「お前ら、オケオールはヤバいぞ」


 月曜日の放課後。

 僕はファミレスで、司馬と桜井に”女装によって引き起こされたあらゆることの顚末”について話した。

 何をどう伝えても「女装で下校したらギャル四人と仲良くなり、内一人とはキスをした」なんて、イタい奴の妄想感が拭い切れないけれど、どうやら二人とも僕の話を信じてくれたようだ。

 桜井には服を借りる際にあらましを伝えてはいたが、司馬に関しては全てが初耳だからか、随所に大きなリアクションを取ってくた。


 「ヤバ……」


 なんて言って、指先で摘み上げたフライドポテトをぽてっと落とす。


 彼のそんな動揺もむべなるかな。

 色々と起こりすぎだもの。


 「僕もそう思う。情報量多すぎるし、未だに上手く整理つかないよ」


 「つーか、何で唯って人はお前にキスしたんだろうな」


 唯の気持ちか。


 「そんなの、僕が聞きたいよ」


 唯があの時、何を考えていたのか。

 何を思って、あんなことをしたのか。


 女心というやつだろうか、僕には想像もつかない。


 そんな僕の胸の内を察したのか、司馬の隣でシェイクを啜り終わった桜井が口を開いた。


 「遥は女装してたのに、その遥にチューしたんでしょ?

 距離も異様に近いし、レズなんじゃない?」


 ……正直、それが一番可能性の高い話だとは思う。

 僕も考えたんだ。可能性として。

 唯は自分の顔を好きと言った。

 自分と似てる僕の顔を好きとも。


 そんな僕と二人きりになって、欲情したとか、ムラムラしたとか。

 であれば、キスの一つもしたくなるだろう。


 仮に、僕の好みドストライクな人が目の前にいたとして、その人と二人っきりだったとして。

 僕はその人と、キスがしたいか、したくないか。


 もちろんしたい。


 実際にするかは置いといて、答えは間違いなく「したい」だ。


 ……あの時、僕は唯とキスをしたいと思ったんだよな。


 好みで言うなら、もう少し髪が短い方が好きだ。長さも首の付け根辺りで綺麗に切り揃えられたようなのの方が良いとは思う。

 でもそれを差し引いても、唯の顔は僕の顔の系統の頂点と言えるくらいに整っているし、髪形も、あれはあれで結構お洒落で、綺麗だ。

 なんて言うか、モデルみたいな感じの人なんだ。



 そんな美人で綺麗な人が、僕にキスを迫ってきて。


 僕は思わず、目を瞑って。


 でもそれはひっかけで。


 油断したところに、本当にキスをされて。



 僕の唇には、あの感触が未だに残っている。


 「遥はムッツリだもんねぇ」


 不意に聞こえたその声に、突然目が覚めたようにハッとした。

 見ると、桜井が僕を見てけらけらとしている。


 随分と顔が熱い。

 あの時のことを思い出して、わかりやすく顔が火照っていたみたいだ。


 「やめてやれ。

 ファーストキスがあんなんじゃ、誰だってこうなる」


 「確かに、真一も結構……」


 「俺のことはいいだろっ!

 そ、それよりも、今は遥のことだ!」


 司馬のファーストキス……友達のそういうのはあんまり想像したくないな。

 

 顔を真っ赤にした司馬は、取り繕うようにこほんと咳払いを一つ。

 そうして無理やりに夫婦漫才を終えた。


 もうええわ。の咳払いだ。


 ……でもそうだよな。

 改めて思ったけど、なんとも思ってない人とキスなんて、普通しないよな。

 普通は好き同士でするものだよな。


 唯は、僕のことを憎からず思っているのかもしれない。

 僕は僕で、キスをしたいと思うくらいには、唯のことが嫌じゃない。


 嫌じゃない……と言うか……


 でも……


 「キス出来たはいいけどよ、遥お前、唯って人と付き合えねぇんじゃねぇか?」


 「……は?」


 「だって、相手は同性愛者で、お前はその人のことが好きなんだろ?」


 その言葉に僕は、胸の内を見抜かれたようでドキッとした。


 あの日の唯は距離は近いし、ボディタッチはしてくるし、挙句の果てにはキスまでしてきた。

 その上綺麗で、優しくて、僕のことを気にかけてもくれた。

 喫煙室で話した限り、趣味も、価値観だって、それなりに合っていた。


 僕でなくたって、多少は意識してしまうはずだ。そんなの。



 唯は僕のことを好きかもしれなくて、僕も唯のことを好きかもしれない。



 ……でも、だからこそか。


 「……まだ知り合って数日だよ。

 好きか嫌いかなら好きだけど、それも、友達としての好きだと思うよ」


 そもそも、僕は女装をしていたんだ。

 情況的に、唯は僕と言うよりも、女装した僕である遥ちゃんが好きな可能性の方が高い。

 一先ずそれを置いておき、僕から唯への好意を議題に据えるとしても、僕はまだ、女装姿でしか唯と会っていない。


 本当の僕として会っていないのに、好意なんて認められない。


 「知り合って数日とか、そんなこと言ったら俺と桜井はどうなるよ」


 「いやいや。

 二人はだって、お互い一目惚れじゃん」


 そう、この二人は入学式でお互いに一目惚れをし、その場で交際がスタートしたという変わり種だ。

 顔立ちや体格が男らしくて頼れる司馬と、壁を感じさせない砕けた性格の美少女桜井。

 いわゆる”持っている”側の二人。

 この二人を一言で表すなら「顔も性格もいい奴ら」だ。


 「だから、お前らもそうなんだろ?」


 「出会って三日でキスだもんねぇ」


 「……いや、ないよ」


 そう、いい奴らなんだ。

 司馬はメニューを見ながらポテトを完食した。特に何を頼むでもないのにだ。

 それはつまり、僕の目を見ないようにしてくれているということ。

 話題が話題なだけに、つい目を見て話しそうになるのを、メニューで誤魔化してくれている。不器用なこいつなりの配慮だ。

 そして、唯の積極性を話に聞いているからなのかもしれないが、唯が僕のことを好きと信じて疑わないところも、いい奴だ。

 公園で撮った写真を見せた。唯の容姿が端麗なことも、モデルのようにスタイルが良いことも知っている。

 その上で司馬は、


 僕には唯を惚れさせるに足る魅力がある。


 そう信じて疑わないんだ。


 桜井もそうだ。

 こんな僕に協力してくれる。

 異性相手に服を借すのなんて嫌じゃないのかな。と気にする僕を尻目に、あれやこれやと悩んでいるときの様子は、むしろそれを楽しんでいるように見えた。

 誰との間にも壁を作らず、何でも楽しめるような、そんな性根なのだ。


 そんな桜井だが、実は、割と普通に僕の顔を見てくる。

 

 あれはいつかの昼休みのことだ。

 顔を見られること、目を合わせることが苦手な僕の顔を、何故わざわざ見るのか。

 それが気になり、問いただすとまではいかない調子で訊ねてきた司馬へ、桜井は言った。


 「あんまり露骨に見ないようにするのって、逆に失礼じゃない?腫れ物に触ってるみたい。

 そんなんじゃ遥だって気にしちゃうでしょ。

 真一みたいな接し方は私には合わない。

 私は、遥がそういうのを少しでも気せずにいられるように、自然に接したいんだよ」


 通りがかりの僕は、廊下の角から先へ進めなくなってしまった。

 潤んで歪んだ視界で歩くのは、危ないから。


 二人が僕のいない所でも、僕のことをそこまで考えてくれていたことが、ただひたすらに嬉しかった。


 僕は勝手に緩む口元を、アイスコーヒーを啜って締めなおす。


 いつだって誠実な二人を見て、僕の腹も決まった。



 その後、二人と別れた僕は一人家路を辿っていた。

 結局”唯は僕に惚れているか”、”僕は唯に惚れているか”という議論は、平行線のまま進まなかった。


 いや、半分は僕が唯への好意を認められればいいだけだけど、”僕”として唯と会っていない限り、それは難しい。

 かと言ってじゃあ”僕”として会えるのか、会えば認められるのか。と言われれば……それもまた、難しい。


 まさか、女装して下校しただけで、こんな事態に発展するとは。


 「てか、好意を抱いてるか抱いてないかって、そこまで重要か?」


 そんなことよりもまず、僕にはやらなきゃいけないことがあるはずだ。


 「急に肌寒くなってきたなぁ」



 ……だから、決めたのだ。



* * *



 「はい……はい。

 私自身もまだちょっと……お医者さんにももうしばらく静養するよう言われていますので……はい、すみません……はい、失礼します」


 身寄りない私の手を引いてくれた。

 ここへ連れてきてくれた。

 母の様な、姉の様な存在の彼女。


 あの日、私がもっと……

 私に、私の声に、もっと力があれば……

 

 私のせいで……たまきさんは……



 ここに私の居場所はない。ここに私の居場所はない。ここに私の居場所はない。ここに私の居場所はない。



 無気力で自堕落な私。

 あの人に活力の全てを持っていかれてしまった私。

 あの子は私と仲良くなりたいと言ってくれたけれど、この私を見たら、もう関わってはもらえないかもしれない……


 ……いや、きっと、関わってくれるんだろうな。


 優しく、寄り添ってくれるんだろうな。



 机の上。吸い殻の溜まった灰皿。USB扇風機。診断書。


 「……もう暗いな。電気点けたいけど無理だ……

 寝よう……」



 私の居場所は…………



懐かしい夢を見た それはまだ私がデビューして間もないころ あの人と二人で出演したネットのコマーシャル 二人で手をつないで浜辺を歩いた 思えばあれが唯一の共演だったな それからはお互い少し忙しくなって 私はようやく主役の座を手に入れたんだ あの人は私より凄い作品で主演を演じた あの頃は良かった どれだけ追いかけても遠のいていくような背中がとてもきれいだった でもあの人はあの報道から落ちていった 有名俳優との熱愛報道 清純派でもなかったのだから利用してやればいいのにと思ったのだけど どうやら相手には妻子があって 上手く立ち回れなかったのが祟った 落ちて 落ちた あの日からあの人の私物は動かしていない 遺影を置くためにお酒の缶を少しどけたくらい 宣材写真は本当に良く撮れていた


 「だから……私の……


 ……朝……?」


 午前七時。九月も終わりの方になると、このくらいの時間はかなり涼しい。


 朝目が覚めてすぐにうつぶせになると、体の力が一気に抜けるの、やだな。


 ……でも起きないと。


 最低限規則正しく生活をしていることだけが、今の私を支える屋台骨なんだから。


 これすら出来なくなったら、私には何もなくなる。


 私はやっとの思いで体を起こすと、鉛のように重い足を引きずるようにリビングへと向かった。

 懐かしい夢を見た。

 だからだろうか。


 遺影に手を合わせるのは久しぶりだ。



 「環さん、私ね……」



 「…………私……」



 しかし、肝心の言葉が何も出てこなかった。


 「私……



 ……ひぐっ、うぅ……っく……」


 恩人に何も伝えることができない自分の情けなさと、握りつぶされるような胸の痛みに、うずくまっては涙を溢れさすだけだった。


 伝えたいことはあるはずなのに、言葉にならない。出来ない。


 考えると、頭の中にぼんやりとした輪郭が出来る。

 ただそれをどう成形したらいいか、手を添えて、触れれば触れるほどにわからなくなっていく。

 言葉はそのうちに霧散して、私の元には何も残らない。


 私は、涙も鼻水も拭えないままベランダに出て、煙草に火をつけた。

 嗚咽のせいで変に吸い込み、酷くむせた。

 肺がズキズキと、鼓動より少し早い足で痛みを訴えてくる。

 それを押さえつけるように、深呼吸をするように煙を吸い込んだ。


 そうだった。

 自殺は怖いから、誕生日に買ったんだ。

 少しでも早く会えるように。


 「なんでこんな気分になるんだろ……

 この家は好きだけど……好きだから、息苦しくってしかたない」


 息苦しさを口にした途端、お腹を底から殴られたように、何かがぐっと込み上げてきた。


 「うっ」


 しゃっくりのように、来るとき来ないときの波があった。


 「ゔっ、ぷ」


 煙を吸い込んで、吐いて。


 吐いた。


 「ゔ」

 

 環さん。


 「はぁ……はぁ……んぐっ。

 っはぁ……はぁ……はぁ……うぷっ!」


 環さん。


 「はぁ……はぁ……はぁ……はぁ……

 っはぁ……はぁ……


 …………掃除しなきゃ……」



 環さんに会いたい。


 

 「胃液フレーバーの煙草」


 口も濯がずに残りを吸った。


 

 今日はもう、何もできる気がしなかった。



* * *



 深夜、スマホが鳴った。


 『オケオールの後、家に帰ってから色々考えて、友達にも相談したの』


 腫らした目で見た遥からのメッセージは、そんな文章で始まっていた。

 要約すると、会って話がしたいらしい。


 遥。

 遥にも会いたいな。

 悲しくて、寂しくて、胸の奥がずっと痛いよ。

 涙も止まらないの。


 もしこのまま、友達のままでいれたら、次はどこに行こう。

 

 遥はね、環さんに似てるから。

 だから思い出しちゃったのかな。



 また一緒に煙草吸いたいな。



 「……返信しなきゃ」



* * *



 『私も会いたいって思ってたから嬉しい🥰』


 唯からの返信はそんな書き出しだった。


 要約すると「週末に家に来ないか?」という誘いだった。


 唯の家か。


 喫煙室で話した内容の一つに、互いの私生活についてのものがあった。

 僕の記憶違いじゃなければ、彼女は一人暮らしだ。

 

 机の引き出しには、一度膨らまして遊んだだけのアレがある。


 いるか……?


 ……いやいらないか。


 いやいやワンチャン。


 僕は引き出しを開け、箱の中からそれを取り出した。


 「財布に入れておくと金運がアップするって説は、浮気がバレそうになった男の言い訳が元らしいけど、本当なのかな。

 そんなので何とかなるわけないだろ

 ……いや、何とかなったら今も言われてるのか」


 「てかこれいつのだっけ?一年前くらい?」



 「……置いてくか」


 その日、僕は割と確かな意思を持って眠りについた。


 いつまでも嘘を吐き続けるわけにはいかない。

 不誠実でいたくない。


 土曜日。

 唯の家に行く日。


 僕は、僕が男だということを唯に伝える。


 そして、その上で友達になってくれないかと頼んでみるんだ。

 いきなり男の恰好で会うわけにもいかないから、まずは女装からだけど……


 「まずは女装からって、なんだよ」


 その素っ頓狂っぷりに、思わずフッと鼻が鳴った。


 「舞菜さん達にも、ちゃんと話さないとな」


 ……受け入れてくれるだろうか。

 きっかけは不可抗力みたいなものだったけど、人によっては強い抵抗があるかもしれない。


 決意は”決意”としてそこにあっても、内では、不安や期待をはじめ、様々な感情が同居している。

 そんな渾然一体とした感情の中から決めた、一つの意思。


 意を決すると書いて決意。


 恥ずかしさとか怖さとか、人を億劫にさせる全部を飲み込んで、それを伝えるんだ。


 「……人に何かを伝えるって、凄いことだな」


 これは大変なことだ。

 

 理解したんだ。



 そこに、言葉足らずを嘲る僕は、もういなかった。



* * *



 翌日、学校から帰宅した僕は、桜井に電話をかけた。

 もう一度服を貸してもらえないか?と。


 『まだ続けるなら、今度一緒に買いに行く?』


 その優しい地獄のような第一声に、僕の心臓はキュッとなる。

 しかし僕としては、女装はこれで最後のつもりだ。

 なのでそこは、強気に断らせてもらった。


 当日の流れとしては、まず、司馬と合流。

 二人で部活終わりの桜井を迎えに行き、その後桜井の自宅へと移動。

 そこで適当に合いそうな服に着替えてからメイクを施してもらい、夕方頃に駅前で唯と待ち合わせる。


 こんな感じだ。


 「上手くいけばこれで最後だから」


 『上手くいくかぁ……?』


 「話せばわかってくれる人だとは思うんだよ」


 『ん~~……』


 桜井はかなり訝しんでいる様子だった。

 

 まあ話を聞いただけの桜井からしたら、未成年喫煙の常習犯で、出会って間もない相手にいきなりキスをしてくるレズビアン。って感じだもんな。

 そんな人に「実は男でした」って伝えるなんて、何が起こるかわかったもんじゃないか。

 確かに、不安に思うのも無理ないか。


 ……でも僕は、唯が性差で相手を選ぶような人間には見えなかった。

 出会って間もないことは違わないから、ただの勘だけど。

 

 僕に言わせれば、もし全てを伝えた上で友達になることが出来なかった場合、それは唯ではなく、僕自身の落ち度だ。


 「目隠れは無理!」


 みたいなね。


 『まあ悪い人ではないんだろうけど、高校生なのに紙の煙草吸ってるからなぁ』


 ……と思ったら。

 桜井はどうやら、唯の素性をヤンキーではないかと勘繰っているだけのようだった。

 それにしても「紙の」って……


 「電子ならいいみたいな言い方」


 含みのある桜井の発言に、僕はついそう突っ込んでしまった。


 『電子ならいいんじゃないの?』


 「駄目に決まってんだろ!」


 きょとんとした、とぼけるような口調の桜井に、少し大きめの声が出た。


 いったい僕はどの口で言ってるんだ……



* * *



 深夜一時。

 真っ暗な部屋の中。

 しじま。

 スマホの画面が場末のステージを見下みくだすスポットライトのように、私の顔だけを照らしていた。


 明日、明日。


 遥が家に来る。


 明日、伝える。


 本当は高校生じゃないこと。二十歳なこと。

 君が「可愛い」「ちょっと私たちに似てるね」って言っていた、動画の広告の女優が、私なこと。

 今は、まともに働けていないこと。

 どうしようもない人間だけど、それでも、これからも友達でいてほしいこと。


 「部屋の電気……今週は全然点けてないな」


 「明日は点けよう」


 「カートンも買ったし」


 「遥、ドリンクバーのりんごジュースよく飲んでたなぁ」


 「お菓子は何が好きなのかなぁ」


 「明日買いに行かないと」


 「リビングのこと……どう説明しよう……」


 「やることリストを口に出すと頭の中が整理されてリラックス出来る」って聞いたことあるけど、それでもやっぱり、不安は消えない。


 ちゃんと伝えられるかな。

 環さんの代わりにしているつもりなんてないけど、傍から見たらそうなのかな。

 そう思われても仕方ないけど、そう思われてたらヤダな……



 「明日は九時くらいに起きて、部屋の掃除をして、買い物に行こう」


 「帰ってきたらシャワーを浴びて、着替えて、遥を迎えに行こう」



 「頑張ろう」



 ベッドの上で身を翻し、窓の外を見た。

 すると、今日が満月だったことに気付いた。


 きらきらと光る星がいくつも見えた。

 その星々はどこか揺れていて、その様子がまるで、私を笑っているように思えて仕方がなかった。

 カーテンを閉じようかと思ったけど、遠くでただ光っているだけでいい星は、すべてがどれほど楽なんだろう。とも思った。


 もう一度星を見やると、それらは相変わらず揺れていた。

 けれど今度は、どこか怒りに震えているように思えて、それがなんだかおかしかった。


 今日はなんだか、いい気持ちで眠れるような気がした。



* * *



 その日はとても晴れていた。

 学校と司馬夫妻の家、そして、唯の家の最寄りでもある駅に着いた僕は、現在進行形で遅刻している司馬の到着をぼーっと待っていた。


 もうすぐ十月になる。

 少し前までの、それこそ唯と初めて会った日のような夏日はどこへやら。

 何かを一枚羽織らないと二の腕に鳥肌が立つような涼しさに、僕は軽く身体を震わせた。


 今日。いよいよ今日だ。


 唯に、君が女だと思っていた遥ちゃんは、実は遥君なんだと伝える。

 彼女がどんな反応をするのか見物だとか、そういうドッキリのような空気感ではない。


 真面目に、真剣に伝える。


 「騙しててごめん」と。


 「本当は男だけど、それでも良かったら、友達でいてほしい」と。


 既にかなり緊張しているのが自分でもわかる。

 入試面接当日の朝のような緊張感だ。


 なんだろう、無性に煙草が吸いたい。


 あの日だけとは言え、僕は喫煙を経験してしまった。今更ブレーキは機能しない。

 それに、喫煙をするとリラックス効果が得られると聞く。

 早く着替えて唯の家に行って、一服したい。落ち着きたい。


 「司馬はまだか……?」


 言うが早いか、スマホに通知が入った。

 司馬からだった。


 『わりー遅れる』


 もう遅れてるんだよ!とつい突っ込みたくなってしまった。


 ……しかし、司馬も桜井も、今回はやたら協力的だ。

 前回の”二週間学校敷地内で床に直座り禁止”の時なんかは酷かったというのに。

 朝礼で普通の体育座りが出来ず、お尻と床の間にシューズを挟んでいた僕を、指差し笑っては連射撮影していたというのに。


 言い出しっぺが自分達だからだろうか?

 賭けに負けたのは僕なのに、律儀と言うか何と言うか、やはりいい奴らだ。


 ……いい奴らか?


 まあいいか。


 「大丈夫

 気を付けて」


 そう返信を送った僕は、再びぼーっとする。

 空を見上げたり、駅へ吸い込まれてゆく人々を見たり。

 そうしてなんとなしに遠くを見やると、バスロータリーの奥の交差点付近に目が留まった。

 取材班のような、報道陣のような。そんな群れがあったのだ。

 その中心にいたのは、サングラスをかけたモデルのような女性で、特別ミーハーでもない僕は


 「外を歩くだけで囲まれるとか、有名税って大変だな」


 なんて呟くだけだった。

 

 司馬遅いなぁ……



* * *



 その日はとても晴れていた。

 この間までの残暑はどこへやら。街にはすっかり秋を感じさせる心地の良い風が吹き始めていて、露出している腕や足首には肌寒ささえ感じる。

 少し薄着での買い物は明らかに失敗だったが、今日の場合、問題はそこではなかった。


 変装をしていなかったことだった。


 サングラスをかけただけの普段着で私は外に出た。

 いつもの制服や、それよりももっと、別人のように見える服を着ていれば良かった。

 でも、時は既に遅い。


 私はマンションを出ると、すぐに数人の記者に囲まれた。


 「三宅みやけ唯さんですよね?お体はもう大丈夫なんですか?」


 君の悪いニヤケ面を浮かべながら私の顔を覗き込む。

 他の記者連中も、大体は同じような、下卑た顔付きだった。

 直接触れてはいけないためか、彼らは波のように私を取り囲んで詰め寄って来る。


 マンションを出て数歩でこれだ。

 最近は制服だったからごまかせてたし、彼らも毎日のようにいるわけではない。


 つまり、今日は完全に油断していた。


 「こ、困ります……やめてください」


 気持ち悪い記者連中の圧迫感に耐えられず、私は足早に歩き出した。

 しかし彼らは粘着質なストーカーのようで、なかなか振り切れない。

 同じように歩調を早めて追って来る。


 真実を伝えたいだの、報道の自由だのと奇声を上げながら、人の心を踏みつけにする。


 「少し!お話だけでも!」


 「急いでるんで……来ないでください」


 あの時、私の声が、彼らよりも大きければ。


 私の後悔にいつまでも付いてくるこの声が、不快で仕方ない。


 ……なのに、今ももっと強気に出られたらいいのに。

 激昂して、ついてくるなって、怒鳴れたらいいのに……


 喉が、思うように開かない。


 息が切れて、上手く声が出せない。


 彼らを一目見た時、心臓が締め付けられるような苦しさに襲われた。


 背中に刺すような汗が噴き出た。



 私はまだ、私で外に出ちゃいけなかったんだ。



 走ろうにも、目の前の道は記者に塞がれている。

 今の私に出来るのは、信号目がけてなるべく急いで、記者の質問に対しては口を噤むだけ。


 そうして少しずつ、ゆっくりと進んだ。

 あと少しで信号を渡れる。

 

 ──そんな時だった。


 「では、最近あなたによく似た人物が制服を着てあのマンションから出入りしているようですが、それについてはどう思われますか?」


 その問いに私の足は止まった。

 質問の主は、無精髭を伸ばした、とても記者のようには見えない、小汚いスーツの男だった。

 そして、その記者の一言をきっかけに、他の連中の声はピタッと止んだ。


 信号が赤に変わった。


 ……そっか。初めからこっちが目的だったんだ。


 病んで休業中の女優が高校生のふりをしているなんて、確かに話題にはなるだろう。

 ネタにして、馬鹿にして……


 ……私の苦しみなんか、欠片も知らないくせにっ……!


 私の心臓は一層強く締め付けられた。

 ぎゅっと胸を痛ませて、周囲の音をかき消すような鼓動を鳴らす。

 それは「一刻も早くこの場を離れろ」という、警鐘のようにも聞こえた。


 「そん!そ、そんなの……!しっ、知りませんっ!」


 呂律の周り切らない力の抜けた口で、辛うじてそう叫んだ。

 私の足は、釘で打ち付けられたかのようにその場から動かない。

 私は自分の惨めさに拳を握って、唇を噛みしめて……それでも、ただただ俯くことしかできない。


 「逃げようとしないでくださいよ」


 声が、エコーのように頭に響いた。


 逃げようとなんてしていないじゃん。

 苦しくて、それすらできない。

 一歩も動ける気がしない。


 額にべっとりとした脂汗をかいているのがわかる。

 上手く息ができない。

 肩が上がる。

 私の中のどこか冷静な私が「緊張している」と言う。

 ハッ……ハッ……と、短い感覚の息が、口から爆ぜるように発せられる。


 「やましいことがないなら、お話聞かせてくださいよ」


 変装して高校生と友達になった。


 なんて、どう言ってもやましく変換するくせに。

 多くの人に見られるために、人を玩具のように、雑に扱うくせに。


 「そんな泣かずとも。

 我々が悪者みたいじゃないですか」


 泣いてる……?

 泣いてる……かも。


 汗か涙かわからないものが、頬を伝う感覚があった。


 「皆さんもあなたからの言葉を待っていますよ」


 違う。言葉なんか待ってない。

 人を傷付ける材料と、自分達を正当化させられるに足る、相手の失錯と落度を待っているだけだ。

 他人を貶めることに躍起になって、いざ取り返しのつかないことになったら、あっちこっちで責任転嫁。

 そうやって何人も傷付けて、反省の一つもしない。


 大衆も、それを煽るこいつらも、大っ嫌いだ。


 私は握った拳に力を込めた。

 足が動くかはわからなかったけど、とりあえずこいつを一発ぶん殴ってやろうと思ったのだ。


 いつの間にか呼吸は落ち着いていた。


 「そろそろ何か喋っ……」


 書きたいなら書けばいい。

 でもこっちだって、ただでは屈さない。


 記者が口を開くと同時に、私は拳を振りかぶった。

 そして、その状態で固まった。


 その記者は、脇から飛び込んで来た人にタックルをされ、みっともなく転がった。

 激しく吹っ飛ばされた挙句、空にお尻を突き出すみたいな体勢になったまま、ピクリともしない。


 「お姉さんこっち!」


 記者にタックルを見舞ったその男の人は、私の拳を包むように握ると、駅へ向かって手を引いた。

 駆け出すその人に引っ張られると、私の足は、何事も無かったかのように動き出したのだった。


 誰かわからない。

 ただの通りすがりの人ってことくらいしかわからない。


 整理も何もつかないまま、引かれるがままに私は走った。

 後方から聞こえる怒声に、耳を傾ける余裕はなかった。



* * *



 離れていてもわかるほどに、その女性の様子はおかしかった。

 胸に手を当て、ふらふらと揺れながら俯いている。

 報道陣のただの取材で、ああも苦しそうになるものだろうか。

 ロータリー前の交差点で、信号が青になっても動かないなんて、何かされているんじゃないだろうか。


 野次馬がわらわらと集まり始めた辺りで、見ていられなくなった。


 割って入って止めないと。


 僕は走った。

 野次馬連中をかき分け、なんとかその先頭に辿り着く。

 

 そうして見た景色は、正にあれだ。

 公開処刑って感じだ。


 何でこんなことをしてるんだ?この人がいったい、何をしたっていうんだ?


 そんな疑問で頭が一杯になった。


 女性を取り囲む男たちは、皆スーツを着ていて、その手にはボイスレコーダーやら、手帳やら、スマホやら……何かを記録するのに長けた物ばかりが握られている。

 その光景に目を疑って、直後、聞こえた言葉に耳を疑った。


 「我々が悪者みたいじゃないですか」


 品性も知性もないような、タチの悪そうな記者が言った。

 対する女性は酷く汗をかき、肩を震わせ、過呼吸のように不規則な息づきをしている。


 この人が何をしたかとか、詳しい事情なんて何にも知らない。

 けど、こんな衆目に晒し上げるようなやり方は間違ってるだろ。

 悪戯に人を晒し上げて、傷付けて、何がしたいんだ?


 「悪者じゃないなら何なんだ?」


 誰にも聞こえないような声でそう言った。

 もしかしたら声にはなっていなかったのかもしれないけど、僕はそんな思いで記者の横っ腹に肩から突っ込んだ。

 それは見事なタックルで、記者はみっともなく転んでいった。


 世界がスローモーションになったような感覚があった。

 記者がいつぞやの司馬のようなちんぐりがえしを披露する様を見て、因果応報なんて言葉が脳裏に浮かぶ。


 これで良いかな。

 強く握った拳を振りかぶったまま、頬に涙を這わせる女性を見て、そう思った。



* * *



 「とりあえず構内なら人も多いですし、大丈夫だと思いますよ」


 その人は改札前にあるベンチへ私を座らせると、そう言って手を離した。

 前髪とマスクで顔はわからないけど、雰囲気は高校生くらいの若者といった感じだ。


 何が何やらわからないけど、一先ずは大丈夫ってことだよね……?


 「……ありがとうございます」


 呆気に取られながらも、私はなんとかお礼の言葉を絞り出した。


 「いえいえ

 怪我とかはさせられてないですか?」


 「あっ、はい。

 おかげさまで」


 「なら良かったです。

 僕ちょっと、友達と待ち合わせしてて、もう行かないとなので、すみませんがここで」


 彼は今来た道に足を向けながらそう言った。

 どうやら予定があったらしい。


 それなのに助けてくれたんだ。

 私よりも若いのに、立派で凄いなぁ……


 「あっ、あの、お礼……」


 「お礼!?い、いやいや、大丈夫です。無事ならそれで。

 ……あ、でも、念のため友達とかに連絡して、迎えに来てもらった方がいいと思いますよ。お友達とか」


 「そう……ですね。

 ありがとうございます。呼んでみます」


 「いえいえ。

 では」


 「はい。

 ありがとうございました」


 私がお礼を言うと彼は頭を下げ、にっこりと微笑んだ?っぽく首を傾げて、歩き出した。


 顔を隠してるから、ジェスチャーで補足してるのかな。

 個性的で面白い。


 それにしても、通りすがりに人助けが出来る人なんて、本当にいるんだな。


 どこか他人事のようにそう思いながら、私はアドバイスに倣い、遥へ電話をかけた。

 予定よりは少し早いけど、情けない話、一人でマンションまで戻れる気がしなかったから。


 そう言えば、遥も通りすがりに私達を助けてくれた。

 だからだろうか、つい頼ってしまう。


 あの人は、どこへ遊びに行くのかな。


 彼が歩いて行った方向を見ると、その姿は少し先で立ち止まっていた。

 ポケットからスマホを取り出し、耳元へ運んでいく。


 ……?


 その様子が、まるでスローモーションのように、酷くゆっくりと私の目に映った。

 なにか、予感のようなものが胸の内に広がっていく。


 景色も音もない真っ白な世界に、私と彼だけがいると感じる。

 それほどまでに視界の狭まった私は、それでも耳にスマホを押し当てた。


 電話が繋がった。


 「唯?どうしたの?」


 視線の先にいるその人は、不意に掛かってきた電話に驚いているかのような仕草で、柱時計を確認していた。

 約束にはまだ早い。って、そう思ってそうな動きだ。


 「遥……」


 「ん?」


 スピーカーからは遥の声の他に、喧騒が聞こえる。

 雑踏の中にいるような、そんな喧騒。

 スマホを当ててない私の左耳からも聞こえる。

 そんな喧騒。


 「後ろ」


 「え?何?」


 「後ろ。見て」


 何でわざわざ振り向かせたのか、自分でもよくわかっていない。

 でも、こうするしかないような気がしてならなかった。


 「え~何それ」


 彼が、ゆっくりと振り返る。

 前髪とマスクで顔は見えなかったけど、背丈は遥と同じくらいだった。

 声も、何となく似ていた気がする。


 振り向いたその人は、私の方を見て固まっていた。

 固まって、こっちをじっと見て、言った。


 「唯……?」


 その声はスピーカーからじゃなかった。


 カクテルパーティー効果のように、少し先にいる彼の、遥の声が聞こえた。

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