第11話

 道は魔狼の出現と共に開けた。あたかも、どこまで逃げ切れるか試してやろうとでも言うように。男も女も武器を持ち、馬車を守りながら併走した。手綱を握るのは子供だった。累々と積み上げられた死体を乗り越えて、次から次へと現れる狼の猛攻を振り切ることが出来たのは、ヴェルギルが殿しんがりを務めてくれたおかげだ。

 四台の馬車と三頭の馬が犠牲になったが、死人が出なかったのは奇跡と言うほかない。 

 ただ一人、犠牲になったのはあのグレタという少女だった。馬の首に取り付いた狼を追い払おうとして、右足をひどく噛まれたのだ。

 一行は、グレタの手当のために、森を抜けた先にある小川のほとりで馬車を止めた。少女の右足は骨が見えるほど深く抉られていた。止血をしても、次から次へと血が溢れてくる。

 母親のノーラは、マクラリー一家と呼ばれる商隊キャラバンの長だった。彼女は気丈に娘を励まし続けたが、周りを取り囲む人間たちの表情は暗かった。グレタには、もう泣き声を上げる気力も残っていない。

「治療師はいないのか?」

 狼と戦っている間、ずっと隣にいた男に尋ねてみる。大規模な商隊は治療師を伴っていることが多い。行く先々で病人の相談に乗っては薬や薬草を売り、産婆として働くこともある。マクラリーキャラバンは、間違いなく治療師がいてもおかしくない規模の商隊だ。

 大量の返り血で長衣チュニックに刺繍された〈クラン〉の紋章が見えなくなっているからか、彼はクヴァルドを警戒しなかった。

「ふたりいたんだが、どっちもついこのあいだ死んじまったんだ。流行病でな」彼は血まみれの乱髪を掻き上げて、重いため息をついた。「薬はある。だが、それを使える奴がいない。あんたはどうだ?」

 クヴァルドは首を振った。

 薬草の知識はあるが、大怪我に対処できるほどの経験は無い。その時、クヴァルドはふと思い立ち、ヴェルギルの姿を探した。


「断る」

「そう言うだろうとは思ったが、頼む」クヴァルドは言った。「俺の頼みとあらば、何でも聞くんじゃ無かったのか?」

 ヴェルギルは、河原の向こうに出来た人だかりに目を向けた。

「自分をだしにして、わたしをいいように使おうとしても無駄だ」その声は素っ気ない。「仔犬クロン、自分が何を頼んでいるのかわかっているのか?」

「ああ、わかっている。〈バーボットの年代記〉で、お前は外科医だったと書いてあった。心得はあるはずだ。違うか?」

「方便に決まっている! ただ血を抜くことがまともな治療だと考えられていた時代の話だ。わたし以上にうってつけの者はいない」

 語調を強めはしても、ヴェルギルは頑なにクヴァルドを見ようとしなかった。

「方便じゃない。お前は内臓にまで達した傷を縫い合わせたと書いてあった。羊の腸で出来た糸で。お前が編み出した手法だ!」

「編み出したのはわたしではない。アルクァラで修行をした医者から教わっただけだ」ヴェルギルは目を閉じた。「わたしのことを、ずいぶん調べたようだ。喜ぶべきかな?」

「ヨトゥンヘルムに保管されていた文献は一通りさらった」クヴァルドは、ヴェルギルの腕を掴んだ。「なにが問題だ? 相手が人間ウィアだからか?」

「それもある。人間の問題には首を突っ込みたくない。しくじって火あぶりにされるのは御免だ」

「お前はしくじらない」その点には、妙な自信があった。「それ、と言ったな。一番の問題はなんだ?」

「血だ! 決まっているだろう!」ヴェルギルはクヴァルドの手を振り払った。「マチェットフォードからずっと飢えているんだ。今ここにいて、漂ってくる匂いを嗅ぐだけでも辛い。ましてや、激情に駆られた君が傍にいるとなれば、なおさらだ」

 クヴァルドは眉をひそめた。「しかし、あの夜に飲んだんだろう。売血婦の血を」

 ヴェルギルはめずらしくため息をつき、目を閉じた。

「飲めなかった」

「なに?」

「飲めなかったのだ。どうやら、君一人の血を長く飲みすぎたせいで、他の者の血を受け付けなくなったらしい」

 ほんの一瞬だけ、あっけにとられる。

「それは、何というか……なるほど」反応に困りながらも、なんとか相づちをうった。「それなら、俺の腕を噛みながら治療すればいい」

 ヴェルギルはもう一度ため息をついて、ようやくクヴァルドを見た。落ちくぼんだ目に、明らかな降伏の表情が現れている。

「どうしても、あの娘を助けたいのだな」

「ああ。頼む」クヴァルドは言った。

 ヴェルギルは小さく肩をすくめた。「一筋縄ではいかないだろう。あの母親が我々に向けた目つきを思えば。それも承知の上か?」

 クヴァルドは頷いた。「エルカンにとって、家族の命よりも大切なものは無いはずだ」

「君にとってもな」ヴェルギルは言った。「いつかは断ち切らなければならないんだぞ、クロン。それがわかっていることを願うよ」

 わかっているとも、と心の内で答えた。

 わかっていても、捨てきることができない──だから苦しいのだ。


            †


 そして今、死にかけた少女を助けようとする吸血鬼に向かって、商隊の全員が敵意と武器を向けていた。

「話が違うぞ、クヴァルド」

「あたしの娘にそれ以上近づいてみな、化け物! このやじりは銀で出来てるんだよ!」

 マクラリーの家長は、弓の弦がキリキリと音を立てるほど力強く矢を引き絞っていた。鷹を思わせる琥珀色の瞳が、怒りにぎらついている。

「どうか、落ち着いて欲しい」クヴァルドが言い、慎重に前に進み出た。

 途端に、エルカンたちが殺気立つ。クヴァルドはぴたりと動きを止めた。

「その娘を助けたいだけだ」

「お黙り! 汚らわしい犬め!」

 放浪民エルカンとして生まれながら、彼らの敵として生きるしかなかったこの男が歩んできた道というものを、今、ヴェルギルは見ているのだった。その孤独に覚えがあるから、こんなにも彼に惹かれずにはおれないのだろうか──それが途方もない過ちだとわかっていても。

「この者は吸血鬼だが、治療師でもある。我々は──俺は〈クラン〉に所属している。人間には危害を加えないという誓いを立てている」

 すると、周囲から乾いた笑いが起こった。

「〈クラン〉なんかクソッ食らえだ」別のエルカンが言った。「化け物の群れにたいそうな名前をつけたって、中身は一緒だろうが」

「吸血鬼に怪我人を診せる馬鹿がどこにいる? 俺たちをだまくらかして、血にありつこうったってそうはいかねえぞ!」

「頼む。俺も昔はエルカンだったんだ。仲間を大事にする気持ちは──」

「黙れ!!」

 男が振りかぶり、斧を投げた。回転しながら飛んできたそれをすんでの所で掴むと、別の者が投げた石が頭に当たった。

「裏切り者め! てめえみたいな恥さらしが、エルカンを名乗るんじゃねえ!」

 飛んでくる矢や石の全てを、剣で受け止めることは出来ない。それでもどうにかして、彼はヴェルギルを守ろうとしていた。

 だが──ああ、フィラン。君は、君を裏切る者を護ろうとしているのだ。

 怒りに沸き立つエルカンたちの向こう側で、横たわっているはずのグレタの姿も、もう見えなくなってしまった。

「よせ! 娘が死んでもいいのか!」

 女家長の眼に、苦痛の影が確かによぎる。だが、弓矢を構えた手は震えなかった。彼女は断固とした声で言った。

「化け物の手で穢されるくらいなら、その方がずっといい」

 これは……文字通り救いようがない。

「クヴァルド、もういい」ヴェルギルは言った。「出来ることはやった。ここを去ろう」

「駄目だ!」

 クヴァルドは梃子でも動かない構えだ。エルカンという種族の頑固さは、人狼に変異しても和らぐことはないらしい。だが、これ以上彼が傷つくのを傍観しているわけにも行かなかった。

 ここでを出せば、怯えたエルカンたちは間違いなく銀の矢を打ち込んでくるだろう。そうならないためにも、変化はせずに無理矢理にでもクヴァルドを引っ張ってゆくしかないと考え始めたとき、よく通る声が河原に響き渡った。

「みんな、やめて!」

 すると、エルカンたちは水を打ったように静まりかえった。

「やめてよ!」

 怒れるエルカンたちの人垣は声の主のために道を空けた。そこから進み出たのは、若い人間の男だった。少年と言ってもいい歳だ。

「みんな、手出ししないで。いいね?」

 鷹のような眼──母親譲りのその目が、まっすぐにヴェルギルを見据えた。

「妹を助けて欲しい。必要なものは何でも用意するから」

「カハル!」母親が声を上げる。「気でも違ったの!?」

 すると、少年は彼女に食ってかかった。「それは母さんマーだろ! グレタを見殺しにするなんて! 自分の娘を!」

 カハルはもう一度ヴェルギルに向き直った。

「僕、薬草の名前くらいはわかる。何でも手伝うから、妹を助けて──お願いです」

 ヴェルギルたちを取り囲んでいた炎のような敵意が、少しずつ弱まるのを感じた。

「縫合糸はあるか?」

 少年は頷いた。「針もあります。こっちへきて!」

「よろしい」

 ヴェルギルは言い、少年のあとについて歩き出した。彼らを止めようとするものは、もういなかった。

「それから、イヌラの根、ニンニク、タラゴンかワームウッド」

 浄化の作用を持つ薬草の名を片端から挙げてゆく。ひとが獣による咬傷で命を落とすのは、汚れた牙や唾液に毒されるからだ。まずはその毒を消し去る必要がある。

「イヌラ、ニンニク、タラゴンかワームウッド」カハルは小さく復唱しながら、先を急いだ。

「あるいはギャルドローブでもいい」

「ギャルドローブ?」

「このあたりではなんと呼ぶ? 若恋草ラッズ・ラブか、あるいは──」

 クヴァルドが助け船を出した。「白髪草オールド・マンだ」

「それなら、あるよ。他には?」

 敷布の上に横たえられたグレタは、先ほど森の中でみた少女とは別人のように弱っていた。血の気は失せ、痛みに気を失いかけている。

「ジョンズワート。草のままでも、軟膏でも、灰でもなんでもいい。以上だ。急げ!」

 少年は脱兎のごとく駆けだした。

「クヴァルド、君には薪と、鍋一杯の水を頼みたい。〈魔女の灯明〉を使って、すぐに沸かしてくれ」そして、吸血鬼の友人を認めて弱々しく眼を細める少女に向かって頷いてみせた。「わたしが来たからには、もう大丈夫だ」

 小さな声で、クヴァルドが尋ねる。「は、まだ平気か?」

 平気ではないが、やるしかない。ヴェルギルは頷いた。

「わたしたちは、傷を洗うのに芋酒ポティーンを使う」

 顔を上げると、少女の母親が立っていた。その手に弓も矢も見当たらないので、警戒をすこし緩める。

「それは……初めて聞く手法だ」

「よく効くよ」母親の声は静かで、力強かった。「でも、怖ろしくしみるんだ。押さえていてくれる?」

 ヴェルギルは頷き、少女の肩を押さえた。

「ありがとう」

 母親はグレタの口に分厚いなめし革をあてがった。痛みに耐え抜き、舌をかみ切らないようにするためだ。瓶の栓が抜かれると、強烈な匂いがあたりに充満した。

「見殺しにはしない」彼女は言った。「絶対に死なせない」

 そして、瓶の中身を勢いよく傷口に注いだ。

 痛みに暴れ、泣き叫ぶ娘の声を聞きながら、彼女は何度もその言葉を繰り返した。贖罪のように、あるいは、祈りのように。こんなことを言えばまた矢を向けられるかも知れないが、それは確かに、魔女が繰る呪文の響きを帯びていた。

 カハルが持ってきた糸と針とを湯にくぐらせ、傷口にかがみ込む。若く柔らかい肉から溢れる血の匂いに、目がかすむ。制御できない飢えが、喉元で暴れ始める。

「クヴァルド」

 名前を呼ぶと彼は、すでに籠手こてをはずしてあった左手の手首を無言で差し出した。ヴェルギルは頷いた。

「君なら耐え抜ける」涙で顔中を濡らした少女の額に、そっと手を置いた。「吸血鬼に命を救われた、最初のエルカンになれるぞ」


 気絶と、痛みによる覚醒を繰り返しながら、少女は耐えた。暮れなずむ西空から降り注ぐ斜光の中で最後の傷口を閉じたとき、それまで気丈に励まし続けたノーラが、涙をこぼして娘を抱きしめた。


「数百年ぶりの善行の感想は?」

 一晩の野営の後、エルカンたちは商隊の再編を終えた。彼らはここから北のヘステッドを目指していくという。なんとか持ち直したグレタと、家族を乗せた馬車が遠ざかる様子を、ヴェルギルは眺めていた。

「まんざらでもない、と言ったところか。一足先に君を味見できたことだし」

「ああ、よくも思い切り噛んでくれたな」

 クヴァルドはフンと鼻をならして、ヴェルギルが噛みついた左腕の傷跡を撫でた。そんな無意識の仕草が愛撫のように見えると思った自分を、密かにいましめなければならなかった。

「見事な手際だった。ヴェルギル──俺からも礼を言う」

 そんなもの、と手を振りかけて、思い直した。

「言葉など、何の役に立つ? 感謝の気持ちは行動で示して貰いたい。あるいは、血で」

「ああ、わかった」クヴァルドはあきれたように笑った。「死なない程度に、いくらでもくれてやるさ」

「なんていい言葉だ。証文に書き付けておきたいね」

 いま、クヴァルドの首には、銛をかたどった真鍮の小さなペンダントが下がっている。去り際に、キャラバンの長──ノーラ・マクラリーと彼女は自ら名乗った──が贈ったものだ。

「きっと、この神が守ってくれる」と言って。

 イムラヴの民は〈海ゆく者シーフェアラーの守護神〉マルドーホを愛し、その象徴である銛をお守りとして身につけていた。ペンダントを受け取ったクヴァルドは困惑の表情でノーラを見た。

「しかし、俺は──」

「エルカンは、受けた恩を決して忘れない」

 彼女は言い、ペンダントの上に自分の手を重ねた。

海神の羅針盤がゴー・ベフェディ・アン・コンパス」小さな声で唱える。「あなたを導きますようにトゥ・ア・トゥロール・ゴー・サーバテ

 その祈りが、エルカンたちにとってどれほどの重みをもつのか、ヴェルギルは知らない。だが、敢えて知る必要も無かった。その言葉を聞いたクヴァルドが、震えるほど胸を高鳴らせたのを感じたから。

「あんたにはこれを」そう言って、ノーラはヴェルギルにも贈り物をくれた。「銛のペンダントは、どうしたって似合わないだろうと思ってね」

 それは優美な短剣スキーアンだった。柄にも鞘にも、目を見張るほど細かい月の意匠が彫り込まれている。

「治療師だった、あたしの母の持ち物なんだ。母もあたしに劣らず頑固者だったけど、孫を助けてくれたあんたに持っていてもらえたら、きっと喜ぶはず」

 ヴェルギルは、その短剣を胸に当てて辞儀をした。「とても光栄だ」

「ありがとう、ふたりとも」ノーラは、幾分硬い、そして小さな笑みを浮かべて頷いた。「またどこかで道が交わるまで、どうか達者で」

 祝福を残して、マクラリーの商隊は北へと旅立っていった。

 彼らを見送って程なくして、驟雨しゅううが降り始めた。

「しばらくは止みそうにないな」クヴァルドが言った。

「そのようだ」

 言葉にせずとも、同じことを考えているのはわかった。

 今宵の満月は雲の向こうに昇るだろう。隠し事をするには、いい夜になる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る