第8話

 入院していた患者の名前が記された帳簿には、甘ったるい香りと混ざり合った、様々な金属の匂いが微かに残っていた。あまい香りは香水入りの蝋燭のものだろう。強い香気は粗悪な獣脂の臭みを消すため──いかがわしい店でよく使われる蝋燭だ。手がかりとしてはまずまずだが、ありふれている。注意を向けるべきは金属の匂いの方だ。以前何度か嗅いだことがある、さびた金属のものに非常に近い。この手がかりだけでは、賊の生業は金細工師とも、鍛冶屋とも、解錠師とも言える。匂いの純度が高いところを鑑みるに、帳簿に触れたのは日常的に金属を扱う手とみて間違いないだろう。慌ただしくページをめくったせいか、ところどころ皺になっている様子から見ても、賊が探していたものはこの中にある。

 クヴァルドはページをる手を止めた。匂いがひときわ濃厚な箇所がある。さらに、几帳面に並んだ文字をなぞるように付着した、皮脂の匂い。人間のものではないことまではわかる。人狼や吸血鬼でもない。やはりデーモンだろうか?

 次の瞬間、賊の指がなぞったらしい文字の列を見て、隠されているはずの尾の毛が逆立った。

「ディアドラ・ヘイワージー。施術者は……空白になっていますね」

 呟くと、院長の身体が微かに強ばり、緊張の汗の匂いが漂い始めた。

「この女性は、判事の──」

「ええ、卿のご息女です」

 院長は、人の良さそうな顔に苦慮を滲ませていた。心臓の鼓動も早い。賊と関係があるとは予想もしていなかった人物ということか?

「彼女は、ここで何の治療を?」院長の顎が強ばるのを見て、付け足した。「ご安心ください。他言は致しません」

 ラムゼイ院長は骨張った手で顔を覆い、ため息をついた。膨らむ胸が質素な長衣チュニックを持ち上げ、またゆっくりと落とす。

「その娘は、望まれぬ子を宿しました」

 つまり、堕胎だ。

「人の手による施術では、命に危険が伴います。ギリヴレイは熟練した技を持っていました。このことは他言無用だと、卿ご自身が彼を指名なされたのです」

 つまり、院長は法を犯して、この治療院内で魔術が使われることを許したのだ。人間の法を人間が破ったからと言って、クヴァルドにそれを責めるいわれはない。

「子の父親は?」

 院長は首を横に振った。「存じ上げません。そうした治療の時には、お相手の身元は伺わないことになっております。我らを導いてくださる神官が、よしとなされた事実こそが全てです」

 その神官も患者から存分に心付けを得ているのだろうが、それも〈クラン〉の関知すべきところではない。

「ならば、救いを求めてやってくる患者は多いでしょうな」

 日常茶飯事だからこそ、これほどまでに明らかなつながりに気がつかなかったのだろう。

「子の父親が問題なのだとするならば……まさか……」院長は、何かに気づいたように目を見開いた。「その賊が──? いえ、考えるのはよしましょう」

「それがいいでしょう。ギリヴレイになにがおこったのかを思えば」クヴァルドは重々しい声で言った。

「ああ、神よ」ラムゼイは両手を組み合わせ、額につけた。「なんということだ」

 クヴァルドは、静かに帳簿を閉じた。

「ええ、まったくです」


            †


 少女の傍によると、あどけない雰囲気は見た目だけだとわかった。ヴェルギルは相手を娘子むすめごと見なすのをやめ、いかにも無害そうな神妙で真面目ぶった表情を浮かべた。

「失礼、カヌス・ギリヴレイの知り合いでいらっしゃる?」

 すかさず、召使いが間に割って入った。「あなたは?」

 ヴェルギルは、なめし革に彫られた〈クラン〉の証書をちらりと見せた。ヨトゥンヘルムをでるときに持たされた単なる身元保証書だが、これが何を意味するのか知っている人間は多くはないだろうし、人狼と吸血鬼の見分けがつく者もそういないはずだ。だが、それらしい何かを見れば、安心するための言い訳にはなる。

「〈クラン〉の者として、この魔術師について調べているのです」

 そう言うと、召使いたちの防壁はほんの少し崩れた。一方、娘の顔からはさっと血の気が引いた。

「これをどうぞ、お嬢さん」

 ヴェルギルが差し出した小さな花束を、娘は警戒の眼差しで見つめた。いつの間に取り出したのかと思っているのだろう。駆け引きこそ知らないが、愚かなほどうぶというわけでもない。とは言え、背中に回した手の中に、くすねた花束を届けて消えた蝙蝠には気づかなかったはずだ。

「気付けの薬草を包んだブーケですよ、どうぞ」

 彼女はおそるおそる手に取って、そっと鼻の下に当てた。そして、注意深くヴェルギルの顔を見た。

「何故、あのひとを調べておいでなの?」

 どう答えたものか。この娘は、ギリヴレイに対して罪悪感を抱いているようだ。不当な処刑だった恐れがあると明かせば、心を閉ざすかも知れない。

「お教えできません。秘密の取り調べですので」ヴェルギルはもっともらしく言った。「その代わり、人間同士の問題にも関知いたしません。もし秘密がおありだったとしても、明るみには出ないとお約束しましょう」

「お嬢様」召使いたちは、娘の腕に手を添えた。「せめてひと気がないところで──」

 だが、彼女はその手を振り払った。「いいえ! わたしはここで、この方とお話しします。お父様についての噂が立つというなら、立てばいいんだわ」

 そして、彼女はヴェルギルに向き合った。挑むような眼差し。そういう目をした人間は嫌いではない。

「あなたのお名前を伺ってもいいかしら」

「ハルグルの子、ナグリです。ヨトゥンヘルムより参りました」ヴェルギルは、さして迷わずにでまかせを並べた。「貴女様は?」

 少女はつんと顎をあげ、息を吸い込んでから答えた。「ディアドラと申します。ディアドラ・ヘイワージー」

 ヘイワージーといえば、このマチェットフォードの判事の名だ。判事ならば、ナドカ一人を消すくらい、どうということはない。

「人間の、良家のご息女がギリヴレイのような魔術師とどういったご関係で?」

 召使いたちが目を見交わした。娘が余計なことを言うのを恐れているのだ。

「〈クラン〉の始祖に誓います。決して他言はいたしません」

 ディアドラはおずおずと頷いた。

「わたしは……その、彼の治療を受けたことがあったのです」

 娘の手が、無意識に腹の上に重なる。あどけなさの中にある成熟した香気の理由がわかった。先ほどの言葉を考えれば、そのが意味するところははっきりしている。

 良い家柄の娘と、堕胎を行った魔術師か。真相が見えてきた。

 とは言え、神官の赦しを得た堕胎は禁じられていない。場所の制限はあれど、魔術師が医術を行うこともまたしかりだ。それなら、何がギリヴレイを殺したのか?

「あなたは、ピアトロス治療院で秘密裏に堕胎を行った」ヴェルギルは言った。「ギリヴレイは──」

「ドーラ!」

 その大音声だいおんじょうに、ヴェルギルやディアドラ、そして召使いと、広場にいたほとんどの人間が振り向いた。だが、応えたのはただ一人だった。

「マルカス」

 ディアドラが囁いたその名が、広場の隅に立って、憤怒の形相でこちらを見ているデーモンの名なのだろう。彼は三人の仲間を引き連れていた。みすぼらしい身なりから宿無しのごろつきかと思いかけたが、服の至る所についた焦げ跡に気づいて、考えを改めた。

 この街では人間とデーモンの距離が近い。だが、人がナドカとの間に子をなすほど距離が近づくことがあるのか疑問だった。今、こちらに向かってきているデーモンの身体から立ち上る金属の匂いで、答えが出た。

「なるほど、硝子細工師か」

 デーモンには芸術家肌の者が実に多い。裕福な親が、才能豊かなナドカに我が子の肖像硝子を作らせるのは珍しい話ではない。風景や神話の一場面を描いた色つき硝子の絵画を、市場でも数多く目にした。どれも非常に写実的で、光に透かすと一層美しい。それが年頃の娘の肖像ということになると、単なる土産物ではなく見合いのために製作されることになる場合がほとんどだ。

 レクサンダー・ヘイワージーには、娘と画家の見合いをさせるという思惑は無かったはずだ。

 ギリヴレイにとって命取りになったのは、施術したことではなく、赤子の父親を知ってしまったことだろう。後天的にナドカになる吸血鬼と違って、血によって〈月の祝福〉を引き継ぐ種族は、母親の胎内にいる時点で、すでに人間とは異なる姿をしていることが多い。

 当のディアドラは、恋人──少なくとも、ある時点までは恋人だったであろう男に駆け寄るべきか迷っているように見えた。恐れと怒りの匂いが、微かに漂う。

「彼が、子の父親ですか?」

 ディアドラは無言で頷いた。

「彼と話をしたいと思いますか? 穏やかではない雰囲気だが」

 ヴェルギルはマルカスを見た。彼が伴った三人のいずれも剣を帯びて、険悪な表情を浮かべている。中でもひときわ背の高い、錆色の髪の男の容貌が目を引いた。顎のすぐ下までを覆う火傷の跡──その瘢痕が、まるで炎のように見える。そして腰のベルトには、三人揃いの藍色の糸が巻かれていた。

 藍色の糸──それが意味するものは何だったか? 思い出せない。

「わたしに腹を立てているんだわ」ディアドラは言った。

「デーモンは激情に駆られやすいですからね」

 他人事のような答え方をしてしまったが、〈クラン〉を名乗った以上、見て見ぬ振りを決め込むことも出来ない。ヴェルギルは娘と召使いを自分の後ろに下がらせた。

「なあ、ドーラ」

 対して、デーモンはヴェルギルを無視しようと決めたらしい。三人の連れ共々、剣の間合いよりも一歩分だけ離れた場所に立ってディアドラに呼びかけた。

「顔を見せてくれ、話がしたいだけだ」

 この場面においては壁の役を演じるしかないようなので、ヴェルギルは静かにことの成り行きを見守ることにした。

「話なら終わったはず」ディアドラが言った。「子供のことは諦めて、あなたは街を出る約束だった」

 マルカスは怒りに息を吸い込んだ。感情を制御するのが不得手なのだろう、ほんの一瞬、眼球の中に二つ目の瞳が現れそうになったが、すぐに人間の姿に戻った。

「君の親父がそう命令しただけだ。従うとは言ってない」

 すると、ディアドラがヴェルギルの脇から顔を出した。「わたしは約束したわ! それがあなたを助ける条件だったから。わたしヽヽヽ約束したの! でなきゃ今頃、燃やされていたのはあのひとだけじゃなかった!」

「それでも構わないと言ったろう、ドーラ!」マルカスが詰め寄った。「子供をあきらめるくらいなら、俺の命なんかいくらでもくれてやる」

 マルカスの年齢は、せいぜい二十といったところ。己の感情の強さや起伏を制御できないのは、若いデーモンによくあることだ。多くのデーモンは、それを創造的な力に変えることで生きるための舵を取ろうとする。このデーモンも一度はそれに成功したはずだ。しかし『恋』は、それまで積み上げてきたものなど一瞬にして壊してしまえるほどの劇薬なのだ。

「あなたが命をなげうって、それでどうするの? ガラスを売っても生活の足しにはならない。お父様に勘当されて、父親のない子供を抱えて、わたしは誰かの後妻になるべき? それとも魔女になるために〈コヴン〉に入ればいいの?」

 彼女は冗談にしたが、賢くしたたかな女性は魔女に向いているのだ。魔法を扱う女たちが万人に尊敬され、羨望を集めていた時代もあったというのに。

「なんとかなるとも。俺たちは一人じゃない。助けてくれる仲間だって──」

「あなたの『仲間』? そんなのありえない。わたしは人間ウィアよ」ディアドラはうわずった短い笑い声を上げた。「あなたはいつでも夢見がち。でも、物語みたいな恋で満足するのは当事者じゃないわ。気づくのが遅すぎたけど」

「ドーラ──」

 まったく、見ていられない。

「落ち着け、若人わこうど」ヴェルギルは再び、ディアドラとマルカスの間に割って入った。「人間ウィアとナドカが連れ合いになった例は、過去になかったわけではない。だが知っての通り、今の世では困難だ。実現したかったのなら、それなりの策を練らなくては。色恋沙汰の心地よさに耽溺して、それを怠ったのは君の責任だ。彼女の言うとおり、現実を見るんだな」

 マルカスは苛立ちも露わにヴェルギルを睨んでから、ディアドラを見やった。

「ドーラ、この男は誰だ?」

のことはいい──」

「彼は〈クラン〉の一員よ」ディアドラが言った。「あの気の毒な魔術師さんについて調べてらっしゃるの」

 途端に、マルカスと取り巻きの表情が変わった。

「この男が〈クラン〉?」

 背の低い二人の男がしきりに鼻を動かす。そのうちの一人が言った。

「吸血鬼だぞ」太い唸り声。「黒き血が〈クラン〉に入るなんて、聞いたことも無い」

「吸血鬼ですって!」

 召使いは小さな悲鳴を上げてディアドラを引き寄せ、ヴェルギルから遠ざけた。

 まあ、賢明な判断と言うほかない。

「どういうことだ? なにが狙いで俺たちに近づいた?」マルカスもまた、後じさった。

 ごろつきの一人──背の高い、火傷の男が唸る。「本当に〈クラン〉なのか?」

 その時、ヴェルギルの鼻を甘い香りがくすぐった。用心棒にはいささか不釣り合いな匂いに、埋もれていた別の記憶がよみがえる。

 マチェットフォード、藍色の糸、香。

 そうか、なるほど。これで繋がった。

「わたしが〈クランの一員クラナド〉だったら、何か不都合でもあるのかね?」ヴェルギルは、人狼の犬歯を凌駕する、二対の長い牙を見せて笑った。「君たちのような輩がしゃしゃり出てくるのなら、あの魔術師もまったくの潔白というわけではなさそうだ。さて、どうしたものか」

 背の低い方の一人が剣の柄に手をかけ、もう一人がそれに倣った。どうやら、火傷の男は戦闘要員ではないらしい。

「俺たちを脅すつもりか? ハロルドの犬が」

「あいにく、わたしは『犬』ではなくてね」

 剣を握った男が、火傷の男に言う。「女を殺して、さっさと終わりにしよう」

 その言葉に、マルカスが血相を変えた。

「何だと!? 話がしたいだけだと言ったはずだ!」

 ごろつきどもは、マルカスの言葉が耳に届いたそぶりさえ見せなかった。マルカスは火傷の男にしがみついた。「やめてくれ、ダンネル! 傷つけて欲しいわけじゃない!」

「この女のせいで、カヌスは死んだ」背の低い方が答えた。「これは報復だ」

「そのために、俺に協力したのか?」マルカスはひび割れた声で言った。「ドーラの所まで案内させるために?」

「そうだ」男は頷き、マルカスの腕を振りほどいて突き放した。「馬鹿げた色恋沙汰に巻き込まれて、大事な仲間を失ったんだ。その償いをして貰う」

「そんな……」

 利用されたと知って、マルカスは今度こそ打ちのめされたようだった。その様子を眺めながら、ヴェルギルは久々にため息をついた。

 ああ、なんと愚かで興味深い諍いの渦中に身を投じてしまったものか。

 ヴェルギルは振り返り、召使いとディアドラの肩に手を置いた。「逃げなさい」

 ディアドラが不安げな目でヴェルギルを見上げた。その視界の端には、打ちひしがれくずおれたマルカスがいるのだろう。「でも……」

「人間の一生など、瞬きの間の夢のようなものだ。人の子なら、命は賢く使わねばな」ヴェルギルは微笑んだ。「だが、もしも人生にんだなら、レイヴンヴェイルの〈コヴン〉に加わるといい。きっと、貴女に向いている」

 そして、目を丸くしている召使いふたりに檄を飛ばした。「何をぼうっと突っ立っている? 彼女を連れて走れ!」

 召使いたちは、呪縛を解かれた兎のようにかけだした。

「おい、待て!」

 すかさず後を追おうとするごろつきの、一人を爪先で転ばせ、もう一人の喉元に剣を突きつける。

「まあまあ、諸君」こちらを睨みすえる男の目に宿る殺意を楽しみながら、ヴェルギルは笑った。「無粋はよそう。せっかくのわたしの見せ場を台無しにしないでくれたまえ」

 火傷の男──マルカスにはダンネルと呼ばれていた──が、ヴェルギルを見据えた。

「貴様、何者だ?」

 ヴェルギルは鼻で笑った。「名乗っても、理解できまいよ」

 刃傷沙汰を察した広場の者たちは、馬車や屋台の物陰に隠れたりしながら、遠巻きにこちらを見ている。

 ええと、〈協定〉によれば、何だったか? 獣の皮を持つ者ハムラマが『人間の領域』で獣や半獣の姿になることを禁じている。当然、吸血鬼が霧に変化へんげするのも禁止だ。

 〈協定〉は人間ウィアどもに『生きる赦し』を与えて貰うための掟だ。そんなもの、命を掛けるには値しない。己を縛るものを捨て去り、誓いも掟も、何もかも無視して、今までながらえてきたはずだ。

 ため息をもう一度。冷たい胸の中で、風は空疎な音を立てた。

 だが、時にはそんなもののために我が身を危険にさらすのも、悪くはないのかも知れない。

 ヴェルギルは、ゆっくりと剣を抜いた。

「剣技など、一番初めに忘れたものだったというのにな」


            †


 広場に着く前から、漂ってくる不穏な匂いを嗅ぎつけていた。鞍の上のクヴァルドの緊張を察してアルゴが不安げに鼻を鳴らすので、安心させるよう首に手を置いた。人垣をかき分けてなんとか広場にたどり着いた瞬間、クヴァルドは驚きのあまり目を見開いた。

 ヴェルギルが、二人の男を相手取って戦っている──剣で。

 ヨトゥンヘルムを発つときに譲られた長剣は長いこと武器庫に眠っていた『ないよりはまし』という程度の代物で、彼の手に合わせて作られたわけでもなければ、吸血鬼が取り回すのに適した重さでもない。にもかかわらず、彼はそれを上手く振るっていた。まるで何十年も共にあったかのように、ヴェルギルは剣の重心をよくとらえ、無駄のない流れで男たちをしのいでいた。

 そんなことを考えている場合ではないのにもかかわらず、クヴァルドは、奴は戦士ではなかったはずだという予想に金貨百枚を賭けたのを思い出した。

 隙のない構えと、風の流れのように滑らかな歩法ほほうを見れば、彼が実戦を経験した戦士であるのは明らかだ。いや、『元』戦士か。少々型が古いのは大目に見るべきだろう。

 それにしても、相手は誰だ? 奴は何と戦っている?

 うまめの支柱に手綱を括り、急いで広間を横切る。

「ヴェルギル!」

 一声吠えると、吸血鬼はほんの一瞬だけ視線をこちらに寄越してから、また三人の男たちに向き直った。

 一方、敵は少しばかり足並みが乱れた。目の前にいる吸血鬼が、あのヴェルギルだと知って動揺したせいかも知れないし、狼の刺繍が施された長衣を纏ったクヴァルドを見て〈クラン〉の到着を知ったせいかもしれない。

「隙あり!」

 ヴェルギルが声を上げ、上段の構えから、勢いよく剣を振り下ろした。相手は即座に防御の構えをとったが、ヴェルギルの動きが目くらましフェイントだと気づくのが遅すぎた。吸血鬼は途中まで振り下げた剣を翻し、防御のための〈冠の構え〉で剣を握る相手の無防備な左手の付け根に思い切りたたき込んだ。そしてすかさずもう一人に向き直ると、握りの甘い右の掌をこじ開けるように切っ先で穿ち、切り払って小指と薬指を葬り去った。

 瞬き一つの間に。

 男たちの掠れた悲鳴は、ずいぶん後から聞こえてきたような気がした。それでようやく、息をするのも忘れていたクヴァルドは我に返った。

「ヴェルギル、一体何事だ!」

 吸血鬼は事もなげに肩をすくめた。「遊び相手が欲しいというので、相手をしてやったまでだ。そうだな、ダンネル殿?」

 首に火傷の跡を持つ、ダンネルと呼ばれた背の高い男──金属と薬草の匂いからして、彼も魔術を扱う者のようだ──は返事をする代わりに、どす黒い殺意を込めた眼差しでヴェルギルを見た。

「ヴェルギルだと? 女たらしの吸血鬼が、ここで何を嗅ぎ回っている?」

「訂正して貰おう。わたしがたらしこむのは女だけではないぞ」

 何なんだ。この吸血鬼はなぜ、たった三刻の間もおとなしくしていられない?

「ヴェルギル」一人残った男に油断ない視線を向けながら、もう一度尋ねる。「何があった?」

「君が治療院を嗅ぎ回っている間に、ひとつの恋が終わり、下手人げしゅにんが見つかり、王の叛乱分子と喧嘩をした。そこにおわすダンネル殿は、ギリヴレイのご友人だそうだ」

「何だと──」

 その時、異様に早い心臓の鼓動と、鼻を突き刺すような緊張の匂いを察知した。瞬時に、本能が警鐘を鳴らす。

 これは、追い詰められた獣の心拍だ。

 ダンネルをふり返ると、彼の手に見慣れぬものを見た。金属と硝子から成る、巨大な蜘蛛のようにみえる。金属でできた、おぞまくも優美な八本の脚は空を掻くように蠢き、ワインの瓶ほどの大きさがある硝子製の腹の中では、得体の知れぬ二色の液体が、混ざり合わぬまま揺れていた。随所に刻み込まれた魔方陣を見るまでもない──あれは魔道具フアラヒだ。ギリヴレイは腕の良い薬種屋で、発明家でもあったとラムゼイが言っていた。あれもまた、彼の発明のひとつということか?

「硝子か! なるほど、そこでマルカスが絡んでくるわけだな」ヴェルギルは感心したように手を打ちならした。

「マルカス?」

「ディアドラの恋人で、堕胎した子の父親だ。デーモンで、肖像硝子の職人をしている」そして、周囲を見回す。「どうやら逃げたらしいが」

 クヴァルドはヴェルギルの顔をまじまじと見た。「そんなことまで調べたのか?」

 帳簿に付着していた錆びた金属の匂いにも、これで説明がつく。硝子の彩色には、酸化した金属を使うからだ。

「どうもここのところ、血の巡りが良いようでね」吸血鬼は楽しげに言い、意味深な視線を投げて寄越した。

 それを無視して、クヴァルドはダンネルに視線を戻した。火傷の跡からして、ダンネルは金属を扱う職人である可能性が高い。おそらく、そのマルカスという男の硝子と、ダンネルの金工、ギリヴレイの設計図によって、あの蜘蛛が生まれたのだ。

「カヌスの恨みを晴らす」ダンネルは言った。「こいつを使って、我らナドカの恨みを晴らす!」

「よせ!」クヴァルドは注意深く、ダンネルに向かって一歩近づいた。「お前は、あの薬種屋の知り合いなんだな?」

 ダンネルは興奮に首筋を紅潮させていた。そのせいで、火傷の跡が浮き上がって白い炎のように見える。右手の中の蜘蛛は、カチカチと音を立てながら絡繰からくり仕掛けの足をしきりに動かし、獲物を探していた。

「おれは〈クラン〉の者だ。ヨトゥンヘルムのクヴァルドと言う。不当な処刑が行われたのなら、約束する──〈クラン〉は決してうやむやにしないし、人間にそれを償わせる」

「無駄だと思うぞ、クロン」ヴェルギルが呟く。

 クヴァルドは再び、吸血鬼を無視した。「ダンネル、話してみてくれないか。人間に〈クラン〉が軽んじられたのなら、それは〈人外社会カトル〉全体の問題だ」

 ダンネルの黒い目が、微動だにせず自分を見ている。追い詰められた獣のような匂いはおちついていた。心臓の鼓動も、徐々にではあるがおさまりつつある。

「なんでカヌスが死んだか、知ってるのか?」

「ああ。詳しいことはこれから裏付けるが……人間による口封じの工作があったと見ている」

「そこまで、わかっているんだな」

 蜘蛛を掲げたダンネルの手が、ほんの少し下がった。

「あのクソッタレのハロルドのせいで、俺たちは生きていく場所を奪われた」ダンネルは声を震わせた。「それでも、なんとかまっとうにやってきたんだ。なのに、今度はこの仕打ちだ」

「ああ、わかっている」クヴァルドは深く頷いた。「考えてみてくれ、ここでその──蜘蛛を使えば、王にさらなる弾圧の口実を与えてしまう。それは危険なものなんだろう?」

 ダンネルは、少し迷った末に小さく頷いた。

「本当は、こんなことのために使う道具じゃなかった」彼は、静かな声で呟いた。「俺たちは、もっといいことを成し遂げるはずだった」

「それなら……もうよさないか?」

 鼓動がおさまり、危険な匂いが消えてゆく。このまま説き伏せることが出来れば、解決に持ち込めると思ったちょうどその時、通りの向こうから、いくつものけたたましい警鐘が聞こえた。

「おやおや」ヴェルギルが気の抜けた声で呟いた。

 群衆の中から、安堵と恐怖、それぞれの感情のこもった呟きが漏れる。

「〈燈火警団ランタン〉だ」

 異端審問官によって構成された燈火警団は、いまやほとんどの大きな都市に拠点を有している。数十年前まで〈クラン〉に任されていた権限を、ことごとく奪いつつあるのはこの警団だった。

 それが、ここに向かっている。いまこの時に。なんという間の悪さだ。

「審問官が来る」

 張り詰めてゆく空気の中、危ういほど虚ろな目で通りの向こう側を見据えたまま、ダンネルが呟いた。「カヌスも、奴らに連れて行かれた」

 まずい。せっかく説得できそうだったのに、これでは逆戻りだ。

「ダンネル──」

 言いかけたとき、強く腕を引かれた。

「何をする!?」

 ヴェルギルをふり返ると、彼はクヴァルドの腕を掴んだまま、いつになく真面目な表情でダンネルを注視していた。

「今すぐに、ここから逃げたほうがいい」

「何故だ?」

「時間切れだ。これ以上とどまると危ない」

 ヴェルギルは、こういうときにさえすらすらと出てくる冗談を、差し挟まなかった。

「説明しろ」クヴァルドは言った。

「噂に聞いたことがある。空気に触れた状態で混ざり合うと、甚大な風炎を引き起こす魔法液の噂だ」

「あれがそうだと?」

「おそらくは」

 クヴァルドとヴェルギルは目を見交わした。すみれ色の瞳の中に、面白がるような光はない。これほどまでに真摯な彼の表情を、ヴェルギルは初めて見た。本気で、ここから離れるべきだと思っているのだ。

燈火警団ランタン〉の蹄の音が、もの凄い勢いで近づいてくる。もう時間がない。クヴァルドは腕を振り払った。

「ならば、止めなくては」

「無駄だ、諦めろ!」

 さらに伸びてくる手から逃れて駆け出すと同時に、鐘をとりつけた燈火ランタンを掲げた一団が、広間になだれ込んできた。クヴァルドは叫んだ。

「止まれ! 〈クラン〉の名の下に、今すぐそいつをおろせ!」

 今まさに、ゆっくりと蜘蛛を持ち上げたダンネルと、いしゆみを携えた〈燈火警団〉の隊列の両方に向かって声を上げる。だが、言葉は虚空に吸い込まれるばかりで、誰の耳にも届かない。

「弩隊、構えよ!」

「駄目だ、よせ──」

 取り返しのつかないことになる前に、ダンネルの手から、あの蜘蛛を奪い取らなければ──。

 地面を蹴り、中空に飛び出すと同時に、周囲の状況が迫ってくる。キリキリと絞られる引き金の音。ダンネルの迷いのない鼓動。己の鉤爪が空を掻き、時があざ笑う。背後でヴェルギルが何事かを叫んでいる。弦が弾かれ、矢が滑る。

 ダンネルがゆっくりと吐き出した息を、銀の光跡が引き裂いた。やじりが肉体に突き刺さる音、死を悟った身体が発する、濃厚な汗の匂い。

 最後の鼓動を打ち終わる前に、ダンネルが言った。

「俺の、勝ちだ」

 突き刺さった何本もの銀の矢が、ダンネルの身体を焼き焦がす。魔法仕掛けの蜘蛛は、痙攣しながら頽れる身体の腕から背中、そして足を伝って地面に這いおりた。そして、それは迷うことなく、〈燈火警団〉の隊列を目指した。

退け! 皆の者、退け!」

 魔道具の危険性を知っている審問官たちが声を上げ、慌てて引き返そうとするが、もう遅い。蜘蛛は隊列の目の前で、腹をコツンと地面に打ち付け始めた。

 もう一度。そして、もう一度。

 硝子製の身体を砕き、胎んだ液体をぶちまけようとしている。

「フィラン! よせ!!」

 ヴェルギルが叫ぶのを無視して、クヴァルドはその蜘蛛に飛びついた。腕の中に抱える直前、硝子にひびが入る微かな音がしたが、構わず抱きしめた。

このイル馬鹿者バドゥナク!」

 このときのクヴァルドには、ヴェルギルが悪態をつくのはめずらしいと思う余裕も、それがとうに滅びた国の言語であることに思い至る余裕もなかった。不意に現れたヴェルギルの両手に脇の下を掴まれて、次の瞬間には空を飛んでいたからだ。

「何だ──!?」

 自分の足と地面とが離れたと思ったら、みるみるうちに眼下に遠ざかってゆく。

 ふり返ると、彼は黒い霧で出来た蝙蝠の巨大な翼をはためかせていた。暮れはじめた空を背景に、長い黒髪がなびいている。その眼差しは険しく、蒼白な肌は一層青ざめていた。

「ヴェルギル」

「話しかけるな。君の血の匂いで、ただでさえ気が散っている」

 クヴァルドは向き直り、金属製の鋭い脚に両の腕を切りつけられながらも、暴れる蜘蛛を壊さぬようにしっかりと抱えた。頼りなげに揺れる足のずっと下で、マチェットフォードの街が後方へ流れてゆく。

「あの川辺だ」クヴァルドは言った。「あそこに、こいつを落とす」

 了解したと返事をする代わりに、ヴェルギルは羽ばたきを速めた。

 川岸にひと気がないことを確認して、上空で手を放した。蜘蛛は藻掻もがきながら、ゆっくりと地面に吸い込まれた。永遠とも思える時間が過ぎた後、硝子の割れるカシャンという音がしたかと思うと、地面から轟音と共に暗褐色の炎が吹き出した。それは、川の水ごと、魚を一匹残らず反対側の岸まで吹き飛ばすほどの衝撃だった。すぐ傍に生えていた林檎の木々は、葉を吹き飛ばされ、根元から折れて燃え始めた。芽吹き始めた野草は一瞬にして消し炭に代わり、その場所は、文字通りの焦土と化した。

 ふたりは少し離れた上空からそれを眺めていた。熱波になぶられた瞬間に漏らした小さな悪態の他に、言うべき言葉を見つけることも出来ないまま。やがて、炎が絶え、胸にこびりつくような厭な匂いが黒煙と共に漂ってくると、ゆっくりと地面に降り立ち、街へ戻る道を探した。

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