第13話

 隠し部屋を出て、霧に沈んだ森を歩く。見上げると、雲間に煌々と輝く満月があった。薄いちぎれ雲を纏い、また脱ぎ捨てては、夜にしか描くことの出来ない妖しい色合いで空を彩っている。

 足下を流れる霧の源泉を目指してゆくと、少し開けた森の広間に出た。そこでは白い霧がとぐろを巻いていた。芽吹いたばかりの草花は生気を失い、がっくりとうなだれている。広間の中程まで進み出ると、足下の霧がうねり、中から一匹の蝙蝠が現れた。

 純白の蝙蝠。

 ヴェルギルが右手を差し出すと、蝙蝠はしばらくあたりを飛び回ってから、その手の上にとまった。

「いつまで待たせるつもりかと思っていた」

 ヴェルギルの言葉に、蝙蝠は少しばかり首を傾げて耳を動かした。そして、口を開いた。

「探すのに手間取りました。貴方の気配が感じられなかった」蝙蝠は探るように目を眇めた。「僕を呼んだのは貴方なのに、近づいたかと思うと消えて、また遠ざかる。今度はどんな魔術に手を出したのです」

 ヴェルギルが答えずにいると、蝙蝠は言った。「ご用があるなら、貴方がこちらへ来ればよかったのに」

 緩やかに、そしてきっぱりと首を横に振る。「あの場所には近づかない。それに今のわたしは〈クラン〉と行動を共にしている」

「ああ」蝙蝠は呟いた。「どおりで狼臭いと思いました。今だって、本当に貴方かと疑ったほどです」

 ヴェルギルが蝙蝠を見つめると、恥じ入るようなそぶりを見せて縮こまった。

「それを伝えようとしていたのだ。狼たちはお前を滅ぼすつもりだ。今度こそ」

 蝙蝠は愉快そうに笑った。

「やらせておけばいい。僕がそう仕向けたんですから」蝙蝠は掌の上で、すらりと身を伸ばした。「せっかくの追いかけっこだ。手出しは無用ですよ」

 蝙蝠は目を細めて微笑むと、ヴェルギルの手から飛び立った。

「何を考えていた? 〈クラン〉の首領に手を出すとは」

「その甲斐はあったでしょう。あのイムラヴ人イムラヴァの人狼を見逃してやったときに、骨がありそうな奴だと思ったのです。まさか貴方を捕らえて、利用するとはね! こういう手合いは初めてだ」

 彼の、これほどまでに楽しげな声を聞いたのは何百年ぶりだったか。幼い頃でさえ、こんな風にはしゃいだことはなかったかも知れない。

「エダルト」ヴェルギルは言った。「〈協定ノード〉を犯すのは、これで最後にしろ」

 白い蝙蝠は、憤慨したように羽ばたきながら周囲を一周すると、ヴェルギルの肩にとまった。「無理ですよ。僕には。わかっているくせに」

「出来るはずだ。我々が作った掟なのだから」そして、小さく付け加えた。「覚えているかは知らないが」

「覚えていますよ。しかし、気が遠くなるほど大昔の話だ。まだナドカというものが、僕たちふたりと、ひと家族の人狼と、一握りの妖精しかいなかった時代のね」エダルトは囁いた。「今の僕は、あの頃とは違う」

 ヴェルギルは、森を包み込む闇をただ見つめていた。息子を〈災禍〉に変えた責任は、時間だけが負うものではないのだと考えながら。

 全てを忘れてしまいたいと望む度に、そんなことは赦されないと思い知らされる。

 蝙蝠は腕を伝い降り、再び掌の上に戻った。そこからまじまじと、ヴェルギルの顔を見上げる。案ずるように。

「どうしたんです? なんだか、いつものあなたらしくない」

 その見方は正しかった。いつもの自分らしくない。だが、そもそもわたしは、自分というものを何処に隠し置いていたのだったか。

「お前の身を案じているだけだ」

「そして、ご自分の身を、ですか?」

 蝙蝠は牙を見せて笑った。

「ご安心を」エダルトは言った。「僕は勝ちますよ。これまで通り」

 蝙蝠はそう言うと、翼で霧を捲きながら飛びたった。

「お達者で、父上」

 白霧はくむを具して、〈災禍〉は闇の中へと溶けていった。夜の森にヴェルギルと、ようやく訪れたばかりの春を奪われた花々を残して。


 木々から滴る夜露で、エダルトの匂いを消した。隠し部屋に戻ると微かなうめき声が聞こえたので、ヴェルギルは慌てて寝台に駆け寄った。クヴァルドは寝台の上で身をよじりながらうなされていた。

 わたしのせいだ。

「クロン」

 そっと名を呼び、肩を揺さぶる。肌はひどく冷たいのに、じっとりと汗を掻いていた。夢の中で、彼は何かに抗っていた。唸り、小さく吠えるような音を立てている。

「クロン!」

 クヴァルドははっと目を開けたかと思うと、素早く身を起こし、ヴェルギルの首を掴んだ。床に押し倒し、馬乗りになってようやく、夢の残滓を振り切ったらしい。彼は一、二度瞬きをして、愕然とした表情を浮かべた。

「ヴェルギル!」慌てて手を放し、身体を退いた。「すまない──お前だとは……その、夢を見ていて──」

「わかっている」ヴェルギルは言い、立ち上がってクヴァルドに手を貸した。「気にするな。さあ」

 クヴァルドは素直にその手を取ると、再び寝台の上に戻った。

「夢を見ていた。あの日の」彼は消耗した、小さな声で言った。「白い霧が……皆を飲み込んで……エギルの声だけが聞こえていた。俺はただ逃げて──」

 ため息をついて、両手に顔を埋める。ヴェルギルはその背中を、なだめるように撫でた。お前にそんなことをする資格はないと、心が叫ぶのを無視しながら。

「ただの夢だ。フィーラン」

 だが、辛いことに変わりは無い。自分が夢を見る身体なら、とっくに正気を失っていただろう。

 そうして、しばらくそのまま寄り添い、温度の違う体温を互いに味わっていた。

 ややあって、クヴァルドが言った。

「フィーラン?」そっと顔を上げ、乱れた髪をくしけずる。「変わった発音だ」

 ヴェルギルは小さく笑い、解れた髪を束ねるのに手を貸した。

「昔は、こういう音だった。『小さな狼』という意味の名だ」

「エルカンの中ではありふれた名前だと思っていたが、そう言われると皮肉だな」クヴァルドは言った。「他にも、フィーランという男を知っていたか?」

 緩んだ革紐をほどき、汗に少し濡れた髪をまとめて、また結び直す。指はまだ索具さくぐの結い方を覚えていた。簡単に解けぬよう、もやい結びにしてから、肩を叩いて解放してやる。

「何人かは」ヴェルギルは頷いた。「長く生きていれば、それなりに」

「長く生きていれば、か」クヴァルドはため息をついて、寝台に寝そべった。「ダイラの外に出たことは? アシュモールには行ったのか? フェリジアやヴァスタリアは?」

「行ったとも。最後にこの島を出たのは二百五十年ほど前だっただろうか。フェリジアは今も昔も相変わらずだが、ヴァスタリアは、当時はまだ山あいの寒村に過ぎなかった」

 クヴァルドは感心したように鼻をならした。「東洋にも?」

「ブーティアまでは。そこから東へ行こうとしたら、捕らえられて皇帝への貢ぎ物にされそうになった」

 クヴァルドは声を上げて笑った。「それは、見物だっただろうな」

 そうして笑うと、クヴァルドはとても幼く見える。まるで本物の仔犬のように。あどけなく、無垢で、護るべき存在に思える。傍にいて抱きしめ、悪夢を追い払う──そんな風に生きていきたいと思わせるような。

 駄目だ。わたしには赦されない。

「ああ」ヴェルギルは言った。「わたしもはじめは愉快だと思ったのだ。だが、紅を塗られて、豪勢な髪飾りをつけられた時点で、どういう類いの貢ぎ物かわかってしまったから、逃げてきた。どのみち、あのあたりの人間の血は好みに合わなかったし」

 クヴァルドは、笑いすぎて目に涙を浮かべていた。彼はそれを拭って、満足げなため息をついた。「お前がうらやましい」

 ヴェルギルは眉を上げてみせた。「皇帝のお眼鏡にかなうには、君は少々……」

 言外の意を込めて、彼の筋骨隆々たる身体に視線を向ける。

「そうじゃない」彼はいい、肩でヴェルギルを小突いた。「おれは……この国の外に出たことがないから」

「君が海を渡れば、道ばたの花すべての匂いを嗅いで回るのだろうな。なにしろ好奇心が旺盛だ」

「そうかもな」クヴァルドは素直に認めた。「学びたいことは沢山ある。おれはまだ若くて未熟だし、何も知らない」

「これから、嫌というほど学ぶことになるとも」ヴェルギルは請け合った。

 クヴァルドはしばらくヴェルギルを見つめてから、おもむろに尋ねた。

「吸血鬼のことさえ、おれはろくに知らない」静かな声の裏側に『あれだけ狩っても』という言葉があるのは明らかだった。「吸血鬼は、血によって増える。の血を飲ませて、上手くいけば変異が完了する──人狼と同じだ」

「ああ、そうだ」

「ならこれも本当か? 主が死ねば、その主の血によって生まれた吸血鬼も死ぬというのは。いままで、そんな現象には出くわしたことがない」

 ヴェルギルはふむ、と呟いた。

「原初の人外ナドカはそうだった。人狼に吸血鬼──血で増える者たちはみなそうだ。だが世代を経て、そうした性質は失われたようだ」

「なるほど」クヴァルドは仰向けに寝返りを打った。

「なぜ、こんなことが気になるのだ?」

「お前を吸血鬼に変えたのは誰なのかと考えていた」

 わたしの『主』を殺してしまわないように? そう思うのは自惚れだろうか。

 ヴェルギルはそっと首を振った。

「忘れてしまった。誰であれ、とんでもない愚か者だ」

 クヴァルドも、くっくと笑った。「そうだな」

 ああ、そうだとも。救いようがないほどの愚か者だ。

「もうひとつ」クヴァルドがいった。「〈トレモロの祭司の書〉に書いてあった。お前が蛇と交わって竜を生ませたという話は、本当か?」

 ヴェルギルは信じられないという顔でクヴァルドを見た。だが、敢えて尋ねた。「本気で疑っているわけではないだろうな?」

「さあ」クヴァルドはニヤリと笑った。「可能性はある」

「ああ、クロン」ヴェルギルは声を上げて笑い、クヴァルドの隣に寝そべった。「そんな本は焼いてしまうべきだ。仔犬の教育によくない」

「蛇を満足させられたのかが気がかりだった。なにしろ、蛇には男根が二つ──」クヴァルドは、可笑しくて仕方なさそうだった。「痛てっ!」

 肩につけた小さな噛み傷をなめてから、ヴェルギルは言った。「蛇のことなど気にするな。を満足させることが出来たなら、それでいい」

 薄闇の中で、視線が絡み合う。

 彼はしずかに言った。「どうやら、満足したようだ」

「そうか」ヴェルギルは言った。「それなら、上出来だろう」

 どちらともなく引き寄せあい、口づけをする。軽いキスのつもりで重ねた唇を、クヴァルドが温かい舌でなぞった。問いかけるように。

「満足したのではなかったか?」

「だからだ」そう囁く彼の目に、金の輝きがじわりと滲んだ。「だから……もっと欲しい」

 いけない。これ以上は。

 叫ぶ心の裏側で、とっくに朽ち去ったとおもっていた魂が声を上げる。

 彼を、彼こそを求めよと。

 二つの金切り声に身のうちを引き裂かれながら、ヴェルギルは目を閉じた。そして、彼が望むものを差し出し、彼が差し出すものを受け入れるために、唇を重ねた。

 救いようがない。

 救いようがない。ほんとうに、その通りだ。

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