遥と唯

 日本で初めてキスシーンを撮影した映画『はたちの青春』が封切りされた日。


 全国のリア充が、恋のABCを進めるためのマクガフィンに落ち着けた日。


 5月23日。


 キスの日。


 唯の誕生日でもある今日この日。


 お目出度く、かつ破廉恥な日。


 そんな今日だけど、こと今回に限っては、ここ数日の総決算の日と言える。


 月曜日、僕は大切な人を怒らせた。

 火曜日、凛々からヒント『レーゲンボーゲン』を、

 水曜日、愛瑠からヒント『ドイツアヤメ』を、

 木曜日、舞菜からヒント『白のカラー』を拝領した。


 金曜日、今日。

 上記のヒントから導き出された結論。

 僕の大切な人、三宅唯が怒っているその理由。


 ギャルズ3人のヒントから辿り着いたゴール。解答。


 それを唯へ伝えるために、今、僕は──


 「そう。それで?」


 「はい。つきましては、この解答をもって仲直りをしていただけないかと……」


 ──僕は、額をカーペットに擦り付けるタイプの土下座をしていた。


 大丈夫。屋内だから床の上だ。



 謝罪の場、そして出来れば仲直りの場と呼びたいここは、綺麗に整理整頓された唯の家の唯の部屋。

 初めて来たときは荒れ放題だったリビングも、今はスッキリと落ち着いている。

 片付けを手伝ったのも記憶に新しい──ってほどじゃないけど、よく覚えている。


 「……」


 唯は僕の言葉を受け、以来暫くの間、こうして口を閉じていた。

 チクタクと秒針が進む音が、いやに大きく聞こえる。


 「……」


 この爆音の秒針はまだ1周もしていないというのに、体感としては5分にも10分にも感じられる、そんな沈黙。


 それを齎したのが唯なら、破るのも唯だった。


 「……ん。いいよ。

 聞いてあげるから、顔上げて」


 僕は唯に聞かれないよう、ほっと小さく一息ついた。

 一先ずは第一関門を突破できたようだ。

 ゆっくりと顔を上げ、ベッドに女王様よろしく厳かな居住まいの唯を正面に、僕は正座した。

 姿勢が良ければ誠意や謝意も伝わりやすいだろうと浅知恵を働かせて、背筋を伸ばし、おへそをぐっと突き出すように座る。

 そうして姿勢が整えば、今度は僕の番だ。


 「その前に、誕生日おめでとう」


 まずは挨拶代わりに、ジャブから。


 「ありがと」


 唯もこれが枕とわかっているのだろう。自分の誕生日を祝う言葉にも、凛と澄ました表情のまま、眉尻一つピクリともしない。


 相変わらず美人だ。

 ややつり目……と言うより、猫目な感じがとても良い。

 強く美しい表情に圧倒される。


 「コホン」


 僕は軽く咳払いをし、本題に取り掛かった。


 長かった。ようやくだ。



 解答の時間だ。



* * *



 「ごめんね」


 遥の答え合わせは謝罪からだった。

 舞菜達3人が私に協力して出してくれたヒントから、私が何を気にしていたのか、ようやく気付いてくれたみたい。

 逆に言えば、今までずっと気付いてなかったってことだけど。


 だから「ごめんね」か。


 小さくちょこんと正座する遥のつむじがよく見える。

 指ズンしたい気持ちをぐっと堪えて、私は言葉を飲み込むように重く頷いた。


 「……うん」


 遥のことだから、私がキスをした理由を考えなかったってことはないと思う。

 考えた上であのキスを無かったことにしたのは、多分、低すぎる遥の自己肯定感のせいなんだろうなとも、思う。

 「唯が僕なんかを好きなわけがない」とか考えてそう。


 遥は本当に馬鹿だよ。

 普通、遥くらいの年の子だったら、キスのことで頭がいっぱいになるはずなのにさ、なかなか高くならない自己肯定感が尾を引いて、私からのキスなのに、何事も無かったって思えて、その通りに振舞えて。

 確かに変装と女装ってシチュエーションは特殊だったけど、今はもう相手が私ってわかってるんだから、もう少し気にしてくれてもよかったんじゃない?


 それに、私はすっごい気にしてたんだよ。


 これじゃあ私の方が馬鹿みたいじゃん。


 「……ホント馬鹿。

仕事のだって断ってるって話したのに、何にもわかってないんだもん」


 「……うん。唯がそこまで気にしてくれるなんて、思い至らなかった」


 遥は相変わらず、申し訳なさそうに言う。

 「気にしてくれるなんて」って言い方も、「思い至らなかった」って言葉のチョイスも、遥らしくて好き。

 好きだけど、もう少しなんとかならないかな、とも思う。


 実際、遥のミジンコみたいな自己肯定感は、秘密を暴露し合ったあの日から、少しずつ改善していた。

 でも解決はしていなかったってことなんだろうな。

 まだまだ根深いみたい。


 まあ、それはそれとして、今回はしっかり反省させるけどね。

 キスのこと。どう考えていたのか、どういうつもりなのか。詳しく吐かせる。



 そのためには、やっぱりこれしかいない。



 「……ねえ、煙草吸わない?」


 煙草という単語にピクッと反応した遥は、ゆっくりと顔を上げて、ベランダをじっと見つめて、私に視線を戻した。


 「……吸う」


 その表情は、少しだけ、嬉しそうに見えた。



 私はサンダルを、遥は自分の靴を履いてベランダに出ると、あの日をなぞるように、夕陽を眺めながら煙草を吸った。

 雲が多くて前ほど綺麗じゃなかったけど、それでも充分すぎるくらいに澄んだ夕空が広がっている。

 二人して橙色に染まっていると、ふと、気持ちのいい風が吹いて、遥の前髪がかきあげられた。


 遥はこうして不意に風に吹かれたりした時、身体を屈めて顔を隠したり、すぐに前髪を手で押さえたり、あと、たまにマスクをぐいって上げて、顔全体を覆ったりする。

 ともすればそっちの方が変に見えるし、挙動不審なのに、顔を見られたくない遥はそれを反射でやっちゃうらしい。


 そんな遥が、外で顔を晒されても動じない、数少ない場所。

 その一つがこのベランダ。


 「やっぱ風強いね。ここ」


 景色を見つめながら、静かに煙を吐く横顔。

 男子高校生らしからぬ、綺麗なたまご肌。

 バタバタと踊る、さらさらの髪。

 景色の全てを飲み込んだように、オレンジ色に光る瞳。


 こうして遥の顔をちゃんと見るのも、久しぶりに感じる。

 やっぱり、似てる。

 目元とか、やや八の字の眉とか、きゅってしてる口元とか、そういう部分はちょっと違うけど、私じゃない私って感じがして、いい。



 ……遥は私のこと、どう思ってるんだろう。



 嫌われてないといいな。



 めんどくさいって思っててもいいから、嫌われてないといいな。



 未成年に煙草を吸わせる犯罪者って思っててもいいから、嫌われてないといいな。





 好かれてなくてもいいから、嫌われてないといいな。





 吸って、



 吐いて。



* * *



 「遥はあのキスのこと、どう思ってたの?」


 ふと、唯から尋ねられた。


 あのキスのこと。


 あのキスっていうのは勿論、喫煙室でのそれだ。


 よく覚えてる。

 唯からは甘い感じのいい匂いがして、その唇は重力に負けそうなくらいに柔らかくって、情報過多の僕の頭は、沸騰したみたいに熱くなった。

 強烈だったんだ。


 あのキス。


 オケオールのあの日、唯は待ち合わせの時点で結構酔っていたらしい。

 だから僕は、あれはお酒の勢いでやっちゃったものだと思ってた。

 あのキスにはそれは勿論驚いたし、良かったし、興奮もした。

 サーモグラフィで撮影したら、どっかの秘密結社の褐色銀髪クズ男よろしく、ある一点が真っ赤に映ったはずだ。


 でも、あの時点でもそうだけど、司馬と桜井との話し合いでもそうで、僕から唯への、そして、唯から僕への好意というものは認められなかった。

 僕は女装をしていたし、唯の気持ちはわからなかったしで、それは当然なんだけどさ。


 それから数日して、唯から本業は女優だということを告白された。

 女優業。

 それを聞いた僕には、新たに一つの考えが浮かぶ。


 女優であれば、仕事上どうしてもそういうシーンの撮影だってあるだろう。

 唯ほどの人気があれば、仕事も多く、キスだって何度も経験しているだろう。


 それを踏まえ、


 あのキスも特にこれと言った重要な意味なんてなくて、ただの気まぐれでしたものなんだろう。


 と、僕は結論付けた。

 見事にストンと、腑に落ちたんだ。


 勿論、気まぐれじゃなかったら。というのだって考えた。

 何か理外の力が働いて、唯が僕のことを好きだったとか、僕に欲情してただとか……


 なんて、そこで浮かれきれないのが僕だ。


 当然の疑問に躓くのが僕だ。


 疑問。


 あのキスは、僕にしたものだったのだろうか?


 という疑問。


 答えはもちろん、「いいえ」だ。


 何故なら、あれは女装した僕、遥ちゃんにしたものだからだ。


 そして、それを裏付けるような出来事もあった。

……いや、何事も無かったから、裏付けられたって感じなんだけどさ。


 唯の家に初めて行った日以降、度々、それなりに出来上がっていた唯と遊んだことがあった。

 そう、酔った唯と会った事なら、実は何度かあったんだ。

 でもキスは、後にも先にもあの一度だけ。

 へべれけだったり、ほろ酔いだったり、酔いの具合は日によってまちまちだったけど、それでも僕への接触は、肩や背中を触ってくれたり、頭を撫でてくれたりと、軽いボディタッチが精々だった。


 僕にはボディタッチだけなのに、遥ちゃんにはキス。


 それはつまり、あのキスは遥ちゃんにしたものだという証明に他ならない。


 これでQEDだと思った。


 思ったらだ。

 今度はそう、月曜日だ。

 僕は唯から、仕事においてキスをNGとしていることを聞かされる。

 それによって僕は、唯は意味もなくキスをしてくるような人じゃないんじゃないか?と意見を鞍替え、あのキスには何か意味があったんじゃないか?と思い直した。

 考えがあっちに行ってこっちに行って、それでもやっぱり、あのキスは遥ちゃんにしたものという前提を覆すには力及ばず、どうしたらいいのか悩んだ僕は……


 僕は……


 ……僕は、遥ちゃんのことが大嫌いになった。

 現状、唯からキスをされていることに間違いは無いわけだから、それはもう恨んだ。


 僕もしたかったのに。

 してほしかったのに。


 唯からキスをされたのは、遥ちゃんだけ。


 その事実に一通り悶え、ようやく落ち着いた頃──と言っても通話中だったから、割と一瞬の事だったけど、何にせよ僕は、覚悟を決めたんだ。


 もういい。と。


 あのキスは僕へのものじゃなかったし、それからも一度だってキスはされなかった。


 なら、いつか僕が唯と恋人になれたら、その時に僕からすればいい。


 そうして僕は、あの日のキスを割り切った。

 埋葬して、僕の中で”無かったこと”になったんだ。



 深く、煙を吐く。


 「どうもこうも、あれは僕にじゃなくて、遥ちゃんにしたやつでしょ?」


 一本目を吸い終わった。

 吸殻を灰皿にぐしゃっと押し付けて火を消す。

 舌上に残るヤニ感を麦茶で洗い流す。

 柵に体重をかける。

 ほんのりと温かい夕陽に、頬が熱を帯びていく。


 「……」


 唯は無言だった。

 相変わらずの美しい顔で、無表情で、どこかを見つめながら煙草を燻らせている。


 「酔った勢いとか、特に意味は無いとかも考えたけど、それだったらもっとしてるだろうしさ」


 「……」


 「だから唯が気にしてたことにも気付けなかったんだよね。

 だって僕からしたら、そもそも僕相手にキスをするっていうのがおかしな話だから。

 寧ろ、遥ちゃんにって考えた瞬間、すぐに納得できたよ」


 「……」


 「遥ちゃんで会ったのはオケオールが最後だから、だからキスもあれっきりだったんだよね」


 「……」


 唯は僕の言葉を聞いていないかのように、先程から微動だにしない。


 「えっと……」


 僕も僕で、次に繋ぐ言葉がわからなくなって、結局はお互い無言になってしまった。


 二本目に火をつけ、どこか重い空気とは裏腹に、高く、どこまでも昇っていきそうな煙を見つめる。


 「……その、僕でごめんね」


 結局、そんな言葉が口をついて出ただけだった。

 友達が出来はしたけど、喧嘩なんて生まれてこの方、一度だってしたことがない。

 だから、仲直りの仕方がわからない。

 今、唯がかけてほしい言葉も、反応を示してくれる言葉も、僕にはわからない。


 自分の意見や気持ち主張して、相手もそれと同じことをして、非がある方が謝罪をする。

 僕は「仲直り」というものを、これで完結するシステムのようなものだと思ってた。


 唯の意見と気持ちは、今日という日付けからもわかる。

 唯なりに気にしてたあのキスを、僕は無かったことにした。

 僕じゃなくて遥ちゃんにしたものとはいえ、忘れられるのは気分のいいものじゃないことくらい、少し考えればわかるのに。


 唯の


 「何で覚えてないんだ」


 っていう、怒りと空しさ。


 僕はそれに対して謝罪を述べて


 「あのキスは僕ではなく遥ちゃんにしたものでしょ?」


 と主張し、


 「とは言え、なかったことにしたのはごめんなさい」


 そうして、弁明と謝意を示した。


 これで仲直り出来ると思うじゃないか。

 システムなら、条件は満たしてるんだから。

 それなのに唯はこうして無言になり、僕の姿が見えず、声も聞こえていないかのように、まるで、僕がいないかのように振舞っている。



 ……人に許してもらうっていうのは、こんなにも難しいことだったんだな。



 「……ごめん」


 やり場のない視線が山の向こうへと移る。

 そこにあったのは、太陽が山に吸われ始める様子だった。


 それらはすぐに、何も見えなくなった。



 「うるさい!!」



 視界の外で、唯が声を張り上げた。


 気付くと目の前は真っ暗で、不思議なほどいい匂いがした。

 甘くて優しい、どこか嗅ぎ覚えのある匂い。


 柔らかくて暖かい何かが、僕の両頬に触れている。

 それによって僕の顔は押さえつけられているのか、首から上が上手く動かせない。


 視界の端に僅かにオレンジ色の空が見え、黒い何かがふわりと靡いた。

 真っ暗に思えた視界は、その殆どを逆光によって黒く塗りつぶされた何かと、黒くてツヤがあってさらさらしてて、少しふんわりとした何かに覆われているだけだったと気付く。



 唇には、重力に負けそうなほど柔らかい何かがあてがわれていた。



* * *



 遥の、「キスは自分にじゃなく遥ちゃんにしたもの」っていう前提が、まるで、私とキスしたことを忘れたがっているように、嫌がっているよう聞こえた。

 それに「僕でごめんね」なんて。

 遥には、私が遥にキスしたことを後悔しているように見えたんだろうか。


 色々なものが溢れ出しそうになって、堪えて、堪えて、


 「ごめん」


 消え入りそうな声でそう聞こえた時には、弾かれたように身体が動いていた。


 私は遥にキスをした。


 「──んむっ!?」


 悶える遥から声が上がる。

 それを無視して私は遥の唇に自分の唇を強く押し付け続けた。


 暫くして、遥の頬を抑えていた両手を離すと、遥はぺたんと尻餅をついた。

 私を見つめたまま、部屋の中までじりじりと下がっていく。

 口元を手で覆う遥は、わかりやすく目を白黒させていた。


 「えっ……なっ……」


 風が吹いてカーテンが躍る。

 遥は言葉にならない声を発しながら、私を見上げている。


 私が堪えていたものは、止め処なく溢れていた。


 私はぼろぼろと流れる涙を無視して、声を荒げる。


 「私はあれからずっと遥にしたかった! でも出来なかったの! 何でかわかる!?」


 好きな人に、はしたないって思われたくなくて、でも昔したキスは覚えててほしくて、


 忘れないで。って……


 でもそんなこと、恥ずかしくて、言えなくて──……


 「えっ、と……?」


 もうぐちゃぐちゃだ。


 私は遥の胸ぐらを掴んで無理やり上体を引き起こすと、今度は何度もキスをした。

 ちゅってする可愛いものじゃない。可愛くない、ぶちゅって感じのを乱射した。

 唇でも、頬でも、顎でも、もう関係無かった。

 なんでこんなことをするのか自分でもわからなかったけど、これが一番伝わる気がした。



 「はぁ……はぁ……嫌なら、嫌って言ってよ……」


 腕が疲れて、息も絶え絶えになったころ、私の動きは自然に止まった。

 その間遥は一切の抵抗をせず、されるがままだった。

 何もせず、何も言わず。

 髪と胸元の乱れた遥は、力なく、仰向けに倒れた。


 「……僕だって、したかった。

 僕もして貰えたらって、何回も思ったよ」


 遥は窓の外をぼんやりと見つめながら、掠れた声で呟いた。


 その瞳が、


 声遣いが、


 私には、今のキスまでも無かったことにしようとしているように見えて、


 「なら、遥からもすれば良かった! なんでしてくれなかったの!? そんなに私とキスするのが嫌!?」


 結局は大きい声を出して、遥の気を引こうとすることしか出来なかった。


 「死ぬほど嬉しいよ。でも僕からなんて、付き合ってもいないんだから、出来ないよ」


 「なら──」


 「告白だって、今の僕じゃまだ迷惑をかけるだけなんだから、しょうがないでしょ」


 遥は私の次の言葉を遮って、吐き捨てるように言った。


 腰を上げて、そのままベランダへと出て行く。


 煙草に火を点けて、柵にもたれて、フーっと細く煙を吐いている。


 そんな後姿がレース越しに見えて、



 まるで、全てを諦めているようで、





 私の中で、何かがプッツンした。





* * *



 ベランダに立ち、沈みかけた夕陽を浴びて黄昏る。

 鼻で息をすると感じるのは、唯のリップの香りや、何故か甘く香る唾液の匂い。

 僕は控えめに言って、滅茶苦茶に興奮していた。


 だって、好きな人からのキスラッシュだよ? そんなの、気が触れたっておかしくないでしょ。

 正直今の唯との会話も、殆ど覚えてない。


 それどころじゃなかったんだ。本当に。


 だってあのキスラッシュは、紛れもなく僕にしてくれたものなんだ。

 「好きな人」とか「恋人」にしかしたくないと言っていたキス。それの乱れ打ち。


 あそこで母さんとお祖母ちゃんの笑顔を思い出さなかったら、僕のワンフォーオールはフルカウル100%、エジャキュレーションスマッシュ待ったナシで、数億の命を無駄死にさせてしまうところだった。

 そんな醜態を晒してしまえば、唯は静かに涙を流し、舞菜たちからはばい菌のように敬遠され、司馬はともかく桜井なんかは、侮蔑の視線を向けてくるかもしれない。


 そんな悲劇の未来を回避し、僕は無事ダイバージェンス1%の向こう側、シュタインズ・ゲートに辿り着くことが出来た。

 この落差の激しい緊張と緩和。四肢が思わず細長い小枝のように頼りなくなってしまった。


 僕は小鹿のように震える足を落ち着けるため、煙草に火を点けた。


 しかし駄目だ。立っていられない。


 倒れるように柵にもたれかかり、絞り出すように煙を吐く。


 「遥ッ!正座ッ!!」


 不意に聞こえた大声に、僕の膝は完全にイッた。

 がくがくと震え、情けなくも柵にしがみつきながら、僕は慌てて背後を振り返る。


 そこには僕の目の錯覚じゃなければ、大日如来の化身、お不動さんこと不動明王が佇んでいた。


 「えっ!?」


 「早くッ!!」


 あ、目の錯覚だった。

 唯だ。

 表情的に多分、ブチギレの唯だ。


 ……えっ、何で?


 とはいえ、とても逆らえる空気じゃないことは僕でもわかる。

 僕は煙草の火を消すと、言われるがままに正座した。

 背筋を伸ばし、おへそをぐっと突き出すように。


 膝や脛、そして何より足の甲に体重が乗る。

 凹凸が激しいベランダの床ににごりごりぐりぐりと押し付けられる痛み。ともすればこれだけで拷問格だ。

 実際そういう拷問もあった気がする。ギザギザの石の上に正座させられて、膝の上に重石を乗せるやつ。


 それには及ばないにしても、これはこれで痛い。死ぬほど痛い。

 ……けど、そんなこと死んでも言えない。


 こんなに怒った唯は初めて見る。

 いっぱいキスされた興奮も、今となっては無限の彼方。サーモグラフィも真っ青だ。


 ……となればもう、心頭滅却しかない。


 「スゥーーーー……」


 僕は深呼吸を試み、深く息を吸った。


 「遥!」


 「どぅふぅ!!」


 そして全て吐いた。


 太腿に重量がかかる。

 唯が僕の膝の上にいる。

 早い話が対面座位だ。


 「唯っ!?」


 唯のお尻が、僕の太股に体重をかけてて……

 唯のその部分が、僕のその部分と密着してて……


 ……えっこれ挿入ってない!? 大丈夫!?


 僕の視界の下半分は、控えめながらも確かに実る、二つの果実に埋め尽くされていた。

 正面には唯のご尊顔が、下にはもはやR-18なアングルがある。下手なAVより……な光景だ。


 「遥、聞いて」


 どこを見てもヤバい。

 あっちこっちと落ち着かない僕の視線だったが、バシン、と、挟み撃ちのビンタによって強制的に正面を向かされた。

 唯の暖かい両手が、僕の両頬に添えられたのだ。


 「う、あ……」


 目と鼻の先に、この世で一番綺麗な顔がある。

 僕の大好きな、唯の顔だ。

 その頬は茜色の空よりも赤らんでいて、くりっとした大きな瞳は、いつかのように酷く潤んでいる。


 唯はきゅっと目を閉じると、数秒後、意を決したようにカッと見開いた。



 「遥のこと、大好き! めっちゃ好き!」



 そして、素っ頓狂なことを言った。



 ──ように感じるけど、わかる。

 いや、わかってる。

 いくら皆から「おおばか」の烙印を押されるような僕でも、唯が今言った言葉の意味くらい、わかる。


 「遥はどう!? 私のこと好き!?」


 唯の顔、すごい真っ赤だ。

 全身の血が顔に集まったのかってくらい真っ赤だ。


 「あっ、えっと……」


 返事なんて、もうとっくに決まってる。

 僕が唯のことをどう思ってるのかなんて、僕が一番わかってる。


 けど、震えて声にならない。

 だって、僕の好きな人が僕のことを大好きって、めっちゃ好きって、そう言ってくれたんだ。

 今だって、嬉しすぎて、真っ先に叫びだしたい気分なんだ。

 でも今叫んだら、あまりのうるささに、唯の耳はキーンてなるに違いない。


 違いない……


 目と鼻の先にある、唯の顔。

 猫目で、アーモンド型の瞳。

 酷く潤んだ、その瞳。



 それらがどこか、虹色に見えた気がした。



 「だっ、大好き! 世界で一番大好きだ!!」



 今まで一度も出したこともないような大声でそう言って、顔がガンガンに焚かれていくのがわかった。

 勢い余って、すごいばかなことを言った気がする。

 世界一って……


 でも、なんか、虹色で、


 それはきっと、5色で、


 それが、今ここしかないタイミングって、僕に思わせたんだ。


 「ん!じゃあほら!」


 「う、うん……」


 視界の端で、コンクリートの柵の隙間から見えた日の入り。

 細く、でも確かに、僕らを照らす光。


 これから僕は、そんな夕陽を受けながら、オケオールの時のような女装でも、さっきのような不意打ちでも、今さっきのような乱射でもない。

 世のカップル連中がするような、どこにでもある、ありふれた、普通のキス。


 ──をする前に、言わなきゃいけない。

 言葉にしなきゃいけない。

 明確な言葉で伝えて、その上でしなきゃいけないし、そうしたい。


 「えっと、その……」


 唯の肩を掴む手に力が入る。

 目と目が合う。


 唯の瞳に僕が居るなら、僕の瞳には唯がいるんだろう。



 「ゆ、唯が好きです」



 僕を閉じ込めた大きな瞳が、その倍くらいに大きくなった気がした。

 それぐらいに目を見開いて、肩を震わせて、きっと、上がりたいだろう口角を、言葉と一緒に、必死に噛み締めていて、



 「僕の彼女になってください」



 じんわりと涙を浮かべながら、それでも最後には満面の笑みに変わって。



 「うん……うん!」





 今更そう簡単に割り切れないから、敢えてこう言おうと思う。





 これが僕のファーストキスだ。



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