「えっと……何から話そうか」


 ここは唯の家の、唯の部屋。

 今、僕達は、向かい合って正座している。

 机を挟んで、二人きりだ。



 駅前で見た、サングラスをかけたモデルのような女性。

 大勢の記者や野次馬に囲まれ、晒し上げられていた女性。

 さすがに見ていられなくなり、僕が助けた女性。

 

 その正体は唯だった。


 司馬から『もうそろ着く』と連絡が入ったから、急いで待ち合わせ場所に向かおうとした矢先、突然唯から電話がかかってきたんだ。

 出てみると「後ろを見て」なんて声がスピーカーから聞こえる。

 振り返ってみるとそこには、今の今まで話していたモデル風のその人だけがいた。


 パッと見じゃ全然唯ってわかんなかった。

 ウルフも最近じゃ別に珍しくないしさ。

 でも、僕が真っ先に名前を挙げたのは唯だった。


 振り返って、スマホを耳に当てている様子が目に入って……


 ……信じられないものを見るような目で、僕を見てて……


 考えうる限りの最悪を想定して、真っ先に浮かんだ”今一番そこに居てほしくない人”の名前が、口から零れたんだ。

 それが唯で、それが正解だったってだけだ。



 その後僕達は、お互い気まずさを感じながらも「一先ずは」と言うことで、唯のマンションへ移動した。

 マンションの付近や入り口前などにはもう、報道陣の姿はなかった。

 でも、何があるかはわからない。

 念のため僕達は、人目につかないようそそくさとエレベーターに乗り込んだ。


 そうして今に至る。



 僕が「友達に電話して迎えに来てもらおう」的なことを言ったからなんだろうな。

 ……てかそうだ。「友達」で真っ先に僕に連絡してくれたんだ。

 それに関しては素直に嬉しいな。

 

 ……うん。だいぶ予定が狂ったけど、やることは変わらない。



 現在僕達が居るのは、七階西側の角部屋。

 唯の家の、入ってすぐ右手にある唯の部屋。

 案内されて入ってみると、綺麗に整理整頓されている……と言うよりも、物が少ないって感じの部屋だった。

 同じ女子高生の桜井と比べると、かなり落ち着いた部屋に感じるな。


 ……って違う!なに呑気に女子の部屋を見回してんだ僕は!


 「あのっ……ごっ、ごめんなさい!」


 僕は土下座をした。

 額をカーペットに付けていいものか悩んだ末の、付いているように見えてその実、床スレスレで静止している。そんな土下座だった。


 罰ゲームで女装して下校したこと。

 その道中、車を囲んだ舞菜と凛々を見かけたこと。

 その場限りの仲だと思っていたから、女装は黙っていたこと。

 オケオールの日はまだ言い出す勇気がなかったこと。

 今日、本当のことを伝えようとしていたこと。


 全てを話した。


 女子として知り合ったことは偶然とは言え、事実を告白する機会はいくらでもあった。

 実際、アプリでやり取りしてる時だって、言おうと思えば言えたんだ。

 ただ、唯や皆が僕を女子だと思っていたからこそ、あのように密に接してくれていたのも事実だと思うと、どうしても僕の足は竦んでしまった。

 僕が男だとわかったら、少なからずショックを受けるだろうことは容易に想像がついたし、顕わにされる嫌悪感に耐えられる自信もなかった。


 であればやはり、勇気を出すには時間が必要だった。

 だから僕は、なかなか言い出すことが出来なかったんだ。


 口数に反比例するかのように、僕の視線は落ちていった。


 「騙してたわけじゃなくて……今日もこの後友達に服を借りて、メイクもしてもらって、その上で……って……」


 それじゃいけないと思って、顔を上げた。


 うなだれるように顔を伏せって、肩を震わす唯の姿がそこにはあった。


 ……当然だ。

 あの距離感の近さは、相手が遥ちゃんだったからだ。同性だったからだ。

 それが「実は男でした」なんて、知りたくもなかっただろう。


 結局僕は、上げた顔を俯かせた。

 合わす顔がなかったんだ。

 全部を話した上で友達になってもらいたいだなんて、虫が良すぎた。

 結局は自己満でしかなかったんだ。


 包み隠さず話すことが正解とは限らないってことが、よく分かった。


 「その……ごめん」


 悔しさに歯噛みする。

 膝の上に置かれた拳は、いつの間にか強く握られていた。


 前髪の隙間からちらりと向かいを伺ってみても、唯がこっちへ笑いかけてくれていたりはしない。


 もしかして。なんて期待は簡単に打ち砕かれた。


 唯の震えは激しさを増している。

 小刻みだったものが、少しずつ大きくなっていく。

 一定のリズムを刻むように、上下に激しく……



 ……ちょっと待った。これ──



 「──笑ってる?」


 僕がそう尋ねると、唯は我慢の限界と言わんばかりに身体を仰がせ、声を上げて笑い出した。


 「っははは!あっはははははっ!!」


 目尻に涙を湛え、大口を開けて、両手でお腹を押さえている。

 早い話が爆笑だ。


 「な、何か面白かった……?

 結構勇気出したんだけど……」


 よくわからない。

 唯がどうして笑っているのか、理解出来ない。


 「あっはっはっはっはっ!!」


 僕が何かを言っても、聞こえていないかのように笑い続ける姿を見ていると、なんだか、全身の力が抜けていくようだった。


 「笑わないでよ……」


 口では不満げにそう呟いたが、正直なところ安堵でいっぱいだ。

 だって、嫌悪感から全身を走った怖気に震えていたわけでも、距離感の近さを後悔して泣いていたわけでもなかったんだ。


 ならもう、それでいい。


 僕はカバンから取り出した麦茶を飲みながら、少しの間笑い続ける唯を眺めていた。



 「はぁ~ごめんごめん。

 でもそっか、男の子だったんだね」


 ようやく呼吸が整った唯は、目元を擦りながら言う。

 結構あっさりと事態を受け入れたようだ。


 「うん……ごめん。

 一応、名前とか学年は本当だけど……」


 「今まで話したことの中に、性別以外の噓はないの?

 好きなものとか趣味も本当?」


 「うん」


 それを聞いた唯は、ふんふんと考える素振りを見せる。

 多分、僕の今までの発言を思い返しているのだろう。

 何かマズいことを言った覚えはないけど、唯の受け取り方によっては……うん。まだまだ気は抜けない。


 僕は異端審問のような、綱渡りのような、そんな気分になった。

 いや、そんな経験無いけどさ。


 「そっか」


 数秒の沈黙の後、納得したようにそう呟いた。

 続けて


 「ねえ、煙草吸わない?」

  

 僕の顔を見ながら、明るく提案してくれた。

 その声音はもちろん、表情も、僕が知ってるいつもの唯だった。

 煙草でも吸いながらゆっくり話そうってことなんだろう。


 「吸う」

 

 僕は一も二もなくそう応える。

 その言葉に返事はなく、代わりに返ってきたのは、ふわりとした笑み。


 唯はサンダルを、僕は自分の靴を履いてベランダに出た。

 橙色の空の下、すっかりと冷えた風が吹く。

 

 「あげる」


 僕がベランダに立つと、唯が何かを手渡してきた。

 それは未開封の煙草だった。

 机の上にあったカートンから取り出されたであろう、正真正銘の新品だ。


 「え、いいの?

 ありがとう」


 併せて貰ったライターで火を点けると、僕達は、どこでもない中空を眺めながら煙草を吸った。


 抱えていたものを下ろせた。


 伝えたかったことを伝えられた。


 そんなカタルシスを感じた。



 あっという間に一本目を吸い終わった。

 僕は一度部屋へ戻って、一箱分の代金を返すためにカバンから財布を取り出した。


 細かい値段はわからないけど、大体500円くらいのはずだ。


 財布を持って再びベランダに出た僕の手元を見た唯は、二本目に火をつける。

 そして、財布を開く僕を制止するかのように、スマホの銀行口座管理アプリの画面を見せてきた。



 そうして彼女の告白が始まった。



* * *



 「いちじゅうひゃく……せんにひゃくまん……?」


 私は手っ取り早いと思い、女優業で得た貯金の数字を遥に見せた。

 かの……彼は、文字通り目を丸くして、画面に釘付けになっている。


 「これ。見て」


 続けて私が見せたのは、オケオールの時に見たあの広告。

 遥が「可愛い」「私達に似てるね」と言った女優。

 つまり私だ。

 ついでに何個か出演した作品の予告などを見せようと思ったんだけど、遥は呆けながらも「みやけゆい……」とぽつり呟いたため、私は画面を閉じた。


 結構キザな自己紹介だったけど、いいワンクッションにはなったみたい。


 「これ……唯……?」


 画面に映る私と、隣にいる私。

 映像の私はメイクもヘアセットもバチバチだけど、目の前の私はすっぴんで、髪はぼさぼさのぱさぱさ。

 だいぶ違って見えてるんだろうけど、伝わって良かった。


 「うん、私。

 私も遥と同じだよ。本当は女子高生じゃない。二十歳はたちだよ。

 本業は女優なんだ」


 「……まあ煙草買えてるから、そりゃ二十歳超えてるか……」


 頬にうっすらと汗を垂らす遥は、開いた口が塞がらないといった様子ながらも、一先ずは飲み込めたようだった。


 結局、りんごジュースは買えなかったな。

 でも麦茶……そういえば、最初に会った時も飲んでたっけ。


 年齢はともかく、女優の方の余韻はまだ引かないのか、「マジ?」なんて言いながら私の出演している広告やCMなんかを次々に再生している遥を見ていたら、二本目もあっという間に吸い終わってしまった。


 私達は部屋へ戻った。

 会話を続けながらテーブルを挟んで座る。


 「びっくりしたよ。二人とも変装して出会ってたなんて」


 「僕の場合は女装だけどね」


 「ふふっ、そうだね」


 軽口を叩き、ようやく緊張が解けてきたのか、両手を後ろにつき随分とリラックスしたような姿勢になった遥を見て、私もつられるように足を崩した。


 「でも二十歳って、なんか凄いね。

 それだけで一気に大人に見える」


 遥は苦笑しながらそう言う。

 成人女性が女子高生のコスプレをして街に繰り出し、本物の女子高生と交流していたということに引いている気配はない。

 遥は遥で女装してたけど、私はそれを聞いても気持ち悪いとかは別に思わなかったから、似たような感覚なんだろう。


 「大げさだよ。

 二十歳だからって、君と何も変わらない。

 堂々と煙草が吸えて、お酒が飲めるだけ」


 「そんなもんなの?」


 「そんなもんだよ。

 ……それに、私なんて特にね」


 今から私は、結構重い話をする。

 女優であることをカミングアウトした今、これも話さなきゃいけないことだと思うから。



 話さなきゃいけない。


 ……でも、話していいかはわからない。


 「どういうこと?」


 話しても困らせるだけなんじゃないか。とか、私のただのエゴなんじゃないか。とか、そんな思いで喉から言葉が出てこない。


 そもそも、高校生に聞かせるような話じゃないんだ。

 きっと遥だって、こんな話……


 言い出そうとして、言い出せなくて。

 私の視線は、遥の顔とお腹の辺りを行ったり来たりするばっかだ。

 頷くようにがくがくと、みっともなかった。

 でも、そうして顔を上げて気付いた。


 遥は真っ直ぐに私を見ていた。


 前髪で顔が隠れてるからはっきりとは見えないけど、でも、重く垂れた前髪の隙間から、遥の目と私の目は確かに合ったのだ。


 「……わ、私……鬱病なんだ」


 気付いた時には、言葉を口にしていた。


 ずっと誰かに聞いてほしかった。

 ずっと私の胸の内にあった、やり場のない気持ち。


 「それで、今はお仕事を休んでるの」


 不思議と後悔は無かった。


 遥なら、聞いてくれると思った。


 「……そっか」


 ”そっか”か。


 ……そうだよね。

 急にこんなこと言われても、反応に困るよね。



 でもごめんね。

 君には私を、もっと知ってもらいたい。


 「リビング、ついてきて」



 何が好きとか、嫌いとか。そういうのだけじゃなくて、もっと、深い私を。



 カーテンを閉じたままのほとんど真っ暗なリビングに、私達は並んで立った。


 「……ここ、私の家族が使ってたの。

 血は繋がってないんだけど、母親とお姉ちゃんの間みたいな人でさ」


 山のようにあって、水のように溢れてくる。

 もう止まる気がしなかった。


 今まで誰にも話してこなかった。

 私の話を聞いてくれる人なんていなかったし、私も塞ぎ込んでしまったから。


 「良い人だったんだけど、今年の冬に……」


 この部屋に来ると、当時の私の無力に押し潰されそうになる。


 「……手、にぎって」


 遥は無言のまま、そっと添えるように私の手を握ってくれた。


 カーテンの隙間から灯りの点いていないリビングへと僅かに差し込む静かな斜陽が、テーブルに置かれた遺影を細く照らしていた。

 目を凝らした遥は、それが女優の”環”と気付いたようで、私の手を握る力が少しだけ強くなった。


 彼の手は少し冷えていた。

 でもそれは凍えるような冷たさではなくて、心地いい、火照りを覚ましてくれるような、そんな優しい冷たさだった。


 思わず私も握り返す。


 同じぐらいの力で手を繋いでいる。

 環さんの顔が浮かぶ。


 私が落ち込んだりしていると、環さんはいつも手を握ってくれた。


 その温度も、感触も、もうハッキリとは思い出せない。

 大好きな手なのに、その感覚を反芻できない。


 「……もう半年以上経ってるのに、全然、立ち直れなくって……お仕事も……出来なくなっちゃって……」


 ぼろぼろと涙が溢れ出した。

 

 頭ではわかってたし、だから遺影だって飾ってた。

 なのに、もう思い出せないんだって思ったら、止まらなくなった。



* * *



 「この家にいるのも、つ、辛くてっ……もう、全部どうでもよくなって……」


 「薬、いっぱい飲もうと思って……変装して……ドラッグストア行った帰り、にっ、舞菜ちゃんとか、君に会ったの」


 「久しぶりに楽しかった、けどっ……ここに帰るとっ、どうしようもなく悲しくなっちゃうの」


 「私がもっと、支えてあげられたらっ良かったのにっ……上手く力になれなくて、だって……何言っても、もうっ、聞いてもらえなかった……からっ……」


 「私の声にっ、もっと力があったら……みんな、私の話、聞いてくれたのかなっ……」


 「結局、環さんはこの部屋で、朝起きた時にはっ、もう……」


 「それまでは、わっ、私なりに色んなこと、言ったんだけど……っあ、相手にっ、されなくて……私と環さんのこと、知ってる人っ、は、心配してくれたんだけど、中には意地悪な人も、いてっ……」


 「遥も見たでしょ……?記者の人たち、酷いんだ。

 最近は減ったけど、でもっ、まだよく来るの。

 だから、女子高生の格好して、外に出てみたらさ……意外とバレなかったんだ」


 「でも、それももう、駄目みたいでっ……なんか……疲れちゃった」


 「遥があのおじさんに突っ込んだの、あれ、すごくカッコよかったよ」


 「それは……ありがとう」


 唯は途切れ途切れに話してくれた。

 しゃくりあげながら。鼻をすすりながら。


 僕は黙って話を聞いていた。


 それしか出来なかった。 

 

 いきなり鬱とか言われても、僕の周りにそういう人はいないし、僕自身なったこともない。

 当然何を言えばいいかとか、どうしたらいいかとか、そんなこともわからない。

 

 でも、凄く重大なことを打ち明けてくれたことだけはわかった。

 鬱とか、大切な人が亡くなったこととか、あんまり人に言いたくないだろうに。

 なのに、唯は震えた声で切り出してくれた。

 泣きながら話してくれた。

 きっと、自分のことを、もっと僕に知ってほしいんだ。

 

 そんな唯に対して僕は、何を言えばいいのかわからない。

 もしかしたら、何も言ってほしくはないのかもしれない。

 けど、わかってて何も言わないのと、わからなくて何も言えないのは、天と地だ。


 そう考えてはいても、かけるべきだろう言葉は見つからない。

 唯の辛さは、きっと、僕の想像を絶する。

 だから「大丈夫だよ」とか「辛かったね」とか、そんな安易な言葉で良いはずもない。


 ……考えても仕方がない。

 わからないことに変わりはないんだ。

 

 「……」


 結局何も言えなかった僕は、気休めのような行動を選択した。

 繋いだ手にもう一度、ほんの少しだけ力を入れたんだ。

 彼女にも気付かれないような、そんな少しの力。

 別にそれで何かを伝えようだとかは思ってない。

 ただそれ以外に何も出来なかっただけだ。

 

 唯にも気付かれないような力。

 もしかしたら入っていなかったかもしれないような微弱な力。

 しかし、存外それは伝わってしまったようで、彼女は赤くなった目元を溶かすように細めると、そっと握り返してくれた。


 「ありがと」なんて声が聞こえてくるかのような眼差しだった。


 こんな、言葉一つかけられない僕に、礼なんて……


 そう思いつつも、僕は胸がすくような、救われたような気持になる。

 心は正直だ。


 この人の笑顔に、僕は弱い。


 

 僕達は特に何を言うでもなく、じっとその場に立ち尽くしていた。


 「煙草吸おっか」


 そんな沈黙を破ったのは唯だ。

 僕は無言で頷く。


 ……気を遣われたんだろうな。

 情けない。


 「手、火点けれなくなるから、もう大丈夫だよ。

 ありがと」


 「あ……うん」


 するりとこぼれるように離れた手を見て、少し、名残惜しいと思ってしまった。


 唯の手は暖かかった。

 指は細くて柔らかくて、手のひらは薄くて、やっぱり柔らかくて。

 なのに暖かいから不思議だ。

 握っていると安心感を覚えるような、不思議な手だった。


 靴下が床を擦る音。

 衣服が擦れ合う音。

 電気は点けていない、ほぼ暗闇のような廊下を過ぎる。

 唯の部屋は、窓から入り込んだ陽の光でオレンジに染められていた。


 「なに、まだ繋いでたいの?」


 先に部屋に入った唯は振り返る。

 夕陽が差し込んで、唯を影絵のように浮かび上がらせる。

 その顔は逆光でよく見えないけど、笑っているような気がした。


 そんな彼女の姿は、まるで初めて会った日のようで


 「かっ、からかわないでっ」


 勝手に上がる口角と、火照ったような頬をごまかすため、僕は大きく顔を逸らした。

 色んな思いが溢れそうになって、そうするしかなかった。


 「ごめんごめん。

 ……あ、ねえ、外凄いよ」


 唯に連られてベランダへ出る。

 すると、急に吹いてきた強い風で僕の前髪はかき上げられた。


 目隠れにとって向かい風は大敵だ。

 顔を晒されてしまうから。


 バタバタと踊る前髪を、僕は慌てて直そうとして、でも、やめた。


 そんなことがどうでもよくなるような光景が、そこにはあったからだ。


 「うわぁ……」


 思わず驚嘆の声が漏れる。


 視界いっぱいに広がるのは、橙色の世界だった。

 色水が入ったバケツをひっくり返したような、鮮やかで美しい夕焼けの景色だ。


 空を這うように伸びるうす雲は、まるで発光しているかのように明るくて、鉱石の雲母を連想させた。


 遠くに聳える山から伸びた影は、この景色の全てをゆっくりと飲み込んでいく。


 眼下に広がる建物。

 駅を出ていく六両の電車。

 蟻のように小さい人々。

 遠くを流れる川。


 それらは西の空から照らされて、燃えているかと見紛うほどだに色付いていた。


 僕は前髪を手櫛で直すのも忘れて、その景色に見入ってしまった。

 通常よりも視力が上がっているかのような感覚だ。

 それくらい、目の前の光景を隅々まで見渡せた。


 今、僕は、どんな顔をしているんだろう。


 唯はこちらへ身体を向け、コンクリートの手摺に肘をかけながら、煙草に火を点けている。

 その瞳は、外の景色へ投げやりに伏せられていた。

 まるで、この景色に興味がないかのようだ。 

 そんな瞳は一度閉じられ、再び開かれると、今度は真っ直ぐに僕を射抜いてきた。


 先程の涙で酷く潤んだそこは、この景色のすべてを閉じ込めたような、そんな幻想的な色をしている。

 そこには当然僕もいた。


 前髪はかきあげられたまま、素顔をむき出しにした僕が。


 一秒か二秒か。はたまたもっとか。

 それに気付いた僕が顔を逸らすと、唯もまた、僕から夕焼けへと視線を移した。

 山に呑まれていく夕陽に顔を染められながら、


 吸って、


 吐いて、


 ぽつりと呟く。


 「もうすぐ陽が沈むね」


 憂うような表情を浮かべる唯は「フゥ」と煙を吐いてから、視線をこちらへ向け直した。


 「ねぇ。

 遥ってさ、人助けが好きなの?」


 突拍子もない急な質問だった。


 「人助けが好きか」か。


 ……どう伝えたらいいんだろう。

 ありのまま話すのがいいかな、やっぱ。

 

 ありのまま……うん。大丈夫だろ。

 別に隠すようなことでもないし、そもそも聞いてきたのは唯だ。


 ドン引き……なんてこともないと思う。


 ……でも、引かれるとしても、僕は話さなきゃいけない気がする。

 というか、隠したくない。話したい。


 他の誰でもない、唯にだからそう思う。

 

 脳裏に浮かぶのは、リビングでの唯。

 ぼろぼろと涙を流す、その横顔。


 「好き……というか、あの、笑わないで聞いて欲しいんだけど……」


 唯には、僕をもっと知ってもらいたい。

 何が好きとか、嫌いとか。そういうのだけじゃない。本当の僕を。



* * *



 遥は煙草に火を点けた。

 足元へ視線を落とし「フゥー」と長めに煙を吐く。

 その様はまるで、深呼吸をしているかのようだった。



 「僕は、僕が、大嫌いなんだ」



 そうして彼の告白が始まった。



 「世の中には”僕”か”僕以外”かしかいなくて、僕以外は僕より遥かに優れてるって思ってたんだ。

 暗くて、ひねくれてて、暇さえあれば自分を卑下してた」


 「高校進学を機にこっちに引っ越して来たんだけど、そんなんだから半年くらい経っても友達が出来なくてさ。

 別に欲しいとも思ってなかったんだけど……こう、他人と関わってないと、生きてる意味とかあるのかなってだんだん思うようになって……

 ネットとかにたまにいるじゃん、生きてる意味がないって感じて死にたくなってる人。

 まんまあれになったの」


 「深刻ないじめを受けたとか、虐待を受けたとか、何か大きな失敗をしたとか、人を酷く傷付けたとか、そういうことはなかった。

 家族にも普通に愛されてると思うし、概ね幸福なんだとは思う。


 でも何でだろうね、僕もよくわかってないんだけど」


 喋るために息を吸い込む音がする。

 緊張からか、震えていた。


 「この世のどれか一つにも僕は必要じゃない気がして、生きていたくなかったんだ」


 前髪と煙草を持つ手で、その表情は伺えない。

 それでも彼の煙草は、先に火を点けた私のものよりも減りが早かったし、それを挟む指先は、今にも煙草を落としそうなほどに震えている。


 けどそのすぐ後、震えはピタッと止まった。


 「去年の冬くらいかな。たまたま道端でクラスメイトが困ってたんだ。

 大したことでもないのに時間がないとかなんとかって。

 手が空いてたから少しだけ手伝った。

 そしたらその人とその彼氏が、僕に凄く感謝してきてさ、僕を凄い人かのように扱ってくれたんだ」


 「こないだ話した、桜井と司馬」


 そう言って煙を吸う遥は、隙間から見えた口元を僅かに緩めた。

 誰に向けているわけでもないのに、俯きながら、照れくさそうに。


 「小学生の頃にも、一応、友達みたいな人はいたんだけど、学年が変わる頃には疎遠になってたし、特別仲が良かったわけでもなかった。

 中学生の頃はもう、完全に一人ぼっちだよ。

 ひねくれてたし、なんか、新しく関係を築き始める時の、あの気を遣い合う気まずい感じとか、ちょっと意見が違うからって、腫れ物を扱うようになる空気とか、そのまま……疎遠になる感じとか……そういうのが辛くて……」


 「でもいざ孤立したら、そんな、今まで煩わしかったものが全部なくなってさ、楽になったんだ」


 「凄く楽だった……でも──」


 この子……



 「──でも凄く……虚しかったんだ」



 そうか──遥は諦めてしまったんだ。

 人との距離感が上手く測れなかったり、意見の衝突や価値観の違いから、人と関わる楽しさや素晴らしさよりも、辛さや寂しさばかりを感じてしまったんだ。


 私には環さんがいたけど、遥にはそういう人がいなかったんだ。


 「あの二人は、休み時間に他愛もない話をしに僕の席まで来てくれたり、一緒にお昼を食べたりしてくれた。

 おかげで、体育のペア組みにも困らなくなった。

 居心地がよくて、これを失くしたくないって思ったんだ」


 「でも僕には、こんな僕である必要性が、理由がわからなかった。

 だから僕は、なるべく人を助けるんだよ。

 困ってる人の力になれば、少なくともその場ではいい奴になれるし、それに、相手にとって必要な存在になれるってわかったから」


 「だからね、僕が誰かに何かをするのは、全部僕のためなんだよ。

 僕みたいなのはいい奴じゃないと、すぐに必要じゃなくなるから」


 遥は寂しそうに笑っていた。


 「いい奴なら、相手から話したがってくれるし、意見が違っても合わせてもらえる」


 「……僕はこうでもしないと、ろくに人と関われないんだ」


 「人助け……うん。

 好きではないかな」


 「そういえば、僕は僕が嫌いだけど、遥ちゃんは結構好きだったな。

 すぐに友達が出来たし……免罪符って言うのかな、そこにいていい権利を標準装備してるみたいでさ」


 「でもそれと同じくらい、そういうところが嫌いだったな」


 私は黙って遥の言葉を聞いた。


 免罪符とか言われても、よくわかんない。

 それに、そんなもの無くても、私は君と関わっていたい。


 なんて思っていた。


 「人との交流って、甘い毒みたいだ。

 気を遣うから凄く疲れるのに、この味を知ってしまったら、もう、一人でなんていられない」


 吸うことを忘れられた煙草はもうとっくにフィルターまで火が届いていて、灰は風に飛ばされた。

 遥はそれを見て吸い忘れていたことに気付いたようで、吸殻を灰皿へ捨てると次の一本を取り出し、もはや慣れた手つきで火を点けた。


 「私は好きだよ」


 陽はいつの間にか沈んでいた。


 「それは遥ちゃんだからじゃないの?」


 「ううん。だって、性別以外は本当なんでしょ?」


 遥は、自分が自分であることに嫌悪感を抱いている。

 真意はわからないけど、遥は自分を好きじゃないってことは、よくわかった。

 思えば初めて会った日も、自分の顔を好きじゃないと言っていた。


 それでも私は、私の顔と似ている遥の顔は好きだし、色んな話をしてきた中に嘘がないなら、やっぱり私は遥が好きだと思った。


 「なら私のことを呼び捨てにしてくれたり、一緒に煙草吸ったりしてくれたのも本当でしょ?」


 そう、そうだ。


 「私達二人とも、ラーメンだったら?」


 私は促すように言った。


 「……醬油が好き」


 遥は少し言い淀んで、でも、言ってくれた。


 「季節だったら?」


 「春が好き」


 「朝よりも夜が好きだけど」


 「同じくらい夕方も好き」


 「ほのぼのしたゲームが好きだけど」


 「FPSも嫌いじゃない」


 そうしてノってくれた遥と二人で交互に言い合った。

 思いの外テンポがよかったから、私は笑ってしまった。

 遥はどこかばつの悪そうな顔をしていたけど、その表情は少し照れているようにも見えた。

 それを見て安心した私は一度部屋へ戻ると、キッチンの冷蔵庫からチューハイを二本取り出して、一本を遥へと手渡した。


 未成年飲酒?今更でしょ。


 戸惑いつつもそれを受け取った遥は「ありがとう」と小さく発する。

 私は手に持った缶を「乾杯」と言って遥の持つものと軽く打ち付けた。


 窓の外に脚を出し、私たちは並んで座った。

 肩が、二の腕がくっつく。


 私はそのくらいの接触ならあまり気にならなくなっていたんだけど、顔を逸らしている遥の耳は、少しだけ赤くなっていた。

 示し合わせた訳でもないのにプルタブを開けるタイミングが被ると、お互いに顔を見合わせ、今度は遥も肩を揺らして笑った。

 その時ばかりは肌が触れ合っても気にならない様子で、それが嬉しかった私もまた、声を出して笑った。

 こういう小さな事で笑い合えてる時間が、ずっと続けばいいと思った。



 お互いの呼吸が落ち着いた頃、私を口を開いた。


 「今まで話したことも、助けてくれたことも、全部本当なんでしょ?」


 いつも伏目がちだった遥は長く垂れた前髪の隙間から、少しづつだけど私の目を見てくれるようになったと思う。

 私が見返すとすぐに髪を振って目を隠すけど。


 「……助けたのは打算というか、僕のためだったけどね」


 遥はニヒルに自嘲する。

 遥ちゃんの時には無かった、卑屈な部分が少し顔を覗かせているんだろうな。


 打算だったとしても、助けてくれたことに変わりはない。

 なのに、遥はその事実に対して全く自信を持っていないようだった。


 人を助けて、仲良くなる。


 そういうただの仕組みとしてしか思ってなさそうで、自分にはそれしかないって決めつけてるみたいな言い方だ。


 遥の友達皆が、遥のいいところはそこだけって思ってるって、思ってそうな言い方。


 ……心外だ。


 「あのね、確かに私は遥に助けられたよ。

 でもだからって、困ったら助けてくれるからって、そんな事務的で搾取的な理由で君と一緒にいたいわけじゃないよ」


 「……え?」


 「頼りにはしてるけど、困ったら遥に助けてもらえばいいって、何か面倒があったら遥になすりつければいいって、そんな風に遥のいいところに寄生してるわけじゃないってこと」

 

 「価値観も合うし、話してて楽しい。

 一緒にいて楽しいから、私は遥といたいんだよ」


 私のその言葉に、遥は心底驚いているような、理解が追い付いていないような、そんな様子だった。

 

 この子は多分、同年代の他の子よりも色々なことを考えている。

 けれどそれが起因して、人のいいところや凄いところが実際よりも大きく見えているのかもしれない。

 自己肯定感の低さも相まって、肥大化したそれと自分を比べて、自分には何も無いって悲観的になって、卑屈になって、卑下して、より自分を嫌いになっていったんだと思う。


 だから司馬君たちや舞菜ちゃんたちと仲良くなった今でも、相手が困っていたら助けて、必要とされようとすることくらいでしか、関係を続けられないと思ってるんだ。


 高校生にはちょっと難しいかもしれない。

 だから今まで、誰も何も言えなかったんだろうな。


 本当は大した差なんてない。

 まあそりゃ、多少はあるかもしれないけど。

 自分と他人の間だし、何なら溝だってあるかもしれない。


 でもそんなのは案外、ジャンプ一つで軽く飛び越えていけるような、隙間みたいな距離だったりするんだよ。


 ……受け売りだけどね。


 てかその歳でそれだけ周りを見て、それぞれのいいところに気付けるのって、素晴らしいことじゃない?


 「……そんなこと、初めて言われた」


 そう言う遥の様子は落ち着きがなく、こそばゆいのか、頬をかいていた。


 「こういう話にでもならないと、言う機会もないしね」


 少しの沈黙が流れた。

 私たちは煙草を吸い、缶チューハイを呷る。


 夜空を見上げて一息つく。

 のんびりと、ゆっくりと時間が流れていった。



 一本目を飲み終わった私は、冷蔵庫に次のお酒を取りに行こうと立ち上がった。


 「あっ」


 その様子を見た遥は慌てて残りを飲み干すと、まるで私に追従するように後を付いて来る。

 とてとてって音が聞こえてくるようだ。


 3%のお酒とは言え、一気飲みは危ないのに。なんだか弟が出来たようで、可笑しくて可愛くて、笑ってしまいそうになった。



 新しい缶を持ってベランダに戻った私たちは、さっきまでと同じように並んで窓辺に座った。


 プルタブを開けて、呷って。

 遥は不意に膝を抱えて、もぞもぞと小さく丸まった。


 「唯のことも、唯の言葉も信じれる」


 膝の間に顎を埋め、申し訳なさそうに。


 「……でも僕は、僕を信じれない。

 僕には人と関りを持った経験が殆どないから、こういう時にどうしたらいいかがわからない」


 そう吐露する遥には少し申し訳ないけど、私はそれを聞いて安心した。


 良かったって思った。


 「じゃあ、私が信じてあげる」


 だって、私のことは信じてくれてるんだから。

 それならきっと、私は遥の力になれるから。


 「えっと……?」


 「遥は人を尊重しすぎなんだよ。こんなの、うじゃうじゃいるだけ。

 感情を持ったうるさいだけのただの数。

 尊重は大事だけど、それに値しない奴なんていくらでもいる」


 「……うん」


 「遥も本当はわかってるんじゃないかな。

 だからあの時、おじさんを突き飛ばしたんでしょ?」


 「……うん」


 「万人に必要とされなくってもさ、自分の周りの人から必要とされたら、それだけでもう十分だと思うよ。

 確かに少し前までは友達も、それどころか知り合いもいなかったのかもしれない。

 でも今は、学校にも、他校にも、ここにも、遥のことを損得抜きで必要として、大切に思ってる人がいるよ」


 「倫理的には困ってる人を助けるのは大切なことなのかもしれないけど、まず遥は、自分自信を助けてあげようよ」


 私は、おそらく目があるだろう位置を力強く見つめた。

 この気持ちが届いて欲しかった。


 遥は受け取りたくないんじゃない。

 受け取り方がわからないんだ。

 だから、どうしたらいいかがわからなくて、申し訳ないんだ。


 それから遥は、少し考え込むような素振りを見せる。

 視線を落として、しばらくして、再び。


 「ありがとう……でも……」


 遥は一層強く膝を抱え込むと、震えた声で訥々と続けた。


 「でもさっき、唯に何も言えなかった。

 鬱病って言ってくれて……辛いことまで話してくれて、苦しかっただろうに……なのに、何を言えばいいのかわからなくて、何も言えなかった。

 今の唯みたいに色んな事が言えたら、力になれたかもしれないのに……」


 「……へ?」


 思わず素っ頓狂な声が出た。


 「……遥、そんな高いレベルのいい奴でいたいの?」


 わかった。


 この子、受け取るとかどうとかじゃなくて、与えることしか考えてないんだ。


 ……いやまあ、そっか。

 前提があるんだ。遥には。


 「高い……?」


 驚いたような表情を浮かべる遥と目が合った。

 相変わらずすぐに前髪で隠されてしまったけど。


 ……でも良かった。泣いてるわけじゃないみたい。


  「高いよ。


 ……私だって、何て言えばいいかわかんなかったよ」


 遥の言ったことは、私からすれば当然のことだった。


 

 もしあの時、私に言えていたら──


 言葉一つで、人を助けられたら──



 どれだけそう妄想しても、どうしようもなく苦しい時にかけられた言葉が魔法のように相手を救うなんて、そうそうあることじゃない。


 「こういうのはお医者さんとか専門家とお話して、お薬飲んで、時間もかけて、基本はそうやって治していくものなんだよ」


 「そうなの?」


 「そうだよ。

 まあ、専門的な知識が無くても、身内からの優しい言葉が薬になることは確かにあるかもしれないけどね」


 「なら……」


 心理系の資格を持っている人ですら難しいことに、後ろ髪を引かれている。

 遥はもう十分、いい奴だよ。


 でも、だからこそ教えてあげたい。

 

 あの時、遥がしてくれたこと。

 それがどれだけ、私の救いになったのかを。


 私は遥の手を取った。


 「でも遥はさ、あの時、言葉の代わりにこうやって、手を握ってくれた。

 ぎゅってしてくれた。

 手が少しひんやりしてて、私はそれですっごく安心した。

 言葉だけじゃない。側にいてくれたり、話を聞いてくれたり、そうやって寄り添ってくれる人がいるだけで、救われる人だっているんだよ」


 「私は今、今までにないくらい救われてるよ」


 手を握られた遥は、突然のことに一瞬慌てた様子を見せた。

 けど、私の言葉を聞いて、徐々に落ち着きを取り戻していく。


 握られた手を見つめて、少し口を噤んで──


 「……そっか、それは……うん。


 ……よかった」


 どこか、毒気の抜けたような表情へと落ち着いた。


 この時初めて、遙は私の気持ちを受け取ってくれたような気がした。

 自分のもとに届いていて、でも、どうしたらいいかはわからなくて、そのまま置いていたもの。

 それをようやく、手に取ってくれた気がした。


 そんな遥に私は続ける。


 「情けない話、最近毎日泣いてたんだ。

 朝から晩まで何もできなくて、ずっとベッドでカタツムリになってたんだよ。

 

 私は手を放して煙草に火を点けた。


 「でも今日は遥といろんなことを話せてるから、今は凄く楽しい」


 遥も釣られるように火を点け、二人夜空を見上げながら煙を吐いた。


 「だからさ、相互扶助そうごふじょだよ。助け合うの」


 「当たり前のことだけど、当たり前のことだから、よく忘れられちゃうんだよね」


 「助けるだけじゃなくて、遥も助けてもらうの。遥の友達なら喜んで力になってくれるよ」


 「私も遥が自分のことを信じられるように、側にいるからさ」


 「……うん」


 遥はそう言って小さく頷いた。

 きっと、わかってるけど、わかってないんだ。

 仕組みとしては理解してるのかもしれない。

 でも、本質的なことは理解できてない。


 それを裏付けるように、遥は口を開いた。


 「でもじゃあ僕は……唯に何をしたらいいんだろう」


 積み重ねられた自己肯定感の低さは、そう簡単になんとかなるものじゃない。


 この期に及んで遥が気にするのは、やはりお返しのこと。

 与えることだ。

 一個もらったら一個返すなんて、律儀で細かいことは気にしなくていいのに。


 遥は、恩をシーソーゲームのように捉えてる感じがする。

 ……でもそれで言うなら、今は私が恩を返してるんだから、とりあえずでもそれを受け取っておけばいいのに。


 私としては、遥には散々お世話になっているし、助けてもらっている。


 待ち合わせの時には既に結構酔っていたオケオールの日。

 変に距離を縮めようとしてしまったあの日ですら、遥は笑って許してくれた。


 私はもらってばっかりだ。


 だから──


 「こうしてくれたらいいよ」


 私は遥の手を強く握った。

 包むようなさっきのとは違う。

 手のひら同士を合わせるように、ぎゅっと握った。


 ──だから、私は遥を支えたいんだ。


 「……そっか」


 遥はさっき同様、不意に手を握られた事に一瞬身を震わした。

 でも、すぐに握り返してくれた。

 自分から握っておいてなんだけど、なんだかそれがむず痒くって、結局お互い黙りこくってしまった。


 けど、その沈黙が、私には二人の答えのように思えた。


 遥は女装、私は変装というそれぞれの秘密を暴露し合って、互いの辛い内面も打ち明け合った。


 これが友達じゃないなら、一体何だと言うのか。



 不安だったけど、上手くいった。

 私は遥と、友達になれたんだ。



 遥と目が合い、気まずそうに笑い合った。



 でもそれはきっと、お互い、照れくさいからだ。



* * *



 『話?え、何々?』


 スピーカーにした通話先からは、不安と期待が入り混じった声が聞こえる。

 甲高く明快な、舞菜の声だ。


 「それでね、ちょっと今から三人でうちに来れないかなって……」


 『唯てゃの家?いいよ~』


 「ごめんね。ありがと。

 住所はメッセ送るから」


 「あ、遥はもう来てるよ。

 ちょっと……びっくりするかもだけど……」


 そう言いながら頬をかく唯と目が合った。

 女装と変装の視線が交差し、僕達はセットで苦笑いを交わした。


 『何それ気になる!ダッシュで行くね!』


 「待ってるね~。


 ……ダッシュで来るってさ」


 僕達は部屋へ戻ると、舞菜達をここへ呼ぶために電話かけた。

 そう、伝えるのだ。

 女装と、変装を。


 「やばい……緊張する」


 さっきは何て言うか、勢いがあったから一息に話せたけど、改めていきさつから伝えるとなると……何だ、何か……面接当日だな。


 「大丈夫だよ。皆いい子」


 ベッドに腰かける唯は、その足元に座る僕の肩に手を置き、ドラムのようにトントンと叩いてくる。


 随分と余裕そうだ。


 「うん。そうだね」


 叩かれる度に、唯の手の温度が伝わってくる。

 暖かくて安心する。


 にしてももう夜なのに、今から来れるんだな。

 やっぱり凄いなギャルは。


 「あ、舞菜ちゃんたち駅に居たみたい。すぐ着くって」


 と思ったら、なんだ。近くにいたのか。


 「じゃ、一本だけ」


 「だね、吸おっか


 ……遥」


 ベランダの窓に手をかけたところ、唯に呼び止められた。


 「ん?」


 振り返ると、唯はベッドに座ったまま、僕を見つめていた。


 「さっきは言えなかったけど、遥はもう、打算で人を助けてないと思うよ。

 手をぎゅってしてくれたり、言葉で救おうとしてくれたり。

 嬉しかったよ。ありがと!」


 屈託のない、本当に嬉しそうな笑顔だった。


 その言葉に、笑顔に、涙が出そうになった。


 唯は、本当に凄いな。

 どこまで僕を気遣ってくれるんだろう。


 胸がすっとすいたような感覚。

 今日一日だけで、何度これを味わったことか。


 こういう時は、特に、目隠れで良かったと思う。


 僕は若干鼻声になっていた。


 「そうなのかな……でも、うん。

 そうだといいな」


 何度も救われた。

 やり場のない気持ちや、折り合いの付かない感情の全てを受け入れてくれて、いつか誰かに聞いてもらいたかった、そんな話も聞いて貰えた。

 言われてみると確かに、必要とされるとかされないとか、そんなのはもう割とどうでもよかった。

 人からの気持ちだって、僕なんかでも受け取っていいんだって、こうやって受け取ればいいんだって、教えてくれた。


 だから今はただ、抱えきれないほど貰ったこの嬉しさを、感謝を、少しでも多く彼女へと返したい。

 これだけは譲れない。


 精一杯報いたいんだ。


 手を握ってくれたらいいって、それはちょっと、ハードルが高いけど……



 窓を開けてベランダに立つと、急に吹いてきた強い風に、僕の前髪はかき上げられてしまった。


 けれど、なんでかそれはもうあまり気にならなくて、こちらを見つめる唯と目が合った。


 「……逸らさなくなったね」


 「もう、唯になら見られてもいいやって」


 「すぐ目逸らしたり隠したりするの、可愛かったから。ちょっと残念」


 「からかわないでよ」


 熱いスープを飲むように吸いながら、火を点ける。


 同じ要領で吸って、吐いて。



 僕は、持てるだけの勇気を振り絞って、唯の手を握った。



 緊張して顔が見れない……!

 自分から異性の手を握るなんて、生まれてこのかた初めてなんだ。


 手汗は大丈夫かな。

 手、熱くないかな。

 力は強くないかな。

 今じゃない。とか思われてないかな。


 不安が如実に膨れ上がっていく。

 とめどないそれをなんとかしようと、僕はやっとの思いで薄目を開けて、隣に立つ唯を横目で見た。


 唯は、悪戯っぽく目を細め、口の端を吊り上がらせていた。


 「これからもよろしくね。遥」


 その頬は、少し紅潮していた。


 「っこ、こちらこそ……唯」



 ああ……


 こんなふうに思い、想うのは、僕がまだ高校生だからだ。



 きっとそうだ。





 今夜は月が綺麗だ。




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