腥血(せいけつ)と遠吠え
あかつき雨垂
第1話
狼皮
山河風雲を 操るべし
貪婪たる
失はれにける 敬神の遺児
序
緑海を臨むエイルの断崖で、すべてが炎に包まれるのを見た。
ヘカの祝福、あるいは呪縛が刺青のようにこの身に刻まれてゆくのを感じながら、永遠に償うことのできない罪を知った。
守ろうとしたものはこの手の中で息絶え、指の間から崩れ去っていった。
慟哭すら赦さない灼熱に捲かれ、あれほど強く死を願ったときは無かった。
あの暁から、あまりにも
それは壮麗な偉丈夫の姿で。
1
人ならざる者──いわゆる
初めにこの遊びを思いついたのは、陽神教会の祈祷文に書き加えられていった他の数多の悪癖と同じくフェリジアの人間だという噂だが、定かではない。
もし、古き善き
魔女たちは噂する。
ボルドニーの広大な領地を預かるゴドフリー卿の奥方が、いかにして森の古い狩猟小屋を花の芳香で満たし、珍品と謳われる高地兎の毛皮で
〈
〈
誰も、彼がどれほどの昔から生きているのかを知らない。ダイラでは物珍しい漆黒の髪の彼は、かつては
『ヴェルギル』は謎に包まれていた。人の血を吸って生きるということを除けば、本当の名前すら知られていない。だが、彼を寝所に招く奥方たちは、そのようなことは気にしなかった。むしろ、謎が多ければ多いほど魅力が増す──深入りさえしなければ。
すべての吸血鬼には、ただひとりだけ、鼓動を止めた心臓を再び動かすことの出来る『運命の血』が定められていると言う。さて、ヴェルギルの心臓を蘇らせる『運命の血』は誰ぞ?
人間たちが楽しむその遊戯はさながら、星に見立てた木の実を射落とす冬至の宴の余興のようだ。
当のヴェルギルに異論はない。
吸血鬼は他者の体液を介してしか、生きるために必要な
だが、そんな生活が何百年も続けば飽きがくるというものだ。何人の乙女や貴婦人の躰で古びた血を温めようと、凍った心臓に巣くう病を根絶することは出来ない。
ゴドフリーの奥方は狩猟小屋の周りに、口が堅い三人の見張りを置き、万が一にも夫の手のものが近づかないように警護させていた。
極上のワインは、あらゆる退廃の故郷と言われるフェリジアから船で運ばせたものだ。ヴェルギルはそれを味わってから、奥方に差し出した。酒と恍惚の余韻に火照る彼女の身体からは柔らかく甘い血の香りが漂っていて、一度は満たされたはずの乾きが再び頭をもたげた。
「だれがあなたを
奥方は、うつ伏せに寝そべるヴェルギルの背中にもたれ、緩くうねる漆黒の髪を弄んだ。
「気になりますか?」
背中に押し当てられた乳房は、情事の名残にうっすら汗ばんでいる。
まだその気があるのか? もう一度血を飲ませてもらえるなら、誘いに乗るのもやぶさかではない。そうすれば、無駄な会話を省けるのだろうし。
「わたしの名付け親に妬いているのか? そうだと言ってくれ」
「あら、いいえ」奥方はクスクスと笑った。「これほど似合いの名は、わたしには思いつかないもの」
ヴェルギルは寝台に肘をついて、エリアナ・ゴドフリーの気怠い微笑を見つめた。
「似合い? 八十八の星座の中で、唯一
「最初に連想したのは、そのことではなかったわ」
「不遜な名だとおっしゃりたいのかと」
ヴェルギルが寝返りを打ってエリアナを胸に抱くと、彼女が瞳を覗き込んできた。
月の光を身の内に取り込んだ時──つまり、吸血鬼として生まれ変わった時に、ヴェルギルの瞳は永遠に色を変えた。紅を
彼女は囁いた。
「たったひとり極北の空に縫い留められて、じっと動かずに地上を見下ろす眠らぬ星だから」そして、ヴェルギルの顔を横切るほつれ毛をつまんでよけた。「その孤独が、あなたにぴったりだと思ったのよ」
呼吸をしていたころの名残で、ため息をつきそうになる。身勝手な憐憫には慣れたつもりだったのだが。なぜ人間は、ほんの数度ベッドを共にしたからと言って哀れむ権利を得たと思うのだろう。拾った石に慈悲をかけるようなものだ。そんな押しつけがましい同情では、遙か昔に鼓動を止めた、この心臓はピクリとも動かない。
「孤独か」ヴェルギルは言った。「だが今宵はあなたが、わたしのそばにいてくださる」
これ以上なさけを押し売りされる前にと奥方に覆いかぶさり、むき出しの柔らかい肩に冷たい唇を押し当てた。つんと冴えた冬の空気の中に上気した肌の薫りが立ち上り、乾きは深刻な飢えに変わる。
「わたくしに、貴方の孤独を救うことができて?」奥方は気丈に言い返したが、舌先で首筋をなめあげられているせいで、声が揺らいでいる。
「北極星がどんなに
ヴェルギルは微笑んだ。確か、三十年ほど前にも、別の相手にこんな台詞を聞かせたと思いながら。
「わたしの孤独など跡形も残らぬほど、貴女は輝かしい」
両足の付け根、茂みの下の、熱く濡れた割れ目を指先でなぞる。奥方はハッと息をのんで、ヴェルギルの腕にしがみついた。
「ああ……」
「目を閉じて、エリアナ」
ヴェルギルは、白くみずみずしい肌に牙を押し当て──硬直した。
背中の上を悪寒が這い回る。
温かい血の香りをおしやって漂ってくる、あの忌々しい匂いを嗅いでしまったのだ。
「どうかしたの?」期待していた痛みを感じないので、エリアナは片目を開けた。
「濡れた犬の匂いだ」
「なんですって?」奥方は慌てて脚を閉じようとした。
「貴女のことではない」
ヴェルギルは身を引いて、中空にただよう見えない何かを捕えようとするかのように頭を掲げた。
「ゴドフリーは明後日まで帰らないと言っていた?」
「ええ」奥方の顔は不安にこわばり、さっきまで薔薇色に染まっていた頬はすっかり青ざめている。「一体何が──」
ヴェルギルは唇に人差し指をあてて彼女を黙らせた。
目を閉じて、もう一度匂いに集中する。
吸血鬼の嗅覚は鋭い。馬で一刻の距離にいる祭司の匂いを嗅ぎ取れるほどに。だから、間違いない。冬枯れの森の向こう側から、こちらに疾駆してくるものがある。
猟犬ではない。あれは犬よりももっとたちが悪いものだ。その匂いを、ヴェルギルは知っていた。
すっかり撒いたと思っていたのに。
ヴェルギルは目を開けて、寝台から降りた。「近づいてきている」
しくじった。これが一か月ぶりの食事でなかったら、もっと周囲に気を配ることが出来たはずだ。だがそもそも、ひと月もの間落ち着いて食事をすることができなかったのは、この忌々しい追っ手のせいなのだ。
「あのひとが帰ってきたというの? ありえないわ、だって──」
「いいから、服を着るんだ」
梁にひっかけてあったシュミーズとガウンを寝台に放る。慌ててそれを掴んだ奥方を尻目に、ヴェルギルはパチンと指を鳴らした。すると、あたりに散らばっていた衣服が、見えない糸に引っ張られたかのように瞬時に体に吸い付き、捻れ、ピンと張りつめた。そしてヴェルギルは、たったいま王城の謁見室から出てきたかのような姿になった。
驚きのあまり目を見張る奥方に、ちらりと視線をよこす。
「ノーラントの片田舎の〈
「このような時と場合にうってつけ、というわけ?」奥方の声は苦々しい。
事後の面倒も見ずに彼女を置き去りにすれば、悪いうわさがたちまち広がり、貴婦人の間で重宝されてきた『信頼できる愛人』としての地位が危うくなる。そうなれば、飢えを満たすために野山の獣に牙を突き立てるか、市井の人間の血を吸うことになる。
このヴェルギルが農民の血を啜る? 御免こうむる。凋落を世間にふれ回るようなものだ。
「一週間はサノークに留まると言っていたのよ、それなのに早く帰ってくるなんて……きっと不貞の疑いをかけられているんだわ」
賢い推測だ──もしあれが本当に、ゴドフリーの猟犬なのだとしたら。だが、違う。手持ちの金の半分を賭けてもいい。
「ゴドフリーではない」
「どういうこと? では、誰が──」
奥方の言葉を掻き消したのは遠吠えだった。獲物を見つけた猟犬の粗野な咆哮とは違う、長く物悲しげな遠吠え。冬の冴えた月に纏わり付く雲のような。
「あれは狼? まさか」奥方は怯えた目でヴェルギルを見上げた。「あなたが
「奇遇だな。わたしも知らない」
身の潔白を訴える台詞にしては皮肉が効きすぎていたようだ。奥方の目にはっきりと不信が浮かんだ。彼女は決然と立ち上がるとシュミーズをかぶり、ガウンの袖に腕をとおした。
「まさかとはおもうが、近頃ナドカを殺したりはしていないだろうね?」
凝った花の刺繍が施された襟ぐりから顔をのぞかせたエリアナの表情は、冬眠を邪魔された熊のように険悪だった。
「わたしを疑っているの?」
「いいや」ヴェルギルは奥方の背中に回り、編み紐をひいて身支度を手伝った。「だが、わたしにもさっぱり身に覚えがないのだ」
「きっと、手を出してはいけない
奥方の声はすっかり冷え切っていた。
さっさと抱いて血を頂いておくべきだったと思いつつ、ガウンの背中の革ひもを結ってやる。彼女はため息をついて振り返った。
「どうしたらいいの?」
ヴェルギルは小さく肩をすくめた。
「心配には及ばない。貴女にできることは何もない」
奥方は目を眇めた。「
ヴェルギルは小さく眉を上げた。
強かな人間は好きだ。きっと、彼女は魔女に向いている。
「安心するといい。〈クラン〉は無実の人間に手を出すほど血に飢えていない」
〈クラン〉は吸血鬼にも
粗末な木戸の向こう側で、護衛たちが剣を抜く音が聞こえた。ヴェルギルは密かに、見張り番たちへの評価を見直した。彼らが発する汗の匂いから、今にも失禁しそうなほど怯えているのが分かったが、あの遠吠えを耳にして逃げないのだから大したものだ。
三人分の恐怖の匂いの向こう側に、獣の匂いが濃厚に立ち上る。
「止まれ!」一人が声を上げた。「ここはボルドニー伯の領地だ。お前は──」
その時、胸の悪くなるようなぐしゃっという音と悲鳴を混ぜた音がして、訪問客が挨拶を省略したことが分かった。
万事休すだ。
「裏から逃げなさい。その壁板を少し持ち上げれば、外れるようになっている」
声をひそめて、ヴェルギルは言った。無言で見つめ返してきた奥方の目は、何故その事を知っているのかと問うていたけれど、百年ほど昔に、貴女の義理の祖母とここで逢い引きをしたからだと告げるつもりはなかった。
「わたしの馬が、東の小川のほとりに繋がれている。マハスという名だ。差し上げよう。たどり着いたらまっすぐに屋敷を目指しなさい。振り返らずに」
抱いた女性を比較するのは悪趣味だが、奥方は、あわや不貞の現場を取り押さえられるかという時に、ヴェルギルを強姦魔に仕立て上げようとした彼女の祖母よりも情けを持ち合わせていた。小屋を出て行く前にヴェルギルを振り返り、口の形だけで「気をつけて」と告げてくれたのだから。
ヴェルギルは、森の湿った空気に紛れて遠ざかる奥方の血の香りに心中で別れを告げ、扉に向き直った。
しかしこの期に及んでも、追われる理由がわからない。〈
まあ、何百年も生きていれば、胸を張れないようなこともいくつかしてきた。それは認めるが、この百年ほどは、ちょっとした火遊びと賭け事にしか手を出していない。〈
だが、ヴェルギルにはそれ以上考えをめぐらす余裕はなかった。
拳の一突きで戸を吹き飛ばした訪問者が、間髪を入れずに飛びかかってきたからだ。
「貴様!」
もうもうと立ち上る埃の中、彼は目にもとまらぬ速さでヴェルギルの喉を掴み、小屋が揺れるほどの勢いを込めて、壁に押さえつけた。
鋭い爪が首に食い込むのを感じながら、ヴェルギルは襲撃者が呟くのを聞いた。
「やっと……やっと追い詰めた」
その声に祈りを連想したのは、頭をひどく打ったからだろうか。
古びた梁から降り注ぐ埃が、ゆっくりとおさまってゆく。
襲撃者の顔をまともに見ることができるようになったとき、ヴェルギルは我知らず息をのんだ。
なんと、まあ。いったいどの神がこの男の造形を編んだのだろう。
男に見惚れることは滅多にない。その男が自分に殺意を向けているなら、なおさらだ。それなのに、一目見た瞬間、我を忘れた。
最初に目に入ったのは、豊かな赤銅の髪だ。顎を縁取る髭には金や赤、そのほか名状しがたい色が混ざって、紅葉した木々の色彩を映したかのようだ。剥き出しの牙と好対照を成す唇は色めき、憤怒に燃える狼の眼差しは若い夏の満月の色だった。
古びた革の
渇望だと? 人狼の血を? 冗談ではない。川魚の冷たい血でも啜ったほうが、まだましだ。
「お言葉だが、
「黙れ!」首を掴む手に力がこもる。「〈
──エダルト。そうか。
その名を聞いて、すべてが腑に落ちた。一ヶ月に及ぶ追跡の理由も、彼がこれほど激昂している理由も。
「ひと……違いだ」ヴェルギルは、鉄の枷のように首に食い込む手の力を少しでも緩めようと、人狼の腕をひっかいた。「わたしは
首が締まって、それ以上は言えなかった。
「俺をおちょくっているのか、啜り屋?」
人狼は雷の前兆のような唸り声をあげて、ヴェルギルに顔を近づけた。その気になれば鼻を食いちぎれるとでも言いたげに。だが、彼は狼に
「まさか」ヴェルギルは辛うじて笑みと呼べなくもないものを浮かべて見せた。「手を、緩めてくれないか……これでは話も出来ない」
「貴様の頼みなど聞いてやると思うか?」
「わたしは、エダルトではない」ヴェルギルは辛抱強く言い聞かせた。「だが、彼のことをよく知っている。放してくれたら、手がかりくらいは教えてやってもいい」
「もっと命乞いの練習をしておくべきだったな」
人狼の目に、苦痛と歓喜の入り混じった何とも言えない表情がよぎる。〈
ああ、エダルト。今度は何をしでかしたのだ?
「奴の匂いを追ってわたしを見つけただけでも、君の鼻は称賛に値するが」ヴェルギルは笑みを浮かべた。「年
次の瞬間に起こったことを、人狼は理解できなかっただろう。
力を抜き、この肉体のありとあらゆる結び目を解く。自分という存在を支配するのは『意識』だけで、それ以外の些末な部分は限りなく自由で流動的だという感覚を身体の末端まで行き渡らせる。すると──
霧に
掴んでいたものを失って前のめりによろめく人狼の隙をついて、彼が腰に帯びていた剣に意識を伸ばす。
「くそっ!」
ヴェルギルの動きを察した人狼はとっさに手を伸ばしてきたけれど、彼がつかんだ右脚と腎臓に相当する部分はまだ実体化していなかった。ヴェルギルの右手の指先が剣の柄に触れ、金属の冷たさを感じ取る。意識を集中させた部分から実体と感覚が固まってゆき、右手の指先から肩、腰からつま先が質量を取り戻す。たたらを踏んだ人狼の脇をすり抜け、ヴェルギルは彼の背後に立った。
見物人がいたなら、『踊るような反撃』と賞したことだろう。
左腕を首に回し、右手の中の刃を首の付け根に押し当てて、耳元で囁いた。
「
「化け物め……!」
人狼は荒い息に罵倒を込めた。
「君も立派な化け物だろう。忘れているといけないから言っておくが、名乗りもせずに殺そうとしてきたのはそちらの方だ」
ヴェルギルは微笑み、剣の刃を皮膚に押し当てた。すると、ぶすぶすという音がして、皮膚が焦げる匂いがかすかに立ち上った。人狼は食いしばった歯の間から恐ろしげな呻き声を上げた。
「銀の刃か」ヴェルギルは剣を浮かせて、火傷の跡を見た。「なるほど、ナドカを狩るには最適の得物だが……文字通り諸刃の剣だ」
人狼の背中が強張った。とどめを刺されると思ったのだろう。二百年ほど前ならまだしも、そんな野蛮な真似は今の世では歓迎されない。
「少しは話を聞く気になってくれたか?」
彼は答えなかったが、かわりに憤然と溜息をついた。
触れた肌の下で、逸っていた血の流れが少し落ち着いたのがわかったので、ヴェルギルは人狼の拘束を解いた。剣を手にしたまま距離をとりつつ、毛皮の敷き詰められた寝台に腰を下ろす。
「良い剣だ。これほどの業物を鍛える鍛冶は、もう残っていないのではないか」
その様子をじっと見ていた人狼が言った。
「お前は……エダルトじゃない」
「わたしが初めからそう言っていたことに、気付いてくれて大変嬉しい」
人狼はフンフンと空気の匂いを嗅ぎ、眉をひそめた。「だが、匂いがあまりにも似すぎている。貴様は何者だ?」
「〈
人狼は訝しむように目を眇めた。
「長生きしすぎた吸血鬼は、みな同じ匂いになるのやも。自分ではわからないから、何とも言いようが無いな」ヴェルギルは誤魔化すように手をひらめかせた。「頼むから、『萎びた茸のような匂い』などと言ってくれるなよ」
人狼は瞬きをして、まじまじとヴェルギルを見た。
「エダルトと同じ時代の生まれなのか?」
「いかにも。
そして、座ったままで宮廷風の優雅な辞儀をしてみせた。
「お前が、ヴェルギル……」
「〈クラン〉から存在を忘れられた訳ではないようで、何よりだ」
確かにもう何十年も、彼らとの交流はしていなかった。多くの吸血鬼が、相手が人狼だからと言う理由で〈クラン〉と関わるのを疎む。けれど、協定の守護者にして、この国で最も力を持つ〈
「そちらの名は? 差し支えなければ教えていただけるかな」
彼が驚きに目を丸くすると、金の瞳が双子の月のように輝いた。彼は一瞬考え込んでから言った。
「クヴァルド、と呼ばれている。仲間からは」
一ヶ月にも渡る追跡をまくことが出来なかった理由がようやくわかった。
「なるほど」思わず、ヴェルギルは呟いていた。「それはそれは」
人狼の群れの中でも、北方高地のヨトゥンヘルムに本拠地を構えるフィンガルの〈
なんでもその人狼は、捕らえられ、拷問にかけられても内通者を明かそうとしなかったマルディラ人の
あの時は、上流社会が熊につつかれた蜂の巣のような騒乱に陥っていた。何人もの貴族が巻き添えを食って処刑された。暗殺騒動の余波に巻き込まれずに済んだ者はみな、かの狼の話をした。曰く、その嗅覚からは一匹の蠅さえ逃れられないのだと。ひょっとすると、百年前に冷え切ってしまった人狼族とダイラ王家との蜜月が再来するかもしれないとまで囁かれていたのだ。
「お会いできて光栄だ。
こうして『通称』の交換が終わった。概してナドカは、そう簡単には本名を明かさない。それをもどかしいと感じたのはこの時が初めてだったが。
理由のわからない妙な欲求不満を押しやって、寝台から立ち上がる。
「誤解が解けたのだから、『また逢う日まで』と告げてここを立ち去る頃合いだな」
一歩前に踏み出したヴェルギルを、人狼の大きな身体が遮った。
「それは出来ない。お前はこれからヨトゥンヘルムへ行くんだ。俺と一緒に」
ヴェルギルはほんの一瞬、表情を取り繕うのも忘れてあっけにとられた。
「聞き間違いか? ヨトゥンヘルムと聞こえたが」
クヴァルドはヴェルギルを横目に見ながら、腰に帯びた
「我々の砦で、エダルトのことを話してもらう」
「やんぬるかな!」ヴェルギルはぴしゃりと額を打った。「要らぬ事を言わずにはおれない、おのれの舌が疎ましい。だが本当に、あれとは数百年会っていないのだ。手がかりといっても、大した助けになれるとは思わない。残念ながら」
クヴァルドは苛立ちを込めた溜息をついて、ヴェルギルを見た。
「その芝居がかった話し方をやめられないのか?」
「何故やめねばならない?」
人狼はむっつりと言った。「ただでさえ長い旅路が、一層苦痛になる」
「人狼ときたら」ヴェルギルは盛大なため息をついた。「いくら王の覚えがめでたいからと言って、わたしを思い通りに出来ると思ったら──」
それ以上言葉を継ぐことは出来なかった。クヴァルドが革袋から引っ張り出した金の鎖が、まるで意思を持つかのようにヴェルギルに飛びかかり、瞬く間に首に巻き付いたからだ。霧に変化して逃げようとしても、もう手遅れだった。
蛇の頭を模した錠前が
「ぐ、あ……!」
鼓動。体の内側から胸骨を殴りつけられているかのような感覚に、ヴェルギルは胸をかきむしった。あまりにも久しぶりすぎて、痛みすら覚える。
ナドカが恐怖を込めて〈虚無の首輪〉と呼び、人間が賞賛を込めて〈デイナの蛇〉と呼ぶこの道具は、王の信任を得た限られた者にしか与えられない。太陽神デイナの力を宿す希少な鉱物、
言うなれば、ただの人になるのだ。
〈クラン〉がこれを所有していることは知っていたが、実際に目にするのは初めてだった。軽々しく使える代物ではない。〈蛇〉が持ち出されたという噂だけで、多くのナドカが身の振り方を改める。少なくともこの数十年の間は、その名を聞くことすら無かった。
どれほど強大な力を持つナドカであろうと、
それが今、国で一番の人狼とうたわれたこの男の手に握られている。
〈クラン〉は本気だ。今度こそ、エダルトを滅ぼすつもりなのだ。
空気を吸い込む事を禁じられて、言葉を発することもかなわない。数百年間にわたって月の力を享受していた身体に、忘れていた感覚が蘇ってくる。それはナドカとは無縁のもの──弱さだとか、脆さ、そして恐れだった。踏み潰された蛙のような
「警告はしたぞ」
人狼は、膝をついて喘ぐヴェルギルを見下ろして笑った。
「確かに、腕一本では無理だったな」
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