嘘と煙草、君と夕 ──女装したらギャルと友達になった話──

桜百合

言葉足らずが原因で起こる諍いやすれ違いが、理解出来なかった。


 だって、お互いちゃんと腹を割って、全てを話せばいいだけじゃないか。

 小学校の授業でもやったディベートとか、それ以前の基本的な会話とか、そういうことをやればいいだけなのに、何でやらないんだろう。


 って、ずっと疑問だった。


 話さない理由も、恥ずかしいとか、かっこよく、可愛く見られたいとか、粋がったり、プライドが邪魔したり……って、それって本当に、喧嘩をしないことよりも大事なものなのか?



 ……なんて、思っていた。


 僕は馬鹿だ。



 今、僕は、女子高生の格好をしている。



 女子高生の格好をして、四人のギャルとベンチに腰かけている。



 断言しよう。

 この女装を黙っていたことが起因して何かのトラブルに発展するとしても、僕は女装をCOしない。



 ……いや、出来るわけがない!



* * *



 残暑厳しい九月の半ば、僕の人生に一つの事件が起きた。



 「じゃあお前、ちゃんとその格好で帰れよ」


 「結構似合ってるし大丈夫そうだね」


 司馬しば桜井さくらいは、夏用のセーラー服を着てニーソを履いた僕を見ながら、こみ上げる笑いを抑えるようにそう言った。


 いっそ笑ってくれればいいものを……


 「うるさいなぁ」


 こいつら校門の少し先で別方向だもんな……

 でもさ、こっちは女装してるんだぞ?今日くらいは付いて来てくれてもいいだろ。

 何でわざわざ泳がすんだよ僕を。


 「別にイケるな」


 「ね~」


 「イケるってなんだよ!

 ……はぁ、次は絶対負けないからな」


 「はいはい。

 んじゃ、はるかちゃんは慣れないスカートの後ろ気にしながら、気を付けて帰るんだぞ~」


 「じゃあね~遥ちゃん。

 言葉遣いもちゃんとするんだよ~」


 「ちゃん付けやめて!バイバイ!!


 ……はぁ」


 ため息が勝手に口から出るなぁ。


 ……さて、問題はここから。

 ここからが地獄だ。



 僕、沢田さわだ遥は健全な男子高生だ。

 六限の体育での、司馬真一しんいちと桜井ほのかとの賭けバスケに負けた罰ゲームとして、今日の僕は家に着くまで女装。

 女子高生の格好をしつつ、さらに口調もそれっぽくしなければならなくなった。

 こんなこと、馬鹿正直に実行しなくてもいいとは思うのだけど、あの二人はこの学校に馴染めずにいた僕に声をかけてくれた大切な友達だから、裏切るようなことはしたくない。

 しかしその反面で、女装はやりすぎだろうとも思うわけだが……やはりリア充の考えることはよくわからないな。


 「っていうか何スカートって。なんでこんなにスースーするものを穿いてるんだよ女子は。

 風一つで丸見えだし、全方位怖いじゃんこんなの。

 あとウィッグ蒸れすぎ。普段の髪型もそこそこ蒸れるけど、比じゃないなこれは。

 取る時絶対むわぁってなるやつだ」


 田舎でも都会でもない町だけど、学校の近くは川が流れている上に、田んぼや畑まである。

 だからか、ここら一帯は「まさに」と言うくらいの田舎道だ。

 僕はこの道が結構好きだ。

 名前はわからないけど、少し背の高い植物が、道を挟むように生い茂っている。それらが風に揺られる音に、僕のような陰キャの声は簡単にかき消される。


 早い話、独り言が言い放題なのだ。

 陰キャというものは、一人でいる時だけ口数が増えるのだ。


 「まあ電車乗っちゃえば一駅だから、ササっと帰って着替えよう」


 なんてことを呟きながらその道を抜ける。

 ここから先は、駅前に向けてにぎやかさを溜めていくように栄え始める。

 ……と言っても、あるのはドラッグストアにスーパー、個人経営の靴屋や雑貨屋など、シャッター商店街の様相とそう変わりはない。


 そんな閑散とした街並みを眺めながら、僕は駅へ足早に歩を進めていた。


 ふと、そんな僕の視界の隅で、ピンク色の何かが跳ねる。

 立ち止まって視線をやると、そこはスーパーの駐車場。

 よく見ると、女子高生の二人組が何やら揉めているようだった。


 「喧嘩……?いや、車を囲んでるのか……?


 ……何で?」


 一台の軽自動車を囲み、その車内をじっと見つめている。

 それから言い争うような素振りを見せたり、再び無言で車内を見つめたり……


 二人のうちの一人が、ドアノブに手をかけた。


 その瞬間、車からけたたましいサイレンの音が鳴り響く。

 盗難防止のセンサーが反応したのだろう。


 その二人組はビクッと大きく身を震わせると、漫画のようにあわあわと焦り出した。


 盗難防止のセンサー……女子高生とはいえ、駐車場で一台の車を吟味するようにうろついていた。

 なら、答えは一つだ。


 「えっ車上荒らし!?嘘でしょ!!?」


 僕は二人の元へ駆け寄った。

 現行犯なら一市民でも逮捕出来るらしいし、相手は二人とはいえ女子高生だ。

 非力な僕でも、さすがに負けはしないだろう。


 なんてことを考えながら駐車場に入ったところ、僕に気付いた一人の女子高生が、涙ながらにこう叫んだ。


 「助けてっ!!」


 ピンクの髪を高い位置で二つに結った、そんなギャルだった。


 「……へ?」


 二人が囲む車。その車内には、赤ん坊が取り残されていた。

 今は九月の半ば。時刻も16時前の夕方だ。

 今日は天気も良く、気温は25℃を超えるほどに暑い。

 そんな環境で密閉された車内の温度がどんなものかは、想像に難くないだろう。


 当の赤ん坊は眠っているのか、呼吸をしているのが服の上からわずかに確認出来る。

 楽観視していい状況ではないが、一安心だ。


 「うちらの友達が、今っ、中にお母さん呼びに行っててっ、でももうっ五分くらい経ってるのに、戻ってこなくてっ……」


 ピンクツインテはしゃくりあげながら、シャツの袖で涙を拭っている。

 ギャルには意外とピュアな人が多いらしいけど、この人なんかはその筆頭だな。

 見知らぬ子のために号泣なんて、なかなか出来ることじゃない。


 「どうしよう……」


 不安気にそう漏らすのは、黒髪ロングの地雷風ギャルだ。

 ピンクツインテの背中をさすりながら、心配そうに車内を見つめている。


 僕はスーパーを見やった。

 このスーパー、一見すると規模はそれなりにあるように見える。


 でも五分もあれば、店内放送くらいは出来ないか……?


 そう思惟し、それが出来ていない理由にも考えを巡らすと、一つの推論が立った。


 「……車の特徴」


 「え?」


 「その人、車のナンバーとか色は控えてましたか?」


 「えっと、メモとかはしてなかったかも……」


 やっぱりだ。

 店の規模に合わせて、駐車場もそこそこ広い。

 当然、多くの車が駐車されている。

 特徴が何もわからない車の持ち主を特定するなんてのは、まず無理だ。


 「わかりました。

 では、その友達に車種と色、ナンバーを伝えてもらえますか?」


 「あ、はいっ!」


 それから間もなく、母親と思われる女性、店員、そして二人の女子高生が走ってきた。

 車内はかなり蒸していたが、エンジンを切ってからそれほど時間は経っていなかったようで、一先ず赤ん坊は無事だった。

 「お礼に」と、僕にまで飲み物を買ってくれたその母親は、深々と頭を下げると帰って行き、僕ら五人でそれを見送った。


 今日も一つ良い事をした。

 僕は頂いた麦茶を一口、達成感と共に嚥下した。


 「じゃあ、さようなら」


 ギャル四人に別れを告げ、僕は駅へ向かって歩き出した。



 しかしそれから数十分後、なぜか公園でそのギャルズと駄弁る僕の姿があった。


 お忘れかもしれないが僕は今、訳あって女子高生の恰好をしている。

 女子高生の恰好をしているだけの、健全で真っ当な、ただの普通の男子高生だ。

 そんな女装男子が、ガチの女子高生に囲まれているこの状況は、正直マズい。

 というかヤバい。


 実は男だったなんてバレてみろ。この情報化社会じゃ、僕みたいな人間は速攻晒し者にされるに決まっている!

 女装して女子高生に近づく変態のレッテルを張られ、後ろ指を指されながら生きるなんてごめんだ!


 トラブルに発展するとしても、僕は女装をCOしない。


 いや、出来るわけがない……!


 そんな僕に与えられた任務。

 たった一つのシンプルなミッションだ。



 それは、何としても女装を隠し通すことである。



 「それにしても遥ちゃん、さっきは助かったよ。

 私ら、ナンバーとかメモるの忘れてたからさ」


 僕の左隣に座り、いちごミルクを飲みながらそう言ったウルフカットのギャルはゆいと言うらしい。

 母親を探しに店内へ向かった、二人の内の一人だ。

 そして、美人だ。

 美人だけど何と言うか……女装した僕と若干似ている気がする。

 いやもちろん、僕が美人ってことではなくて、ただパーツの一つ一つが似ているってだけ。

 唯が最上級品で、僕は無課金の初期装備って感じだ。


 唯はこの中では一番大人びて見えるからか、「可愛い」というよりは「綺麗」という印象だった。


 「ね!私なんて慌てておっきい音鳴らしちゃったのに、バッて現れてサッて指示出して!

 ヒーローみたいでかっこよかった!」


 唯の左隣、地雷ギャルの膝に座るテンションの高いピンクツインテのこのギャルは舞菜まいな

 かなり目立つ風貌と華奢で小柄な体格から、マスコットのように見えて仕方ない。

 ポジションが膝の上というのも相まって、もう完全にそうだ。

 しかしあれだな。真の陽キャは陰キャにも優しいと言うが、あれはどうも真理みたいだ。

 ここまで屈託のない笑顔、生まれて初めて向けられた。


 「本当、助かった」


 舞菜を膝に乗せながら、ミネラルウォーターを飲む地雷ギャルは凛々りりと言うそうだ。

 舞菜が好きなのか、彼女を撫でるばかりで、僕にはあまり興味が無ないようだ。

 声のトーンに抑揚はないし、ピアスばっちばちでちょっと怖いけど、でも、悪い人ではないんだろうな。

 舞菜も懐いているようだし、先程も赤ん坊を心配していたしね。


 「それな!まぢ超助かった、ありがと!」


 店内へ向かったもう一人の人物。いかにもなギャルらしい金髪を胸ほどまで伸ばしたその人は、愛瑠あいると言うらしい。

 距離感がとにかく近く、僕の右隣に座りながら、背中に腕を回して左肩をぽんぽんと叩いてくる。

 右肩ならまだしも、左肩だ。

 右隣から左手を伸ばしての、左肩だ。


 てかちょっと、あんまり触られると……


 ……なんていうか……なんか……す、凄いなギャルは!めっちゃモテるんだろうな!


 「いえ、そんな」


 危ない危ない。

 あんまり動揺すると女装がバレる。

 普通にしないと。

 女子ですけど何か?って感じで、平然としろ。僕。


 「てか私らが車種とかナンバーメモらずに行ったの、何でわかったの?」


 すると左隣から。今度は唯だ

 心頭滅却する僕の顔を覗き込むように小首を傾げている。


 耐性が無い僕は結構くらった。


 ……でも、わかったも何も、そうとしか考えられなかったんだよな。

 慌てたり動揺したり、そういう時は往々にして、ああいうチェックミスをしがちだ。


 僕も経験がある。

 今日のバスケだって、相手チームは経験者が二人もいたのに、僕は平均身長が高い方に賭けてしまって……

 結果、今だもんな。


 はぁ……


 と、胸の内で割と大きめのため息を吐いたところ、突然、舞菜の顔がすぐ目の前にきた。

 少し遅れて、ふわりと甘い香りもやって来る。

 舞菜は唯の腿へ両手を乗せ、ずいっと身を乗り出しながら、


 「それ!よく気付いたよね!」


 快活にそう言った。



 ……いや、いやいや!距離が近い!

 なんでこんなに顔近付けんの!?キスの距離だよこれ!!

 こっちはスカートなんだ!勃ったら一発でバレるんだぞ!!

 凄い褒めてくるし!目見て話して来るし!

 てかギャルの目おっき!なんかキラキラしてるんだけど!

 しかもめっちゃいい匂いする!!なにこれ香水!?


 「え…あ…いや…」


 見たことのない大きさで、きらきらした目。

 嗅いだことのない、甘く可愛らしい、いい匂い。


 そのダブルパンチで僕のライフはもうゼロだ……


 「あっごめん、近かったよね」


 「アッダイジョブ、デス……」


 顔が熱い……

 そもそも僕は、こういうのに慣れてないんだ。


 普段の僕は、伸ばした前髪で両目を隠す、所謂目隠めかくれ男子だ。

 目を隠す理由はシンプルで、人の目を見て話すことが苦手なためである。

 普段よく話す司馬と桜井はそんな僕の事情を理解してくれているが、しかしこのギャル達は僕の事情など露知らず。

 僕が男子だなんて気付く気配もない。


 ……まあ、黒髪ショートボブのウィッグと、桜井のメイク力の賜物か。

 ぱっと見だけじゃ、それなりに人気そうな女子って感じだもんな。


 相手が異性だったらそれなりの距離感を保つのかもしれないけど、同性ならそこまで気にする必要はないもんな。


 にしても近いな。凄いなギャルは。


 「えっと……皆さんも凄いと思いますよ?

 普通気付けないですよ。赤ちゃんが取り残されてるとか」


 バレないように、喉を絞って高めの声を出す。

 これが意外にしんどい。

 普段しないっていうのもあるけど、ただでさえ高めの地声をさらに高くするなんて、そりゃ骨も折れるよ。


 「マ?!それなら、凄いのは唯てゃもだよ!」


 そんな舞菜の一言から、奇妙なやり取りが展開された。


 「え、私唯てゃ?」


 名前を呼ばれた唯が、不思議そうな顔をしているのだ。


 「うん。だめ?」


 「だめじゃないよ。じゃあ私、舞菜ちゃんって呼んでいい?」


 「うん!」


 ……何だ?このやり取りは。

 まるで初対面のような会話だ。


 「お二人……というか、皆さんと唯さんって、もしかして初対面ですか?」


 「そうだよ?」


 「そうだよ?」って……ギャルは人見知りしないのか……?

 しかもいきなりあだ名まで付けて……凄いなギャルは。


 でもそうか、一人だけ制服が違うのはそういうことだったのか。

 よく似た白いシャツだけど、唯のはやや青みがかっているし、胸元にはリボンもある。

 普通に考えれば違う制服なのは一目瞭然だけど、でもギャルは制服を着崩すイメージがあるからな、わからなかった。


 「うん。ドラッグストアの帰りだったんだけど、なんか仲良くなってさ」


 「もうね〜唯てゃもね赤ちゃんに気付いたらすぐ店内に走ってってさ、カッコよかったよ!」


 「確かに。

 唯ってさ、なんかお姉ちゃんって感じしない?」


 すると、二人の会話に愛瑠も加わって、いよいよ本格的に女子トークが始まってしまった。

 こうなってしまうと、僕みたいな陰キャは、基本的に置き去りだ。

 ぼーっと空を見つめ、買ってもらった麦茶を飲むくらいしか、今の僕に出来ることはなかった。


 「わかる!実際どう?言われる?」


 「ん~あんま言われないかな?

 むしろ、妹みたいって言われることのが多いよ」


 「マ?ウチらん中じゃ一番お姉ちゃんっぽくね?

 ……あ待って三年?」


 「え?うん。

 待って皆二年?」


 「そだよ〜。

 遥は?何年?」


 「あ、えっと、二年」


 うおお、耳を傾けといて良かった。急に来るんだな。


 ……それにしても、僕のことは普通に遥か。

 いや別に、期待してたとかそう言うわけじゃないけど。


 「マ?タメじゃん。

 よろよろ~」


 舞菜はそう言うと、僕の手を軽く握り、握手をしてきた。

 普段からそうしているのか、流れるように手を握られたものだから、普通に応じてしまった。


 なんて言うか、ここまで距離が近い……と言うか、距離感を気にされていない感じ?だと、それはそれで案外気が楽だな。


 「てかさぁ、唯も遥もメッセのアプリやってるっしょ?ID交換しない?」


 「いいね!しよしよ!」


 「……


 ……えっ?」


 聞き間違いか?

 

 ”メッセージアプリ”の”ID”を”交換”って言ったか?


 ……ヤバい。


 僕のメッセージアプリのアイコンは、ゴリゴリのすっぴん。つまり男の僕だ。

 目隠れで司馬と桜井と肩を組んでるプリクラだ。

 やってないと嘘を吐こうにも、きょうびメッセージアプリを入れていない人間なんて、よほどの機械音痴かガラケーの民くらいだろう。


 くそ、こんなことになるなら時計の一つでも買っておくんだった!

 なに麦茶を飲みながら呑気に電車の時間を確認していたんださっきの僕!

 おかげで「実はスマホ持ってないんです」が使えないじゃないかっ……!


 各々スマホを取り出し、唯とIDを交換しだした。

 僕の目にはその光景が、いやにゆっくりと映っていた。


 このままじゃあ男ってバレる。

 アイコンを変える時間は……ない。


 ……ヤバい。


 ヤバいヤバいヤバい!


 「ほら、遥も出して」


 くっ、ギャル過ぎるだろ舞菜……


 「あっ、えっと……」


 知恵を絞るんだ僕……!


 なんとか男だとバレないように……

 違和感のないようにアイコンを……他の何か、新しい何かに……


 そこで天啓が降ってきた。

 この窮地を乗り切る一手だ。

 もうこれに賭けるしかないっ……!


 「……みっ、皆で撮ったやつアイコンにしたいからぁ……先に写真、撮ってもいい……かな……?」


 皆一様にこちらを見て、ぽかんとしている。

 いや、凛々は舞菜しか見てないか。


 ぽかんと。

 まるで時間が止まっているかのようだ。


 どうだ?いけたか?


 いけたのか……?



 「……えっ!何それめっちゃいい!撮ろ撮ろ!」



 沈黙に耐えかねて、やや俯いていた顔を上げたころ、舞菜がすかさず同意してくれた。

 やはりと言うかなんと言うか、さすがはギャルだと思った。


 僕は安堵の息を深く吐き出し、そっと胸を撫で下ろした。


 「いい?皆寄って!

 唯てゃもうちょっとしゃがんで、遥もうちょっと詰めれる?

 おけ?撮るよ?

 はいチーズ!」


 しかし、天才的なひらめきでその場をしのげたのも束の間。


 舞菜に勢いよく腕を引かれ、そのはずみで僕の手の甲が彼女の胸に当たってしまった。


 たわわというわけではない。寧ろ控えめなサイズ感。

 しかし、だからこそ、より一層”それ”が”それ”であるという事実が、僕の心に沁み渡った。

 感触がじんわりと、熱を伴って反芻される。

 手の甲から全身へ、水面に起きた波紋のように広がって……


 溶けだした入浴剤のような、しゅわしゅわとした真っ白な泡が、僕を飲み込んでいく。


 目の前が真っ白になった。



 僕は気が付くと、駅前の通りを唯と二人で歩いていた。


 「……はっ!」


 「わっ……何?

 どうしたの……?」


 僕の声に反応した唯は、心配そうな面持ちでこちらを見つめている。


 「ご、ごめんなさい!ちょっと、ぼーっとしてて……」


 思わず立ち止まりながら弁明する僕を、唯は怪訝そうに伺ってくる。

 見つめられることに慣れていない僕は、落ち着かない視線を泳がせるしかなかった。


 あっちを見て、こっちを見て……そして、それが功を奏した。

 歩道側に立つ彼女の背後、その店頭に張られた硝子には、反射した僕らが映っていた。

 僕の視線に気付いた彼女もつられるように硝子を見て、数瞬。

 徐に口を開いた。


 「思ったけどさ、私達、顔似てるよね?」


 「あっ、ぼ……」


 っと、一人称はマズいな。

 普段使ってるものが自然に出てしまいそうになる。

 最近はボクっ娘も多いけど、そこからバレないとも限らない。

 念には念で、私でいこう。


 「……私も、思いました」


 それにしても似てる。

 綺麗系って感じの唯に対して、僕は、自分で言うのは恥ずかしいけど、どちらかと言うと可愛い系の顔立ちだと思う。

 目尻がキレている唯と、タレている僕。

 僕らの顔には、それくらいしか違いらしい違いは無いように思う。


 「パーツが似てるのかな?」


 そう言いながら唯は硝子に寄ると、中腰になって前髪をいじりだした。

 何の気なしに僕もその隣に立って同じ動作を取ると──


 「なんか、双子みたい」


 ──硝子越しにはにかむ唯と、目が合った。


 僕は普段から、人と目が合わないように意識している。

 しかしそれでも、このように目が合ってしまうことはどうしてもあるのだ。

 そしてその度に、僕は、相変わらずと言うかなんと言うか……つい目を逸らしてしまうのだ。


 「もしかして遥ちゃんって、人と目合わすの苦手?」


 唯は、そんな僕に目ざとく気付いた。


 「……はい。私、自分の顔があまり好きじゃなくて……」


 女装に違和感がないことから伝わると思うが、僕はかなりの女顔だ。

 そのせいでオトコオンナとからかわれたこともあるし、ホモだの受けだの、ありもしない噂を広められたこともある。

 そのため、人と目を合わす、また「人に顔を見られている」という状態に、強いストレスを感じてしまうのだ。


 家族とならそこまで問題はない。

 ……けど、司馬とも桜井とも、僕は未だに目を合わせられないんだ。


 「そう?私はね、自分の顔大好きだよ?

 だってほら、結構可愛くない?」


 唯は、「好きじゃなくて」から言葉を繋げられずにいた僕に体を向けると、笑顔を見せてそう言った。

 それは、目尻を細めわずかに歯を見せる、アイドルや女優がするような笑顔だった。

 それを慣れたように、自然に向けてくる彼女は、確かに可愛かった。


 語調が落ち着いているからローテンションな印象を受けるけど、中身は意外と明るい。

 ……ギャップか。


 「だから遥ちゃんの顔も、私は好きだよ。

 似てるからね」


 ファッションモデルを彷彿をさせるスタイルに、ウルフカットの髪型も相まって、アンニュイな雰囲気の唯。

 そんな唯のこの笑顔。そりゃくらうだろ。


 「……」


 今まで感じたことのない何かに、胸の辺りを締め付けられた気がした。

 まごついた僕は、上手いこと言葉を出せなかった。


 そんな僕に、唯は優しく笑いかける。

 そして、逸らしてばかりの僕の目を見て、


 「今度はさ、二人で遊ぼうよ」


 そう言った。


 「……えっ、あ、はい!」


 「やった!」


 健全で真っ当な男子高生は単純だ。綺麗な人からの誘いを断るなんてこと、到底出来るわけがないのだ。


 数歩先に歩き出した唯は、くるちとこちらへ振り返る。


 後ろ手に組んだ腕とか、夕陽と交わってきらきらと光る髪とか。


 何気ない動作に、佇まいに、いちいち目が惹かれる。


 「もう少し冷静になれよ、僕……」


 暮れてきた空を背にして、こちらへ笑顔を向けてくる唯。


 そんな光景に視線を奪われながら、思わずそう呟いた。



 唯は駅前のマンションに住んでいるらしく、僕とは途中で分かれることになった。

 女顔に細い身体。高い地声。加えて、女性っぽい声と喋り方を意識していたからか、僕の女装は最後までバレなかった。


 電車はかなり空いていて、誰もいないシートに座れた僕は、深呼吸と共に瞼を閉じた。


 いつもならあっという間の一駅をどこか長く感じながら、焼き付いて離れない彼女の笑顔を、つい反芻してしまう。



 火傷しそうな程頬が熱いのは、きっと、冷めやらぬ残暑のせいだ。



* * *



 「ただいま」


 ここに私の居場所はない。ここに私の居場所はない。ここに私の居場所はない。ここに私の居場所はない。


 半端に閉められたカーテン。

 その隙間から射す茜色の斜陽に照らされた机の上には、山のように積まれた吸い殻。

 空っぽの缶チューハイ。


 遺影。


 あの人の最期。


 お風呂とトイレとキッチンと、あとは私の部屋だけ。

 リビングはあの人のだから、あの日のまま。


 二人で使おうと買った冷蔵庫も、今となっては私専用。



 私の部屋の、机の上。昨日洗った灰皿。

 ポータブル扇風機。


 夕方からお酒が飲めて、開けた窓から街を見下ろせて、煙草が吸える。


 だから、私は今日も大丈夫。



 「遥か彼方の遥ちゃん」



 遠い、遠いあの山に、この煩い陽が吸われるまで、部屋の明かりは点けない。



 私の居場所はここ。私の居場所はここ。私の居場所はここ。私の居場所はここ。

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