本当に、本当に。私はあずきには敵いっこない。いつも助けてもらってばっかりだ。

「あ!そうだ。みやちゃんには一つ大事なことを教えたげないと」

 さっきみたいに深く一度深呼吸をし、一度私の肩に顔を埋めた後、再び顔を上げてあずきは私の瞳を見る。

「みやちゃん」

 今あずきにあの球体が付いていたならきっと、彼女は顔の文字を「真剣」に変えていただろう。そのくらい、今のあずきはいつもよりも真剣に、まっすぐな瞳を、私に向けていた。

「あのね。辛かったら逃げて。何を誰に言われようとも気にしなくていい。一生懸命に走って、逃げて。例え、それで一人取り残されてもみやちゃんは絶対に一人じゃない。だって、私がいるから。私がみやちゃんの居場所になるって約束したでしょ?みやちゃんは真面目だから、いつも辛いことにも頑張って立ち向かおうする。勿論それは大事なことなんだけど、一番大事なのはあなたのその他人を労ってあげられる綺麗な心なんだよ」

 今まで見た誰のどんな笑顔よりも優しくあずきは微笑んだ。

「うん。うん!わかったわ」

 立ち向かって敗走するしかなかった私の心にあずきの言葉がしみ込む。体中の水分がなくなるんじゃないかと思うくらい瞳からは涙が溢れ出してくる。

「そう泣かないで、みやちゃん。また会えるよ、きっと。約束しよ。私は先に元の世界に戻るだけだよ。」

 私の腰に回っていた腕が解け、あずきはそっと小指を伸ばす。でも、でも、やっぱり。

「でも、並行世界にあなたがいるなら、私達はもう二度と、」

 私もあずきにつられて腕を解き、小指を差し出す。

「信じれば、叶うよ。こうして私達が出会えたみたいに。」

 ぎゅっと強くあずきは私の小指とあずきの小指を結びつける。

「だからみやちゃんも私がみやちゃんの世界に来た時に『素晴らしき私の大親友です』って言えるように、長生きしててね。私も頑張るから。」

「うん、うん!」

 するりと結んでいた指が解けていくのを感じる。あずきはそのまま地面へとさっきのようにまた横になって倒れこんだ。

「えへへ、もうお別れの時間が来ちゃったみたい」

「待って。行かないで」

 私はあずきの腕をつかもうとする。けれど、強くつかもうとすればするほどどんどんとあずきの体の輪郭が薄くなり、その重さは軽くなっていくが見て、感じて取れてしまう。

「ありがとう、みやちゃん。私貴方に出会えて本当に良かった。あなたと沢山お話して、貴方と沢山旅をして。あなたと沢山きれいな景色を見れて。本当に良かった」  

 今まで泣いていなかったあずきの瞳から沢山の涙がなだれ落ちていく。

「私もあずきちゃんに会えてよかった。ありがとう。私に沢山の光を差し込んでくれて。こんなに元気な私がいるって知らせてくれて、ありがとう。私、前を向いて頑張って生きてくから。どんなに辛くてもあなたに会うために頑張って生きてみせるから」

「うん、うんっ!じゃあ、ひと時の別れだね。」

「ええ。また会いましょう」

 最期にもう一度だけ私は強くあずきを抱きしめる。お別れだけれど、不思議と私の心は晴れ晴れとしていた。

「うん、またね」

 少しずつ体を象っていたあずきの輪郭が優しい日差しを浴びて、その光に溶け込むようにして消えていく。私の体に残った温かさだけがあずきが今ここに居た証明となり私の体を維持する熱となっていった。

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