第36話


 信号が青になるまで、あたしたちは黙ってた。

 信号が青になったら、お母さんは「青だ。行こう」とひとりごとを言うように呟いた。

あたしはお母さんに何を返すでもなく、ただ、ゆっくりと歩き出した。

 学校が近づけば近づくほどに、あたしはチクチクとした視線を感じるようになった。

 それは、開けちゃいけませんって扉を開けるような、入っちゃいけませんってところに入るような、ビクビクとドキドキが混ざった視線だった。

 学校の正門の所に着くまで、ずーっと黙ってた。

 大人がついて来ていいのは、正門のところまでって決まりらしい。

 大人たちは、正門のところにバリアでも張ってあるかのように、立ち止まって、手を振って、来た道を戻りだす。

 お母さんにも、あたしには見えないバリアが見えているみたいだ。

 無言のまま立ち止まった。

 あたしはそんなお母さんのことを見た。お母さんは、あたしの目をふるえる瞳で、じーっと見た。

「お母さん、今日は一日、家にいるからね。学校、辛かったり、帰りたくなったら、先生に言うんだよ。すぐに迎えに来るからね」

「なんか、大袈裟だなぁ。ヘーキだよ。……たぶん。それじゃあ、いってきます」

「うん。いってらっしゃい。ああ、でも、下駄箱まで、一緒に行こうか? 教室まで――」

「大人はここまでなんでしょ? いってきます」

「ああ、うん。迎えに来るから」

「わかってる」


 お母さんと別れた後、急に心臓が痛くなり始めた。

 お母さんと一緒だったから、お母さんがいてくれたから、少しは安心できていたみたい。

 ひとりになったら、ドキドキしてきた。

 どうやって教室まで行けばいい?

 どんな顔をすればいい?

 何もかもわからない。

 周りのことなんて気にしている余裕はなかった。

 いいや、周りのことが気になりすぎるから、あたしはひとり、心にバリアを張っていた。

 当たり前にやっていたことを、どうにか思い出す。

 思い出そうとすると、嫌な記憶まで一緒に思い出しちゃって、なんだか息が詰まる。

 なんとか下駄箱までたどり着けた。

 あちらこちらで「おはよー」って言いあう声が響いている気がする。

 全部バリアで跳ね飛ばして、あたしは外靴を脱ぐ。

 外靴を脱いだら、下駄箱にしまって、上履きを手に取る。

 そんな簡単だったはずのことが、今日はとても難しかった。

 下駄箱にくしゃくしゃになったプリントが、何枚か押し込められていたから。

 なんだろう……これ。

『アーッ! ジュアーッ!』

 叫び声がした。びっくりして、声がした方を見た。ドッドッドッドッてすごいスピードで、ミキが近づいてくる。

「ヘーキ? ねぇ、ヘーキ? ヘーキじゃないよね? ヘーキ? ってか、髪、切ったの? 切られたわけじゃないよね? 切ったんだよね?」

 身体をガシッと掴まれて、あちこちじろじろと見られる。

 まるで、子どもを心配したお母さんみたい。

 こんなことになるって思っていなくて、あたしは困惑した。

「え、え、えっと? 切った。自分でっていうか、ヘアサロンで切ってもらった」

「そうなの? めっちゃ似合ってる! ああ、もう、ジュアー! 心配したんだよぅ」

「あ、ご、ごめん。あと、おはよう」

「おはよう、おはよう! ジュア!」

 ミキって、こんな感じだったっけ?

 なんだか、ミキの知らなかった一面を見た気分。

「アッ!」

 ひたすら心配して、安心したらしいミキに、一瞬にして、怒りが満ちた。

「え?」

「また……。これ、見つけたら捨ててたんだけど」

「ん?」

「ジュアが休んでる間、ジュアの下駄箱とか、ロッカーとか、いたずらする奴がいて。見つけたらすぐ取ったり、先生に報告したりしてるんだけど」

「そ、そっか」

「でも、ヘーキだよ! ジュアのこと、わたしが守ってあげるから」

 ミキが胸に手を当てて言った。

「こういうことする変なヤツもいる。でもね、わたしみたいに、ジュアのことが大切で、ジュアのことを守るぞって思ってる人もたくさんいるからね」

「あ……うん。ありがと」

「さ、行こう。一緒に」



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