第5話 呪い

 アルたちはトシュテンの農場に預けていた馬を引き取り、オーヴェの行方が掴めなかったことを報告した。一家はがっくりと肩を落とした。

 この季節、夜に外を出歩くのは危険だ。飢えた獣はそこら中にいるし、肺が凍り付くほど気温が下がることもある。

 もしもひとりで野外にいるなら、オーヴェが生きのびる可能性は限りなく低くなる。誰かに掠われたのなら──奴隷売買のためにせよ、他のおぞましい理由にせよ──すぐに命を落とすことはないだろうが、捜索は至難の技だ。いずれにせよ、今夜はもう打つ手がない。

 アルとヨエルは街への道を戻った。

 廃集落で見たものがヨエルの心を乱しているらしいのは、アルの目からもはっきりと見て取れる。理由が知りたくて遠回しな質問をいくつか投げてみたものの、ヨエルは言葉少なに返事をするだけで、何も教えてくれなかった。

 ヨエルの後ろについて馬を進めるアルは、ヨエルの背中をじっと見つめた。いつもはぴんと伸び、鞍上でも揺らぐことはない背筋が、微かに曲がっている。雪の重みに堪えかねてたわんだ枝のようだ。焼け跡の傍でした簡単な浄化ケアでは、全然足りない。

 ただでさえ焼け石に水をかける程度の浄化ケアしかさせてもらえていないのに、ここのところのヨエルの状態はひどく不安定だ。アルはやきもきする気持ちを抱えたまま、街への道を辿った。

 店じまいの前に品物を売り切ろうと焦る商人たちで賑わう市場を突っ切り、砦に戻る。

「馬は俺が連れてくよ」

「ああ、頼む」

 アルはヨエルから手綱を預かり、馬を預けに厩にいくと、見知らぬ馬がいるのに気付いた。毛艶のいい、若い鹿毛馬だ。飼い葉を準備していた厩番のドーグに尋ねてみる。

「あの馬、誰の?」

「ああ、聞いて驚け……」

 ドーグは背を向けたままそこまで言ってから、振り向いてアルの顔を見て『しまった』という顔をした。

「あ、いや、そのぉ……誰だろうな」

「ドーグ」

 アルは両手を腰に当ててドーグを睨んだ。答えを聞かせてもらうまでは一歩も退かない構えを見せる。

 ドーグは逃げ道を探すように視線を左右に動かしたものの、観念してため息をついた。

「わかった、わかったよ。ヨエルの婚約者だ」

「婚儀は来年のはずだろ! なんでこんなに早く来るんだよ」

「そりゃあ、あれだよ。持参金をたんまりもってきたんだ。ほら、ルドヴィグはあいつの親代わりだし──」

 最後まで聞かないうちに、アルは走り出していた。

 ロングハウスに駆け込むと、ルドウィグがいる高座の前に、ふたりの男が並んで立っていた。一方はヨエル。ということは、隣にいるのが──。

 自分でやって来ておいて、逃げ出したいような気持ちに駆られ、足を止める。

 引き返そうか──と迷ったものの、もう遅かった。

「アル! いいところに来た」

 ルドヴィグがアルの存在に気付いて、片手をあげた。こうなると、勝手に逃げ出すことも出来ない。アルはぐっと歯を食いしばって、高座に近づき、ヨエルの左隣に立った。

「会うのは初めてだろう。ヨエルの伴侶となるリーヌス殿だ」

 アルは、ルドヴィグの手が指し示す方──ヨエルを挟んだ隣にいる男、リーヌスを見た。

 美丈夫、という言葉がしっくりくる男だった。ヨエルは『見てくれは悪くない』と言っていたが、とんでもない。悪くないどころか、物語に出てくる英雄のようだった。

 きらきらした榛色の瞳。潮風にくたびれた金髪は北方人ノルドの勲章だ。着ているものだって分厚いヴァズマール毛織物で、刺繍もふんだんに施された上級品だ。アルを含めた兄弟団の大半の連中が『服』と呼ぶ、継ぎ当てだらけのずだ袋とは大違いだ。

 精悍で、堂々としていて、身体の方もかなり鍛えている。おまけに、孤児院を営む商人だというのだから……太刀打ちなんか、できっこない。

「君がアルヴァルだね」 

 リーヌスは人なつこい笑みを浮かべて、アルに手を差し出した。

「はじめまして。ヨエルから話は聞いているよ」

 アルはその手をぽかんと見つめた後で、慌てて握手をした。特殊な能力の気配はない。完全に、ただの人間だ。

「どうも」

 ヨエルからどんな話を聞いたのか、尋ねてみたい。だが、ろくでもないことだったら立ち直れる自身がない。

 アルはヨエルの方をちらりと見た。その顔には何の表情も浮かんでいない。むしろ、不快感に堪えているような顔をしている。この状況が不愉快だというのでは無さそうだ。捜索で見たものの影響が、刻一刻と濃くなっているらしい。

 ヨエルがこんなに弱っているのを見るのは初めてだった。

「ヨエル──」

 声をかけると、ヨエルは刺すような視線を寄越してきた。これは『余計なことを言うな』の目だ。今ここで──ルドヴィグとリーヌスの前で弱みを見せたくないのだろう。

 一瞬迷ったのち、アルは思い切って言った。

「あの、団長、リーヌスさん」

 すかさず、リーヌスが熱っぽく言葉を挟む。

「リーヌスと呼んでくれ。君がヨエルの弟分なら、私にとっても同じだから」

「どうも。じゃあ、リーヌス」

 こっちはあんたみたいな兄貴は要らないけどな、と内心でこぼす。

「申し訳ないんですが、ヨエルと話をさせてもらってもいいでしょうか……内密に」

 ヨエルの視線が頬に刺さる。『お節介を焼くな』と言いたいのだ。アルはめげずに言った。

「どうしても確かめておきたいことがあるんです。今日の捜索のことで」

「ああ、いいだろう。行け」

 ルドヴィグは鷹揚に手を振った。

 ホッとしたアルは、最低限の礼節を保つ心の余裕を得た。リーヌスに向き直って、丁寧お辞儀をする。

「では、またあらためて」

「ああ」

 リーヌスはヨエルの肩にそっと手を置き、軽く握った。

 まるで所有権を主張するような仕草だな。あるいは……ただの親愛の仕草か。いずれにせよ気に食わないのだから、どっちだってかまわないけれど。

 リーヌスの手からヨエルを取り返した達成感は、ヨエルの身体から発散される不調のオーラに触れた瞬間に消えた。

 ヨエルの精神状態は悪化の一途を辿っている。スニョルはヨエルの肩の上でボサボサの羽毛を膨らませていて、まるで寒さを感じているみたいに見える。

 これにルドヴィグが気付かなかったなんて──と思いかけて、考え直す。

 往々にして、センチネルは他のセンチネルに対する興味が希薄だ。

 センチネルの霊獣には肉食獣が多く、本人にもそれに近い性質が表れやすい。初対面のセンチネル同士が、縄張り争いをしているような敵意のぶつけ合いをすることも珍しくない。

 だから、センチネル本人が不調を表に出さないと決めたのなら、他人が不調を見抜くのは難しい。ルドヴィグは有能だけれど、センチネルはやはり、センチネルなのだ。

 ヨエルがここまで弱っていることに気付けるのは、ガイドだけ。なかでも、ヨエルと付き合いが長いアルだけだ。

 ロングハウスを出ると、ヨエルは疲れが滲む低い声で言った。

「なんのつもりだ、アル。仕事の話なら後で──」

「今、話したい」

 アルは小さな声で言い、団の倉庫にヨエルを連れ込んだ。ヨエルはため息をついて、おとなしくアルに従った。

「俺とリーヌスが一緒に居るところを見るのが、そんなに嫌か」

 図星を突かれた、わけじゃない。

 アルは喉の奥に塊が詰まったような声しか出せなかった。

「そういうんじゃない」

 ただ、リーヌスの隣にいることが、ヨエルに良い影響を及ぼしているようには見えなかっただけで……いや。そうだったら良いのに、と思っているだけだろうか。

「ヨエルのことが心配だっただけだよ。疲れてるみたいだし、具合悪そうだから」

「俺ももうトシだからな」

「馬鹿いえ、そんなトシじゃないだろ」

 団員を手当てするための治療院もあるのだけれど、ヨエルは頑としてそこに立ち入ろうとしないから、浄化をするなら人目に付きにくい場所を選ぶしかない。

 倉庫の中は薄暗く、埃っぽくて、何かが腐りかけているような酸っぱいにおいがかすかに漂っている。それでも、ここには誰もいない。

「なあヨエル、あの廃集落で何を見たんだよ」

 ヨエルはその質問を予期していたようだ。ふーっとため息をついて、静かな声で答える。

「何でもない」

 アルの頭にカッと血が上る。

「ああ、そうかよ! オーヴェの行方に関係する手がかりかも知れないけど、一緒に仕事をしてる俺には言わないつもりってことか」

 ヨエルは動じない眼差しをアルに向けた。

「そうだ」

 きっぱりと言われて、アルは言葉を失ってしまう。追い打ちをかけるように、ヨエルは言った。

「明日からは街の外に捜索範囲を拡げる。俺ひとりで行くから、この事件はもう、お前には関係ない話だ」

『でも』と言いたかった。子供のように、我が儘が通る可能性に賭けてみたいと思った。けれど、これは団長であるルドヴィグが定めたことだ。逆らうことは出来ない。〈兄弟団〉の一員になることを決めたのだから。

 アルはたっぷり十秒はかけて、長いため息をついた。

「ひとりで行くなら、なおさら浄化ケアしておかないと」

「またか? そんな必要──」

 あるに決まってるだろ。どうしてそう、自分のことに無頓着なんだ。

 強い口調で言いたかった。けれど堪えて、アルは言った。

「練習台になってくれなくなる日も……近いんだろ」

 口に出してみると、その事実は思った以上に苦く、喉が焼けたかと思った。

 アルは咳払いをした。

「だから、今と、明日の出発前にもう一度、俺に付き合ってくれよ。いいだろ?」

「わかったよ」

 ヨエルはしぶしぶながら頷いてくれた。

「よし! じゃあほら、そこに座って」

 いつもの『明るくて元気なアルヴァル』を装って、めげてない振りをする。子供の頃、ひょうきん者で居るのはちっとも苦じゃなかったはずなのに、今、他人から期待されている自分の姿に寄せなければいけないのは……少しだけ辛い。

 ヨエルはため息をついて、倉庫の奥にある木箱に腰掛けた。

「深入りしたら、今度こそ本気で突き飛ばすからな」

 ヨエルが言う。

「もう突き飛ばしただろ」

「あんなのは、突き飛ばしたうちに入らない。俺が本気を出せば、お前は倉庫の壁にめり込んだまま冬を越すことになる」

 あながち脅し文句でもない。本気を出したセンチネルに、力で勝てる者はいない。

「わかったよ……」

 アルはヨエルの前に跪き、彼の手を取ってノイズを消していった。

 今までに何度も、こうしてヨエルに触れて、時には内面にまで触れてきた。別の男の──リーヌスのものになったら、アルが触れるのを許されることは二度とないだろう。

 どうして、今まで通りじゃいけなかった?

 どうして……俺を待っていてくれなかったんだ。

 ふがいなさが心の中に溢れる。けれど、それを押し殺して浄化に集中した。あと何度こういう機会が訪れるかもわからないのだ。一回一回、悔いのないように浄化をしなければ。

 表層のノイズはすぐに薄れた。だが、さらに奥──ヨエル自身が作った精神の盾に隔てられ、手が届かないところに、凝り固まった澱みの塊があるのがわかる。それを癒やそうとすれば、また深入りしてしまうことになる。

 あの澱みは、これからもずっと、ヨエルの中に残り続けるのだろうか。

 ふと、ヨエルが呟いた。

「お前は……神聖なものにでも触れているみたいに浄化ケアをするんだな」

 アルはヨエルを見上げた。自分を見つめるヨエルの顔に、切ないような、苦しいような──途方もなく哀しいような表情が浮かんでいた。

 胸を切り刻まれたみたいに、たまらなくなる。

 そのせいだろうか。

 この、薄暗くて埃っぽい倉庫の一角で、アルは本心からの想いを告げることができた。

「だって……俺にとって、ヨエルはこの世で一番尊いものだから」

 アルの言葉を受け止めて、ヨエルの瞳が僅かに揺れ、滲む。倉庫の高窓から差し込む最後の斜陽が、青い瞳の中で踊った。

 ほんの一瞬──二人は言葉もなく見つめ合った。

 だが次の瞬間、窓から射していた光は消え、瞳の中の輝きも失せた。ヨエルは顔を逸らし、自嘲の笑みを滲ませた声で言った。

「俺には……それほどの価値はない」



「ンなわけねーだろ!」

 アルは空になった木杯を勢いよくテーブルに置いた。

 ここはトルンのロングハウスではなく、港近くにある小さな宿屋インだ。漁師や商人向けに開かれた店で、〈兄弟団〉の連中は近づかないが、アルはよく顔を出していた。外見はオンボロだが、出している酒はいい。

 ここなら、霊獣が育ちきっていないからと言ってからかわれることもなければ、アルの大事な人を攫ってゆく男と顔を合わせることもない。

「今日はご機嫌斜めだな、アル」

 宿屋の主人ボルイェは、アルが昔、ちょっとしたいざこざを解決してやった時からの顔馴染みだ。年はアルより三つ上。その商才でもって、この店をあっというまに繁盛させたやり手だ。

「南の農場で子供が行方不明だってな。荒れてるのはそのせいかい」

「それもある」

 宿屋という場所には情報が集まるものだ。中でもこの店は、噂に敏感な商人が通うこともあって情報の宝庫になっている。レイクホル中の噂がボルイェの店に酒を飲みに行くと言われているくらいだ。ここは酒だけでなく、密かに情報の売買が行われる店でもあった。

「じゃあ、ヨエルの見目麗しい、完璧な婚約者のことで苛ついてるんだな。〈兄弟団〉を三年遊ばせておけるくらいの持参金をもってきたって話じゃないか」

 アルは、酒場のカウンターに半ば突っ伏した状態で、顔だけ上げてボルイェを睨んだ。この街に、アルがヨエルに片想いしていることを知らない奴は居ないのだ。

 マーナはアルの膝の上で眠っていたが、アルの気まずさを感じ取ったのか、ウーンと唸って寝返りを打った。

「あいつのことで、何か知ってることは? 弱みとか、悪い噂とか」

 ボルイェはニヤリと笑い、呆れたように首を振った。

「そういうやり方はオススメしないがねぇ」

「うるせー」とアルは唸った。

「あいつはヨエルの昔馴染みなんだ。こうでもしなきゃ……」

「弱みを握ってどうすんだ? ヨエルに言いつけて心変わりさせようって?」

 酔った頭が、徐々に素面に戻ってゆく。

 ボルイェの言うとおり……リーヌスの不完全さを証明すればヨエルが結婚を考え直すかもしれないという案が頭を過ったのは認める。だが、そんなことをしたって意味は無いとわかってもいた。

「俺は……ただ……」

 ただ単に、奴にも欠点があると暴いて、自分を慰めようとしていただけかも知れない。

 アルは深いため息をついて、言った。

「……惨めだ」

「おーおー、可哀相なやつだなぁ」

 ボルイェはカウンターに乗り出して、アルの肩をガシガシと撫でた。可哀相といいながらも、その顔には面白がるような表情が浮かんでいた。

「十年も一緒に居るのに、俺はアルのこと何にも知らないんだ……それが、もの凄く惨めだ」

 その時、アルの左隣に客が座った。同時に、ボルイェがそつない動きでカウンターの奥に身を引く。

 不意に距離を詰められたような居心地の悪さに、アルは礼儀をかなぐり捨てて言った。

「他にも空いてる椅子があるだろ……」

「すまない。君と話をしてみたくてね」

 その声にギョッとして、アルはようやく男の顔を見た。そこにいたのは──

「リーヌス?」

「やあ」

 貴族と見紛うほどの出で立ちをした男が、港の隅っこにあるボロい宿屋にいる。とんでもなく場違いで、客たちは好奇心を隠しもせず、じろじろとリーヌスのことを見ていた。

「何しにこんなとこに来たんです? お口に合うような酒はないと思いますけど」

 アルはズバリと言った。

「そんなことはないよ。私もかつては遠征で、この世の果てのような場所にも行ったんだ。ああいう経験をすると、ここほど上等な店を見つけるためなら金貨を何枚積んだって惜しくないと思えるものさ」

 ボルイェは今の言葉ににんまりとした。お世辞をそのまま受け取ったからではない。簡単にはカモにできそうもない、手強そうな人間を見つけると、彼はいつでもああいう顔をする。

「地の果てだって? その話、聞かせてほしいなぁ。な、アル?」

「まあ、うん」

 煮えきらない返事をかき消すように、ボルイェはパンと手を叩いた。

「決まりだ! ね? 一杯目は奢るからさ」

 そう言って、ボルイェは上客用の綺麗な杯に蜂蜜酒を注いだ。

「そこまで言うなら……」

 リーヌスは礼を言って、一口目で舌を潤し、もう一口、喉を鳴らして飲んだ。

 先ほどからリーヌスを観察していた客たちまで注目しているらしい。酒場の中のざわめきがにわかにおさまり、リーヌスの舞台が出来上がった。

「昔、と言っても、まだほんの十年前かそこらの話だ。ここからさらに北東に行ったところにベイスフィョルという国があった。今では滅ぼされ、オルスティアの一部になってしまったが……かつてそこはヴァルナル王が治める国で、凶暴な〈戦狼団ウルフヘズナル〉が王の従士団を務めていた」

 北方人ノルドなら知らないものは居ないほど有名な話だ。アルやボルイェのような若輩にとっては『歴史』だが、この店にいる連中のほとんどしてみれば、つい昨日のことのように思い出せる『昔話』だろう。

 オルスティアのヤルマル王とベイスフィョルのヴァルナル王との戦は語り草──それこそ、サガに語られるべき出来事だ。

 一方のオルスティアには〈戦鴉団クラセルキル〉、もう一方のベイスフィョルには〈戦狼団ウルフヘズナル〉が居て、戦は実質、この二つの戦士団のぶつかり合いだった。どちらの勢力も沢山の霊獣持ちを抱えていたらしい。戦は熾烈を極めたという。

「わたしはヤルマル王の命を受け、兵站任務の補佐役として〈戦鴉団クラセルキル〉に同行し、その戦いぶりを見たんだ」

「ホントに!? すげえ!」

 ボルイェは目を輝かせて前のめりになった。価値ある情報のにおいを嗅ぎつけた顔をしている。

「ベイスフィョルの王都があったイングネスのあたりは、今でこそ〈戦鴉団クラセルキル〉の拠点の一つになっているが、当時は王の御座ござとは思えないほどの未開の地でね。あの時、まともな宿インに泊まれると言われたら、全財産だって手放していたかも知れないな」

「それで、〈戦鴉団クラセルキル〉の戦いぶりって言うのは、どんなでした?」

 ボルイェが興奮しつつ先を促す。

 リーヌスはふむ、と考え込んだ後、こう言った。

「美しかった。霊獣持ちの戦いはどれも見事だ。言葉では言い表しがたい。中でもひとり、特別な戦士がいた」

 そして、何かを味わうように口を閉じ──それが彼の癖なのか──舌先で自分の歯をなぞると、再び口を開いた。

「彼は、まだ年若いセンチネルの戦士だった。槍を持たせれば穂先で勝利を描くように、弓を持たせれば敵に血の花を咲かせるように戦った。彼は男だが、まるで戦乙女のようだと思った。君は、センチネルが獣化したところを見たことがあるか?」

 センチネルの獣化は、いわば最終手段だ。もしも荒れ狂う精神の制御を失い、戻ってくることが出来なければ……永遠に獣のまま、元には戻れない。〈トルン〉では、生死に関わる場合を除き、センチネルの獣化は固く禁止されている。

 アルは首を横に振った。

 リーヌスはふうとため息をついた。

「残念だ。あれは本当に素晴らしい。神々から賜った祝福だよ」

 そのうっとりとした表情に、何故だか吐き気がこみ上げた。そんなアルに気付かず、リーヌスは続けた。

「彼は〈戦鴉団クラセルキル〉の団長の息子だった。だが、彼は自分の生まれに甘んじることなく、斥候でも暗殺でも、命じられるままに何でもこなした。味方からも敵からも畏れられた、まさに孤高の戦士だ」

 アルの心臓が、重く鼓動をし始める。

──まさか。いや、そんなはずない。

「ヤルマル王の軍勢は快進撃を続け、我々は前線を押し上げていった。そして、イングネスにある王都まではあと数日と言うとき──彼に、ある呪いがかけられた」

「呪いって?」

 ボルイェが身を乗り出す。

「最後の戦いを前に、我々が持参した兵站は底をつきかけていた。ヤルマル王は軍勢に、周辺の村を強襲する許可を与えた」

 アルの心臓が、大きく跳ねる。

 その先を聞きたくない、と思う。同じくらい強く、ちゃんと聞いて理解したいと考える。

「俺の戦乙女は、そこでひとりの孤児を拾った。最初は奴隷として売り払うのかと思ったが、そうじゃなかった。彼はその夜から人が変わったようになって、その孤児にやたらと固執した。自分以外のものを近づけようともしなかった」

 リーヌスは深いため息をついた。

「呪いだ、と軍団の連中は噂した。呪いが彼をにしたんだと」

 リーヌスの視線が、アルを貫いた。

「結局、王都に攻め入る前には団を抜け、行方さえわからなくなった。それから十年かかって、ようやく居場所を見つけた」

 そこには、初対面の時に彼が見せていた、温和で人なつこい色はどこにもなかった。嫉妬と牽制、そして、見紛いようのない敵意。

「そして……呪いはまだ、解けていないらしい」

 アルは奥歯を食いしばった。

は腑抜けじゃない。呪いなんか、かかってない」

 唸るように言って、リーヌスをにらみつける。リーヌスはどこ吹く風という顔で言った。

「罪悪感というものは、戦士にとっては致命的な呪いだ」

 彼は言い、酒に口をつけた。

「その呪いが、彼をこの地に縛り付け、本来彼が得るべき栄光から遠ざけてきた」

「俺はヨエルを恨んでなんかない。ヨエルは恩人なんだ!」

 リーヌスは冷たい目でアルを見据えた。

「君の本当の家族を手にかけたのがヨエルだったとしても、そう言えるか?」

 アルは返す言葉を失った。

 それ以上何も言えなくなったアルから顔を背け、リーヌスはもう結構と杯をおしやった。まだ半分以上も残っている。

 彼は音も立てずに椅子から立ち上がり、アルを見下ろして言った。

「ままごとは終わりだ。一年後、彼は自分の居場所に帰る」

 アルはその目を見返した。衝撃的な事実で殴られても、まだ、リーヌスに食ってかかるだけの気力は残っていた。

「本人が、それを望んでいなかったら?」

 リーヌスは小さなため息をついた。

「〈戦鴉団クラセルキル〉の団長が死んだ。望もうと望むまいと、彼こそが〈戦鴉団クラセルキル〉の新団長だ。夫であるわたしが、それを支える」

 それは、振り下ろされた鎚の音のように、アルの胸の内に響いた。

「君もそろそろ彼を解放してやれ。わたしが言いたいのはそれだけだ」

 リーヌスはそう言って、店を後にした。自分の十年間は、大事な人にとっての『呪い』だったのだという事実を残して。

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