第6話

「あの坊主は、目の前でエギルを喪ったのだ」ナグリという人狼が言った。

 ヴェルギルの拘束を解き、客人──あるいは、限りなく捕虜に近い客人──のための部屋に案内する途中のことだ。

人狼ウルフハマになって、まだ五十年も生きていない。それなのに、あまりに多くのものを背負いすぎている」

 それはどちらかと言えば、老人の独白に過ぎなかったのだろう。ヴェルギルが耳を傾けていることに気づくと、気分を害したように表情を強ばらせ、それからは黙々と案内を続けた。

「ここが貴様の部屋だ」

 開け放たれた戸から、冷涼な空気が吹いてきた。部屋の中に進むと、その理由がわかった。山の内部を下へと穿ってゆく構造の砦の中では、窓というものは珍しいはずだが、ヴェルギルが案内された部屋には、雪の山脈を見渡せる広縁バルコニーがあったのだ。これは、ヒルダ・フィンガルからの信頼の証ととっても差し支えないだろう。

「隣はフィランの部屋だ。妙な真似は出来ないと思え」

 なるほど。お目付役はついているというわけだ。

 それにしても、あの夜、ヘカの祭壇の傍でやってのけたこと以上に『妙な真似』があるものだろうか。

「ご忠告に感謝する」

 慇懃に礼を言うと、人狼は警告を込めて唸った。

「我々は、この世に生をうけてよりずっと、貴様ら吸血鬼を狩ってきたのだ」ナグリは牙を剥いた。「もしも裏切ったら──」

 ヴェルギルはぐるりと目を回した。まったく、人狼は脅し文句の手引書を回し読みしているとでもいうのか?

「ああ、もう百遍も聞いた。八つ裂きにされるつもりはないから安心したまえ、

 人狼も長寿の種族だが、長く生きても四百年ほどだ。ヴェルギルは、年経た人狼の顔が怒りに歪むのを楽しんでから、戸を閉めた。

 こぢんまりとした石造りの部屋には、装飾のない木の寝台と小さな書き物机、そして衣装棚があった。この小部屋の中で飾り気のあるものと言えば、赤々と燃える暖炉を抱くように彫刻された竜だけだ。かつてここに住んでいたドワーフの手による意匠だろう。神々が生み出す現世への〈呪い〉──最も強大にして邪悪なる獣の最後の一頭が滅んでから、もう千年以上にもなる。かつて地上を恐怖に陥れた竜も、今は歌や伝説に名を残すのみだ。

 ヴェルギルは暖炉を横切り、広縁へでた。石の床に刻まれていた寒さ避けの呪文を踏み越えると、たちまち、冷たい空気に包まれた。

 目の前には、蒼い夜のとばりに浮かび上がる雪の山脈と天蓋に輝く星々が広がっていた。月明かりを浴びて横たわる山々は、揺るがぬ力強さでもって、見るものに畏怖を抱かせる。雲もない夜空に浮かぶ星座は冴え、月の明るさにひるむこともない。ヨトゥンヘルムからの眺めは、人狼の美意識そのものだという気がした。

 ふと、隣の部屋の広縁を見る。灯りが漏れているばかりで姿は見えないが、あの部屋の中に、クヴァルドがいるのだろう。

 話をするだけならば、『妙な真似』とは言わないはずだ。

 ヴェルギルは音もなく、石の手すりを飛び越えた。


 部屋の中に足を踏み入れた途端、くうを割く音が飛んできたので、身をかわす。クヴァルドが投げたナイフは、顔のすぐ横の石壁に当たると、澄んだ音を響かせて落ちた。

「温かい歓迎、痛み入る」

 ヴェルギルはナイフを拾い上げた。刀身には銀の象嵌──加減をしらない男だ。

 クヴァルドは、机の上に拡げた荷物を旅行用の鞍袋にしまっている最中だった。薬瓶や砥石、携帯用の筆記具。旅支度は自分で行う主義なのだろう。ヴェルギルはナイフを軽く放って、机の隅に刺さるようにした。

「何をしに来た?」

「つれないことを言うな。あんなことまで──」クヴァルドがナイフを握る。「したあとで」

 彼はヴェルギルの方を見ようとしないまま、怒りを抑え込もうとするように、大きなため息をついた。そして、もう一度言った。

「何をしに来た?」

「後で『裏切られた』と言われないために、あらかじめ伝えておくことがある」

 そう言うと、クヴァルドはようやくヴェルギルの方を向いた。穏やかな暖炉の火灯りに照らされて、険しい面立ちはほんの少し和らいでいる。それでも、眉間に深く刻まれた皺や、強ばった顎が緩むことはなかった。ナグリの話を聞くまで、この人狼が百年も生きていないとは思わなかった。

 百歳に満たないナドカなど、〈月の體コルプ・ギャラハ〉の尺度では、ほんの子供のようなものだ。

「君に力を貸す。だが、わたしは手を下すことはしない。エダルトは、あれでもエイルの継承者だ。他のナドカどもの恨みを買うのは御免だからな」

 クヴァルドは頷いた。「手を下せと頼むつもりなど、はなからない」

「結構。もう一つは、我々の──協力体制についてだ」

 含みを持たせた言葉を使っても、彼にはそれが何のことだか即座に理解できたようだった。鼓動一つをきっかけに体温が上昇し、焦りと……それから興奮の汗の匂いが漂ってくる。

「そんな話は──」

「必要だ。まさか、次の満月までに片をつけられるなどという甘い考えでいるわけではないだろうな?」

 ヴェルギルが言うと、クヴァルドは目を閉じて、自分をしずめた。「わかった。それが何だ?」

「満月の夜の取引は、今後も続行したい」ヴェルギルは言った。「そうすれば、わたしは食事の手間が省けるし、君は長引かせずにすむ。例の……苦痛を」

 わざと、『苦痛』に言外の意味を込める。賢い人狼はそれを正しく読み取って、フン! と鼻を鳴らした。

「では、人間の血を飲むのはやめるんだな?」

「君が望むなら。ただし、代わりに君の血を頂く──わたしが必要としたときに」

 クヴァルドは、この申し出をしばらく頭の中で吟味してから、頷いた。「いいだろう」

 人狼の、こういう合理的な部分は嫌いではない。

 クヴァルドは、荷物を鞍袋の中にしまう作業を再開した。「他にも何かあるのか?」

「いいや──いや、そうだな。一つ聞きたい」ヴェルギルはクヴァルドの傍により、鞍袋の中をちらりとのぞき見た。「あの張り型は、どうやって手に入れたものだ?」

 すぐ傍の身体が、かっと熱を帯びる。いま、彼の血管を流れる血は羞恥に染まり、舌を痺れさせるような辛みを帯びているのだろう。今すぐに味わってみたいが、まあ、この先いくらでも好機は訪れる。

「あれは……」

 答えは明かさないだろうと思っていた。だが意外にも、彼は正直に答えた。

「昔、別の商隊キャラバンの知り合いから買った。人狼になる前だ」

 人狼になる前、彼は正真正銘の子供だったはずだ。

 ヴェルギルの心中を読んだのかも知れない。クヴァルドは、すこし皮肉めいた笑みを浮かべた。

「俺は放浪民エルカンだぞ。商売に必要だったというだけだ」

 動揺させようとしているのはこちら側だったはずなのに、いつのまにか面食らってしまっていた。

「身をひさいでいたということか?」

 クヴァルドは肩をすくめた。「売れるものは何だって売る。身体はいい商売道具だ。減ることもない」

 そして、彼は牙を見せて笑って見せた。「ご貴族様には想像もつかん話だったか?」

「いいや」ヴェルギルは言った。「君がそういうことをしていたと考えるのが、少しばかり難しかっただけだ」

「その言葉は、ありがたく受け取っておく。ここでは、過去は歓迎されない」クヴァルドはこともなげに言った。「お前の申し出にも異論はない。エダルトを殺すために必要なら、どんなことでもする」

 クヴァルドの瞳の中で、黄金のかけらが踊った。

 ヴェルギルが肘掛け椅子に腰を下ろすと、クヴァルドはそれをしげしげと見つめた。居座るつもりかと考えていることは口に出さなくてもわかったが、わざわざ酌んでやるつもりもなかった。

「エギル・トールグソンのことだが……いつからあの状態なのだ?」

「二年前の春、はしばみの月のころ」クヴァルドの表情が、ふっと曇る。「エギルと俺と、それから仲間二人とで、キルフォード港の宿屋に現れる、加減を知らない夢魔を追っていた。そこに〈災禍〉がやってきた。人狼も人間も、全員が殺され──俺だけが生き残った。これは、さっきあの場にいた人狼しか知らぬことだ」

 彼の口調は淡々として、いかなる痛みも伺わせなかった。だが、そうすることでより一層、彼の傷の深さが明らかになっていた。

「俺がエギルの首級を持ち帰ると……ヒルダは錯乱してしまった。彼のことを、深く愛していたから」クヴァルドの手が止まる。「それで、あの魔道具を使ったのだ」

「アシュモールの魔女は、死霊術に長けている」ヴェルギルは言った。「わたしが言えた義理ではないと言うだろうが、あれは忌むべき魔術だ。おいそれと手を出すべきではない。魔力が腐敗すれば、〈呪い〉を生みかねないのだぞ」

 クヴァルドはヴェルギルを睨んだ。「言っただろう。錯乱していたんだ」そして、ふと視線を落とした。「いまは……悔いている。我々、全員が」

「あれは契約の成就と引き換えにしか、術を解くことが出来ない」ヴェルギルが言った。「彼女は、エダルトの死を誓ったのだな」

 クヴァルドは頷いた。「そうだ」

 なるほど。これで、なぜ今になって、こんなにも必死でエダルトを討とうとするのか──その理由がわかった。

「ハルヴァルズは王族との縁がある。彼が王に請願し、玉璽を賜ったのだ」クヴァルドは言った。「だからこの話には、お前が思うような陰謀などない。失望したか?」

 ヴェルギルはそっと微笑んだ。「いいや。まあ、拍子抜けではあるがね」

 人狼はフンと鼻を鳴らし、思い出したように自分の手を見つめた。

「はやく、彼を解放してやりたい」ぽつりと呟く。「エギルは俺の命の恩人で、俺の師だ」

 そして、想い人でもある。ヴェルギルは言葉にせずに付け足した。

「彼は最後まで、俺を逃がそうとした」クヴァルドは、笑いのようなものをぽつりと溢した。「彼でなはく、俺が死ぬべきだった」

「自己憐憫もいいが、ほどほどにしておくがいい、友よ」

 ヴェルギルが言うと、クヴァルドは目に怒りを閃かせた。「何だと?」

「それが奴のやり方だからだ。大勢殺して、気骨のありそうな者を一人だけ生かす。その者が憎しみを募らせ、血の滲むような思いをして自分を追うように仕向ける。そして、敵わないことを思い知らせる」

 クヴァルドは苦々しげに笑った。「さすがに、詳しいな」

 そう。彼のやり方は知っている。かつては、それを隣で見ていたのだから。

「エダルトは、絶望の味が好きなのだ」

 クヴァルドは、目を見開いたまま鼻に皺を寄せた。「感情で、血の味が変わると言いたいのか?」

「ああ、変わるとも。知らなかったか?」

 ヴェルギルが言うと、人狼は不快感を振り払うように身を震わせた。「蛭めスームレ。どいつもこいつも、反吐が出る」

「わたしは快感の味が好きでね。だから彼とは相容れないのだ」そして、人狼を見た。「君の味は格別だ。彼には一滴もくれてやりたくない」

 クヴァルドは、ほんの一瞬、あっけにとられたようにヴェルギルの顔を眺めた。それから、赤い髪の毛をぶわ、と膨らませて牙を剥き、人差し指を脅すように突きつけた。

「俺の血の味の話を、二度と……するな」

 ヴェルギルは降参するように手をあげた。

「悪かった。世の奥方は、こういうと喜ぶものでね」

「黙れ、啜り屋」クヴァルドは唸った。「気色が悪い。飲ませてやるからと言って、俺が喜んでそうしているとは思うなよ」

 ヴェルギルは、わざと牙を見せて笑った。

「肝に銘じよう。君の血を味わっていると、忘れそうになるかもしれないが」

 立ち上がり、そっと身を寄せてクヴァルドの首筋にキスをする。ゾクリと震えた薄い皮膚の下、その熱い流れを唇で感じるだけで恍惚としそうになる。

「次の食事が待ち遠しいよ、仔犬クロン

 出て行けと怒鳴られる前に、ヴェルギルは広縁の向こう側に身を躍らせた。

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