第10話

 困ったことになった。

 クヴァルドの前で己を取り繕うのが日に日に不得手になっているような気はしていたが、昨夜のあれは無様ぶざまと形容するほかない。

 それでも、冷静を装うことさえ出来なくなるほど、あの一件は決定的だった。

 今にも割れてしまいそうな魔道具フアラヒに向かって駆けだしていった彼を見たとき──彼を失う恐怖が眼前に迫ったとき、クヴァルドの命よりも重要なものなど無いと確信した。『運命の血』は吸血鬼にとっての呪いだと言われるのがよくわかる。死から解き放たれた存在である〈月の體コルプ・ギャラハ〉が、この世にながらえたいという欲望をなくせば、それは単なる……かばねに過ぎない。

 なお悪いことに、呪いはそれだけではなかった。

 昨夜、あの頑固者の寝台をまろびでて別の人間の血を求めると、バイロンは『街で最上の売血婦』を遣わせてくれた。ヴェルギルが好むものをよく知る彼は「真珠の粉で磨かれた肌と、最高の美食で育んだ血を持ち、女王よりも贅沢な暮らしをしている。それに何より、吸血鬼と寝るのは最高の娯楽だと考えている娘だ」と請け合った。彼女の血を三口飲むために、邸宅を売りに出さねばならぬほど高額な娼婦だと。今までのヴェルギルなら喜んで手籠めにし、彼女の方から血を与えたいと言わせるまで楽しませただろう。

 だが、飲めなかった。一滴も。

 薄い皮膚と柔らかな肉体のすぐ下を駆け巡る、瑞々しく温かい血潮を感じた。牙を突き立て、溢れた血を口に含んだ。確かに、これ以上無いほど贅沢な味わいだった。それでも飲み下すことが出来ず、結局、滲む血のほとんどをこぼれるに任せてしまった。動揺をひた隠しにしながら彼女に暇を与え、寝台に腰掛けたまま呆然と壁を見つめるしかなかった。このヴェルギルが、為す術もなく。

『運命の血』を祝福と考える者もいる。鼓動を取り戻し、温かい身体を手に入れることが出来るから。呪いと考える者もいる。失えば二度とは出会えないのに、時の終わりまで縛られることになるから。なにもかも戯言だと思っていたが、これではっきりした。『運命の血』は呪いだ。

「わたしは、貴女のめいに背いたりはしなかったはずだ」ヴェルギルは、窓の向こうに浮かぶ月に向かって呟いた。「その報いがこれなのか?」

 白月は答えず、ただ闇の縁を焦がしながら西への帰途を辿るばかりだった。


 今度の行き先には希望が持てるとクヴァルドは言う。珍しく、ヴェルギルにも異論は無かった。エダルトの居場所を知っていると〈クラン〉に申し出たのが、アバミルニア伯爵の地位をもつ魔術師──それも、〈学会サークル〉に所属する賢者のひとりだったからだ。

 五百年ほど前、魔術師は、より高度な魔術への到達を目指して研鑽・研究を行うことを目的に魔女たちの〈コヴン〉から独立した一派に過ぎなかった。数人の魔法使いで結成された小さな組織は、今では〈学会サークル〉と呼ばれる研究単位で団結し、世の理を紐解くために議論と実践を重ねる一大勢力となった。占術や医術、そして兵器の開発における貢献により、王の覚えもめでたい。魔術師の一人勝ちといった状況ではあるものの、ナドカの全種族が宮廷の嫌われ者であるよりかはいい。


 旧ベイルズ領に入るため、マチェットフォードから島南のふちをなぞるように西を目指した。馬で三日かけて魔女の叫びスクリーミング・ウィッチ岬に向かい、渡り船で対岸のバーレイスに降り立った。

 岸に迫って生い茂る鬱蒼とした森は、秘密めかした静寂を湛えている。それとは対照的に、船着場から程無い三叉路の周辺はちょっとしたいちになっていた。薬草に香辛料、美しい布に工芸品。〈南の大口〉ヘスキプトン港からやってきた品々はマチェットフォードを潤すが、その一部は小さな商隊によって、さらに内陸部に点在する街や村に届けられる。

 行商をして生活するエルカンの商隊が、色鮮やかな幌馬車ほろばしゃを湾岸にずらりと並べていた。家系やあきないによって異なる色と模様で幌を飾るのが彼らの慣わしだ。緑の唐草模様は薬草の、赤で刺繍された獣は肉を取り扱う商売をしていることを意味する。刺繍されたガラス玉は香辛料を商う者にしか許されない。幌に吊り下げられた鐘は鋳掛け屋ティンカーの証し、金色の房飾りは春を売る者たちの馬車、などなど。大所帯の商隊であればあるほど、幌の装飾も豪華になる。エルカンたちはこうして、要所で開かれる市にやってきては、対岸からやって来た荷物を買いたたき、運賃と引き換えに旅人を積み込むと、森を通る道や海沿いの街道を通ってまた次の目的地に向け旅立ってゆくのだ。

 商人たちが商品を競り落とす大声に加え、楽しげなおしゃべりや歌がそこら中から聞こえてきた。クヴァルドが歌を愛するようになったのにも納得がいく。こんなに陽気で活発な人々の中に暮らしていた頃は、クヴァルドも彼らのように笑ったのだろうかと、ヴェルギルは思った。

 三叉路の奥で鐘が鳴り、門番が声を上げる。

「森への門を開くぞ!」

 すると、今までのんびりと商売を楽しんでいたエルカンたちが、蜂の巣をつついたような騒ぎを巻き起こしながら荷物をまとめはじめた。無理もない。エリトロスの森への門は一日に二度しか開かないのだ。クヴァルドとヴェルギルも、大きな馬車を器用に操る商隊の群れの中に潜り込んだ。

「いよいよだ」

「ああ」

 あの夜、きわどいところで踏みとどまってからというもの、ふたりの間には何かがあった。縮まることのない距離感のようなもの。互いに意識しすぎて、手で触れることさえ出来そうなほど存在感のある何かが。

「エリトロスの森には詳しいのか?」

 馬を並べるクヴァルドに話しかけると、ほんの一瞬だけ心臓が高く鼓動し、またいつもの調子に戻る。もちろん、表情には何の変化もない。彼は薄暗い森の道に視線を据えたまま、難しい顔を崩さなかった。

「いいや。おれの一家は南の方には近づかないことにしていた」クヴァルドは言った。「実入りはいいが、危険すぎる」

 それ以上の説明は必要なかった。「堅実な人々だったようだな」

 呻いたり、いなないたり、軋んだりしながら列が進み、生い茂る木々の葉が太陽を遮ると、一団は青緑がかった影の中に沈んだ。空気は湿り気を帯び、土は冷たく、梢を渡る風さえも素っ気ない。鳥たちの声にはどこかとげとげしい響きが宿り、こちらを警戒しているかのようだ。先ほどまで、あれほど騒々しかった人間たちの隊列も嘘のように静まりかえり、時折、やむにやまれぬ短い会話が囁かれるばかりだ。

 だが、そうした時間も長くは続かなかった。門をくぐって二刻ほど過ぎたころ、緊張の糸が緩み始めた一行から、時折会話の声が上がるようになってきた。前を見ると、ふたりの前をゆく馬車の幌から、いつの間にか少女が顔を出していた。この森を訪れるのは初めてなのだろう。目を丸くして、森の風景や同道する馬車たちを見回している。不意に、彼女はクヴァルドとヴェルギルに気づいて、小さな手を振ってきた。

 不意に要求された社交性を取り出すのにもたついたクヴァルドに代わり、ヴェルギルは片目をつぶって見せた。少女はクスクスと笑って、再び幌の中に引っ込んだ。

「おい、あまりそういうことをするな」

「君が嫉妬するところを見るのは嬉しいが、複雑な気分だ。子供にまで興味があると思われるのは──」

「そうじゃない」クヴァルドは遮り、周囲を伺った。「エルカンはナドカが嫌いだ」

「君にしてはおもしろい冗談だ。ナドカを嫌わぬ人間ウィアがいるか?」

「エルカンのナドカ嫌いは冗談ではすまないぞ」

「それを言うなら、エルカンは身内以外の全員を嫌っているだろう」

 この放浪民の排他的な性格や、一度受けた屈辱を決して風化させない気質はよく知られている。

「宴の席でくすねたナイフ一本が原因で、二百年争った一族を知っているぞ」

「俺の父方の三番目の伯母はその一族に嫁いだ」それから、彼は言った。「とにかく、余計な諍いの種をまくな」

 エルカンがナドカに、かれこれ千年近くにわたって熟成された格別の憎しみを抱いていることは知っている。だが、だからといって──。

「無垢な魂の友好の気持ちを無視するわけにもいくまい」ヴェルギルは言った。

 クヴァルドは曖昧なため息で返事をした。

「君も、ナドカになるのにずいぶん抵抗があったのだろうな」

「何の話だ? ああ」クヴァルドは小さく肩をすくめた。「多少はあった。だが、他に選択肢がなかったからな」

「では、後悔はない?」彼が訝しげな目をしたので、付け加える。「選択肢があったとしたら、ナドカにはならなかったのではないか。エギルは君に選ばせたのか?」

 クヴァルドは質問の意図を理解して「ああ」と呟くと、しばらく考え込んだ。

「エギルは最初に呪いのことを話してくれた。変異に伴う壮絶な痛みと飢えについても。おれはそれでも選んだ。今さら、自分の決断に泥を塗るような真似はしない」彼は言った。「いや、後悔はない」

 尋ねる前からわかっていたはずだろう、と内心で思う。こんな質問に彼がどう答えるか、わかっていたはずだ。

「君らしいな」とヴェルギルは呟いた。

 どういう意味だとクヴァルドは言ったが、教えてやるつもりはなかった。


 道行きも半ばにさしかかった頃、先頭をゆく二人組の男たち──訛りからして王都からやって来たらしい──が声高に宿屋の不満を言い合うせいで、エルカンたちの抑えた不興を買っていた。そうでなくても、ダイラ人とエルカンは相性が──殊更に──悪い。ダイラ人は亡命者としてこの島に流入した放浪民エルカンを見下しているし、エルカンは大陸からやってきた征服者の末裔であるダイラ人を忌々しいよそ者サセナクと見なしていた。彼らに共通しているのは、何百年にも渡って培われてきた、相手に対する軽蔑の念だけだ。とは言え、ここまでの行程は順調だった。

「ねえ母さんマー」前をゆく馬車の少女が、退屈しきった声を上げた。「どうして門を開けっぱなしにしておかないの?」

「しーっ。レタ、おしゃべりするのは森を抜けてからだよ」

「あのよそ者サセナクはさっきからずっとしゃべってるのに」

「あのよそ者サセナクは、この森を知らないから愚かなことをするの。わたしたちは静かにしてなきゃ駄目」

「なんで?」

 母親はため息をついて、終わりのない質問の連鎖を断ち切った。だが彼女の言うとおり、森の静寂を乱してはいけない。

 なぜなら、森には妖精シーがいるからだ。

 北方の森が人狼の縄張りだとするならば、島の南を覆い尽くす豊かな森は妖精シーの領域だ。人狼は縄張り意識が強く排他的だが、わざわざ満月の夜に尋ねて行きさえしなければ生きて帰ってくることくらいはできる。だが、妖精シーとはそもそも、まともに話が通じない。妖精も人ならざるものナドカではあるが、人間が変異して生まれる他の〈月神の子らヘカウ〉とは違う。彼らは月の光を受けて自然そのものから生まれ出でた者たちで、従うべき法を持たないが、力は強大だ。海原や深山みやま、そして森に棲む彼らの内、森の妖精シーは特に危険だ。原初の魔法を身のうちに宿す彼らは草木や獣を自由に操ることができ、たちの悪いことに、非常に気まぐれだ。森に迷わせて魔獣をけしかけたと思えば、反対に近道を示したりする。ひとをかどわかし、ひとの中に紛れ込み、混乱を生じさせるのが何よりの楽しみなのだ。ある意味では、あらゆるナドカのうち最も恐るべき種であると言える。

「ねえ母さんマー、あたしたちの後ろに吸血鬼がいるよ」幌の中で、少女が声を上げた。「ねえ見てよ、ほんとなんだから」

「レタ!」母親が鋭く囁いた。「お黙りと言ったでしょ! この森は吸血鬼なんかよりもっと怖いんだよ」

 隣で、クヴァルドが小さな笑みを誤魔化そうと頬を掻いている。少女は不満げに返事をして静かになった。


 時間は、正午をわずかに過ぎた頃。冬がぐずぐずと居座る北方に比べ、島の南に訪れる春は素直で、日を重ねるごとに空気は柔らかくなる。芽吹き始めた新芽や野花を揺らすそよ風は冬の厳しさを容易に忘れさせてくれた。いつ悪戯を仕掛けてくるかわからない妖精が潜んでいることを意識しなければ、美しい森だと言えたかも知れない。だが、彼らは言葉には出来ない方法で、その存在を知らしめていた。

「クロン」

 クヴァルドの注意を引いて、道の脇を示した。金粉のような木漏れ日が下生えに降り注ぐ向こう側に、苔と蔦に覆われた昔の生活の痕跡があった。

「家の跡か?」

「このあたりは人間の村だった。滅んだ後に、森が全てを飲み込んでしまったが」

 目を凝らせば凝らしただけ、人の営みの面影が見える。だが、道を行く人々は誰も森の中に視線を向けようとはしなかった。森の奥から妖精に招かれたが最後、二度と現世うつしよには帰ってこられないと知っているのだ。

「なぜ……?」

「魔女狩りだ。昔、ベイルズで流行病が起こった。いつものように、人間の手に負えないことはナドカのせいにされたわけだ。疑わしい者を縄で繋いで断崖に並べ、片端から順番に突き落とした。それでついた名前が魔女の叫びスクリーミング・ウィッチ岬だ」

 クヴァルドはその逸話を一度飲み込んでから、ゆっくりと頷いた。

「気の滅入る名前だとは思っていた」

「ダイラとの戦争で、ベイルズは瞬く間に敗北を喫した。ナドカを味方につけなかったからだ。一方のダイラは魔女たちに魔獣を操らせるだけの頭があったが……結局は、この国をまた別の荒れ地に変えただけだったな」

「それを、その目で見たのか」クヴァルドが言った。

「楽しい余興ではなかった、とだけ言っておこう」ヴェルギルは、道の上で両手を組むように合わさった太い枝を見上げた。「この森は、怒りと荒廃の記憶に根を張っている」

「こうはいって?」

 前に目を向けると、先ほどの少女がまた幌から顔を出していた。

「荒れ果ててすたれる、ということだよ、お嬢さん」ヴェルギルは言った。

「ヴェルギル、その子に構うな」

 だが、少女は話し相手を見つけて、しめたという顔をした。「森が怒るの?」

 ヴェルギルはクヴァルドに向かって肩をすくめて見せてから、少女に頷いた。「そうだ。人間が愚かな真似をすると、森と、そこに棲む者たちが怒る」

「森に棲むものって、妖精のこと?」

「しーっ」ヴェルギルは口元に指を当てた。「この森で、彼らの名を口にするのはやめた方がいい。呼び寄せてしまう」

「でも、あたし怖くない」少女は言った。「母さんマーは、あたしは取替え子なんだっていつも言うの。人間とは思えないほど悪戯だからって。取替え子って何か知ってる? 妖──その、森のひとたちがね、産まれたばかりの人間の子と自分のをこっそり取り替えるんだって。人間はそれに気づかずに育てちゃうの。だからあたし、本当は人間じゃないんだ。お兄ちゃんとも全然似てないし」

 取替え子チェンジリングは妖精たちの気に入りの遊戯だが、人間の親たちにとってもお馴染みの脅し文句だ。先ほど娘が語ってくれた言い伝えの後に「いい子にしていないと、妖精たちがお前を取り返しに来るよ」と続くわけだ。

 見当違いではあるが、じつに可愛らしい親近感に、ヴェルギルは微笑んだ。

「母上の言うとおりだ。彼らを怒らせてはいけないよ。もしも気配を感じたら、静かに敬意を示すがいい」

「どうするの?」

 列の先頭で相も変わらず喚き続けている王都人の方を視線で示した。「ああいう馬鹿騒ぎをせぬことだ。それと、常に道を外れぬようにすること」

 娘は真剣に聞いていた。目を輝かせて何度か頷き、それから尋ねた。

「信じるわ。だって、あなたは吸血鬼なんでしょ?」

「その通り、わたしは卑しい吸血鬼。そして、こちらが人狼だ」

「おい!」クヴァルドが小さく窘める。

 すると少女はふたりの顔を見比べて、嬉しそうに頷いた。「あたし、グレタって言うの」

 人外を相手に、そう容易く名を明かしてはいけないと教えるのは別の機会でもいいだろう。

「お目にかかれて光栄だ、お嬢さん。以後、お見知りおきを」馬上でお辞儀をしてみせる。

 少女は楽しげに笑った。すべての人間がこんな風に友好的なら、この島で起こっている問題の半分はすぐさま解決するだろうに。

「あなたのお友達、あたしたちとそっくり」少女はクヴァルドを見て言った。「どうして?」

 人間の子は、ナドカの中には元は人間だった者もいるとは教わらないものだ。少なくとも、自分で真実を見つけるまでは。

「それは──」

「ヴェルギル、余計なことは言うな」

 遮ったクヴァルドを見つめる。「余計なことだと思うのか?」

 彼の答えを──あるいは答えないという意思表示を受け取る前に、隊列がざわめきながら、ゆっくりと進みを止めた。

「どう、どう」

 いぶかしみながら、歩調を乱されて動揺する馬をなだめる。「何かあったな」

「どうしたの?」とグレタが言う。

 クヴァルドが、身を傾けて先頭をのぞき見たものの、状況ははっきりしない。そのうちに、エルカンたちがおもむろに馬車を降り始めた。クヴァルドは目を閉じて耳を澄ましている。

「聞こえたか?」

 彼は肩をすくめた。「この先で、道が消えてしまっているらしい」

 ははあ、とヴェルギルは呟いた。「なるほど、ちょっかいをかけられたな」

 グレタはまたしても目を輝かせた。「ちょっかい? それって妖──じゃない、森のひとたちが近くにいるの?」

「どうやら、そのようだ」

 エルカンたちに動揺した様子は見られない。こうしたことは日常茶飯事なのだろう。パイプでもくゆらせて、が飽きるのを待つほか無い。

 幾重にも重なる梢の影の向こう、合わせ鏡の果てにも似た暗がりから、こちらをじっと伺う気配を感じる。ちょっかいをかけられている──だが同時に、試されてもいる。

 嫌な予感がした。

「会ったことある?」少女が小さな声で尋ねてきた。

「ああ。友達になりたいとは思わなかったが」

「どんなだった? 羽が生えてるって本当なの?」

 グレタは妖精の話に興味津々きょうみしんしんで、幌から身を乗り出さんばかりだった。彼女の母親が御者席から幌の中をのぞき見なければ、本当にそうなっていたかも知れない。だがグレタの母親は、娘が誰かと話しているのを見て、その相手が紛れもない吸血鬼だとすぐに見抜いた。彼女はひゅっと息を呑んで娘を呼んだ。

「レタ、こっちにおいで!」

 娘は不服そうだった。「なんで?」

「つべこべ言わずに来なさい!」

「いいところだったのに……」

 娘はしぶしぶ幌の中に戻り、御者席にのぼった。母親は娘をきつく抱きしめ、すぐ後ろに忍び寄っていたナドカ二人組に、強烈な嫌悪の目を向けた。

「何を話してたの? あんたって子は、ほんとうに手に負えないんだから」

 母親は娘の身体におかしな跡をつけられていないかどうか、手と目でくまなく探って確かめ始めた。

「森のこととか、いろいろだよ」

「これ以上馬鹿な真似をするなら、カハルの馬車に乗せるからね」

「嫌だぁ。兄ちゃんの馬車、臭いんだもん──」

 休息を取り始めるエルカンたちに倣い、馬から下りて道の脇の樹に手綱を括りながら、クヴァルドは微かな苛立ちを滲ませて吐き捨てた。

「だから言っただろう」

「大いに慰められるよ」そして、ヴェルギルも馬を下りた。「君の正論には」


 クヴァルドが伝え聞いたとおり、森を貫いているはずの道は、ある場所で忽然と姿を消していた。踏みならされた道が途切れたちょうどその場所には青鐘草ブルーベルの絨毯が広がり、中央に奇妙な立石が鎮座していた。言わずもがな、青鐘草は妖精の訪れを知らせる花だ。

 妖精シーは他の種族の前にめったに姿を見せないが、干渉してこないわけではない。彼らは彼らなりの趣向を凝らしたやり方で異種族と交わろうとする。エルカンたちはそれを知っていて、何も問題など起こっていない風を装っていた。動揺したり、騒ぎ立てたりすれば彼らの気を引いてしまう。妖精の呼びかけに応えるのは、よっぽどの愚か者か、この世への未練が無い者だけだ。

 自然そのものに最も近い存在である彼らに対しては、雨に濡らされ、霧に行く手を阻まれた時と同じように、じっと行き過ぎるのを待つほかない。そして運良く晴れたなら、小さな感謝を捧げればいい。過ぎた供物をするのは、彼らに向かって呪いの言葉を吐くのと同じくらい危うい。過剰な信仰心が妖精を増長させたせいで、取り返しのつかない災いを引き起こすこともある。

 だが王都からやって来たふたりの男は、そうしたことを一顧だにせず、道の脇で小休止しているエルカンに誰彼構わず話しかけては地図を求めたり、「我々だけでも森を抜ける方法はないか」と尋ねて回ったりしていた。妖精の森には多くの禁忌があり、血を流すこと、刃物を振り回すこと、みだりに騒ぐことは特にいとわれるので、誰も相手にしなかった。

「危険だな」よそ者サセナクたちを目で追いながら、クヴァルドが呟いた。「案内人はいないのか?」

 道の端の倒木にゆったりと腰掛けてはいても、彼が全身に警戒をみなぎらせているのはわかった。

「見るからに、そのようだ」

 どうやら王都の貴族から預かった書面をシンリスまで届ける役目を負っているようだが、この森を無事に抜けるための案内人を雇う手間を省いたらしい。それが、そもそもの間違いだ。

「これ以上騒ぎを起こさせないようにしなくては」クヴァルドは立ち上がった。

 無知で横柄な人間と、頑固な〈クラン〉の人狼の相性が良くないことは容易に想像できたが、手伝おうとは申し出なかった。よしんば妖精を怒らせたとしても、矛先がこちらに向くことはないのだから好きにさせておけばよいのだ。

「君の手に負えなくなって、今すぐ黙らせて欲しい時には呼んでくれ」

 クヴァルドはほんの少し振り向き、横顔で小さく笑った。「覚えておく」


            †


 ヴェルギルから少しでも距離を置くことが出来て、正直なところホッとしていた。あの不面目な夜から、どうもいつもの調子を欠いているのは、自分が一番わかっていた。

 話しかけられる度にびくついて、気づかれていないわけがない。取り繕うのは無駄だと承知していても、何もない振りを続けなければまともに話をすることも出来ない気がした。

 いったいなぜ、また懲りもせず、良い結果など到底思い描けない関係に足を踏み入れようとしいるのか。ひとの運命を司る〈り糸の三女神〉が仕組んだたちの悪い冗談だとでも?

 いや。

 原因が自分にあることは言うまでもない。何よりも満月の呪いが、それを如実に表しているではないか。

 俺は、何かを求めていなければ気が済まない性分なのだ。目指すいただきが遠ければ遠いほどいいと思うのは、理想が高いから──というより、到達してしまうのを恐れているからだ。どれほどそれを欲しても、手中に収めたくはない。手に入れれば失ってしまうのが世の習いだ。かつて一族を失った自分のように。そして、エギルを失ったヒルダのように。

「馬鹿馬鹿しい」独りごちて首を振る。

 こんなものは、満月が引き起こす一時の気の迷いだ。

 連なる荷馬車と木立の隙間をすり抜けてゆく間に、エルカンたちの視線を感じた。〈クラン〉の仕着せを纏ったの姿は、さぞかし奇異に映るだろう。

 エルカンがエイルに属するもの(つまり、ナドカ)を憎むのは、一種の伝統と言って差し支えない。ある歌人は、その因縁の起源は八百年前に遡ると歌い、また別の語り部は千年に亘って受け継がれた怨念だと語った。クヴァルドが祖母から聞いたのは、神々がまだこの地上を歩いていた時代だったという話だ。いずれにしても、誰も本当のことなど覚えていないほどの大昔だ。ただし、ひとつだけ、誰の口からも等しく語られるのは、エルカンはナドカと同じ時期にこの世に現れたのだということだ。

 いまは瘴気に閉ざされている緑海には、その昔、二つの島国があった。東のイムラヴと、西のエイルだ。両国は、それこそ誰にも答えられぬほど昔から、まるで不仲な兄弟のように戦を繰り返していた。そこへ、神々の世界を追放されたヘカがやってくる。人間に身をやつしたヘカは、まずイムラヴの王に宿を求めた。オシァン王がそれを拒んだため、月神はエイルに赴いた。エイルのシルリク王が快く彼女を迎え入れると、月神は己の正体を明かし、シルリクに望みを尋ねた。するとシルリクは、我が子に祝福をあたえ、決して死なぬ身にするよう望んだ。そして何人なんぴとも、彼の王国を侵略出来ぬようにして欲しいと。

 ヘカは願いを聞き入れ、王子エダルトを吸血鬼に変え、緑海を瘴気で包んだ。

 この神話には、『人間の身には過ぎた願いを軽々しく口にするな』という教訓と『イムラヴの民が緑海を追われて放浪の民になったのは、エイル人の愚かさのせいだ』という二つの教訓が含まれている。だから、エルカンはナドカとは付き合わないし、魔法ヘクスにまつわるものは一切所持しない。エルカンとして生まれた身でありながらナドカとして生きる道を選んだクヴァルドは、彼らとはもう別の世界の住人だった。

 それでも、むざむざ危険にさらしたいとは思わない。

 王都から来たふたりの男たちは、ありもしない秘密の抜け道や迂回路を尋ね回るのを諦めて、強硬手段に出ることにしたようだった。腰の中程までの高さの立石を持ち上げて、どかそうとしていたのだ。

「その手を放してください」

 クヴァルドが警告をはらんだ声でそう告げると、焦げ茶の髪の若者と、金の髪の若者がそろって振り向いた。ずいぶん若い。そして、単なる伝令にしては身なりがいいようだ。しゃれた布地で仕立てた当世風の服を身に纏い、腰に帯びた長剣の鞘には儀式用かと見紛うほどふんだんに装飾を施してある。極めつけは、たっぷりと振りかけられた香水だ。

 焦げ茶の髪の方が、クヴァルドの姿を頭から足下まで眺めた。

「君は?」

 話し方からして、名のある貴族の子息かもしれない。一定の年齢に達した子供が社会勉強の旅に出されるのはよくあることだ。だが、あいにく人間の身分に興味は無い。

「〈クラン〉に所属しております、クヴァルドと申す者です」クヴァルドは礼儀正しく辞儀をした。

「〈クラン〉と言うと、狼人間の集団の?」

「左様です」

 応えると、若者たちは顔を見合わせた。

「すると、君も狼人間なのか? すごいな。まるで普通の人間に見える」若者は笑った。神経質で、気に障る声だ。

「なあ、助けてくれないか。行き止まりに連れ込まれて困っているんだ。先に進みたいのに、みな座り込んでしまって話も聞いてくれない」

 まず、案内人を雇っていない以上『連れ込まれた』という言い方は正しくないのだが、あえて指摘しても意味はなさそうなので、頷いた。

「道を間違えたわけではありません。ただ、一時的に行き止まりになっているだけです」

 若者たちは腑に落ちない表情のままクヴァルドを見返した。

「この森では、しばしばそういうことが起こります。人ならざる者が仕掛ける悪戯のようなものです」

「悪戯だって?」

 焦げ茶の髪の声には苛立ちが滲んでいた。言葉選びをしくじったかも知れない。どうも彼はせっかちで落ち着きがない人間のようだ。

「それで、その悪戯とやらはいつ終わる?」

「わかりません。は気まぐれなので。しかし、静かに待っていれば、道は必ず開きます」

「待つ? バウワー公からの書状を携えているんだぞ!」男は言い、立石の頂をぴしゃりと叩いた。「このクソ忌々しい石のせいで、半日も足止めを食らっている!」

「むやみに触れてはなりません。災いを呼びます」

「打つ手がないとはどういうことだ? 役人みたいな面をして、他の人外どもを従わせる力も無いのか?」

「ヒューゴ、彼の言うことを聞いた方がいいんじゃないか」金髪が釘を刺すが、焦げ茶の髪のヒューゴは耳を貸そうとしなかった。

「貴様ら人外は、人間の命令をきくものだ。いいか? 俺がなんとかしろと言ったら、今すぐに、なんとかしろ!」

 黙らせて欲しい時には呼んでくれと言ったヴェルギルのことを思い出す。いや、駄目だ。火に油を注ぐ結果しか思い浮かばない。

「落ち着いてください」

 ヒューゴの身体に染みついた香水と、苛立ちと緊張が醸し出すとげとげしい体臭とが混ざり合い、なんともいえぬ不快な匂いとなってあたりに漂う。この匂いも、この声も、振る舞いも、妖精たちの気に召すとは到底思えなかった。

「仰りたいことはわかります。ですがご理解ください。この森に住んでいるのは話し合いや命令が通用する者たちではないのです」

 すると、ヒューゴは深く息を吸った。苛立ちが怒りに変わる様を目の当たりにして、しまったと思ったときには、もう遅かった。

「黙れ!」

 若者は剣を抜き、折れよと言わんばかりに思い切り、立石にたたきつけた。

 鳴り響いた金属音は耳をつんざき、視界がぼやけるほど強烈だった。頭の中でこだまする余韻に重なるように聞こえた角笛の音は、決して幻聴ではなかっただろう。

「危ない!」

 伸ばした手が若者の腕を掴むその前に、森の暗がりから魔狼が飛び出してきて、剣を手にしたままのヒューゴの頭に食らいついた。魔狼が地面に着地する瞬間、首の骨が折れる嫌な音が確かにした。弛緩した身体が失禁し、鋭い匂いが立ち上る。

ちくしょうダムネイ

 黒い毛皮に赤い牙をもつ魔狼は、大昔の戦争の置き土産だ。魔術師が野生の狼に手を加えて繁殖させた種で、目の前にあるものを殺し尽くすためだけに産み落とされた。それが一頭、また一頭と、骨まで震わせるような唸り声を上げて森から現れる。幻惑させられた証である赤い眼を見るまでもない──この化け物を使わしたのは妖精だ。

「魔狼だ!」クヴァルドは声を張り上げた。「戦える者は武器を! そうで無い者は幌の中に隠れろ!!」

 剣を抜いて、切っ先を狼に向ける。腰を抜かしかけていた王都人を背中で押しやり、一番近くの馬車に向かわせた。押し殺した悲鳴をあげながら、子供らが馬車の中に身を隠す。エルカンの馬車は、山賊の略奪や獣の襲撃に備えて幌の内側には軽くて丈夫なイムラヴ鋼の網が張り巡らされているから、ちょっとやそっとのことでは破られない。

「狼だ!」

「武器を持て、野郎ども!」

 こうなってしまっては、静寂を保つ努力も無駄だ。生き延びるためにはなりふり構わず戦うしかない。剣や斧を手にした者たちが馬車を背に立ち、飛びかかってきた最初の一頭を切り伏せてやろうと身構えた。

 魔狼は瞬く間に数を増やしていた。暗がりに光る眼はまるで、どこまでも続くかがり火の群れだ。五感で確認できるだけでも、五十頭はいる。これだけの数の魔狼を相手に、一人も犠牲を出さずに切り抜けられるとは思えない。

「そろそろ、手に負えなくなったか?」

 いつの間にか隣に立っていたヴェルギルが言い、クヴァルドの肩に手を置いた。

 その手の重みに、安堵を感じずにはいられなかった。

 それは敗北であり、降伏であり、ある意味では勝利であるのかも知れなかった。

「頼みがある、ヴェルギル」

 間髪入れずに、質問が返ってくる。「それは、〈協定〉のため? それとも、人間のためか?」

 試されているのだと、すぐにわかった。こんな時に冗談を言っている場合かと、焦りが怒りを生みそうになる。

 だが正しい答えなら、もう知っている気がした。

「俺のためだ」クヴァルドは言った。「皆を助けて欲しい。俺のために」

 彼は──珍しいことに──すこし驚いたようだった。返事をするまでに鼓動三つ分ほど沈黙を挟んでから、小さく笑った。

「君の頼みとあらば、何なりと」

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