第3話

 〈クラン〉は本気でエダルトを追っている。しかも、秘密裏に。これがどういう意味を持つのかはまだわからないが、出所のわからない刺客まで表れたからには、何かのっぴきならない事情があるに違いない。人狼に限らずほぼ全ての種族に、エダルトを殺すだけの正当な理由がある。だが、それを許すわけには行かない事情が、ヴェルギルにはあった。

 とにかくもうしばらく同行して〈クラン〉の内情を探らないことには、いかなる結論も出すことは出来ない。

 人狼の楽観的な予想に反して、次の町にも仲間はいなかった。

 ヴェルギルとしては、その翼馬ペガサスが引く四頭立ての馬車でも用意しているので無い限りは合流する必要性を感じなかったが、クヴァルドにとってはそうではないらしい。

 どうやら〈クラン〉は町ごとに一軒ずつ定宿じょうやどを定めて、そこを活動の拠点にしているようだ。だが次の町、また次の町でも、仲間の影も形も無かった。さまよううちに路銀が尽きかけていることがわかったのは、最初の町オルネホから五つめの町マイデンの宿屋に入る前のことだった。

「金が必要だ」

 馬の手綱を厩番に引き渡しながら、人狼はさらりと口にした。ヴェルギルは、ほんの少しあっけにとられて、クヴァルドを見た。

「わたしに金をせびるつもりか?」

「誰がそんな真似をするか!」人狼はほんのわずかに鼻の頭に皺を寄せた。「心配するな。お前の手など借りない。ただ……」

「ただ?」

 彼は何か言いたげにヴェルギルを見てから「いや、いい」と首を振った。「とにかく、邪魔をするな」

「わたしがいつ君の邪魔をしたというんだ」

 宿屋の扉を押し開けながら、クヴァルドが背中で唸った。

 この人狼を苛立たせるのが趣味になりつつある。こんなに面白い種族を、いままで遠ざけていたとは実にもったいなかった。


 宿屋の主人は女のデーモンで、そのせいか客たちも人ならざる者ばかりだった。旧アルバ領でも北に位置するマイデンのあたりは特に厳しい土地だ。岩だらけの地面にはろくな土壌もなく、作物はもちろんのこと、牧草さえ満足に生えないから家畜の放牧にも向かない。人間が暮らして行くにはあまりに過酷な環境で、ナドカの数が多くなるのは必然だ。この土地は南の人間の警戒を集め、それがまた一層ナドカを引き寄せる。情勢は複雑かつ不安定だ。酒場に足を踏み入れると、賑やかな喧噪の向こう側から、探るような視線をいくつも感じた。

 とは言え、グリルを設えた大きな炉をホールの中央に設えた昔ながらの酒場は、とても居心地が良かった。燻された肉や魚の匂いと、よく熟成された酒の芳香も素晴らしい。

 席に着くと、人狼が念を押した。

「俺の目の届かないところには行くなよ。逃げてもすぐに追いかけるからな」

「心配ご無用」

 一度立ち上がりかけたクヴァルドは、思い出したように座り直した。「も無しだ。いいな?」

「見損なわないでもらいたい」ヴェルギルはわざと牙を見せつけるように──だがつとめて快活に微笑んだ。「よほど飢えない限り、貴族でもない人間の血など飲まないさ。主義に反する」

 人狼はうんざりと呻いて、席を立った。

 路銀が尽きかけているのはあちらの都合であって、ヴェルギルには関係の無いことだ。一度は月の力へクスを奪われた。しかし強奪は持ち物には及ばなかったので、所持金はたっぷりあった。宿で一番のワインを注文すると、思った通り、かなりの上物が出てきた。ナドカ相手に酒を薄めるような真似は出来ないから、こういう所では自然と明朗な商売が行われるのが常だ。

 それにしても、とヴェルギルは酒場を見回した。あの人狼は、いったいどうやって金を稼ぐつもりなのだろう。耳も鼻も利く狼は人間の心の機微を読むのに長けているから、賭け事には強いと思うかも知れないが、そうでもない。人間の姿をしている間でさえ、感情を隠すのがめっぽう下手なのだ。それでも名高い黄昏の狼なら、己の感情を律することも出来るのかも知れない。今のところ、とてもそんな風には見えないが。

 給仕が二杯目のワインを注ぎにやって来たときに、ホールの奥からリュートの音色が聞こえた。

 ヴェルギルは感心して呟いた。

「この宿屋には歌人までいるのか」

「いいえ。飛び入りですよ」給仕は微笑んだ。「今日のお客さんは運がいいね」

 楽の音は酒を進ませる。ナドカの中で芸術に秀でている者は多くないから、飛び入りの歌人は宿としても歓迎すべき客だろう。人狼は堅物で不器用だし、吸血鬼はむしろ芸術を享受する側だ。魔女は他者を喜ばせることに興味が無く、妖精シーは何をするにも突飛すぎて話にならない。例外がデーモン──零落した神仙の子孫だ。彼らの着想と表現力は、まさしく神と人間の中間にある者にふさわしい。

 だから、ヴェルギルははじめから、その歌人とやらはデーモンなのだろうと決めてかかっていた。


 『いざ たちて還らん 我が都へ──』


 ところが、リュートの伴奏に続いて聞こえてきた声を聞いて驚いた。聞き間違いようがない。あの声は──クヴァルドだ。ヴェルギルは、あやうくワインに噎せるところだった。


 『析析せきせきと栄え みどりえたるかの地

  西風揚揚ようようと渡り 鷲翼しゅうよく黄金こがねに輝く

  吾が故郷ふるさとは 九十九折つづらおりなみ彼方あなた


 ヴェルギルは思わず身を乗り出してホールの向こう側をのぞき込んだ。リュートを手にして歌っているのは、間違いなくあの赤毛の人狼だ。文句ばかり耳にしていたから気づかなかったが──歌っている時の彼は、蜜に濡れた弦を振るわすような豊かな声をしている。


 『おお 母なる月の奥方

  瞼の裏に 今もうましき

  エイルの浜を 留めたまえ』


 しかも、よりによってこの歌とは。

 ヴェルギルは吸血鬼らしからぬ深いため息をついた。

 昔──大昔。ダイラの西にエイルという国があった。神話の時代、裏切り者の弟をかばったかど月神ヘカが流された地だと言われている。

 ヘカは復讐のため、裁定者である兄・デイナの眷属〈太陽神の子らディナエ〉、つまり人間に『限りある命』の呪いをかけた。そして、彼女に忠誠を誓った者に闇の祝福を与えて、自らの眷属である人外ナドカを生み出したのだと言われている。エイルの王子だったエダルトはその筆頭で、最初の〈月神の子らヘカウ〉のひとりだ。

 途絶えた神話の続きが歴史として記されるようになって以来、の国に住む者はおらず、訪れる者もいない。ナドカの誕生と共にその地に満ちた瘴気が、エイルを取り囲む緑海を覆っているからだ。その瘴気はエイルの隣国イムラヴをも飲み込み、滅ぼした。今までに何人もの船乗りが暗雲立ちこめる緑海に挑んでは、二度と陸地を踏むことなく息絶えていった。

 エイルは人間にとっての地獄。そしてナドカにとっては、永遠に失われた故郷でもある。

 郷愁を誘う曲で聴衆の耳をつかんだクヴァルドは、次に戦歌で場を盛り上げた。さらに下品な戯れ歌を奏でて、徐々に、そして着実に酒場を支配した。金と引き換えに、注文通りの曲を歌ったりもした。笑顔さえ浮かべて。

 あの、いかにも堅物な人狼にこれほどまでの芸と愛想が備わっていたとは。だが、驚きはそう長くは続かなかった。よくよく考えれば当然のことだ。クヴァルドは放浪民エルカンの出なのだ。商隊を組んで国中を巡る彼らは、歌や踊りにも秀でていた。

 やがて、リュートが切ない旋律を奏で始めた。


 『おお 愛する君よ その仕打ち

  すげなくわたしを見捨てたあなた

  わたしはあなたをこよなく愛し

  側に在るだけで歓びだった』


 酒場がしんと静まりかえり、情感の籠もった歌声が、杯を持ち上げる手さえ中空に縫い止めてしまう。

 人混みの向こう、穏やかに燃える炉の炎を受けうっすらと輝く、クヴァルドの横顔は美しかった。そっと目を伏せて俯く頬に一房の赤毛が零れ、火灯りに揺らめいていた。

 あの髪に触れたら、どんな心地がするだろうか?

 〈月の體〉に戻った今、心臓は再び鼓動を止めた。そのはずなのに、まるで幻肢痛のように胸が痛んだ。クヴァルドがこの歌を、彼自身の緑の袖の君グリーンスリーブスに向けて歌っているのだとわかってしまったから。

 そして気づけば、今まで考えもしなかったことを考えていた。彼の生まれは? 親は? 人狼になったきっかけは? そして、本当の名前は?

 この男は、これまで何をして生きてきたのだろう。


 『わたしは今も真の恋人

  どうかもう一度ここへきて

  そして愛してくださいますよう』


 歌を終え、喝采を浴びながら席に戻るクヴァルドの顔つきは、まるでイノシシに追いかけ回された後の狼のようだった。右手には小銭で一杯になった袋を持っていたにもかかわらず。

「何も言うな」

 勢いよく椅子に腰掛けるやいなや、クヴァルドはむすっと言った。先ほどまでの愛嬌は跡形もなく消え失せている。

「素晴らしい歌声だ」

 クヴァルドは唸りながら牙を剥いた。「言うなと言ったのが聞こえなかったのか」

「聞こえたとも。人狼きみたちほどではないが、わたしも耳は良い方だ」ヴェルギルは改めて言った。「素晴らしい歌だった。一族と共にいた頃に習い覚えたのか?」

 人狼は是とも否ともとれる声で唸り、給仕を呼ぶと生肉を要求した。人狼は血抜きをしていない生肉を好む。ナドカ相手に商売をしているこの宿でなら、火の通った料理を食べて人間を装う必要も無いのだ。

「いつかもう一度聞かせてくれ。対価は支払う」

 ここで、ようやくヴェルギルの賞賛が皮肉では無いことに気づいたらしい。

「吸血鬼は好みがうるさいのだと思っていたが?」

「うるさいとも。だからこうして頼んでいるんだ」ヴェルギルは言った。

 それでもまだ警戒の表情を浮かべながら、人狼はぼそぼそと言った。

「子供の頃──商隊キャラバンで暮らしていたときから、歌は好きだった。人前で歌うのは苦手だが」小さく肩をすぼめる。「土地ごとの歌を習い覚えるのが、旅の楽しみだった。それだけだ」

 注文の肉が運ばれてくると、クヴァルドは牙を伸ばして、骨がついたままの鹿の脚に思い切り噛みついた。咀嚼をしている隙にと、すかさず尋ねてみる。

「聞いてもいいか? 人狼になったきっかけは何だったのだ?」

 肉の腱を引きちぎり、髭を血に染めたまま、クヴァルドはじっとりとした目でヴェルギルを睨んだ。

「それを尋ねてどうする」

 さて、どうするか。

『ただ生きているだけ』の数百年間、数多くの王が冠を頂き、瞬く間に死んでゆくのを目にしてきた。名高い美女たちの身体と血とを味わった。際限の無い愚かさや邪悪さを飽きるほど目の当たりにし、語り尽くせぬほどの悲劇を眺めた。今さら、少々毛色の違う狼と関わり合いになったから何だというのだ?

 だが、正直に認めてしまうならば──今まで、これほど自分の興味を誘うものは無かった。初めて会ったあの小屋で、祈るような表情を目の当たりにしたときからずっと、彼のことを知りたいと想い続けてきた。

 深入りすべきではない、と思う。

 それなのに、長く退屈の世を生きてきたせいで、己の好奇心を殺す方法を忘れてしまったらしい。

「わたしは珍しいものに弱い。君は……たいそうな変わり種だからな」

 彼はしばらく返事をせずに、食事に集中した。正直なところ、答えを聞けるとは思っていなかったから、彼が話し始めたときには少なからず驚いた。

「一族と旅をしていた。ある日、吸血鬼に襲われて、俺以外の全員が殺された。俺も食われかけたが、エギルの部隊が通りかかって、助けられた」

 感情のない声で、淡々と語る。さっき彼が歌った歌には、あれほど見事な情感が込められていたというのに。

「二十六になるまで人間のままエギルの従者をして、それから変異して〈クラン〉の一員になった。以上だ」

 ヴェルギルはクヴァルドの目を見たまま尋ねた。

「当ててみよう、君を変異させたのもエギルなんだな?」

 こちらを見返す翠の目が、誇らしげにきらりと光る。「ああ」

 小さな笑みをゴブレットで隠して、ヴェルギルは言った。「なるほどな」

 |歌われていた相手の正体が、わかったような気がした。

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