第4話 やがて雪が舞い

 つい昨日降ったばかりの雪が、季節外れに暖かい午の日差しに温められて中途半端な氷の粒になっている。ヨエルとアルは泥混じりの雪を踏みながら、森への道を歩いていた。

 ヨエルは、いつも仕事をしているときの癖で、物思いに沈んだまま黙々と道を歩き続けた。アルはいくぶん遠慮がちに、その姿をちらちらと見ながら後をついてくる。

 不意に、アルがこんなことを言い出した。

「いい夫婦だったね」

「うん? ああ、そうかもな」

「良い報せを届けたいな……」

 アルは呟いた後、こう続けた。

「なあ。ヨエルもあんな風になれるとおもう? その、契約結婚の相手とさ」

「さあな」

 気まずい沈黙。そして、アルが意を決したようにぎゅっと拳を握って、言った。

「あの……この間のこと、ごめん」

 アルの体内で、熱い血がドクドクと巡っている。彼が抱える罪悪感も恥辱も、これ以上無いほど伝わってくる。

『お前の気持ちはありがたいと思っている。でも無理なんだ』と言って、その熱を宥めてやれたらよかった。だが、言葉だけでは足りないことはわかっていた。

 だから、他人のものになる決意を固めた。

「気にしてないから、もう蒸し返すな」

 アルは何か言いたげに口を開いたものの、すぐに俯いて諦めた。

 それからしばらくは、また沈黙が続いた。

 アルに話しかけられたとき、ヨエルが考えていたのはトシュテンの夫婦関係ではなかった。オーヴェのことですらなかった。それは頭の中の冷静で実際的な部分に任せていた。

 泥濘んだ道を黙々と歩きながらヨエルが思いを巡らせていたのは、今のアルの心情だった。

 アルは孤児だ。

 本人は昔のことをほとんど覚えていないというものの、自分に家族があったことは理解している。すでにこの世にはいないと考えているようだが、本人がはっきりとそう口にしたことはない。それは、いつか再会する望みを絶やさないためだろうか。

 

 あの日の記憶は、ヨエルの方が鮮明かもしれない。

 今から十年前。ヨエルはちょうど、今のアルと同じくらいの年頃だった。

 ぎらぎらと星が輝く夜空に極光が翻っていた。家々を飲み込んだ炎は伸び上がりながら踊り狂い、火の粉を具した熱風が吹き荒れていた。悲鳴。怒号。

 ヨエルはその夜、奇妙な力を感じた。

 まるで、皮膚にとりついた見えない蜘蛛の糸に引っ張られるような感覚だ。導かれるままに歩いて行くと、崩れた家屋に囲まれたアルヴァルがいた。煤にまみれた顔に涙の筋がいくつもついていたが、その時には泣くことさえ諦めていたらしい。静かに、子供らしからぬ諦観の表情を浮かべていた。

 彼は炎と、その中から現われたヨエルに魅入られたように立ち尽くした。

 アルと目が合った瞬間、ヨエルは、自分の中の何かが変わる兆しを感じた。追求するのを躊躇いたくなるほど、明らかな兆しだ。それに手を伸ばせば、これまでの人生と決別しなければならなくなる──と、ヨエルは直感した。

 センチネルがガイドを見つけるときには、よくそうした感覚に陥ると言われている。

「お前、ガイドなのか?」

 ヨエルが尋ねると、少年はぽかんとしてからこう言った。

「俺は、アルヴァルです」

 とぼけたやりとりが妙に面白くて、ヨエルは小さく笑った。

「来い。助けてやる」

 素直にヨエルの手を取ったアルを抱きかかえ、迫る炎を避けて開けた場所に出る一瞬前。ふり返ったヨエルは、倒壊した家屋の下に、アルの家族のものと思われる亡骸を見た。地面には赤黒い血が広がっていた。手遅れだという確信が、冷たく、重く、胸の中に広がっていった。

 その時、ヨエルは変わった。

 たとえて言うなら、胸の中でゴトゴトと転がり続けていた石が、ようやく川底に収まったような。腹の底で縦横無尽に燃え盛っていた炎が、炉の中に落ち着いたような感覚だった。


 あれ以来、ヨエルはアルの生き死にと──さらに言えば、彼の幸福に責任を負っている。それでも、失った家族を取り戻してやることは出来ない。

 北方人にとって家族エットは大事な拠り所だ。だからこそ、子を想う親の姿を目の当たりにしたアルヴァルが、自分の境遇を思い出して苦しくならないかどうかが気がかりなのだった。

「お前、自分の親のことを考えたりするか?」

 ヨエルの質問に、アルは虚を突かれたみたいに目を丸くした。

「え? いや、あんまり」

 アルは恥じ入るように頬を掻いたものの、曇りのない笑顔を浮かべて言った。

「だって、俺にはヨエルや、兄弟団の皆がいたからさ」

「そうか」

 ヨエルは言葉少なに答えて、この会話を終わりにした。

 それでも内心は複雑だった。

 罪悪感と、安堵と、使命感が同じだけある。

 本当の家族と生きる道を選ばせてやれなかったことへの罪悪感と、アルにこんなにもまっすぐに慕われていることへの安堵と──だからなおさら、アルとは距離を置くべきだという使命感が、絡み合う三匹の蛇のように身の内でのたうち回っていた。

 その時、不意に風向きが変わった。

「う……っ!」

 ヨエルは思わず、鼻と口を手で押さえた。森の方から吹いてきた風の中に、強烈な残留思念を嗅ぎ取ったのだ。

「ヨエル、大丈夫か!?」

 アルの手が、すかさずヨエルの首筋に当てられる。掌の温度が皮膚に染みこむ程に、動揺は収まり、意識が冴える。

「これくらいなんてことない。心配性だな、お前は」

「なんだよ、せっかく心配したのに」

 アルは拗ねた子供みたいにぶすくれた顔をしてみせた。それが可笑しくて、つい笑みを溢してしまう。つられてアルも表情を崩したものの、緊張は解いていない。それはヨエルも同じだった。

「やっぱり、何かありそうか?」

「ああ」と、ヨエルは低い声で答えた。

「全くもって気に食わない」


 臭いを辿って森に入る。静謐な森の大気に、強烈な臭気が漂っていた。

「ヨエルが嗅いだのってこのにおい? 俺にもわかる」

「だろうな」

「花のにおいみたいだけど、変だよな……こんな時期に咲く花はないし──オエッ、なんか気持ち悪くなってきた」

 マーナもしきりにくしゃみをして、慣れないにおいに手こずっている。

「これは香水だ」

「香水って、南方人が身体のにおい付けに使うヤツ? うへぇ」

 ぶつくさ文句を言うアルを差し置いて、意識を集中させる。他人が傍にいると上手く集中できないが、アルだけは別だ。彼の呼吸音を聞いていると精神が安定する。

 強烈なにおいを意識の外に置いて、別の感覚に集中しなければならないような局面では、アルの存在がありがたかった。

 ルドヴィグの言葉が正しいことを認めるのは癪だが、アルは役に立っている。

 とは言え、いざというときに自分の浄化ケアをさせて危険にさらすような真似はしたくない。そんな事態に陥らないことを祈るしかない。

 ヨエルは深呼吸をして、頭の中から雑念を払った。

 生きているものや腐りゆくもの、自然物には残留思念が残りづらい。木々や枯れ葉混じりの腐葉土に囲まれた森は、センチネルの追跡を交わすのにうってつけの場所だ。

 それでも、読み取れるものはある。

 傾きはじめた太陽の光はすでに翳り、森の中では夜かと思うほど暗くなる。だが運良く、トシュテンの娘から聞いた不審な馬の痕跡がそこかしこに残っているのを発見することが出来た。

「この辺りで見かける馬じゃないな」

 雪のせいで痕跡が薄れかけていたが、蹄の跡から読み取れる情報は多かった。ヨエルは雪を掻き分け、落ち葉の下に残った蹄鉄の形に目をこらした。

「身体が大きくて、重量もある。蹄鉄も頑丈だ──軍馬だな」

「軍馬って……トルンの厩にいるみたいな?」

「いや、もっと大きい。南の馬だ」

 北方の馬はもともと毛深く頑丈で、比較的小型の種が多い。だが同じ北方でも、南の地域では大陸内部の種との交配を経て身体を大きくしたものが好まれる。

「南……オルスティアから来たのか?」

 オルスティアとの国境はここからそう遠くない。陸路と船で一日かからない程度だ。全面的な戦はしていなくても、国境沿いでの小競り合いが無くなることはないが……。

「何でオルスティアからこんなところまで子供を掠いに来る必要がある」

 半ば自分に問いかけた言葉に、アルが答える。

「奴隷にするためとか」

「略奪なら、もっと派手に強襲をかけるはずだ。それに、霊獣持ちがうようよいるレイクホルで奴隷を捕まえようとするなんてわりにあわないだろう」

「確かに」

 ヨエルは手をこまねいて、ため息をついた。

 刻一刻とうさんくささが増してくる。この辺りでは見かけない馬の痕跡が残っているだけでも不自然なのに、センチネルの鼻を効かなくさせるための香水をそこら中に撒き散らしてある。どうやらよそから来た謎の乗り手は、よからぬ企みを抱えていたらしい。

「この事件……気に入らんな」

「やっぱり、事件なんだ」

 アルがすかさず食いついてくる。ヨエルは返事をする代わりに、喉の奥で唸った。

「痕跡を追うぞ」


 スニョルに上空からの偵察を任せ、ヨエルとアルは地上を進んだ。

 進めば進むほど、言いようのない焦りと苛立ちが募る。まるで、得体の知れない悪意の足跡を追わされているような──。

 その時、スニョルが警戒を促す鳴き声を上げた。と同時に、ヨエルの頭の中にも、スニョルが察知した異常が流れ込んでくる。

 これは、死の匂いだ。

 ヨエルは歩調を速めた。

「どうしたんだよ、ヨエル!」

 アルの声に返事をすることもなく、森の中を足早に歩いて行く。もはや蹄の跡を追ってもいなかった。目指すべき場所はわかっている。スニョルがすでに、を見つけている。

 霊獣フィルギャにも個性があり、それは霊獣の主にも同様の力をもたらす。熊の霊獣ならば、優れた嗅覚と剛力を。兎ならば並外れた聴覚と健脚を。梟ならば夜を見通す視覚と隠密能力を与える。

 鴉の霊獣がその主にもたらすのは『死』を感知すること。

 神話では、倒れた戦士の魂を冥界の戦死者の館ヴァルハラに運ぶのが戦乙女の役割だ。戦乙女の随獣ずいじゅうとして、鴉は昔から死と深く結びついていた。

 霊獣に現われる個性は、その主が元々もっている素質を反映したものでもある。目上の者に従順で、人なつこいアルの霊獣が犬なのがいい例だ。

 ヨエルの霊獣が鴉なのは、死と切っても切り離せない人間だからなのだろう。

「待てって、ヨエ──わ!」

 四半刻近くも歩いただろうか。森を抜けたところで立ち止まると、背中にアルの胸がぶつかった。

「急に止まるなよ……」

 アルの文句は尻すぼみになった。目の前の光景に言葉を失ったのだ。

 小高い崖と崖の隙間を流れる川のほとりに、小さな集落があった。家々が、ほとんど燃え尽きてしまっている。

「大変だ……!」

 アルは慌ててかけ出そうとした。ヨエルは、その首根っこを掴んで止めた。

「待て」

「生きてるひとがいるかも──!」

「良く見ろ。元から誰も住んでいない」

 火事のせいで雪が溶け、枯れ草に覆われた畑が露わになっていた。川岸の桟橋は半壊し、火の手を逃れた家の軒先には穴のあいた桶が転がっている。

 ここは、何年も前に住人が姿を消した集落なのだ。

「俺が先に行く。状況を確認したら呼ぶから、ここで待ってろ」

 アルは不満そうだったが、それを口に出さない程度には躾られている。代わりに、こう言った。

「危険だって判断したら、行くからな」

「好きにしろ」

 ヨエルはアルの背中をぽんと叩いて、集落に向かった。


 どうやらここには五軒の家が建っていたようだ。いずれも小さく、粗末な造りだ。

 追放者が作った寄せ集めの村かもしれない。北方における極刑は、あらゆる権利を剥奪された上での追放だ。生きる権利さえ奪われた追放者は、殺しても罪には問われない。

 海の向こうで新しい人生をはじめられる者ならば、そうするだろう。だが、逃亡する手段さえない連中が、人目に付かない辺境に寄り集まって村を作るのは珍しいことでもない。

 誰かに集落の存在を嗅ぎつけられて、殺される前に家を捨てたか、あるいは、もっと悲劇的な最期を遂げたか。いずれにしろ、かなり昔のことだ。

 火がつけられたのは、この二日のうちだろう。昨日の雪によって火はあらかた消えているものの、崩れ落ちた屋根の下に熾きが燻っているのが見えた。

 ヨエルは周囲に注意の糸を張り巡らせながら慎重に歩いた。

 アルと自分以外に人の気配はない──少なくとも、矢が届く範囲には。何処かで何者かが見張っていたとしても、すぐに危害を加えるつもりはない。

 だが、集落の中央の家に残されたものにとっては、そうもいかなかったようだ。

 焼け落ちた家の周りの地面が、赤黒いもので泥濘んでいる。血だ。だが、人間のものではない。

『これは、人間の血じゃない』

 強く念じて、胸の内で繰り返す。

 ──集中力を、乱すな。

 センチネルの嗅覚は、あたりに充満する血の匂いが獣のものであることを看破している。犠牲になったのはおそらく、ヨエルたちをここまで導いた蹄の持ち主だろう。

 血の出所は、倒壊したあばら屋の下だった。燃え尽きかけた柱や壁の奥に、大きな馬の死骸がある。首にある傷跡を見るに、炎に巻かれたときには息絶えていただろう。

 馬、しかも南方の馬ともなれば一財産になる。それが、どうしてこんな最後を迎えることになったのか。

 ふと、炭化した柱に何かが刻まれているのに気付いた。短い一文。そして、終止符のように刺さっている短剣。

 ヨエルは焼け跡に近づき、目をこらした。そこにはこう刻まれていた。

『罪からは逃れられない』

 追放者に向けた言葉だろうか──そう思いながら、短剣を引き抜く。

 刀身にはどんな痕跡もない。炎がある程度収まってから刺されたのだろう。いい鋼だ。こんな業物を見るのは久しぶりだった。

 短剣を裏返しながら観察するが、手がかりは残っていない。だが、柄頭に刻まれている紋章を見た瞬間、ヨエルは頭を殴られたような気がした。

「なんで……これが……」

 斧を持つ鴉、戦鴉団クラセルキルの紋章だ。

 集中力が緩む。蜂の羽音のような耳鳴りがしはじめる。

 焼け跡と、血の海。

 だめだ。

 意識してはいけない、と強く念じる。

 この光景が呼び覚ます記憶に、手を伸ばしてはいけない、と。

 だが、記憶はいつでも自分を裏切って、自分の方を振り向かせようとする。瞼を閉じることも、耳を塞ぐことも許さず、常に囁きかけ、直視させようとしてくる。

 燃えさかる集落。後に残された血。それをいさおしと呼んでいた、あの頃の記憶。俺が犯した罪からは決して──。

「ヨエル」

 気付くと、すぐ後ろにアルが立っていた。厳しい眼差しでこちらを見下ろしている。ヨエルは手の中の短剣を、そっと袖の中に隠した。アルにあの紋章を見られたくなかった。

「お前……」

「危険だって判断したから来たんだ。文句は受け付けない」

 彼はそう言うと、問答無用でヨエルの額に掌をあてた。澱みがすっと晴れてゆく。同時に、自分を飲み込もうとしていた記憶と混乱の波もひいていった。

「好きにしろと言ったはずだ。お前がそう判断したなら、文句は言わない」

 ヨエルがぶっきらぼうに言うと、アルは焼け跡に目を向けた。

「ひどいな……馬にこんなことをするなんて、ろくなヤツじゃない」

 アルは吐き捨てるように言った。

「そうだな」

「オーヴェの痕跡は?」

 ヨエルは首を横に振った。オーヴェが馬に乗った誰かに拐かされたと仮定してここまで来たものの、道中でもここにも、オーヴェの存在を示す手がかりは何もなかった。

「これ、何かの儀式かな」

「わからん」

 嘘だった。

 これは伝言だ。これをやった者が誰であれ、そいつはヨエルに教えたがっている。

『罪からは逃れられない』と。

 ──そんなこと、俺が一番よく知ってる。

 アルヴァルが真実を知ることは無い。それでいい。

「今日の捜索はここまでだ。砦に戻るぞ」

「わかった」

 アルは言い、マーナを懐に入れてヨエルの後を追いかけた。

 やがて雪が舞いはじめ、森からすべての音が消えた。

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