第2話

 湿った土と腐りかけた倒木の匂いに包まれ、絶え間なく降り続く粉糠雨こぬかあめに骨の髄まで濡れてしまったような気がする。最後に体が乾いていたのが何日前のことだったのか、もはや思い出すこともできない。

 ダイラ中を網羅する街道を外れたのは、この苦痛の道行きが始まってすぐのことで、それ以降は人目に付くことを恐れているかのように、粗末な天幕と小さな焚火を拠り所に露をしのぐ夜が続いた。おとなしくしているから宿屋に泊まらせてくれと、何度懇願しても無駄だった。

 野宿に二日も耐えたのは我ながらあっぱれだと思ったのが三日前のことだ。機を見て逃げ出す事など造作もないと思っていた。あるいは、この頑なな人狼が〈温血の者〉らしい情けを見せてくれるかと期待していた。あの時の自分の認識の甘さたるや。

「この鎖を外せ」

 焚火をつついて火を大きくしようとしていたクヴァルドは、百回目の命令を最初の一回と同じように一蹴した。

「駄目だ」

「頼む」ヴェルギルはあっけなく両手を合わせて懇願した。「凍え死にそうだ。か弱い人間ウィアの体では生き永らえられない」

 クヴァルドはフンと鼻を鳴らした。それは彼なりの否定の意思表示なのだが、腹が立つことこの上ない。

「文句を言うのをやめて協力的になれば、苦痛を長引かせずにすむと思わないか?」

 彼はうんざりとした口調で言うと、馬の鞍袋からごわごわした毛織物のブランケットを引っ張り出し、放って寄越よこした。

「吸血鬼の体では、一刻ももたずに冬眠していたはずだ。血が温かい者にも強みはある」

「我々は冬眠などしない」

 ヴェルギルはすかさず、その毛布を体に巻き付けた。礼など言うものか。

「だが、動きは鈍くなる」

「認識を改めろ」ピシャリと言う。「過去にどんな吸血鬼を相手にしたのか知らないが、その者がとんでもない未熟者だったと言うだけだ」

「百歳は超えていたぞ」

「認識を、改めろ」ヴェルギルはもう一度言った。「百歳を超えたくらいでは、ほんのひよっこだ」

 クヴァルドは鼻を鳴らして、会話を打ち切った。

「何故わざわざヨトゥンヘルムまで行かねばならない?」

 この質問をするのも何度目になるかわからない。今回も無視されると思っていたから、半ば独り言のつもりだった。

「お前がエダルトであるか、そうでないかを決めるのは俺ではないからだ」

「わたし自身ですらない、と言うわけだ」ヴェルギルは皮肉を込めて笑った。「人狼が頑迷なのは知っていたが、君は群を抜いているな。それとも、頭領の言いつけを守る頭しかないのか」

 人狼が顔をあげ、ヴェルギルを見た。

 狼の血が目覚めたときには金色に輝く瞳も、今は本来の色に戻っている。

 まるで、夏の緑海の色──かつてはそんなふうに呼ばれていた。小さな島々から成る島嶼国イムラヴが緑海で栄えていた頃は。ある大事変でかの国が滅んでから、そこへ漕ぎ出すものはいなくなり、やがてこの言い回しも廃れてしまった。

「その見た目では、〈クラン〉の中で浮いてしかたがないだろう」

 クヴァルドは大げさなため息をついた。「余計なお世話だ、といえば、黙ってくれるか?」

「イムラヴの血を引いているな。親はエルカンか?」

 彼は唸り声と「さあな」の中間のような声で答えた。

 この国に数多あまた存在する人狼の群れの中で、フィンガルの子孫が率いる〈クラン〉は、かつて北海の支配者であったダエニ族の伝統と血筋を厳格に固持しながら繁栄してきた。部族そのものは三百年以上前に滅んだものの、輝く金髪、流氷を思わせる碧眼に壮健な身体を持つ戦士の面影は人狼たちの中に息づいている。ナドカでなくとも、彼らの威容を見れば居住まいを正さずにはいられない。

 一方、赤毛に緑目というクヴァルドの外見は彼らとは似ても似つかなかった。それどころか、悪名高き流浪の民の特徴そのものだ。彼らは商売道具を満載した馬車で商隊キャラバンを組み、定住せずに村々をめぐっては、売買や鋳掛けや占いをしたり、農場で短期労働をしたりして生計を立てている。人は彼らのことを、軽蔑や敵意を込めて放浪民エルカンと呼ぶ。大昔に滅びたイムラヴの生き残りである彼らが馴染みのない言語で囁きかわすのを耳にすれば、不安になるのも無理のないことだと思う。それに確かに、エルカンの中には詐欺や盗みに対する罪悪感が著しく欠けた輩も多い。クヴァルドのような外見のものが市場を歩けば、商人は高価な商品を引っ込めたり、金庫をガウンの裾の中に隠すものだ。

 壮健な体、という点では、クヴァルドがほかの人狼に見劣りすることはないだろう、だが、厳格で排他的な〈クラン〉が、よりによってエルカンの彼を受け入れたのが意外だった。

「今の頭領は、スキョルだったか」

「スキョルは死んだ。今は息子のエギルが頭領だ」

 そうだ。思い出した。

「聡明な頭領だと聞いている。君を引き入れた慧眼の持ち主なら、当然か」

 クヴァルドは用心深い視線を投げてきた。「おだてても首輪は外さないぞ」

「おっと。心の声が漏れていたかな」小さく笑う。「せめて宿屋に泊まれたら……血が温かかろうとそうでなかろうと、この寒さは本当に体に堪える」

 クヴァルドはフンと鼻を鳴らして、また焚火をつつく作業に戻った。

 パチパチと音を立てて、炎が薪を食む。時折、星を目指す蛍のように火の粉が舞い上がり、夜の闇に溶けて消えた。こんな風に素朴な夜を過ごしたのは何百年ぶりだろうか。重く分厚いブランケットは、妙な匂いがするものの、確かに暖かい。何かを有り難いと思うのも、じつに久しぶりのことだ。

 そこまで考えて、ヴェルギルは密かにこうべを振った。

 ばかばかしい。忌々しい鎖のせいで人間に戻されて、気が弱くなっただけだ。

 その時、小さな声がした。

「ああ……エギルは、いい頭領だ」

 そう呟く人狼の表情は、悲しみと思慕がありありと浮かんでいた。

 そのことが、なぜ気にかかるのだろう。群れのものが頭領を慕うのは当然ではないか?

「明日は宿屋に泊まる」クヴァルドがぼそっと言った。

 やっと籠絡できた、という気持ちが顔に出てしまったのだろう。ヴェルギルの顔を見た人狼はむっとして付け加えた。

「勘違いするな。はじめからそこで仲間と落ち合う手はずだ」

 ヴェルギルは両手のひらを掲げてみせた。「わたしは何も言っていない」

 この調子なら、首輪を外して逃げおおせる勝算もある。人嫌いの人狼と違って、吸血鬼の本分は人をたらしこむことだ。ヴェルギルは密かにほくそ笑んだ。

 やっと好機が巡ってきたのではないか?

「早く寝ろ。明日も歩くぞ」

「仰せのままに」

 この忌々しい心臓のせいで妙な夢を見ないようにと祈りながら、ヴェルギルは目を閉じた。

 ひと月前までならば、こうして目を閉じれば、周囲にいるものの血の気配を感じ、鼓動を聞き取ることができた。今ならばきっと、二頭の馬と人狼の心臓の規則正しく重い鼓動が聞こえていたはずだ。けれど今、ヴェルギルの耳に入るのは眠りについた森のささやきと、風が渡る音だけ。そのかわりに、自分の中にあるもののことを意識せずにはいられなかった。

 こんなに煩く鳴るものを胸の中にしまっておきながら、吸血鬼以外の者たちはどうやってまともに生活しているのだろう。

 ああ、早くこの貧弱な心臓を止めて、もう一度〈月の體〉に戻りたい。あまりにも長い退屈に慣れた身には、鼓動によって引き起こされる感情の目まぐるしさは苦痛以外の何物でもなかった。

 だが、あの緑の瞳に様々な表情が浮かぶのを見るのは、少しだけ楽しい。ヴェルギルはこっそりと認めて、悪路の旅にも似た眠りに落ちた。


            †


 ダイラの背骨と呼ばれるウムラヒ山脈の陰を這うようにして何日も歩いた。日の当たらぬじめじめした森をゆく行程を選んだのは、人目を避けるためだ。

 人外ナドカの秩序を司る〈クラン〉がエダルトを追っていることを、いたずらに広めるわけにはいかない。それが、人違いで行き会ってしまったこの吸血鬼を放免できない理由の一つでもあった。口の軽さでは魔女に敵う者はいないが、軽佻浮薄な啜り屋どもも同じくらい信用ならない。

 クヴァルドにとってヴェルギルとの道程は、まさしく『苦痛』の一言に尽きた。

 この男の持って回った言い回しも、芝居がかった身振りも、繰り返される無駄な交渉も、全てがケバケバしくて、馬鹿馬鹿しい。絶え間ないおしゃべりに付き合わされている間に、言わなくてもいいことを口走ってしまったような気がする。それなのに、ヴェルギルについて新しく得た情報はと言えば、どの領地の奥方の血が美味かとか、二代前の王の便秘解消のためにヒマシ油を呑ませたことがあるだとか、ごみに等しいものばかりだった。

 今となっては、最初にこの匂いを見つけたときに、エダルトそのひとのものに違いないと確信していた自分が信じられない。たしかに似てはいるが、こちらの方がもっと……浮ついていて、なんというか、いやらしい匂いだ。吸血鬼はどいつもこいつもなまぐさいが、個体差はある。それを取り違えるなど、焦りが生んだ失態と言うほか無い。ヒルダからは、冷静に事を進めろと忠告されていたというのに。


 そして今、仲間と落ち合う予定の宿屋にたどり着き、食堂のテーブルについたクヴァルドは、実に七日ぶりの静寂を味わっていた。捕囚であるヴェルギルとやむを得ず同じテーブルについているわけだが、当の本人は、何百年かぶりの料理とにらみ合うのに忙しいようだ。

「ちゃんと食っておけ」珍しく、クヴァルドの方から声を掛けた。「ここから、また長く歩く」

 ヴェルギルは返事の代わりにクヴァルドを睨み、よく火が通った鳩の香草焼きをナイフでつついた。

 口角に笑みを浮かべそうになるのを堪えながら、クヴァルドは言った。

「口に合わないか?」

 合わないに決まっている。吸血鬼は血液からしか、生きるのに必要な糧を得ることが出来ない。そうやって長いこと生きてきたなら、固形物を噛んで飲み込む方法すら忘れているかもしれない。わかっていたが、敢えて尋ねた。この吸血鬼を閉口させる機会は、そう頻繁に訪れるとは思えない。

 彼は七日間の行程を、ほぼワインだけを口にしながら耐えた。〈デイナの蛇〉を装着され、身体能力はほぼ人間と同じに戻っているはずだ。それでも吸血鬼らしい強靱さを失わずにいたのは賞賛に値する。エダルトと同じ時代の生まれと言うのなら──エダルトの恐ろしさは、五二三年前に書かれた年代記クロニクルですでに言及されていた──変異から五百年以上は経っているのは間違いない。百歳の吸血鬼を『ひよっこ』呼ばわりする資格は充分にあるということだろう。

 エダルトほど派手な活躍は見せていないとは言え、このヴェルギルも年代記の常連だった。時代によって『魔術師』や『占い師』、『外科医』や『策略家』あるいは『愛人』と呼ばれたこの男の出自を知る者はいない。だが、その外見から推し量ることは出来る。

 一時的に人間に戻っているとはいえ、青白い顔色はいかにも吸血鬼らしい。クヴァルドにとっては、ただ鼻持ちならないだけの顔立ちは、『うれいを帯びて優美だ』と形容される。俯いた彼の眼窩におちる影は深く、そのせいで、暗く濃い睫毛が一層深い色に見える。すらりと長い指や立ち居振る舞いからして、貴族階級だったのは間違いないだろう。最後に人間だったときが何百年前なのかは知らないが、あんな柳の枯れ木のような指の戦士がいたはずはない。金貨百枚賭けてもいい。

 そんなことを考えていると、吸血鬼がクヴァルドにむかって皿を押しのけた。

 クヴァルドは即座に皿を押し戻した。「少しぐらいは食え」

「ワインがあればいい」ヴェルギルは皿を一瞥さえしなかった。「そちらこそ腹に入れておけ。これからひと働きする必要がありそうだ」

「何?」

 その時だった。嗅ぎ慣れた同種の匂いと、生々しい鉄の匂いとが酒場に立ちこめた。安堵を誘う匂いの中に、研いだばかりの剣の生臭さ。そして緊張と、抑制された興奮の体臭。

 何かがおかしい。人間の皮膚の下に隠されている狼の毛が震えて逆立つ。

 さりげなく酒場の入り口に目を向けると、男が四人立っていた。鋭い眼差しで広間を見渡している。何かを探しているのだ。

「あれが君の言うお仲間か?」

「いいや」クヴァルドは言い、皿の上の鳩を掴んで頬張った。「だが、奴らはそう見せかけようとしているらしい」

 男たちから漂う匂いが、人狼の鋭い鼻を誤魔化すための偽装だということはすぐにわかった。四人が四人とも、同じ個体の匂いをさせていたからだ。おそらく、どこかで狩った狼の毛皮を身体にこすりつけてきたのだろう。『ひよっこ』の人狼を騙すにはいい手だが、相手が悪かったと言わざるを得ない。

「刺客か」ワインのゴブレットに口をつけたまま、ヴェルギルが言った。「狙いは、我々のどちらだ?」

「お前に心当たりがないのなら、見当もつかんな」

 男たちが席に着く。異質な匂いがますます濃厚になった。死んだ獣の匂いと、金気臭さが嗅覚を占有する。

「鎖を外してくれ」ヴェルギルがひそめた声で言う。

 思わず笑いがこみ上げそうになる。「何を言う。駄目だ」

「ならば、逃げる算段があるのか?」

「いいや。ここで相手をする」

 男たちに油断なく目を配りながらも、ヴェルギルから正気を疑うような目で見られているのがわかった。だが人外の規範である〈協定ノード〉の掟は、獣の皮を持つ者ハムラマが『人間の領域』で獣や半獣の姿になることを禁じている。つまり、この酒場では、人間の姿のまま四人を相手に戦わなければならないと言うことだ。捕囚一人をかばいながら。

 ヴェルギルは言った。

「下らぬ誓いや掟で己を縛って、何がしたい?」

「どういう質問だ、それは」クヴァルドはムッとして聞き返した。「下らぬものか。この掟が人間と〈人外社会カトル〉を結んでいるのだ」

 ヴェルギルは血のあたたかさを感じさせない笑みを浮かべた。

人間ウィアどもに『生きる赦し』を与えて貰うための掟がか? そんなもの、命をかけるには値しない」

 ヴェルギルは『人間ウィアども』を、汚らわしい言葉であるかのように口にした。彼自身とて、変異する前には人間だったはずなのに。

「俺の命をどうやって使おうと、俺の勝手だ。啜り屋に文句を言われる筋合いはない」

「虚しい生きがいだ。最後はそれこそ犬死にだろうな」

「そういうお前はどうなんだ?」クヴァルドは喉の根元が怒りに震えそうになるのを抑えて言った。「命を賭すに値するものも無く、何百年も、ただ生きているだけか?」

 クヴァルドはこれも、この短い間に何度も繰り返してきた不毛な言い争いの一つに過ぎないと思っていた。だが、この言葉をぶつけた瞬間、吸血鬼の表情は凍り付いた。

 今の一言は、おそらく、ヴェルギルの急所を突いたのだろう。

「そうだとも」彼はふっと微笑んだ。「ただ生きているだけだ。何百年もな」

 クヴァルドは妙な居心地の悪さを感じつつ、ぶっきらぼうに言った。「いいから、邪魔はするな」

 返事はなかった。その代わり、テーブルの下から思い切り椅子を蹴り飛ばされた。

「な──!?」

 後ろざまに倒れながら、クヴァルドは、テーブルの上の皿に突き刺さるいしゆみの矢を見た。ほんの一瞬前まで、自分が手を置いていた場所だ。

 すぐ後ろで食事をしていた人間を巻き込んで、床の上に倒れる。悲鳴と共に何枚もの皿が割れ、酒がぶちまけられるが、そんなことに気をとられている場合ではない。すぐさま体勢を立て直して剣を抜く。狼の死臭を漂わせた刺客どもも得物を構え、クヴァルドたちを取り囲んでいた。

 クヴァルドは立ち上がりざま、こちらに斬りかかってきた男の鳩尾を貫いた。死の瞬間に収縮する身体を脚で押しのけつつ剣を引き抜き、その場で身をひるがえしてもう一人を切り伏せる。次いで飛んでくる弩の矢を剣で防いで構え直すと、別の場所に潜んでいた刺客が四人増えているのに気づいた。剣を手にした男が二人。二階の踊り場に弩を構えた男が二人だ。

 待ち伏せだ。こちらの動きを読まれていた。

 だが、相手は誰だ?

「くそ……」

 にらみ合いのまま状況は硬直し、それ以上斬りかかってくる者はいなかった。慎重だ。その分やりづらくもある。 

 無関係の人間たちは慌てふためき、われ先にと酒場を飛び出した。宿屋の主人も姿を消していたが、衛兵を呼びに行ったわけではないだろう。おそらくは、買収されていたのだ。

 ジリジリと間合いを詰めながら、刺客が包囲の輪を縮めようとしている。

「どこの手のものだ?」

「息を無駄にするな、犬ころ」人間が言った。「どのみち死ぬんだ」

「では、望みはわたしか?」

 クヴァルドと同じくらい派手に倒れ込んだことなど微塵も伺わせずに体勢を立て直した吸血鬼が前に進み出た。

「俺たちの望みは、貴様らをぶち殺すことよ」男はクヴァルドの足下に唾を吐いた。「ダイラは人間のもんだ」

 吸血鬼はハ! と笑って、クヴァルドに言った。

「いやはや! なんとまあ、ひどい芝居だな!」

 愉快そうな様子に、刺客どもがおちつかなげな視線を交わし合う。

「山賊の振りをしているつもりなのか? こんな茶番はマチェットフォードの見世物小屋でもお目にかかったことがない!」

「黙りやがれ、啜り屋」

 ヴェルギルは、いつの間にか手にしていた矢を持ち上げて、その矢羽根を指先でなぞった。

「山賊は鷹の矢羽根など使わない。山鳥の羽根の寄せ集めで矢を作る。訛りもわざとらしいな。このあたりの山民はもっと母音を切り詰めるのだ。覚えておけ。それに、なんというか剣の持ち方が洗練されすぎている。寄せ集めの山賊にしてはいささか不自然だ……もっと続けるか?」

 刺客は答える代わりに雄叫びを上げ、二人同時に斬りかかってきた。

「おお! やっと山賊らしくなったな!」ヴェルギルが楽しそうに言う。

 クヴァルド自身も、出来ることならこの吸血鬼を斬り殺したいと思った。

「いいから、口を閉じてろ!」

 悪態をつきながらも剣を受け流し、吸血鬼の首根っこを掴んで壁に押しやって、刺客の前にたちはだかった。啜り屋に背中を見せるのは気が進まないが、しかたがない。

「わたしを守る必要は無いんだぞ、鎖を外してくれさえすれば──」

 勘弁してくれ。頭痛がしてきた。

「駄目だと言っただろう!」

「わかった。では言い方を変えよう──勝ち目がないのだ」

 剣を軋ませて戦うクヴァルドを尻目に、ヴェルギルは嫌になるほど冷静な声で言った。

「この鎖は、かけた者の手によってしか外せないんだぞ。栄華の頂点で華々しく散りたいというのなら止めないが、わたしを巻き添えにするのはご遠慮願いたい」

このイー……クソッタレのディアゥル……蛭めスームレ……!」

 一撃繰り出すごとに食いしばった歯の間から悪態を吐き出した。〈クラン〉に加わったときに、己の民の言葉で悪態をつくことを自分に禁じたのに。

 その時、強い力で後ろに引っ張られた。壁を背にして戦っていたはずなのに妙だと思ったのは一瞬だった。目の前で戸が閉まるのを見たクヴァルドは、吸血鬼がどこかの部屋に退路を見いだしたのだとわかった。体当たりで戸を吹き飛ばされる前に、慌てて戸を押さえる。

かんぬきだ! 啜り屋!」

 重い衝撃が一度、二度と来る間に、ヴェルギルは椅子を床にたたきつけて脚を折り、それを閂にした。

 そこはどうやら使用人部屋らしかった。壁に据え付けられた棚が並んでいるばかりで、窓もなければ、別の部屋へと続くドアもない。灯りと言えば、小さなオイルランプが一つ、壁にぶら下がっているだけだ。おまけにひどく狭い。これでは剣も振るえない。

「なんでこんな部屋に引きずり込んだ!?」

「鎖を外せ」

「貴様」制御できない怒りがわき上がり、クヴァルドは自分の犬歯が伸びるのを感じた。「あともう一度でも同じことを──」

「死なば諸共もろともなのだ」ヴェルギルが遮った。「よく考えろ」

 言い争いをしている間にも、扉への体当たりは続いている。即席の閂ははやくも悲鳴を上げ始めていて、破られるのは時間の問題だ。

 その時、クヴァルドの手に、ヴェルギルが冷たい手を置いた。

 何事かと顔を上げると、彼と目が合った。

 そこにあったのは、薄気味悪い菫色の目ではなかった。人間に戻った今、彼の瞳は暗がりに光る青灰色。ふたつの北極星ヴェルギルがそこにあった。

「絶対に、君から逃げない」ヴェルギルは続けた。「〈はざまに立つ者〉リコヴに誓う」

 リコヴは交渉の守護神で、人ならざる者にも縁の深い神だが、それでは不足だ。

「リコヴは嘘と裏切りの神でもある」

 すると、吸血鬼は小さく笑った。

「ならば母なる月に。永夜を渡る月に誓う。決して君を裏切らない」

 全てのナドカの母である月神ヘカへの誓いは、〈協定ノード〉においては何よりも重んじられる。

 そして自分は、他ならぬ〈協定ノード〉の守護者だ。

「いいだろう」クヴァルドは唸った。「俺を裏切ったら、次は鎖など使わずにこの手で引き裂く」

 吸血鬼はにっこりと微笑んだ。

「それも一興だが」彼は急かすように長い黒髪を持ち上げ、鎖を取れと促した。「脅しよりは感謝の言葉が聞きたい」

 クヴァルドは蛇の頭に手をかざし、解放の赦しを与えた。カチリという音と共に金色の蛇がおとがいを開くが早いか、吸血鬼は目の前で黒い霧になって溶けた。鎖が床の上に落ちる頃には、扉の隙間から外へ出ていた。

「おい、待て!」

 慌てて鎖をひろって閂を外し、小部屋の外へ出る。

 一歩踏み出した途端に、荒れ狂う風のような力を感じた。黒い嵐に頬をなぶられ、クヴァルドは思わず目を閉じた。聞こえたのは、声にならない悲鳴──そして、あっという間の静寂。出遅れたと言ってもわずかの間だったし、目を閉じていたのもほんの一瞬だったはずだ。それなのに、再び目を開けたときには、残っていた六人の刺客が一人残らず息絶えていた。それどころか、老木のように萎びた姿に変わっている。

 何が起こったのかを察して、クヴァルドは牙を剥いた。

「血を吸ったのか?」

 当の吸血鬼は、惨状など気にもとめない風で椅子に腰掛け、ゴブレットの中のワインを弄んでいた。

「禁じられた覚えはないのでね」そして口角を歪める。「実にひどい味だった」

 味はともかく、六人もの血を啜ったヴェルギルは見違えるほど状態を回復させていた。うねる黒髪は艶を増し、腐った牛乳のような色をしていた肌にも血の気が戻っている。菫色の瞳は恍惚の名残に潤んで輝いていた。悪寒が背中を這い上る。

なんとおぞましいスカノロク

「わたしの記憶がたしかならば、ちゃんと食っておけと言ったのは君の方だ」ヴェルギルは、人間のなれの果てを両手で示した。「忠実な吸血鬼に、礼の一つでも言ったらどうだ?」

「誰が礼など言うか」クヴァルドは唸った。「俺一人でも倒せた」

 宿屋を後にしようと歩き出したクヴァルドの後ろで、吸血鬼が何やら侮辱めいたことを言った気がしたが、無視した。

 礼を言うつもりはないが……たしかに手間が省けたことは認めなければならない。〈クラン〉は公平を重んじる。クヴァルドは鎖を革袋にしまった。

 ヘカへの誓いを受け入れた以上は、これを使うのは先送りにしてやってもいいだろう。しばらく。当面の間は。

 騒ぎを聞きつけて集まった人混みを避けて、裏口から宿の外へ出る。宿屋の主の姿は見えないままだったが、〈協定〉を裏切った者には後日それなりの報復が下るから、深追いはせずにその場を後にした。なんぴとも、人狼から逃れることは出来ない。

「刺客の正体に心当たりは?」ヴェルギルが尋ねる。

「ない」クヴァルドは頭を振った。「覚えがない顔と匂いだった」

「あの宿屋に、仲間はいたのか?」

「次の町で待つことにしたのだろう」クヴァルドはひとりでに頷いた。「刺客の気配を感じて、安全策を講じたのかも知れない」

「だといいが」ヴェルギルはひとかけらも信じていない口ぶりで言った。「こうなったら、早く解放されるために協力した方が賢明だな」

「俺が初めからそう言っていたことに、気付いてくれて大変嬉しい」

 吸血鬼の真似をしてクヴァルドが言うと、彼は闇の中で菫色の目を丸くした。

「何だ? さっさと厄介払いしたいのは、俺も同じだ」

 苛立ち紛れに言うと、彼は小さく笑った。

「あながち、退屈な旅と決まったわけでもないかも知れないな。黄昏の狼」

 クヴァルドは呻いた。

 この蛭と意見が噛み合う日は永遠に来ないだろう。

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