第9話

「何かの冗談だと言ってくれ」

 クヴァルドの言葉を、ヴェルギルは曖昧な微笑で受け流した。

「審問官どもが我々を探している。市壁の中の宿屋は使えない」少し離れたところから彼は言い、クヴァルドの、血まみれになった手を見た。「それに、その格好ではな」

 しかし……と言いつのりながら、クヴァルドは目の前の建物を見上げた。良い隠れ場所を知っていると、ヴェルギルに案内された店だ。それは、市壁の外れにある宿屋通りのなかの一軒だった。売春宿である証しである白く塗られた外壁と、ナドカが経営する店に掲示が義務づけられている赤い六芒星が、薄闇に連なるランタンの灯りにぼんやりと浮かび上がる。店の名前は〈砂漠の月〉亭。軒先にぶら下がる看板には、唐草模様で彩られた三日月が描かれていた。

「俺は〈クラン〉を名乗った。あれは正当な任務であって、審問官から逃げ隠れする理由はない」

「落とし穴に剣を突き立てて、意味があると思っているのか?」ヴェルギルは静かに言った。「魔術師を陥れた連中だ。嗅ぎ回られていい気はしないだろう。悔しいのはわかるが、退くのも策だと納得してくれ」

 ヴェルギルの、いつもの芝居がかった振る舞いはなりをひそめていて、それがかえって不気味だった。

「この店にはつてがある。審問官もそう易々と入ってはこられない」

「わかった」クヴァルドは不承不承ながら頷いた。「いまは、お前に従う」

 ヴェルギルは店の扉に手をかけてから、振り向いて念を押した。「ここで〈クラン〉の習性は出さないこと」

「〈クラン〉の習性?」

「ところ構わず臭いものに吠え立てる習性だ」彼は小さく笑って言った。「おとなしくしているんだぞ、クロン」

 ヴェルギルが扉を開けると、雑多な喧噪と香水の濃厚な匂いが塊となってぶつかってきた。一つ呼吸をしただけで、香りそのものが鼻腔から喉までへばりついたような気がした。入り口の目の前には二頭の獅子を描いた東洋風の衝立ついたてが立てかけられていて、中の様子は見えないようになっている。

「動かないように。これはただの絵じゃない」

 よく見ると、絵の中の獅子が描かれた枯れ野をウロウロと行ったり来たりしていた。侵入者を阻む東洋の魔道具だろう。初めて目にしたが、とても興味深い。特殊なのは絵の具だろうか? それとも、衝立そのものか?

 まじまじと見つめていると、衝立越しに声がした。

「朝が来るまでそこに突っ立ってる気か? さっさと合い言葉を言え」

「わたしだ、バイロン」ヴェルギルが言った。「君の助けが必要だ」

 一瞬の間。

「合い、言葉を、言え」バイロンと呼ばれた男は、ゆっくりと繰り返した。

 ヴェルギルは口を開け、そのまま固まってしまった。

「まさか、覚えていないのか?」たまらず尋ねる。

「最後に訪れたのは何年も前なのだ。取るに足らぬことはすぐに忘れてしまう主義でね」滑らかな眉間にかすかな皺が寄る。「ハックニ・パンキ? それとも、クリスピー・スクアレルだったか?」

「はずれだ」非情な声が返ってくる。「帰れ、疫病神。しかも、その連れは何だ──お前はいつからそんな連中とつるむようになった?」

 すると、衝立の中の獅子たちが、今にも飛びかかろうとするかのように体制を低くし、歯を剥いた。唐草模様に似た青銅色の鬣が渦を巻く。

 ヴェルギルはため息をついた。「バイロン。友が助けを求めているというのに」

「友? 誰のことだ」

 素気ない声が答える。雲行きは悪くなる一方だ。

「いい加減にしろ。二〇〇年前の過越すぎこしの祭りで何があったか、今ここで皆に聞かせてやってもいいんだぞ」

 返事は返ってこなかった。このまま待つ間に、衝立の獅子がしびれを切らしたらどうなるのだろうかと考えていると、バイロンが言った。

「入ってこい」

 すると、獅子たちは不服そうに背を向けて、元の絵に戻った。


 武器を預けてようやく通された衝立の向こう側は、あらゆる魔法と種族の坩堝るつぼだった。店内には、世界中から集められた魔道具がところ狭しと並べられていた。紙でできた東洋の提灯やら、色ガラスを組み合わせたアシュモール風のランプが色とりどりの光を放ち、そこにいる客の肌の色もわからぬほどに空間を染め上げていた。小さな火花を散らす金属の球が天井近くを飛び回り、アルマラ国の神を織り込んだタペストリーに棲む、無数の首を持つ蛇を挑発している。部屋の隅に設えられた壁龕へきがんには見たこともない魔法仕掛けの楽器が置かれていて、それらが耳慣れぬ、だがどこか魅惑的な音楽を奏でていた。

「部屋を確保してくる。君はここで待っていろ」ヴェルギルはそう言うと、クヴァルドを椅子に座らせて、店主の元へ向かった。

 バイロンはデーモンだった。額から生えた山羊の角といい、横に長い瞳孔といい、大陸の南方で信仰されていた〈豊穣神〉スワラトの子孫であることは一目見てわかる。

「バイロン・スワロデニエ! 懐かしの友よ」

 スワロデニエはデーモンの中でも由緒正しい血筋で、その多くは宮廷か官省に仕えている。言葉は悪いが、スワロデニエの者がこんな場末でいかがわしい宿を営んでいるとは驚きだ。

「またやっかい事を持ち込んだな、ヴェルギル」

「五十年に一度くらいは緊張感を思い出さないと、老けてしまうだろうと思ってな」

「余計なお世話だ。不動星マラヒ

 バイロンは痩せているが、非力には見えない。用心棒が見当たらないのは、多少の面倒事には彼自ら対処できるからなのだろう。その険悪な対応から、ヴェルギルの来店を快く思っていないのだろうと思ったが、それは彼なりの友愛表現だったのかも知れない。いま、額を付き合わせるように話し込む横顔に敵意はなかった。

 ここは部屋に入る前の客を待たせるための酒場であるようだ。見回すと何人かの客が、きわどい衣装を身に纏った者たちと杯を交わしていた。客はナドカばかりで、酒汲み役のほとんどは夢魔だが、吸血鬼やデーモン、さらには驚いたことに妖精シーもいる。部屋の隅には客らしい身なりの吸血鬼がいて、膝に座らせた人間の娘の首筋を物欲しげに撫でていた。吸血鬼に血と身体を売る売血婦だろう。吸血鬼の囁きにクスクスと笑いながら、誘うように腰を揺らしている。

 彼らから発散される欲望の匂いに当てられそうになって、クヴァルドはあわてて俯いた。それでも、二階の部屋から聞こえてくる情事の音は防ぎようがない。仕方がないので、目をきつく閉じた。

 満月まで、あと五日ある。大丈夫だ。まだ耐えられる。

「何だかやけに血生臭せえな」

 すぐ傍で誰かが言った。顔を上げると、自分を見下ろしていた男と目が合った。険しい眼差し、砂色の髪。そしてまごうことなき人狼の匂い。クヴァルドの装束に気づいた、男の茶色の瞳が、さっと金色に変わる。

「おまえ、〈クラン〉の狼か? なんでこんなところにいやがる」

 強張った身体から立ちのぼる、警戒の匂いが鼻を突く。後ろめたい事情がなければ、こんな匂いは発しないはずだ。少し離れたテーブルにもふたりの人狼がいる。こちらを気にしている様子から見て、この男の仲間だろう。怪しいことこの上ないが、ここで騒ぎを起こせば、潜伏先を失ってしまう。

「おれに構うな」男の目を見据えたまま、クヴァルドは言った。「おとなしくしていれば、こちらも手は出さない」

 男の肩が強ばる。今すぐにでも剣を抜くべきか迷っているとでも言うように。だが、この店では帯剣が禁じられている。思い直したらしく力を緩め、目をそらした。

「ここはお前らみたいな連中が来る場所じゃねえ」男はフンと鼻を鳴らした。「お楽しみが済んだら、さっさと帰りやがれ」

 そう吐き捨てて、男は仲間のところへ戻ろうとした。そのまま黙って行かせただろう──もし、男のベルトに藍色の糸が巻かれているのを見なかったら。

「おい!」

 クヴァルドは立ち上がり、男の肩を掴んだ。

「その糸は何だ?」

 男は唸りながら、ゆっくりと振り向いた。「知ったこっちゃねえよ。てめえみたいなハロルドの犬ころにはな」

 魔術師と人狼が、同じしるしを身につけていることに理由がないはずがない。

 クヴァルドは目を眇めた。「昼間の騒ぎと関係があるな。ダンネルの知り合いか?」

 店の端で、仲間の人狼が立ち上がる。

「だったらなんだってんだ、ええ?」男が牙を剥き、喉の奥を轟かせた。「この街で嗅ぎ回ってた〈クラン〉ってのは、お前か」

「嗅ぎ回られて困ることがあるようだな」

 クヴァルドも牙を見せた。この男より自分の方が強いことは、匂いでわかる。礼儀をわきまえない野良狼の鼻面に噛みつきたくて、歯の根が疼いた。

「そんなに嗅ぎてえなら、俺のケツの匂いでも嗅ぎな」男が、クヴァルドの足のすぐ横に唾を吐いた。「国王陛下に金玉を引っこ抜かれた、腰抜けの──」

 言い終わらないうちに相手の胸ぐらを掴んで引き寄せる。防御が甘い顎の下、骨の窪みに爪を食い込ませ、喉元を露わにした。

「もう一度聞く」轟くような唸り声で、立場を理解させる。「その糸が示すものは?」

「〈アラニ〉の証しだ」男は言った。「真のナドカの証しだよ、クソッタレ!」

「何だと? それは──」

 さらに聞き出そうと口を開いたが、中断せざるを得なくなった。ヴェルギルがクヴァルドの肩に手を置いて無理矢理椅子に座らせ、男と引き離したからだ。

「教えてくれて感謝する、尾の生えた友よ」吸血鬼は男の肩を親しげに叩き、クヴァルドに向き直った。「吠え立てるなと言わなかったか?」

「しかし──」

 最後まで言い終えないうちに、ヴェルギルは人狼をふり返った。三人の野良狼たちがひとかたまりになり、血走った目でこちらを見ている。

「人狼の諸君、どうかこの場を収めてはくれまいか」

「どけよ、啜り屋」薄い金髪の人狼が言った。「おい! そこの赤毛。話があるんだったら、今ここで決着をつけようじゃねえか」

 ヴェルギルは、立ち上がりかけたクヴァルドを一瞥さえせずに後ろ手で乱暴に椅子に抑え込んだ。抗おうとしたが、彼の手が鉄のように強く肩に食い込む。

「わたしの連れが失礼をしたのなら謝る。救いがたいほどの無粋者でね」

「腐れ吸血鬼なんぞに用はねえ、話しかけんな」

 男がヴェルギルの脇を通ってクヴァルドに詰め寄ろうとしたその時だった。ヴェルギルの背中から、ゆらりと、黒い霧が立ち上った。時の流れが緩慢になり、粘りつくように滞る。灯りは色を失って霧に吸い込まれ、柱や梁が軋んだ。店の空気が薄くなり、息が苦しい。まるでヴェルギルに向かって世界が収縮しているかのような錯覚に陥ったとき、全ての音が──がくさえも──消えた。

「彼に近づくな、と言っている」その声は、これまでに耳にした彼の声とは似ても似つかなかった。まつろわぬ者の存在を許さない、揺るぎない響き。「今すぐ、我々の前から消えろ」

 汗の匂い。この店にいる全てのナドカと人間の身体から、生臭くじっとりとした恐怖と──そして畏怖の匂いがにじみ出た。そして一瞬の後、ヴェルギルは首をかしげて言った。

「機嫌が悪いの忍耐を試すのはおすすめしない。今夜は家に帰りたまえ──酒代は払っておいてやるから」ヴェルギルは懐から金貨を取り出し、バイロンに向かって放った。

 呪縛を解かれたように目を瞬きながら、人狼たちがバイロンを見ると、彼も角の動きで出口を示した。困惑と憤懣に満ちた悪態を残して店を出て行く人狼たちの頭越しに、ヴェルギルはバイロンに言った。

「多く渡しすぎてしまったな。残りは迷惑料だ」

「とんでもない。あと十枚は必要だ」

「強欲者め。この建物を手に入れることが出来たのは誰のお陰か思い出せ」ヴェルギルは事も無げに言い、クヴァルドの肘を掴んだ。「部屋は確保した。行こう」


「〈アラニ〉だと?」

 クヴァルドは、行き場を失った闘争本能が自分の中で渦を巻いているのを感じながら、なんとか理性的な思考にしがみつこうと独りごちた。

「〈月神の雌犬たちアラニ〉のことは知っていたが、マチェットフォードで出くわすとは。彼らはもっと北にいたはずだ」

 〈アラニ〉は、エイルへの帰還を目指す──というよりは、夢に見ると言った方が近い──一派だった。旧アルバ領ソレンニルズの森に暮らす世捨て人の集団で、中心になっていたのは一人の老魔法使いだ。彼は身寄りのないナドカを引き取って面倒を見ながら、失われた祖国の伝承を語って聞かせていた。温和なひとびとで、危険な魔道具の発明などとは無縁だったはずだ。

「周辺の人間からの通報で調査に赴いたのが三十年ほど前のことだ。その時に調べた限りでは、実に無害だった」

「人間の思想の広まりがどれだけ予測不能か、忘れるほどには長くナドカでいるらしいな」ヴェルギルが辛辣に言い、部屋の戸を開けた。

 薄暗い部屋の中に、大きな寝台が一つあった。赤いサテンの天蓋が、分厚い絨毯敷きの床にまで届いている。薄い桃色の光を放つ花の形をしたランプが寝台の傍机に置かれ、壁には名状しがたい体位で絡み合う東洋の神仙を描いた掛け軸まで飾られていた。だが、この部屋に満ち満ちる蠱惑的な雰囲気など意に介さず、クヴァルドは続けた。

「どうやらそうらしい」上の空で、首の後ろに手をあてて考え込む。「エイルへの帰還は、昔も今も夢物語だ。しかし、種族の壁を越えてナドカを結びつけるがあるなら……何としてでも調査せねば」

「ああ。だが今は休むべきだ、クロン」

 自分を掴もうとしたヴェルギルの手をすり抜けて、部屋中を歩き回る。嫌な予感がする。すぐに行動に移さなくては取り返しのつかないことになる気がした。

「エイルを閉ざす瘴気が晴れたことはない。だがもし、そこを突破する方法を発見したのだとしたら?」

「クロン──」

「この動きは気に入らない。ヨトゥンヘルムに報告して、別の者に調べを進めさせよう」部屋を見回して、書き物机がないことに気づき、小さく悪態をつく。「ヴェルギル、ペンと紙をもらえるかどうか、あの店主に聞いてきてくれないか。俺のは鞍袋に入れたままにしてきてしまった」

 そう言って振り向こうとしたところでヴェルギルにぶつかられ、気がついたら寝台に仰向けに押し倒されていた。

「何をする!」

「いい加減にしろ、フィラン!」

 ハッとして瞬きをすると、ヴェルギルの目が否応なく自分の視線をとらえた。落ちくぼんだ目の奥で、菫色の瞳の中に散らばった結晶のような赤が輝きを増している。

「少しは、わたしの言うことを聞いてくれ」その声には、耳にしたことの無い苦痛の響きがあった。「君には休息が必要だ」

 だが、クヴァルドは言った。

「おれはクランの一員クラナドだ。この国のナドカと人間を守る使命がある。それを脇に置くことなど出来ない」

「そのために、燃えかすになっても構わないというのか?」

 燃えるとは、あの蜘蛛の魔道具のことを言っているのだろうか。答えずにいると、ヴェルギルが言った。

「あれの威力を見ただろう。あんなものに焼かれては──いくら人狼でも、ひとたまりもない」

「だからといって、見過ごすわけにはいかない」何故、今日に限ってこんなにも口出ししてくるのだろう。「俺の身を案ずる振りなどするな。何百年も生きたお前にとっては、俺などただのつまらん仔犬だ。どうせ血液の入った肉の袋としか思っていないんだろう」

「そうとも。血液が入った、頑固で口やかましい、毛むくじゃらの袋だ」こぼれた黒髪の向こう側で、ヴェルギルの目が苦痛に歪んだ。「そう思えたら……楽だった」

「それは、どういう……」

「どう思う、クロン?」

 口元は冗談めかした笑みに歪んだけれど、眼差しは揺るがなかった。

 ほんの一瞬。閃きよりも頼りなく、蝶が羽ばたく音よりも微かな思いが頭をよぎる。その苦痛を──彼の目の中にある苦しみを、癒やすことができたらいいのにと。

 そんな考えに気づいたとでも言うように、ひび割れて血を流す宝石のようなヴェルギルの瞳が、クヴァルドをとらえた。そして、伏せた長い睫毛の奥から、視線が自分の唇に注がれる──今までにのぞかせたどんな欲望よりも赤裸々に、その望みを明かして。ついさっきまで逸っていた血が、今度は逆向きに巡り始めたような、奇妙な感覚に襲われる。

 許してもいいだろうか?

 迷いは、その一瞬で充分だった。

 冷たい唇が唇に触れた。次の瞬間には境目を失うほど重なり合い、触れた舌を当然のように絡ませていた。吐息を食むような口づけに身を委ね、抗いながら、舌先で彼の牙をなぞる。その挑戦にヴェルギルは深く呻いて、クヴァルドの髪を掴んだ。

 我に返るな、と、心の中で念じた。自分に対しての思いだったのか、相手に対しての思いだったのかはわからない。どちらでも同じだろう。脈打たぬ首筋に手を這わせ、黒髪に指を差し込む。思った通り、冷たい。そして思った通り、豊かで濡れたような手触りがした。漆黒の流れのような髪の感触を、本当はずっと前から確かめてみたかった。

 胸の中の鼓動が早さを増すごとに、その一部を分け与えたいという衝動が増す。

「俺の血を吸え、ヴェルギル」かすれた声で呟いていた。

「できない」か細い声が答える。「やめてくれ……わたしを誘惑するのは」

 誘惑している? この俺が、他ならぬ眠らぬ星ヴェルギルを?

「いいから、このまま噛め」そう言って、捧げるように舌を押し込み、そそのかす。柔らかく滑らかな、だが温度のない舌を、自分と同じ温度にまで温めたくて我を忘れた。

「よせ、クロン」

 ヴェルギルが唇を離そうとするのを、追いかけて噛みつく。

「よすんだ」

 断固とした手に押しのけられ、寝台に沈み込む。荒い息をつきながら見上げると、ヴェルギルが、燃えるような目でクヴァルドを見ていた。乱れきった黒髪に構う余裕さえ失っている。

「二度と、吸血鬼に向かって『噛め』と言うな」

 その眼差し。今すぐ食らい尽くしたいと欲しているかのような眼差しに、何故こんなにも強烈な渇望を覚えるのだろう。

「俺を押し倒したのは、お前だ」

「君の言うとおりだが」ヴェルギルは言った。「いま、我々はふたりとも……まともじゃない」

 たしかに。

 たしかに、これはやり過ぎだ。満月までまだあと五日もある。戯れにしては、たちが悪すぎた。疼きながら脈打つ下半身を意識の外に切り離して、クヴァルドはため息をついた。

「謝る。確かに軽率だった」妙にうわずった声を誤魔化すように咳払いする。「お前の言うとおり、休んだ方がいいらしい」

「今日は大変な一日だった。無理もない」

 気詰まりな沈黙が流れる。クヴァルドは、濡れた唇を手の甲で拭った。

「助けてくれたことにも……感謝している」小さな笑みがひとりでにこぼれた。「これからは、空を飛ぶ芸当と引き換えにお前に血を飲ませたがる人間が列を作るだろうな」

 ヴェルギルは一瞬面食らった後、弾けるように笑い出した。何のてらいもなく笑う彼を見たのは出会ってから初めてのことだ。彼がこんな風に笑うのは何年──何十年ぶりのことなのだろうかと、クヴァルドは考えた。そしてようやく、吸血鬼という種族が犠牲にしたものの大きさを知ったような気がした。

「人狼はこれだから!」

 ヴェルギルはあきれたように呻いて、がっくりと頭を垂れた。それから身を起こして寝台の端まで後じさると壁にもたれて、乱れた長い黒髪をかき上げた。哀れむような、うらやむような眼差しでクヴァルドを見つめる口元にはなんとも言えない微笑が浮かんでいた。

「〈アラニ〉の指導者は変わった。今はガランティスと名乗る魔術師が率いている」

「知っているのか?」

 ヴェルギルは頷いた。「噂に聞いただけだ。ほんの半年程前に審問官の妻と……まあ、この話は関係ないな」

 関係ないはずなのに、何故だか妙に気にかかった。

「審問官の妻と寝た? 正気か?」

「それはあちらに尋ねて欲しいね。わたしとしては、高貴な者であれば誰でも良かったのだ。それに、緊張感があってなかなか楽しかった」

 苛立ちに、また牙が疼く。

 待て、今考えるべきことに集中しろ。

「そのガランティスが、ナドカを扇動しているのか」

「さあな。わたしも詳しいことは知らない。ただ、バイロンの話では、彼らはこのあたりの娼館を会合場所にしているそうだ」

 ヴェルギルは言い、乾いた血がこびりついたクヴァルドの手を見た。「手伝いの者を呼んでくる。傷を綺麗にして貰え。紙とペンと、それから食事も。持ってこさせる」

 彼はベッドをおりて立ち上がった。

「手紙を書き終えたら、少し休むがいい」

「どこへ行く?」

「食事だ。まったく! 君の血の匂いを嗅ぎすぎて、目眩がする。こうなったら贅沢は言っていられない」

 待て、という言葉が、喉元まで出かけた。

「俺の血を飲めばいいだろう」

 ヴェルギルは微笑んで、首を横に振った。「怪我人から飲む趣味はない」

 先ほど下で目にした売血婦の姿がよみがえる。名前も知らぬ人間がヴェルギルの膝に座り、彼に血を与えるのかと思うと、言葉に出来ないほどの不快感が沸き起こる。

 一体、これは何だ?

「クロン。さっきわたしが──」

 たしなめるような声。これでは立場が逆だ。

「『噛め』とは言っていない」クヴァルドは食い下がった。「俺は人狼だ。こんなかすり傷は何でもない」

 ヴェルギルは少しだけ考え込んでから、言った。

「満月は五日後だ」

「ああ、だから何だ?」

 赤い目が薄闇に輝く。低い声を欲望で濡らして、彼は繰り返した。「五日後だ」

 五日後のことをうっかり想像してしまったのが悪かった。おさえつけたはずの疼きが蘇り、血が熱くなる。そのまま何も言い返せずにいると、彼はあのいけ好かない訳知り顔で微笑んでから部屋を出て行った。

「何なんだ……」呟いて、ため息をついた。

 程なくして、手伝いの者が食事と紙とペンを持ってきてくれた。水桶と布巾でもって手当てしようとする小間使いを、あとは自分でやるからと下がらせる。そうして一人になると興奮の波もひき、冷静になる時間を持つことが出来た。小さな袖机にかがみ込み、ペンをインクに浸す。一字一字慎重にことの顛末を書き記しているうちに、ようやく後悔がやって来た。

「俺は何をした?」

 吸血鬼に『噛め』? 気でも違ったのか?

 おまけに、追いすがるような真似をしてまで、自分の血を飲ませようとした。これはどういうことなのだろう。吸血鬼と長く一緒にいすぎると、判断力が鈍るとでも言うのだろうか? そんなことは、〈クラン〉の誰も忠告してくれなかった。

 それ以上思い悩む前に、クヴァルドの思考は再びヴェルギルに飛んだ。

 いままさに、下の階かどこかで、彼は誰かに血を飲ませて貰っているはずだ。市井の人間の血など飲まないとうそぶいていたくせに。あの贅沢趣味の吸血鬼のことだ、たまには違う味を試してみるのも悪くないとでも思ったのだろう。

 だが、もしも彼の言葉が嘘ではなかったのだとしたら?

 クヴァルドの身体を気遣って、渇きを癒やす別の方法をとることにしたのだとしたら?

「馬鹿馬鹿しい」クヴァルドは呟いた。「毛むくじゃらの血液袋だぞ、俺は」

 独りごちながらも、「そう思えたら楽だった」と言った彼の、痛みに満ちた表情を思い出す。

 もしも自分が〈クラン〉でなく、ただの人間だったら、彼に捧げていただろうか──彼の底知れぬ虚ろを満たすために、この血の最後の一滴まで。

 だが〈クラン〉でなければ、彼と出会うことさえなかっただろう。エギルが俺を人狼にしてくれなかったら。

 その名を呼ぶ度に感じていた痛みが消えることはないと思っていた。自分一人が生き残ったことへの重石のような罪悪感はある。彼が生きていたら成し遂げられたであろう数多くの偉業や、掴むことが出来たに違いない幸せを思うと胸が裂けるほど哀しい。エイルへの道行きに旅立たせ、彼の死が〈クラン〉に落とす影から仲間たちを解放したいという使命感も、少しも欠けずに心にある。だが今はもう、叶わなかった思慕が残した傷の痛みはなくなっていた。

 手紙を書き終え、注意深く折りたたんで封筒にしまい、封蝋をおす。クヴァルドは、次の街で訓練された伝書鷹を見つけるまで保管しておくことにして、懐にしまった。鷹を使うのは高くつくが、この報告は烏や空飛ぶ伝書筒で送るには重大すぎる。

 従順に振る舞うつもりもなかったが、ヴェルギルの忠告通りおとなしく横になった。だがどれだけきつく目をつぶり、どれだけ寝返りを打っても、彼の不在が投げかけてくる説明のつかない苛立ちのせいで、眠ることが出来なかった。

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