第7話

 エギルへの思慕を、ヴェルギルに見抜かれているのはわかっていた。満月が訪れる度に誰を想って自らを慰めていたのか、彼は知っている。時に、心の奥底にあるものが漏れてしまわぬよう制御するのは難しい。しかし、いつ当てこすりを言われるのかというクヴァルドの警戒をよそに、彼がエギルの名を口に出すことはなかった。そして、クヴァルドの真名を呼ぶことも、一日も早くエギルを解放し、魂をエイルへ送ってやりたいという想いを否定することもなかった。

 吸血鬼との同衾も、処理と食餌の交換と割り切ってしまえば、別段、苦痛は感じない。ただし、彼を引き連れたまま〈狼小屋ロッジ〉に籠もれば他の仲間の注意を引いてしまうので、満月の夜のは大抵、最初の一夜と同じように野外で行われた。

 単なる処理に、酒や雰囲気や毛皮の敷物を持ち込もうとする吸血鬼を諫めたのも最初だけで、二度目からは、おのおのが満足する妥協点を見いだすことが出来た。酒は容認。雰囲気は無用。敷物は、硬いが丈夫な毛織物で手を打つ。


 そして七日に一度、彼は『食事』を要求する。どちらかといえば、厄介なのはこちらの方だった。

「ん……」

 牙の先が押し当てられると同時に、冷たい舌が首筋に触れる。鋭い先端が皮膚を突き破る時の小さな痛みには、もう慣れた。

 傷口から溢れる血を舐めとる舌の動きにおかしな所はない。行儀のなっていない吸血鬼は、興奮に駆られるまま、餌食にした人間の首を食いちぎる。中には首の骨が折れ、食道まで露わになった犠牲者もいた。そんな死体を山ほど見てきたから、ヴェルギルが元は貴族階級だったはずだという見立ても、あながち間違っていないだろうと、クヴァルドには思えた。牙でつけた傷口から血を吸うだけのヴェルギルの食事風景は、吸血鬼の中ではかなり上品な方だと言える。

「吸われすぎて気が遠くなるようなことがあれば、言葉ではなく、突き飛ばすなり何なりして知らせて欲しい」

 と、彼は言った。

「なぜだ。言葉が通じなくなるとでも?」

 聞き返すと、彼は頷いた。

「そうだ」さりげなくはあったが、その表情はしごく真面目だった。「殺すつもりでやれ。そうならないように気をつけるがね。大事なごちそうを、簡単になくしてしまいたくはない」

「殺すつもりで突き飛ばす?」クヴァルドは笑った。「いいだろう、喜んでやってやる」

 問題は、そうして殺そうしたところで死なないことの方だが、それはそれだ。

 首や肩に置かれた吸血鬼の手は冷え切っている。それが、血を飲むごとに徐々に温まり、柔らかさを増してゆくのがわかる。

 心臓の鼓動を月神に捧げる代わりに、歳を刻まない〈月の體〉を手に入れた者──それが吸血鬼だ。だがどういうわけか、クヴァルドの血を飲んでいるときだけはヴェルギルの心臓が息を吹き返す。血を飲んで心臓が動くなどという伝承には心当たりがない。本人に問い詰めてみたが、「〈デイナの蛇〉のせいで、がついてしまったのかも知れないな」などとうそぶくばかりで、真面目に考えようともしない。〈クラン〉の古株ならば知っているのかも知れないが、この質問をすること自体が危険な賭けだ。吸血鬼に血を飲ませていることが明るみに出れば、軽蔑は免れない。

 今もまた、背中に押し当てられた胸の中で、ヴェルギルの心臓が鼓動している。まるで咳き込むような、弱々しくたどたどしいものではあったけれど、鼓動には違いない。

「んん……」

 血を味わう彼が、喉の奥を低く鳴らす。その深い声が自分の身にもたらす効果に、どうか気づいていませんようにと、クヴァルドは敷物を強く握り、唇を噛んだ。

 吸血鬼に血を吸われるという行為には快感が伴う。それを得るために、わざわざ進んで吸血鬼の餌になりたがる人間がいるほどだ。加えてクヴァルドの場合は、人狼の呪いのせいで、満月が近づく度に疼きが増す。だから、あらがえぬままに催してしまうのは仕方の無いこと。

 首筋に生じた戦慄が熱を帯びて、ゆっくりと背筋を伝い降りて落ちてゆく。腰……それから、さらに下へと。

 しっかりしろ。割り切ると決めたのは自分だろう。

 首筋を舐めあげる濡れた舌も、徐々に暖まってゆく身体も、息を吹き返す心臓も、満足げなうめき声も、取るに足らない。これはあくまでも餌やりであって、馬や牛に飼い葉をやるのと一緒だ。

 長く息を吐き出しながら、干し草を咀嚼する馬の姿を思い浮かべようとしていると、ヴェルギルの手が伸びてきて、長衣の下、両脚の付け根で熱を持ち始めていたものに触れた。

「な……!?」

 身を強ばらせるクヴァルドの耳を、血で温まった吐息混じりの声がからかった。

「こちらは吸わなくても平気か?」

 殺すつもりで突き飛ばすのは、思った通り、実に簡単だった。


 そうして、満月が二度訪れる間に、ダイラ中を巡って回った。根拠は主に、伝書烏や魔女の伝書筒を使って〈クラン〉に寄せられる目撃証言だ。しかし、人間にはエダルトとそれ以外のナドカの見分けがつかないことも多く、『怪しげな男が住んでいる』という情報を元に赴いた先で、ひっそりと暮らすデーモンや魔術師に行き会うこともしばしばだった。

 砦から烏が送られてくるたびに、ヴェルギルは無駄骨を嘆く。その気持ちは理解できなくはない。今までに十六の聖堂と、三つの学舎、七つの港と、十二の砦、二十一の村を訪れたが、全てエダルトとは無関係だったのだ。だが、どんなに望みが薄かろうと、可能性がわずかでもある限りは、それを追った。


 ダイラの南西を流れるホスブリー川は、〈南の大口〉と呼ばれるヘスキプトン港と、マチェットフォードの街を繋いでいる。大陸との貿易で多くを担うのは王城を擁するデンズウィックの王港キングズポートだが、監視が緩いヘスキプトンでも、王港と同じかそれ以上の品物の行き来がある。ヘスキプトンで陸揚げされた品物が川を遡り、まず行き着くのがマチェットフォードだ。この街で定期的に開かれるいちは相当な賑わいを見せる。

 クヴァルドとヴェルギルは、まさに市が開催されるその日に、街を訪れることになった。市壁しへきの門へ至る街道には、作物を満載した馬車やら、豚飼いやら、厳重な警備を引き連れたほろつき馬車が連なって騒然としていた。

「密造酒売りが求めるものは、自由と金とマチェットフォード」

 ヴェルギルが呟き、街道沿いにひしめき合う店や酒場を眺めた。市壁に囲まれた街区から溢れて数多くの店が軒を連ね、市が開かれる日ごとに、街道をゆく旅人や商人を呼び込んでいる。ほとんど下着姿の女たちが宿屋インの店先で煙草をくゆらせ、誘うような眼差しを誰彼構わず投げかけていた。宿屋とは名ばかりの娼館では、ありとあらゆる密造酒が提供されている。王が定め、全国の領主に守らせているはずの〈王律〉には、娼館は市壁の中の決められた区画に、決められた数しか存在してはいけないと記されているのだが、そんなことはお構いなしだ。この街では商売にかけられる税金が安く、取り締まりも緩い。そのせいか職人や商人の協会ギルドの規律もおおらかだと聞く。こうした気風が甘い蜜に群がる有象無象を引き寄せるおかげで、とても治安が良いとは言えない。

「それで、奴が現れたのは、市壁の中の──」

「南岸地区だ」クヴァルドは言った。「貴族向けの治療院がある。そこに出没したらしい」

 ヴェルギルは、「誰が好き好んで病みついた人間の血など吸うものか」とぼやいた。

「絶望の味が好みなら、可能性がないわけではないだろう」

「まあ、希望は捨てずにいよう」言葉とは真逆の口調で言い、馬上でこれ見よがしに背伸びをして見せた。「この街を訪れたことは?」

「三十年ほど前に、一度だけ」

「そんなに昔か」吸血鬼は言い、自分に声をかけてきた娼婦に愛想良く手を振り返した。「確かに、堅物には向かない街ではあるな」

「マチェットフォードで問題を起こすのは人間のほうだ」クヴァルドは言った。「ナドカがおとなしくしている限り、〈クラン〉の出る幕はない」

 ヴェルギルは何故だか妙に気に障る声で「なるほど」と言い、行列を眺める作業に戻った。

「そういうお前は、さぞこの街の世話になったのだろうな」

 すると吸血鬼は、心外だと言わんばかりの表情を浮かべて、クヴァルドを見た。

「市井の人間の血など吸わない!」ヴェルギルはやれやれと首を振った。「もう二月ふたつきになるんだぞ、クロン。わたしの話をちゃんと聞いていたのか?」

 いつの間にか、仔犬クロンと呼ぶことを窘めるのにも疲れてしまった。今さら怒る気にもなれない。墓場の土より年経た忌々しい吸血鬼にとっては、確かに仔犬に違いないのだろうし。

「聞いていたとも。耳が腐るほど聞いた」クヴァルドはうんざりと目を回した。「だが、ヘスキプトンからやってくる商人の中には、貴族のような生活を送っているものもいる。そうした輩にも興味はなかったか?」

 すると、ヴェルギルは一瞬考え込んだ。

「一度や二度はそういうこともあったかも知れないな。よく覚えてはいないが」

 ほらみろ、とクヴァルドは言った。図星を射貫いたはずなのに、妙な苛立ちが胸の奥に居座る。

「味の好みは変わる」ヴェルギルが言った。「贅沢に浸る人間の血は、ヴァストの貴腐ワインのようなものだ。美味だが、いずれ飽きる。いまはもう少し……野趣に溢れた味わいが好ましい」

『野趣』という言葉に、これほどまでに卑猥な含みを持たせられる者が他にいるだろうか。反射的に背骨の後ろの毛が逆立ちそうになるのを堪えて、クヴァルドは鼻を鳴らした。

 この吸血鬼の『お戯れ』にも慣れてきた。踊るように言葉を繰りながら、こちらの反応を伺って楽しむ悪趣味なやり方に、最初の頃こそ苛立たずにはいられなかったが、今では軽く受け流すことが出来る。

「そんなに野性的な味が好みなら、獣の血でも吸ったらどうだ」

 ヴェルギルは笑った。

「それは、クロン、コケモモのワインとコケモモを比べるようなものだ。確かに味はするだろうが、深い悦びまでは得られない」

 彼の言葉遊びには慣れた。しかし、ことあるごとにこちらを賛美するような戯れ言を言うのには、まだ慣れることはなかった。思ってもいないことをさも真実のように語るのは吸血鬼の天性だ。だが人狼は──幸か不幸か──見たまま、聞いたまま、嗅いだままを理解しようとする。このすれ違いには、すこしばかり消耗させられる。

 ため息をついて、胸につかえる苛立ちを吐き出した。

「勝手にしろ」


 西門をくぐって市壁の中に入ると、異様なきな臭さが鼻をついた。それまでは街の内外に溢れる雑多な匂いに紛れていたが、この忌まわしい異臭を嗅いだ瞬間、警戒に首筋の毛がざわついた。肉と血と脂が焦げたような独特の匂いの原因は一つしか無い。

 焚刑が行われたのだ。

「落ち着け、クロン」ヴェルギルは、雑踏の向こうに視線を向けたまま言った。「もう終わっている」

「それくらい、わかる」クヴァルドは唸って、馬を進めた。

 病院へ向かうためには、広場を横切る必要があった。クヴァルドの乗るアルゴは得難い駿馬で、野山を白い風のように駆けるが、人混みの合間を縫うのは得意ではない。一方、ヴェルギルが見立てたカーナという名のあお鹿毛かげの牝馬は、やや非力そうに見えたが人にはよく慣れていた。市を目当てに押し寄せた人々に物怖じもせず、ゆったりと歩を進めている。

「処刑があったのは昨日だったらしい」ヴェルギルが言った。

「この街に裁判所があるのは知っていた」クヴァルドは頷いた。「だが、焚刑が実行されたとなると──」

「異端審問官が裁判に列席する決まりなのは知っているだろう」ヴェルギルは言った。

「形式上の話だ」クヴァルドは、徐々に強くなっていく匂いに顔をしかめた。「人間はナドカを処刑しない。法を犯したナドカは〈クラン〉が裁く」

 ヴェルギルが何か言いたげに口元を歪めると、牙の先端が覗いた。「ということになってはいるらしいな」

 焚刑ふんけいはナドカを処刑する刑で、人間相手には行われないのが通例だ。

 ダイラの歴史の中でも名君と名高いマウリス王の御代に〈クラン〉が〈協定〉の守護者に任命されるまでは、異端狩りは普通のことだった。人間は獣を狩るようにナドカを狩った。月神ヘカの祝福を受けたものが今際いまわに放つ青い光を見るために、幼いナドカまでが犠牲になった。

 それも昔の話だ。かつて、ナドカの種族の長たちの手によって、古の〈協定〉が生まれた。その数百年後、マウリス王とアルフリード・フィンガルとの間で交わされた盟約のもとに、〈協定〉の守護者として〈クラン〉が発足した。以来、人間が〈クラン〉の介入なしにナドカを処刑することはもちろん、焚刑そのものも禁じられた。そのはずだった。

 今日という日にはいちが開かれている賑やかな広場で、見せしめの処刑が行われたのはつい昨日のこと。肩と肩が触れあうほど混雑しているのに、人々は円を描くように焼け焦げた石畳の周囲だけは避けて通った。まるで、呪われているとでも言うように。

「罪状は『反逆罪』だったそうだ。判事はレクサンダー・ヘイワージー」ヴェルギルが言った。いつの間にか、蝙蝠を人差し指からぶら下げていた。小さな生き物に耳を寄せて、彼は続けた。「処刑されたのはカヌス・ギリヴレイ。薬種やくしゅを営んでいた魔術師。〈学会サークル〉には属していないようだな。王への反乱をもくろんだ罪──なるほど。」

 ヴェルギルが蝙蝠を握りつぶすと、それは黒い霧となって彼の身体に吸い込まれた。

「おい、人の目があるところではよせ」

 だが、吸血鬼は無視した。「この街に店を構える薬種屋は二軒。一方の店主はナドカ。ではもう一方は──?」問いかけるように眉を上げる。

「人間か」

 そんなところだろう、とヴェルギルは言った。

「覇権争いに勝つのは、いつでも人間ウィアだ。なにせ数が多い」愉快そうに笑った。「〈クラン〉のご威光も、このあたりにまでは届かないようだな」

 反駁したかったが、どうやらそれが事実だった。エギルを失ってから──いや、もっと前から、〈クラン〉は弱体化していた。王都との関係が希薄になり始めたのは先々代の王の御代からだ。以来、〈クラン〉に認められる権限が徐々に奪われ、代わりに異端審問官たちに与えられるようになっていたのだ。だが、これほどまでに堂々と〈クラン〉を軽んじるような真似をされるのはもう少し先だと思っていた。

「この街では、人間とナドカの距離が近い。商売が盛んな街はみなそうだが」ヴェルギルが言った。

「だからといって、掟を無視していい理由にはならん」

「ああ、実にきな臭い街だな」言葉とは裏腹に、ヴェルギルは楽しくてしかたないといわんばかりの口調だった。「怪しいナドカが出没するのは、治療院だったか」

「ああ」

 ヴェルギルの言わんとしていることはわかった。

 治療院は、薬と関係が深い。

「念のために確認しておきたい。まだ、例の『怪しいナドカ』とやらがエダルトだと信じているわけではないだろうな?」

 軽率に結論を出したくはなかったが、クヴァルドは頷いた。「回りくどい言い方をする必要はない」

 ヴェルギルは満足げに微笑んだ。

「ならばけっこう! 虚しい噂を追うよりも楽しめそうだ」


 神々は多くの異名を持ち、受けたい恩恵によって、呼びかけるべき名も変わる。人間の主神である太陽神デイナは他に類を見ないほど沢山の異名を持つ。そのうちの一つが〈医術の神デイナ・ピアトロス〉だ。

 ピアトロス治療院は、広場の喧噪から少し離れた南岸地区にあった。街を横切って川が流れるマチェットフォードの南岸地区は富裕層のための街区だ。川沿いをゆくと、船大工の小屋や鍛冶屋の工房がひしめくかしましい職人街から、肩を寄せ合うように居並ぶ庶民の住まい、そして立派な門を備えた豪勢な邸宅へと町並みが移ろってゆくのがよくわかる。

 デイナに捧げられたその聖堂は、活気に満ちた街の賑わいとは一線を画した平穏の中にあった。向き合って建つ聖堂と治療院の間の中庭では、麻の装束を纏った僧たちが、蝶々が飛び交う薬草園で草の手入れをしていた。聖堂から漂ってくる香のかおりが、草の芳香と病んだ人間が放つ甘ったるいような匂いと混ざり合っている。

 血の匂いのするところへはいけないとヴェルギルが言うので、別行動をとることにした。この数ヶ月行動を共にしてみても、あの吸血鬼が〈クラン〉を裏切らないという確証を得られたことはない。だが奴が何をもくろんでいるにせよ、それを明るみに出すのはもう少し先だという妙な確信があった。だから、処刑が行われた広場を見て回りたいという奴の好きにさせた。

「先月の終わり頃からですから、もう十日以上になります」

 治療院の院長を務めるヘンリー・ラムゼイは、中庭を取り囲む薄暗い回廊を先導しながら、陽光の降り注ぐ薬草園を物憂げに眺めた。

「何者かが、窓の外から中を覗いていたと?」

「そうです。患者が宿泊するための部屋がありましてね。夜になるとその窓を、一つ一つ覗いていくのです。まるで物色するように、例の──奴が」

「ナドカの仕業だと確信した理由は」

 すると、ラムゼイは鋭くふり返り、クヴァルドを見た。恐怖の匂い。それから疑い。ナドカ同士かばい合おうとする素振りがあるかもしれないと考えているのだろう。

「いずれも、窓の外には足場のない二階の部屋です。ほら、あのあたり」

 院長が指さした方向を見る。確かに、目立った凹凸はない。だが、回廊の屋根を伝って飛び移れば、窓枠に足をかけることは出来そうだ。この段階では、ナドカの仕業と断定するのは尚早だ。

 院長は続けた。「それに、悲鳴を聞いて駆けつけた者が確かに見ました。奴は、あの高さをものともせず飛び降りて、闇の中へ走り去っていったのですよ」

 クヴァルドはふむ、と頷いた。

『飛び降りて』『走り去った』のなら、エダルトではない。ヴェルギルに当てこすりをされるまでもなく、治療院で獲物を物色する吸血鬼の存在は、砂漠で茸狩りをする人間と同じくらい奇異だ。奴との関与はあるまいと思っていたが、これで確信できた。

「執務室に忍び込んで、部屋を荒らしたとも仰っていましたね。いつのことでしたか?」

「二日前です」

「それを最後に、現れなくなった」

「ええ」

 とすれば、『奴』は執務室で何かを見つけたのだ。

 エダルトとは無関係の事件だ。出来るならば他の同僚クラナドに任せたいが、処刑された薬種屋との関係は、確かに気にかかる。クヴァルドはそっとため息をついた。

「では病室と、それから執務室に案内してください」


 この治療院にかかることができるほど裕福な者を言い表すのに、院長は『気の毒だが恵まれた方々』という言葉を使ったが、そのとおりだとクヴァルドは思った。患者が寝泊まりする部屋はこぢんまりとしてはいたものの、いずれも一人用で日当たりも風通しも良い。他の治療院で目にしたような、手の施しようがない患者のための藁敷きの寝床や、日光を遮断した薄暗い部屋は、ここには存在しないようだった。

「素晴らしい環境ですね」

「努力の賜です」と院長は言った。「魔法ヘクスの力を借りずに、これほどの環境を維持するのは非常に困難です。あの法律が公布されてからは、一層──」

「あの法律?」

「市壁の中で魔法を用いることを、王が禁じたでしょう」

「そうでした」正直に言えば、奔放なこの街で法についての話を耳にするとは思っていなかったので、多少驚いてもいた。とは言え、ここは聖堂つきの治療院だ。「この街で、法を遵守するのは難しかったのではないですか」

「それはもう。しかし、審問官たちが目を光らせていますからね」

 ハロルド王は即位以来多くの法律を打ち立ててきた。季節ごとの祭典での魔法を禁じるだとか、新しいナドカを生み出す場合には異端審問官による許可証が必要だとか、そういった類いのものだ。ヴェルギルは、ハロルド王はナドカなど眼中にないと言っていたが、実際は逆だというのがクヴァルドの意見だった。王はナドカに関心を持っている。我々との間に壁を築くという方法で、その意向をはっきりと見せているのだ。

「我が治療院では、快適さの多くを……例の力に頼っておりました。当院がここまで持ち直したのは奇跡と言うほかありません」

「なるほど」クヴァルドは唸った。「昨日処刑された──カヌス・ギリヴレイ──薬種屋を営んでいた魔術師とは、何か関係がありましたか?」

 院長の表情が曇った。

「ええ。彼と手を切らなくてはならなかったのは残念です。腕の良い薬種屋で、発明家でもあった。匂わない尿瓶や、中身が劣化しない薬瓶など、重宝するものばかり。ずいぶん助けられましたよ」

「今は、人間の薬種屋と取引を?」

 院長は頷いた。

「以前と同じというわけにはいきませんね。惜しいことです。魔術師は、他の人外よりは幾分まともだというのがわたしの持論でしたが」そして、彼は肩をすくめた。「それでも、ナドカはナドカです。彼の罪状を思えば、結局は法が正しかったということなのでしょう」

 次に案内された執務室は、治療院の院長の部屋というよりは貴族の邸宅の応接間と呼ぶべき部屋だった。卵をかたどった宝石や、カルタナから持ち帰られたという一角獣の角、北海に棲む海竜の鱗などが所狭しと飾られていた。院長は「患者からの感謝の印です。わたしの身には過ぎた品ばかりですが……せっかくの厚意を手放すわけにもいきませんので」と謙虚なそぶりを見せた。

「部屋から無くなったものは?」

「ありません」

 この部屋の中の、どれか一つでも売り払えば大金になる。それに手をつけなかったと言うことは、その賊の狙いが金ではなく、『何か』あるいは『誰か』だったということだ。

「実際に危害を加えられた者もいなかったのですね? つまり、暴行されたり、脅されたりといった事件はなかったと」

「ええ。ですがそれも時間の問題だったと思います」院長は言った。

「それは何故です」

「複数の患者が、そのナドカが四つの目で部屋の隅々まで見回してから、壁を這って移動したのを見ていました。あれは何かを……誰かを探していたのではないかと」

 四つの目という証言が興味深い。外見への変化が現れる吸血鬼も無くはないが、そうした徴候はデーモンによく見られるものだ。

「ナドカにつきまとわれるような患者に、お心当たりは?」

 すると、院長は弱々しく首を振った。「わたしにはわかりません。ナドカの考えることですよ」

 クヴァルドは曖昧に微笑んだ。

 人狼は、人の姿をしているときには人間と見分けがつかない。それでも〈クラン〉を名乗ったからには、目の前にいるのが人狼だと、彼も理解しているはずだ。

 人狼になって数十年経つが、未だに、人間とナドカの間にある断絶を飲み込むことが出来ない。

 だからといって、憤るほど世間知らずでもない。

「それでは……入院していた者の記録を見せていただきたい」


            †


 焚刑ほど見せしめに適した処刑はない。その者がどれだけ毅然とした態度で処刑に臨んでも、炎が膝まで届く頃には、叫び声を上げずにはいられない。皮膚が焼け落ち、剥き出しになった肉を炎が食む。足下から這い上がってくる灼熱の舌は、簡単には終わりを与えてはくれない。自らの身体が焼ける匂いと黒煙に息を奪わながら、気を失うか、絶命する時まで、声の限りに絶叫する──それが焚刑だ。炭と化した皮膚の割れ目から滴る血が焦げる匂いも、耳にこびりつく痛苦に満ちた叫喚も、焚刑台を撤去した後にまで石畳の上に残る焼け焦げた黒い円も、それを目撃したものの脳裏からは、そうやすやすと拭い去ることは出来ない。これまで、人の領域を脅かした罰として──あるいは、人間の権力を誇示したいと言うほかにさしたる理由もなく──数え切れないほどのナドカが焼かれた。

 なぜなら……そう。焚刑ほど見せしめに適した処刑はないからだ。

 処刑が行われたのは広間の中央だった。いちが賑わいの峠を越えた今でも、炭と脂の匂いが、まだあたりに漂っている。微かだが真新しい恐怖の臭気は、ここにいる群衆から発せられたものだろう。ヴェルギルは、人々が遠ざけて歩く黒い円の縁に立って、その場所を見つめた。

 最初の頃──今よりももっとナドカの数が少なかった時代、彼らは人間たちから隠れて暮らしていた。だが草の根で、少しずつ数を増やしていった。信仰という点では今よりもずっとおおらかな時代だったし、戦うため、生き抜くための力を欲する者が咎められることもなかった。人とナドカが交ざり合いながら、互いを受け入れていた時代もあったのだ。

 ナドカという存在が『人間』に敵するものとして考えられはじめたのはいつからだったか。この島を分け合っていたいくつかの国が、繰り返される戦によって一つ、またひとつと滅ぼされ、ダイラという国が総べるようになったのはほんの二百年ほど前のことだ。王朝とは得てして、民が憎める共通の敵を作ることで立場を盤石にしようとする。ナドカに対する最初の焚刑は、そのころに行われたように記憶していた。

 記憶。旧い記憶をよみがえらせるほどに、古びた己自身を思って気が塞ぐ。これほどの長きにわたって存在し続けるには、あまりにも多くの記憶を抱えてしまった。それを捨てることで正気を保ってきたはずなのに、彼といると昔をふり返らずにはいられない。

 なぜ、さっさと終わりにしてしまわない?

 エダルトの死は阻止しなくてはならない。実に簡単だ。あの仔犬の寝首を掻いて打ち棄ててしまえばけりがつく。今までにもそうやって、〈災禍〉を滅ぼすための試みを挫いてきたではないか。幾度も、幾度も。

『今まで』のことを思い出して、また、肉体が重みを増す。ここのところ考え事が多すぎるせいで、必要とする血の量も増えている。もっとも、血を吸う行為そのものを避けたいと思うわけではないけれど。

 つまり、そういうことなのだ。

 吸血鬼の心臓を動かすなどという事象に出くわした経験は今までに無かった。だが、それが何を意味しているのかわからない振りが出来るほど、無知でもない。いままでは、あまりにも奇異荒唐で信じるようともしなかった、吸血鬼にまつわるある伝承が真実だと認める他ないということだ。

 およそ全ての吸血鬼には、ただひとつの血が存在する。祝福か、あるいは呪いか──それは、時のくびきを逃れた〈月の體〉を温める『運命の血』だ。

 なんということか。最古の吸血鬼と同じくらい古びたこのわたしが一笑に付した流言を、今になって確信するとは。

 クヴァルド──フィランの血こそ、わたしにとって唯一無二の血なのだ。

 その彼を、裏切らねばならない。

「出来ないわ。彼を裏切るなんて」

 不意に聞こえた声に、ヴェルギルは顔を上げた。物思いに沈みすぎて、そこに自分以外の誰かがいることにさえ気づかなかった。

 丸い焚刑の焦げ跡のちょうど反対側に、若い人間の女性が立っていた。服装は質素だが、仕立ては良い。付きの者を二人侍らせているところを見るに、地位のある家柄の娘だろう。こうした立場の人間は、公的な場所では家紋などを身につけるものだが、見当たらない。意識して隠しているのだとヴェルギルは思った。おそらく、忍んでこの場所にやってくるためだ。

「お父上のご尽力を無になさるおつもりですか?」

 付きの者は彼女をここから遠ざけようとしているようだが、娘の意志は硬そうだ。忠告した召使いの顔を睨みつけた。

「尽力? 巻き込まれただけのひとを処刑することが?」娘は声を落としていたけれど、吸血鬼の耳にははっきりと聞こえた。彼女はうつむき、ドレスの下の平らな腹をみつめて、そっと囁いた。「罪のない赤ちゃんを殺すことが?」

「お嬢様──これ以上はお身体に障ります」もう一人の召使いが言った。

「おやおや」ヴェルギルは呟いた。

 これは、大当たりだ。

 病院で無駄骨を折っているのであろうクヴァルドを思い、心中で意地の悪い笑みを浮かべてから、ヴェルギルは少女に近づいた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る