煙草

 「変じゃないよな……?」


 店先の硝子に映る自分を見つめながら、つい、そんな独り言が漏れる。


 あの日から二日後の金曜日。僕はまたしても女装をしていた。

 と言うのも昨晩、舞菜からお誘いを受けたのだ。



* * *



 晩御飯を食べてお風呂にも入った僕は、ベッドに寝そべって漫画を読んだり、ゲームをしたりと、自分の時間を満喫していた。

 そんな折、着信が入ったのだ。


 『あ、遥?明日の放課後って暇?

 ガッコー終わったらカラオケ行かない?』


 普段滅多に耳にしない”カラオケ”という言葉に興奮した僕は、二つ返事でその誘いに応じた。

 以前司馬に誘われて一度だけ行ったことがあるのだが、あのやや暗い照明や、個室という非日常感満載の空間が、強く印象に残っている。

 結構アガる感じだったのだ。


 『ただし!私服で来ること。

 着替えたら駅前のカラパリに六時ね。じゃっ!』


 「えっ!ちょっ」


 そうして通話は終了した。というか切られた。


 そっと添えられたような私服という言葉に僕は、端的に言って終わりを感じていた。

 制服はセーラーだった上に、あの日はニーソという奥の手も使っていた。

 そのおかげか、シルエットや雰囲気は違和感無く過ごせたと思う。

 しかし、次は私服だ。それも、まだ夏の余韻残るこの時期に着るもの。

 となると、どうしたって布地は薄くなるし、肌の露出も不安の種だ。


 なので僕は、桜井に電話をかけた。

 誠意として床に正座をしながら。


 桜井は暇していたのか、ワンコールで出てくれた。


 『なに~?』


 気怠そうな、間延びした声。

 僕は早速本題を切り出した。


 「服、貸してくれないかな」


 『……は?服?

 えっなに遥、また女装すんの?』


 「それが、かくかくしかじかで……」


 本来なら司馬と桜井には、月曜日の放課後に報告するはずだった。

 女装によって起こったことを事細かにまとめ、ファミレスで報告会兼慰労会の予定だったのだ。

 しかしこうなってしまっては、桜井にはあらましだけでも話しておく必要がある。


 とりあえず僕は、四人のギャルと友達になったこと、そのギャルズと明日カラオケに行く運びとなったことを説明した。

 ちなみに桜井は、僕のメッセージアプリのアイコンが変わっていたことには、この時気付いたらしい。


 それから桜井は一通り爆笑し、呼吸が落ち着いてから感想を述べた。


 『なるほどねぇ……まあ遥、ぼっちだもんね。

 カラオケも私らとしか行ったことないもんね。

 友達が出来たら、なるべく遊びたいもんね』


 僕の心は少しえぐられた。

 人に言われて客観視してみると、なるほど確かに。

 ぼっちだ。


 「……まあ、うん。

 だから、僕に似合いそうな服を借りたいんだけど、どうかな」


 『面白そうだからいいよ。

 とりあえず私の独断と偏見で、一着だけ用意しとくね。

 あっもちろん、文句は一切禁止で』


 返答は意外にもOKで、それも即答だった。


 しかし一つ引っかかる。


 「文句?」


 桜井も僕の返事を待つこと無く通話を切った。

 女子にとっては当たり前のことなのか……?


 「えっなに……?めっちゃ怖いんだけど……」


 一抹の不安を抱えていると、スマホが「ポン」と鳴った。


 『楽しみにしてな』


 桜井からのメッセージ。

 楽しみになんて出来るわけがない。


 「不安だ……」



* * *



 そんなわけで、受け取ったストリート系?の服を着ている。


 まだまだ残暑が厳しいのに、シャツインとか正気か?

 それとも、今の流行りはこんな感じなのか?

 お洒落は我慢って言うらしいけど、下手したら熱中症だってのに、我慢もクソもないだろ。


 なんて文句は禁止だ。

 思うに留めないといけないのが地味にしんどい。


 「はぁ……」


 溜息交じりに硝子を見る。


 反射する僕。

 あらかじめ巻かれていたウィッグや色付きのリップなど、桜井監修なだけあるというかなんというか……


 一応、一見すると女子ではある。

 

 女子ではあるけど……どうなんだろう。なんか違和感がある気がするんだよね。


 これって、僕が自分のことを男だって知ってるから、先入観とかでそう思うだけなのかな?

 それとも、自分が女装しているという事実を呑み込めないだけ?

 桜井チョイスだし、似合ってないってことはないと思うけど……う~ん。


 普段ならそんなことないのに、ウィッグとかリップとか、自分の見栄えが気になって仕方ない。

 まさか、これが乙女心……?


 ……いや、そんないいものじゃないな。

 この違和感の正体。

 いくつかあるんだろうけど、一つだけ、確かなものがある。

 

 「うぅ……」


 桜井の趣味で選ばれた下着。

 これが肌に馴染まないんだ。


 ムズムズする。


 パッドにブラにショーツに……もう完全に変態だ。


 周囲の視線もしんどい。

 通りがかりにじろじろと見られている。


 ……やっぱり、この格好って変なのかな。

 桜井セレクトだからおかしくはないハズだけど、僕はだいぶファッションに疎い自覚がある。


 ……もしかして、桜井はわざとダサい恰好を僕にさせてるんじゃ?


 そんな最悪な推論がたった僕は、硝子に反射する全身を見て、ファッションチェックをした。


 先入観を無くして、ただの女子高生の私服姿として見るんだ。


 ……そう見る限り、変ではない気がする。

 むしろ、どこからどう見ても、今風な女子高生の私服姿がそこにはあった。


 それはそれで複雑だ。


 こうして全身の確認をして、違和感がないと安堵して、少し経つとまた気になって、全身を確認して……


 このサイクルを、もう何度も繰り返していた。


 今までは、デートの待ち合わせ前に何度も鏡を確認する人間を見ては、


 「自分大好きな奴だな」


 なんて思ってた。


 けど、違ったんだな。

 変じゃないかが気になって仕方がないんだ。

 不安を紛らわすために、ああして何度も確認していたんだ。


 新知見ってやつだ。


 なんて思っていると、スマホが振動した。

 誰かからのメッセージだ。

 確認してみるとそれは、タイミング良く……いや、悪く、桜井からだった。


 『遥ちゃん可愛いよhshs』


 文句禁止の縛りが、まるで重いボディブローのように僕の胃をキリキリと痛めつける。


 「くそ、完全に楽しんでるな」


 僕は中指を立てたスタンプを送り、スマホを閉じる。

 丁度そのタイミングで、舞菜と愛瑠の高い声が、硬いヒールの音と共に聞こえてきたのだった。


 「お待たせぇ~」


 「ごめんねぇ!待った?待ったよね?」


 膝に手をつき肩で息をする二人は、遅刻していると思っていたのか、申し訳なさそうにこちらを見上げていた。


 「大丈夫だよ。ちょうど六時」


 僕は、スマホのロック画面に映る時刻を見せた。

 二人は少し笑って、安堵した様子だ。

 それから大して間を置かず、凛々と唯も小走りでやってきた。


 皆服装がお洒落だ。

 服とかどれも高そうに見えるし、ギャルだけあって派手に見える。


 ……やっぱ僕、変じゃないか?

 僕だけ恰好がギャルっぽくないし、浮いてないか?


 生地もガラも随分シンプルだし、皆が可愛い系なら、僕はかっこいい系って感じの服だ。


 ……服について詳しくないと、自分の格好が変か変じゃないかすらわからないんだな。


 そう自分を卑下するようなことを考えていたのだが、僕の不安は一瞬にして消し飛んだ。

 未だ息の整わない舞菜が、相も変わらずの快活さでまくし立ててきたのである。


 「私何着ていこうか直前で迷っちゃってさぁ、やっぱオケオールなら気合も入るよね!

 てか遥いいね!似合うねぇ!」


 良い。似合う。


 ギャルなのに……って言うとあれだけど、少しギャップがある感じの、清楚でいて派手な恰好。

 お洒落上級者なのが見て取れる。

 そんな舞菜に褒めてもらったんだ。とりあえずはひと安心だ。


 …………あれ?



 『私何着ていこうか直前で迷っちゃってさぁ、やっぱオケオールなら気合も入るよね!

 てか遥いいね!似合うねぇ!』



 開口一番矢継ぎ早に来る言葉の雨あられの中から、僕は最も聞き慣れない言葉を拾い上げた。


 「オケオール?」


 「ん?」


 僕の疑問符に対して、舞菜は意味がわかっていないかのような反応を見せる。


 オケオール……


 ……オケオール!?


 きっ、聞いてない!聞いてないぞそんなこと!

 ちょっと待ってオケオールってあれでしょ!?朝までずっとカラオケってことでしょ!?お泊りでしょ!?

 そんなの無理に決まってんじゃんこちとら女装だぞ!!


 背中から汗が噴き出るのを感じる。

 ぶわっと、ぞわっと。


 ヤバい。ギャルに混ざってオケオールなんて、難易度ディストピアの無理ゲーだ。

 そんな難易度があるかは知らないけどさ。


 「待って舞菜さ、遥にちゃんと伝えた?」


 愛瑠のこの反応に加え、心配そうに僕を見る唯、舞菜を撫でている凛々。

 三者の反応が平然としていることから、わかった。


 彼女達には、情報が正しく行き渡っていたのだ。


 そうか。てっきり学校で用事があったりなんだったりでこの時間なのかと思ってたけど、皆一回家に帰って、お風呂に入ってから来たのか。

 だから香水とシャンプーのいい匂いがするのか。


 僕も一応お風呂は済ましてから来たし、桜井に言われて、少しだけだけど香水を付けてみたんだけどな。

 自分につけたやつの匂いが全然わからない。

 皆のはわかるのに。


 「伝え……てぅ」


 舞菜はスマホを操作しながら、自信なさそうにそう答えた。

 画面を何度もスクロールして、僕に送ったオケオールのメッセージを探しているようだ。


 「は?何て?」


 腰に手を当てた愛瑠が舞菜に詰め寄っている。


 女の人の怒ってる様子って、なんでこんなに怖いんだ?

 以前起こった司馬と桜井の喧嘩でも思ったが、声のトーンが一段も二段も落ちるから、めっちゃビビるんだよな。


 「ま、舞菜さんからは、六時にこことしか……」


 怖いとは言え、今更嘘は吐けない。

 初耳ってリアクションをしちゃったからな。


 「……あっホントだ。メッセ送ってない……

 ……うぅ」


 舞菜自身も送ったと思い込んでいたのか、今にも泣き出しそうな、子犬のような表情をしていた。


 そんなものを見せられて、誰が断れようか。


 「だ、大丈夫!私も明日は休みだから!」


 僕は一先ずそう言っておいた。

 さすがにずっといるわけにもいかないから、急用とか言って途中で帰るつもりだけどね。


 「ホント……?ごめんね……?」


 「っとにもぉ。

 ごめんね遥、無理言わせちゃって。

 お金足りなかったら言ってよ?舞菜に出さすからさ」


 「ちょっ遥!聞いちゃダメ!」


 「うるさい!ちゃんと言わなかったのが悪い!」


 「あうっ!」


 「舞菜、よしよし」


 「大丈夫大丈夫!ありがとう!」


 愛瑠が窘め、凛々が慰めることでその場は収まった。

 唯はともかく、この三人の関係性はわかりやすいな。

 とにかく元気で明るい舞菜。

 見た目は派手だけど面倒見がよく、しっかり者で姉御肌の愛瑠。

 舞菜以外にはあまり興味関心を持たない凛々。

 って感じか。


 「んじゃ、とりあえず入ろうぜ~」


 ……そういえば、まだ唯の声を聴いてないな。

 会話をしていないとかじゃなく、そもそも一言も発してなくないか?

 声の調子が落ち着いてるだけで、テンションは普通に高いって印象だったけど……

 今日はまだ目も合わないし、何かあったのか心配になる。


 唯へ視線を送るも目は合わず。

 声をかけようとするも、


 「行っくよ~!」


 舞菜に腕を掴まれて、僕は店内へと引き摺られた。



 ……まさか僕が、人と目が合わないことを気にする日が来るとは。



 なんて変化を胸中に、僕達は入店した。



* * *



 「しゃせ~」


 「私らここで何回もオールしてるからね、大丈夫だよ」


 舞菜は僕にそう耳打ちして教えてくれた。

 いい匂いがした。


 何度も経験しているからか、それとも受付けがふざけた金髪のギャル男だからか、確かに何の問題もなく入室出来た。


 「ウチお手洗い~」


 「私も~」


 「舞菜が行くなら私も」


 舞菜達三人はそう言って、荷物を置くとすぐに部屋を出て行った。


 さあ、人生で二回目のカラオケだ。

 自分で歌うのはそんなに好きじゃないけど、人の歌を聴くのは嫌いじゃない。

 司馬みたいな陽キャがバラードを歌ったり、桜井みたいな女子がデスボで歌ったり、新たな一面というやつが色んなところにあるからだ。

 それにこの、薄暗くて、どこかアングラっぽい空間。

 否が応にもテンションが上がってしまう。


 ……いけないいけない。

 あんまり鼻息を荒くしてたら、男とか女とか以前に気持ち悪がられてしまう。


 僕は深呼吸をしてから、シートの最奥に座った。

 向かいのソファーには舞菜達のバッグが雑に投げられている。

 必然的に、僕の位置は三人の向かい。

 隣は唯だ。


 さっきは元気が無さそうに見えたけど、大丈夫かな。


 なんて思っていると、唯が隣に座った。

 隣に座って、心配そうな顔で尋ねてくる。


 「今日、本当に大丈夫?

 この後予定とかなかった?」


 その語調や雰囲気に特段変わった様子はないことから、僕は一先ず安堵した。

 思っていたよりも元気そうだ。


 「急でびっくりしちゃっただけだよ。大丈夫。

 ありがとね」


 「そっか」


 それで会話は終わり、お互い無言の時間がしばし続いた。

 落ち着かない視線が、コマーシャルを流しているモニターへと移る。

 そこには、特に興味のない男性アイドルのミュージックビデオが流れていた。


 しかしそれも終盤だったのか、イントロだと思った音楽は、まさかのアウトロ。

 その次に流れた音楽も、全然知らないアニメの主題歌だった。


 ……気まずい。

 今から何か話題を振っても、気まずいって思ってるんだなって思われそうだし、どうせまた2~3のやり取りで終わるし、気の利いた話題の提供とかも出来ないし……

 てか舞菜達遅くない?トイレ長くない?

 もう体感10分は経過してるんだけど、いったい何してるんだ?


 モニター、ドア、天井。

 モニター、ドア、天井。


 僕の視線だ。


 アニメの主題歌が止まった。


 コマーシャルとコマーシャルの切り替わる数瞬、室内は静寂に包まれる。



 不意に。



 ──とす。



 と、肩に何かが当たった。


 「遥ちゃん、ストリート系似合うね。可愛い」


 それは、唯の頭だった。


 肩にもたれかかられる感覚。電車で寝てるサラリーマンのそれとは違う。


 ふわっと香るいい匂いが、僕の脳をくすぐった。


 おかしい。僕は服を着ているはずなのに、唯の髪の毛の一本一本が感じられる。

 まるで素肌で触れているかのように、さらさらで、艶やか。でも少し毛先が荒れている。

 そんな髪の毛が僕の皮膚を悪戯に刺激する。


 肩にもたれかかっているのは、羽のように軽やかなのに、しっかりとした質量を持つ頭部。

 体温。鼓動。息遣い。それらがエコーロケーションのように波紋を広げる。

 確かな存在感から、髪の毛越しに唯の頭蓋骨を感じた僕は、なぜだろう、


 彼女の頭部は小さくて丸くていい形だなぁ。


 なんて考えてしまう。


 大量の情報が次から次へと処理されていく。

 次第に僕は賢者タイムのような全能感に包まれていった。



 「そう?ありがとう。

 唯さんも大人びてて、綺麗で羨ましいよ」


 賢者だからか、普段より随分と賢く、かつスマートな受け答えが難なくこなせてしまった。

 最強かよ賢者タイム。


 「ホント?うれしいな」


 こてんともたれたまま頬を紅潮させる唯をリードしようと、僕は狭いシートとテーブルの間で脚を組む。

 賢者の僕は脛をテーブルに強打することもなく、膝の上には手を組んでみせた。

 その様はまるで、次代を担う若王子である。


 「そういえば唯さんは、普段はどんな歌を歌うの?」


 不思議と話題もポンポン出る。


 やるな僕!賢者タイム様々だ!



 しかし、そう思えたのも束の間。


 彼女の次の一言で、僕のこの賢者タイムは、あっという間に終わりを迎えた。



 「……ねぇ、何で呼び捨てにしてくれないの?」



 その声は、僕の耳の真横から聞こえた。


 ささやくように。

 言葉を、僕の耳の奥の奥に、優しく置くように。


 言ってしまえば、エロめのASMRのように。


 唯の吐息がかかり、唯の口腔の温度、唯の声の振動が一瞬にして伝わる。

 僕の耳朶は凌辱されたかのように、一瞬で真っ赤に発熱した。


 この物理的な急接近に、賢者タイムはどこへやら。

 瞬く間に化けの皮を剝がされ、見るも無残にキョドった童貞が姿を現したのだった。


 「おぁ、な、なんかぁ……お、お姉さん、感?あるから……?」


 「呼び捨てするの、やだ?」


 声が鼓膜を震わせ、吐息が耳孔を舐め上げ、しゅわしゅわと僕を溶かしていく。


 少しずつ、近付いてくる。


 経験がないからわからないけど、こんだけ耳と口が近付いて、唇同士の擦れ合う音に、息遣いまでモロに聞こえて……


 ……こんなのもはや、そういうプレイじゃないか!


 「ち、近い……」


 「や?」


 自分の顔が熱を纏っているのがわかる。それも、眩暈がして、視界がぐにゃっとなる、冷静さを奪うような熱。


 耐えられないと悟った。


 僕はイキった脚を瞬時になおし、この場から逃げ出すために席を立つ。


 「わっ私!トイレ!」


 そうして立ち上がってから思い出した。

 僕とドアの間には、唯がいるのだ。


 舞菜達の荷物がある反対側へ行ったところで、回り込まれるのがオチ。

 

 であればもう、正面突破しかない。


 僕は少し強引に、テーブルと唯の隙間を通り抜けようと試みた。


 が、


 「待って。私も行く」


 その瞬間、唯に手首を掴まれてしまった。


 ドクン。


 心臓が、大きく脈打つ。


 ここまで軽いボディタッチは何度かあった。

 そのどれもは、薄手とは言え服の上からだった。


 しかし今回は素肌。

 それも、骨や筋肉に性差の現れやすい、手首を掴まれてしまった。


 「……?

 なんか、スポーツやってた?

 女の子にしては少し……」


 当然、気付かれる。


 「……少し、硬くない?」


 「えっ……そ、そう?

 別に普通じゃない?」


 破裂しそうなほどにバクバクと早鐘を打つ心臓。

 もう駄目だと思った。


 その時だった。


 「たっだいま~!もう始めてる!?」


 舞菜達が戻ってきたのである。


 「私もトイレ!」


 唯は気を取られたのか、僕の腕を掴む力が一瞬緩んだ。

 僕はその隙を突いてエスケープに成功。

 彼女達の隙間をすり抜けるように部屋を飛び出した。


 「わわっ!えっ!?」


 「そんなに限界だったのかぁ?」


 「……」


 「唯てゃも行って来たら?

 帰ってきたらジュース取り行こ~」


 「……うん。行ってくるね」



* * *



 ……なんか、普通に女子トイレに入っちゃったけど、今はこれでいいんだよね?

 恰好が格好だから仕方ないよね……?


 ってそんなことより、ヤバいぞなんだ今日の唯さん。めちゃくちゃ距離近くなかったか?

 あんなの恋人の距離感でしょ。


 えっ、もしかして僕のこと好きなの?そうなの?

 って、いや僕今女装──


 「遥ちゃん?」


 「うゎはいっ!?」


 やにわに唯の声が、個室のドア越しに聞こえてきた。

 とっさに返事をしたためか、僕の声はかなり無様に裏返ってしまった。


 てか、いつの間に入ってきたんだ?入室に気付かないとか、どんだけ動転してんだ僕は……


 どこかの部屋の音が漏れ、今年流行ったバンドの曲が僅かに聞こえる。

 それぐらい静かだった。


 そんな沈黙を破ったのは、やはり唯だった。


 「さっきはごめんね?

 私、あんまり人と仲良くできたことなくて……

 遥ちゃんいい子だし、可愛いから、どうしても仲良くなりたかったの」


 震えた声遣いで、少し早口。


 「あ……」


 思い起こされたのは、そう遠くない、あの頃の自分だった。


 「いきなり距離近すぎたよね?ごめんね」


 この感じ、覚えがある。


 僕も新学期などの人間関係が入れ替わるタイミングには、それなりに人との交流を試みていた。

 しかし、どれも長くは続かなかった。

 気負いすぎてか、生来のものか、距離感が上手く図れなかったのだ。


 僕はから回ってばかりだった。

 いつも同じようなパターンで、その場で少しだけ話したら、もうそれっきり。

 次の春には一言も交わさずにさようならだ。

 だから僕は、中学に入ると同時に、人と関わることを諦めた。

 その方が楽だから。

 新しく関係を築き始める時のあの気まずい感じも、意見のすれ違いから冷たく接し合い、そのまま離れていくような寂しさも、何もない。

 実際、凄く楽だった。



 ……でも──



 人と関わるというのは、とにもかくにも大変なことだ。

 その場で軽く言葉を交わすだけならまだしも、仲を継続するなんて、考えただけで億劫になる。

 気遣い、トラブル、協調性、喧嘩……数え出したらキリが無い。

 だから僕は諦めた。


 でも、唯は諦めなかった。

 僕とは違って楽な方へ行かず、未だ積極的に頑張っているんだ。

 距離感が上手く図れなくても、から回っても、それでもめげずに。


 もし今回、僕と唯の立場が逆だったら、僕はここまで追って来ていない。

 それとなく過ごして、途中で帰って、連絡先を消していただろう。

 一度拒絶された相手に、もう一度関係の継続を望むなんて、僕には出来ない。


 「本当にごめんね……もう、変に絡まないようにするから……」


 震えている。


 少しでも傷付けてしまったら終わり。

 綱渡りみたいなその感覚は、よくわかる。



 「わっ、私も!」


 うっわ思ったよりでかい声出た!


 「あっ、私も、仲良くはしたいから。

 さっきのはびっくりしただけで……だから、気にしなくていいよ。


 ……唯」


 僕は個室のドアを開けた。

 逃げてしまった申し訳なさと言うか、僕なりの誠意と言うか、そういう気持ちを込めて開けた。

 するとドアが開ききるや否や、唯が僕の胸に抱き着く様に飛び込んできた。


 「ちょっ!!うぇっ!?」


 桜井から賜った「遥は女でも絶対貧乳!!」というアドバイスを参考に入れていた、小さめの胸パッド。

 男バレを防ぐためには欠かせない措置だが、如何せんバレた時、変態のレッテルはどうしたって剝がせなくなる。

 しかし背に腹は代えられないと言うことで、僕は止むなくこれを装着していた。


 効果は絶大なハズなんだ。

 胸の感触があれば先程の手首の件だって、


 「そういう骨格か」


 と誤魔化しが効く。

 バレる可能性が低くなる。


 あえて胸を接触させることで女装を誤魔化す。

 攻撃は最大の防御。

 攻めの守勢。

 強気の策。


 しかしこれには、問題点が一つあった。


 割とがっつり接触している今、唯が僕の胸や体つきに違和感を感じている様子はない。

 つまり、問題は、実はバレやすいとか、そういうことではない。


 そう。問題点はそこじゃない。


 接触を前提とした、攻撃は最大の防御的な本策。


 接触。つまり、僕の胸が唯にあたる。

 

 場合によっては、僕の胸が唯の胸に当たる。


 今のように。


 『唯の胸 割とたわわな 唯の胸』


 稀代の俳人である僕の辞世の句である。


 当方、異性とはハグはおろか、手すら繋いだことがない。

 そんな男が、ひょんなことから美少女と胸を突き合わせるというラキスケに見舞われる。


 するとどうなる?


 簡単だ。

 腰が抜ける。


 僕は倒れるように便座へと落ちた。


 「あっ……や、ふぁっ……」


 僕の心臓は、もはや「ガンガン」と鳴っている。

 この緊張感、正しく警鐘だ。


 そして恐らくこれは、唯にも伝わっていた。


 「ゆ、唯……?」


 けれど唯が、それどころではないと言うように身体を震わすものだから、僕の鼓動は少しずつ落ち着いていった。


 鼻をすする音や嗚咽を漏らす気配はない。

 そのため、泣いているわけではない。と、辛うじてわかった頃には、落ち着いた、いつもの僕の心臓だ。


 ……しかしこういう時、同性の友達とはどうするものなのか。

 交友経験の希薄な僕には、皆目見当もつかなかった。


 見当もつかなかったが、何もしないのは違う気がした。


 「だ、大丈夫、だよ」


 僕は、何が正解かもわからないまま、気休め程度に唯の頭を撫でたのだった。


 「なにしてるの?」


 不意に聞こえた声にハッとして、声のする方を確認すると、トイレの入り口に凛々が立っていた。

 無表情に見下ろすように、こちらを見つめている。


 「え……っと……」


 だっ、だめだ、言い訳が思いつかない。

 女の子同士で同じ個室に入って、胸と胸をくっつけるように抱き合って、頭を撫でてるこの絵ヅラ……

 った、体調不良……とか……?


 「リップ忘れたから取りに来たんだけど。

 お楽しみ中?」


 凛々の口から発せられた誤解は、いっちばんだめなやつだった。


 「おたっ……!ちっ、違うよ!すぐ戻るから!

 ほら唯、行こ!」


 ともすれば崩れ落ちそうな唯の脇を抱え上げ、僕は何とか立ち上がる。


 その拍子に見えた唯の口の両端は、にまにまと、わかりやすすぎる程に吊り上がっていた。


 さっきの震えは、嬉しさからか。


 そうとわかると、自然と僕の口元にも笑みが浮かんでしまう。

 僕は、無表情の中にどこか怪訝な雰囲気を漂わす凛々の横を、唯の手を引いて小走りで抜けて行った。


 そして、ふと思う。


 唯は、嬉しさに震える程の強い思いで、僕との関りを持とうとしてくれた。

 厳密には僕にじゃなくて、遥ちゃんに向けられたものなのかもしれないが……


 しかし、それを踏まえてもだ。

 ここまで好意的な感情を、僕は今まで、人から向けられたことがあっただろうか。


 向けたことはあっただろうか。


 これから誰かに、向けていけるだろうか。



 「おかえり~!

 ね、ここソフトもあるんだよ!行こ行こ!」


 「あ、ホント?行こ~」


 部屋に戻る頃には、唯は唯はケロッとしていた。

 まるで何事もなく、二人でトイレに行っただけのような、そんな感じだ。

 でも僕の胸には、確かに彼女の体温が残っていて、それが何だかむず痒かった。


 「大丈夫?」


 唯が舞菜、愛瑠と部屋を出たタイミングで、凛々がスマホを片手に声をかけてきた。


 もしあの時彼女が来なければ、僕と唯はどうなっていたのだろう。


 少しピンク色の妄想をしてしまいたくはなるが、正直な話、僕にあの状況であれ以上のことが出来たとは、到底思えない。

 それに、もしかしたら何かのきっかけで、彼女を酷く傷付けてしまうことになっていたかもしれない。


 例えば、男バレとか。


 ……まあ、可能性で言ったらキリがないんだけどね。


 「凛々さん」


 「凛々」


 敬称は一秒で却下された。

 ギャルは自分の名前を敬称略で呼ばれたい生き物なのか?


 ……でもここで呼ばないと、女同士感薄いよなぁ。


 最悪男ってバレて……そうなったら唯にも迷惑が……

 ああもう、四面楚歌だ。


 「凛……々。

 さっきはありがとう。助かったよ」


 「別に。

 それより、遥は距離が近いの、苦手?舞菜は大丈夫?」


 相変わらず無表情。

 無表情でスマホを見ている。


 なんだけど、その声音は憂慮でいっぱいに感じられた。


 この人……一見すると無表情だし、スマホばっか見てるし、舞菜にべったりで、周りにあまり興味がない様に見える。

 けど、意外と人のことを見てるというか、優しいというか。

 あれだ。気遣い屋さんなんだな。


 でもだったら、さん付けで呼ばせてほしいんだけどな。


 「大丈夫だよ。

 今まではあの人達みたいにさ、距離感近かったり、ボディタッチしてくる人が私の周りにはいなかったから、戸惑っちゃっただけ」


 「そう」


 「ぶっちゃけ、凛々くらいの距離感が今はまだ程良いかな。

 気にかけてくれてありがとね」


 お礼を言っても無表情は変わらない。

 きっと、舞菜以外に興味がないってのも、間違いではないんだろうな。


 「友達だから普通だよ」


 事もなげにそんなことを言う凛々だが、僕は一つ、気付いていた。


 「でも、トイレにリップなんて忘れてなかったじゃない?」


 それを聞いた凛々は、少しだけ表情を変化させた。

 眉がピクっとするとか、スマホからこちらへ一瞬視線が移ったとか、その程度だけど。


 「……よく見てるね」


 忘れたと言っていたリップクリーム。

 恐らくは手洗い場で使っただろうものだけど、僕が唯とトイレを出る時にチラッと見えたそこには、何も無かった気がしたんだ。

 カマをかけたようなものだけど、当たってたみたいで良かった。


 見落としてたら、凛々の優しさにすら気付けないままだったな。


 「お互い様だよ。

 心配してくれたんでしょ?ありがと」


 「……うん」


 今度は少し、耳の辺りが赤くなっている……ような気がした。

 ピアスは多いし、髪は長くてツヤも凄い。キラキラ光ってて全部がピアスに見えるくらいだから、自信はないけどさ。


 それにしても、凛々は凄いな。

 この人は僕がトイレに行った様子を見て、違和感を感じた。

 そして、心配して様子まで見に来てくれた。

 極めつけに今、こうして声をかけてくれている。


 舞菜にしか興味関心がない。

 それは恐らくそうだけど、でも、それだけじゃない。

 実際は、友達みんなが大切な、優しい人って感じだ。


 「二人ともまだぁ?早くしないと愛瑠がアイス全部取っちゃうよ!」


 通路から顔だけを出した舞菜にそう急かされ、話し込んでしまっていたことに気付いた。

 僕より頭半分くらい背の高い凛々をちらっと見上げると、一瞬、目が合った。


 ……やっぱり苦しい。

 心臓が、キュッと締め付けられる。


 「なに」


 でも、それでも──


 「いや、行こ」


 ──僕はこの姿でなら、少しだけ……本当に少しだけ、人と目が合っても平気なのかもしれない。



* * *



 「イェーーーイ!!アッリィーナァーッ!!」


 「舞菜ぁ!こっち向いてぇ~!!」


 凛々の黄色い声援に、舞菜はアイドル顔負けの歌とファンサを送る。


 「キャァァアアアッ!」


 いざカラオケが始まると、彼女らはやはりギャルと言うか、僕とは住む世界が違った。

 曲なんかは我先にと入れていくし、歌うのも常に全力。

 店員が来てもお構いなしに歌い続ける。

 舞菜なんかはタイミングによっては、店員にもファンサを送っていた。


 完全に置いてけぼりの僕だったが、やはり時間。時間は全てを解決する。

 この舞菜と凛々の、アイドルとそのオタクの様なノリもだいぶ見慣れたものだ。

 この僕が隙を見て、合いの手すら入れられるようになっていた。


 「センキュッ!」


 流行りっぽいアイドルの曲を振り付けまで完コピした舞菜は、僕の目から見てもアイドルだった。

 そんな彼女の得点は、九十六。

 踊りながら、ファンサしながらでこの点数とか、アイドル適正高すぎないか……?


 「舞菜ぁ”~!」


 「凛々喉生きてる?」


 「じんでも”い”い”~!」


 絶えず歓声を送り続けていた凛々の声は既に枯れ切っており、持参していたキンブレの煌々としたピンクも、もはやくすんでいる。


 「あ、ごめん。私お手洗い」


 開始から四時間程が経過したそんな時、唯が席を立った。

 僕は僕でリンゴジュースを飲み干して尿意を催していたため、唯に遅れる形で部屋を出た。


 唯は、僕の少し先を歩いていた。

 先程のこともあって、声はかけられない。


 部屋では何事もなかったように振舞えたけど、今は二人っきり。


 トイレの個室でハグをした人と、二人っきり……


 否が応にも、あの息遣いとか、体温が反芻される。


 話しかけるとか無理だろ……


 唯は僕に気付いていないようだったので、そのまま追従することにした。


 しかしすぐに異変が起きた。

 数メートル先を歩くその姿は、曲がった先にトイレがある角を通り過ぎたのだ。


 「ん?」


 そのまま突き当りの部屋へと入って行く。


 「んん?」


 そこは喫煙室だった。


 「んんん??」


 思わず中の様子を伺うと、そこには唯一人だけ。

 丁度煙草を取り出しているところで、火をつけるまでの慣れた手つきに目を奪われてしまった僕は、ふとこちらへ顔を向けた唯に見つかってしまった。


 「入りなよ」


 未成年喫煙を平気でする唯の声が、硝子越しからわずかにそう聞こえる。


 怪しく歪んだ目元に、思わず誘われてしまう。


 魔性だ。


 僕は、生まれて初めて喫煙室に入った。


 「……煙草、未成年は吸っちゃだめだよ……」


 そう言うのが精一杯だった。


 「大丈夫だよ。未成年に見えないでしょ?」


 怪しく微笑む唯のその顔は、先程トイレで見たそれとも、一昨日駅前で見たそれとも、似ても似つかない別人のように映った。

 なんてことないかのように煙草を吸っている。


 ギャルっていうより、ヤンキーだ。


 「そういう問題じゃ……」


 辛うじて窘める言葉が続いたが、唯は吸いかけの煙草を僕の口に咥えさせることで、それを無理矢理に止めてきた。


 「これで共犯だね」


 押し付けるようにあてがわれた煙草。

 少し湿ったフィルターからは、バニラのような香りがした。


 「吸わないの?」


 その問いに、僕は答えられなかった。

 僕だって、飲酒や喫煙には、それなりに興味がある。

 自宅は無法地帯とばかりに、親のビールを分けてもらったことを自慢げに語るクラスメイトの会話を聞いて、羨ましく思ったことだってあるし、煙草を吸うキャラクターをかっこいいと思うことなんてしょっちゅうだ。


 でも、僕はまだ未成年だ。

 吸っちゃ駄目だ。


 「なんだ」


 唯はつまらなさそうにそう言うと、煙草を自分の口へ運んだ。


 「スゥ」と吸い、「フゥ」と吐く。


 少し……どこか……いや、一挙手一投足が艶めかしい唯の、その口から漏れる小さな音に僕は聞き入り、壁の向こうを見るような遠い目や、煙を吐く時の少し尖った唇から、目が離せなかった。

 絵になるような、怪しさと美しさだった。

 煙草を吸う仕草、姿が美しいと思ったのは、これが初めてだった。


 僕の視線に気付いた唯は、指先で煙草をくるりと回転させ、フィルターをこちら方へ向ける。


 「熱いスープを飲むみたいに」


 僕は……



 僕は、言われるがままに吸ってしまった。

 生まれて初めて吸う煙草は、口内と喉が少し痺れるばかりで、美味しくも何ともなかった。

 それでも、唯があの帰り際のような笑顔で


 「今度こそ共犯」


 だなんて言うものだから、安心した僕は、自嘲気味に笑ってしまった。


 この背徳感と、話すたびに別人になるかのような顔を、笑顔を見せる彼女に、僕は魅入られてしまったのかもしれない。


 そう思うと尚更笑えた。



 結局、この日は朝までカラオケにいた。


 凛々にこの状況を見られないかが気掛かりだったが、日付けが変わるころには歌い疲れて眠る舞菜を抱きしめながら眠っていた。

 それからは愛瑠と唯、そしてたまに僕も歌った。


 しかし愛瑠も二時頃には大きく舟を漕いでいて、


 「てきとうにおこして」


 そう言い残して眠りについた。

 僕と唯は何度も喫煙室に行き、その度に取り留めのない話をした。

 互いの好きな食べ物や、趣味の話。

 最近ハマっているものから好きなタイプまで、割と赤裸々に。


 「え、ダチョウってそんなに頭悪いの」


 「それがこの動画で……」


 「じゃあじゃあ、このゲームも知ってる?」


 「知ってる知ってる。何ならやってたよ」


 「このYouTuberシュールでヤバいよ」


 「アッハハハ!!キッツ~!」


 そして


 「遥ってまだ経験ないの?」


 唯はいつの間にか、僕をちゃん付けで呼ばなくなっていたし、


 「うん。

 カ……レシも、できたこと、ないから。

 唯は?どうなの?」


 僕は、唯の呼び捨てに慣れていた。


 「え~……まぁ私もだけど……」


 時間を忘れて話し込んだ。

 いつの間にか煙草も最後の二本だ。


 先に火を点けた唯が、なにやら顔を顰めている。

 そしてライターを振りながら「げっ」と漏らした。


 「百円のだから、死んだかも」


 手渡されたライターは、確かに死んでいた。

 いくらヤスリを擦っても、辛うじて火花が飛ぶだけだったのだ。


 「点かない……」


 唯は幸せそうに煙を吐いている。

 僕はそれを恨めしく見つめることしか出来ない。


 今日はもう吸えないのか。

 そう思った矢先のことだった。


 「煙草咥えて、こっち向いて」


 唯はそう言って、僕の肩をトンと叩いた。

 僕は言われるがままに煙草を咥えて、唯の方へ顔を向ける。


 すると、すぐそこまで顔を近付けてきていた唯に、キスをされた。


 口同士じゃなく、煙草同士で。


 「吸って」


 シガーキスと言うらしい。

 火の点いた煙草と、点いていない煙草をくっつけて、火を分け合うこと。


 一先ず僕は煙を吸い込んだ。

 

 たぶん、僕の心臓はそろそろ破裂する。



 目のやり場に困った僕は伏し目がちに「はぁ」と煙を吐き、照れ隠しに言った。


 「普通にキスするよりエロいな……」


 なんて、したこともないのに。


 「普通のキス、したことあるの?」


 唯は少し驚いたようにそう反応した。

 話の流れから僕はつい、そう発した彼女の唇に目線を送ってしまう。


 薄く、艶やか。

 見ただけで柔らかさが伝わってくるような、桜色の唇だった。


 「ないけど、そんな感じしない?」


 それを聞いた彼女は煙を吐くと、僕の頬に手を添えた。


 「ふぇっ!?」


 スローモーションの様に彼女の顔が迫って来る。

 蕩けるように目を細めて、唇を尖らせて。


 してもいい。

 ……いや、むしろしたい。


 素直にそう思ってしまった僕は、咄嗟に目を閉じた。



 「キスされると思った?」



 目を開けると、文字通りまさに目と鼻の先に、いたずらっぽく笑う唯の顔があった。

 その瞳の中には僕の顔しか映っておらず、それは僕の瞳も同様に、唯だけを映しているんだろう。と、どこか冷静に思った。


 「さ、さすがにされるかと……」


 腰が抜けたように、よろよろと壁に寄りかかる僕を見た唯は


 「だよね。ごめんね」


 そう言って、今度は本当にキスをしてきた。


 煙草同士じゃなく、口同士で。


 もう、何が何だかわからなかった。


 もはや声も出なくなっていた僕は、すっかり吸うことを忘れていた煙草の灰が床に落ちるのを見て、静かに目を閉じた。

 ただ唇を合わせているだけのこの時間が、永遠のようにも、儚い一瞬のようにも思える。


 僕は目を開けることが出来なかった。


 もしもこれが夢だったなら、目を開くことで覚めてしまうと思ったから。


 けれどいつのまにか唇は離れていて、それに気付いた僕は、名残惜しさに目を開いた。

 目の前には何事もなかったかのように、スマホの画面をスクロールしながら、煙草を吸う唯がいる。

 言葉が出てこなかった僕は、残り僅かの煙草を早口に吸い切った。

 味は全くわからなかった。


 ただ一つ、唯の唇の感触が、じんわりと広がっていくだけだった。


 「出よっか」


 唯は本当に自然だった。

 ただお互いが煙草を吸い終わっただけのように、僕を促した。


 僕は、たった今交わしたキスは、僕が見た幻なんじゃないかと思ってしまった。

 でも唇には確かに何かが触れたような微妙な熱と感触が残っていた。


 それにこの、鼓動だって。


 「……うん」


 でも、この熱とともに残っている、胸を刺すような虚しさは、いったい……

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