第2話 ヨエルの心象風景
ビョルランドには夏と冬、二つの季節しかない。
祝福に満ちた夏の
ある家では婚約の宴が、別の家では送葬の宴が、また別の家では……特に理由が無くても宴が催される。屠られたばかりの肉が食卓に並び、蜂蜜酒で満たされた杯が一度、二度、数え切れないほど交わされて、日に日に早まる夜の訪れを大らかな気持ちで受け入れるのだ。
今夜も、そんな宴が催される。
〈
いつもなら大喜びで宴に参加するアルだったが、今夜ばかりはそんな気分にはなれなかった。最初のうちは、落ち込んでいたってしょうがないと気持ちを切り替えようとした。けれど宴の始まりの時に、団長のルドヴィグがヨエルを高座に呼び寄せ、婚約のニュースを皆に伝えたところで気力が挫けた。
ヨエルは一匹狼で、浮いた話なんか少しも出てこない男だった。仲間と群れず、任務に徹する。そのせいで、団員の半分からは心配され、もう半分からは鼻持ちならない奴だと見なされていた。そんなヨエルが結婚するとなれば、大騒ぎになるのは当然だ。
案の定、団員はヨエルを取り囲み、相手のことや馴れ初めや、いつ婚儀をするのかなど、根掘り葉掘り聞き出そうとした。
アルはそれ以上みんなの声が聞こえる場所にいたくなかった。祝福を受けるヨエルの姿も見たくなかった。だから、大皿に盛られた料理からいくつかくすねて、ロングハウスの傍にあるルドヴィグ団長の住居にそそくさと引っ込んだ。ここなら誰も入ってこない。
もちろん他人の家だが、アルはここに入っても咎められない理由がある。
「おーい、シーラ? 宴のお裾分けをもって来たんだけど──」
団長の伴侶であるシーラはセンチネルだった。
シーラは五年前、同じくセンチネルであるルドヴィグと一緒に王の東方遠征に同行し、戦いの最中に能力の
そうした事態を防ぐため、シーラには優秀なガイドがついていた。けれど暴走しかけたシーラの精神に入り込んだガイドは逆に奈落へと引きずり込まれ、死んだ。シーラは辛うじて一命を取り留めたものの、あれ以来ほとんど寝たきりになっている。抜け殻になったように、長い間ぼうっとしていることも多い。
アルはことあるごとにシーラを尋ね、時に
「シーラ?」
団長の住居は暖かかった。忠実な召し使いたちが、いつもシーラの身の回りの世話をきちんとしてくれているおかげだ。その筆頭であるロヴィサと、アルは顔なじみだった。
「あら、アルヴィク。シーラ様はお休みになってるよ」
「そっか。せっかくだから宴のご馳走を持ってきたんだけど……」
そこまで言ったところで、炉の周りに料理の入った小鍋が並んでいることに気付いた。
「当然でしょ。愛妻家のルドヴィグ様が、奥様に宴のご馳走を用意していないわけがないじゃない」
「そっか」
そこで、アルはロヴィサの視線に気付いた。同情の眼差しだ。
「まあ……居づらいよね」
その通りなので、わざわざ反論はしない。ロヴィサとは幼い頃からの付き合いで、お互いのことはよくわかっている。もちろん、アルがヨエルに対して抱き続けてきた恋心も。
アルはシーラの眠りを邪魔しないように、寝所と居間を分ける帳から離れたところに腰を下ろし、大きなため息をついた。
「正直、どうしたらいいかわからないくらい辛い」
あたしにはどうすることもできないけど、とロヴィサは言った。
「きっと奥様なら、ここで食べていっていいっていうよ」
「うん……食欲はないけどな」
アルの気持ちなどつゆ知らず盛り上がる、宴の賑わいが微かに聞こえてくる。ロヴィサの視線がちらりと、そちらの方向に動いた。
「なあ、ここは俺が見てるから、お前は宴に出てこいよ。スヴェアも来てたぞ」
アルにとってのヨエルのように、ロヴィサにもスヴェアという想い人がいる。自分の恋は潰えてしまったけれど、せめてロヴィサは幸せになって欲しい。
「でも──」
躊躇うロヴィサに向かって、アルは小さく肩をすくめた。
「行ってこい。できればひとりで考えたいんだ」
ようやく、ロヴィサは頷いた。
「長くはかからないようにするから」
「気にするな。一晩じゃ傷心は癒えないからさ」
ロヴィサは感謝と気遣いを込めて、アルの肩に手を置いた。
「せめて、ちゃんと食べなよね」
「わかってるよ」
請け合うと、ロヴィサはぱたぱたと軽い足音をさせて、宴の方へ向かっていった。
静まり返った部屋の中に、シーラと、彼女の霊獣である
せっかく持ってきたのだから、と冷めてしまった料理をつまんでみたものの、まるで味がしない。砂を食っているような気分になったので、あきらめて皿を置いた。
アルはため息をついた。こうして静かな場所に居ると、また考え込んでしまう。
ヨエルが結婚する。俺の知らない奴と。
人生のちょうど半分もの間、ヨエルを慕い続けてきた。十歳の頃に命を救われてから十年──アルの最も古い記憶もその頃のものだ。
ヨエルと出会う前、自分には家族がいて、子供時代もあったはずなのに、思い出せない。
最初の記憶は火だ。燃えさかる火。悲鳴と怒号。戦太鼓と角笛の響きを覚えている。おそらく、アルが住んでいた村は
熱風がめちゃくちゃに吹き荒れ、火柱がこっちに向かってきていた。あれに抱かれて、自分も焼け死んでしまうのだと思った。
その時、アルは鴉の声を聞いた。まるで、全ての音を沈黙させるかのような声だった。時が止まり、恐怖を感じなくなった。次の瞬間、迫る炎を切り裂いて、ヨエルが現われたのだ。
その後に何があったか、細かい記憶はぼんやりとしている。熱に魘され、生死の境を彷徨っていたせいだ。
最終的に、ヨエルはアルをこのレイクホルに連れてきた。そして、アルはガイド見習いとして〈
センチネルもガイドも、〈
儀式はまず、真冬の雪山で狭い穴にこもるところから始まる。口にすることを許されるのは、洞窟の中に生える茸だけ。これが幻を見せる作用を持った茸で、食べても死ぬことはない代わりにもの凄く不味いし、気分が悪くなる。おまけに火を熾す薪もないから、件の茸を乾燥させて燃やすしかない。この煙にも当然ながら幻覚作用があった。そんなわけで、儀式の期間を素面で過ごすなんてまず無理だった。挑戦者は終わることのない夢に囚われたまま、極寒の日々を生き抜かなくてはならない。
けれど不思議なことに、そんな状況も十日もすると慣れてくる。悪意ある恵みのように次々に生えてくる茸の味も気にならなくなって、今、夢を見ているのか目覚めているのかもわからなくなった頃、ふと、自分が独りぼっちでは無いことに気づく。
アルがマーナと初めて出会ったのは、明け方だった。
洞窟の入り口から差し込む光が顔に射したおかげで、アルは長い悪夢から目を覚ました。あたたかいものが寄り添っているのに気付いてふと見ると、真っ黒な仔犬が、腹に寄り添うように眠っていた。
仔犬はぺちゃぺちゃ音を立てて口元をもごもごさせながら、仰向けに寝返りを打った。その無防備さがどういうわけか胸を打って、しばらくの間、アルは仔犬を抱いたまま泣き続けた。
その日、アルの挑戦は終わった。この儀式は、センチネルやガイドが自分の
洞窟から出ると、目の前に開けた空に、有り明けの月が浮かんでいた。だから、アルは自分の霊獣に
山を下ると、レイクホルの境界を示す門の前にヨエルが立っていた。ずいぶん長いこと、そこで待っていたのだろう。彼の周りにだけ雪が積もっていなかった。
研ぎ澄まされた耳目を持つヨエルは、アルがその姿を認めるずっと前から、アルが下山してくるのを知っていたはずだ。それでも、仔犬を腕に抱えたアルの姿を見た瞬間、ぱっと顔をほころばせて駆け寄ると、毛皮のマントでアルを包み、力一杯抱きしめてくれた。
「よくやった」
凍えるアルの背中をごしごしと擦って温めながら、ヨエルは言った。
「偉いぞ、アルヴァル。お前は本当によくやった」
その時だ。その時から、アルはヨエルを慕うだけではすまなくなった。
その後、ヨエルは〈
その甲斐あって、アルの浄化の腕は兄弟団の中でも上位に位置する。ただ、霊獣が成熟していないせいで一人前の扱いはされず、団長の許可なしには、街の境界の外に出ることさえ許してもらえないが、それでも実力はある。
ヨエルはいつでもひとりで仕事をする。それは彼の優秀さの証しだけれど、待っている身としては気が気じゃない。
自分の感覚に深く集中しているとき、センチネルはとても無防備になり、
だから、アルは一日も早く成熟して、彼と一緒に任務に行きたいと思っていた。
もしかしたらヨエルも、それを待っていてくれるんじゃないかと──。
でも、甘かった。
結婚したら、ヨエルは〈
「眼中にもなかった、ってことか……」
ぽつりと呟くと、マーナが足下でクーンと鼻を鳴らした。
どのくらいそうして沈み込んでいたのだろう。近づく足音が聞こえたので、アルはロヴィサが帰ってきたのだと思って顔を上げた。
「なんだよ、もう戻ってきたのか──」
ところが、戸口に立っていたのはヨエルだった。祝いの蜂蜜酒をしこたま飲まされたはずなのに、相変わらず涼しい顔をしている。
「ここにいたか」
なんと返事をしたらいいのかわからず、アルはぱくぱくと口を開け閉めした。
ヨエルは団長の家に上がり込むと、アルが座っていた長椅子の隣に腰を下ろした。アルの動揺などお構いなしに、皿の上に残っていた冷えた食事に手を伸ばす。
アルはついムッとして言った。
「飯なら、あっちに出来たてのがあるだろ」
「そう言うな。あそこじゃ落ち着いて飯なんか食えん。シーラも眠っているんだろう?」
「そうだけど……」
どうやら、しばらくここに居座るつもりらしい。
あの見張り塔での一件以来、会話するのは久々だった。アルひとりが気詰まりな雰囲気を醸し出していて、ヨエルはいつもと変わらない。それがまた、なんとも惨めだ。
「ヨエルの結婚相手ってさ……」
言い終わらないうちに、ヨエルが大きなため息をついた。
「またその話か」
その言い草に、思わずカッとなる。
「またって、俺はまだ何にも──!」
言いかけて、シーラが眠っていることを思い出し、声を落とす。
「ヨエルが一方的に言い捨てて、どっかに行っちまったんだろ。俺は詳しい話は聞いてない」
聞きたいのかどうかもよくわからない。けれど、聞かずにはいられない。
「宴の席で散々、根掘り葉掘り聞かれた。あいつらに尋ねてみればいい」
「自分の伴侶の話だろ。面倒くさそうにするなよ」
アルが呆れて鼻を鳴らずと、ヨエルはフッと冷めた笑みを溢した。
「どうだっていい。どうせ契約結婚だ」
「契約って──何でだよ? センチネルなんだから、選ぶ権利があるのはヨエルの方だ。気に入った相手と結婚すればいいだろ」
センチネルには、どんな相手でも伴侶に出来る特権がある。たとえ相手が同性だろうと、別の者の伴侶だろうと、例外はない。乗り気でない契約結婚に甘んじる必要など無いはずだ。
「望んでないわけじゃない。申し出があって、条件が良かったから承諾しただけだ」
「条件って?」
結局は根掘り葉掘り聞かれるのかと呟き、ヨエルは諦めるようにため息をついた。
「相手は、俺の故郷の──昔馴染みだ。商人をするかたわら、孤児院を営んでいるらしい。家柄も良く、非の打ち所は無い。そいつは結婚と引き換えに、俺の負債を引き受けると約束した。だから承諾することにした。以上だ」
アルはぱちくりと瞬きをした。
「負債って……ヨエル、借金なんかあったんだ?」
すると、ヨエルはアルの顔を見てフッと微笑んだ。
「まあな」
揶揄いと優しさのこもった微笑に、アルの胸がズキリと痛む。
「なら、ヨエルの方に愛情はないってこと? いいのかよ、それで」
「いいも悪いもない。結婚ってのはそもそもが契約だ。お互い利するところがあるなら、それでいい」
それから、ヨエルは思い付いたように言い足した。
「まあ、そうは言っても見てくれは悪くない。そのうち愛着がわくかもしれんな」
「……そうかよ」
首の後ろに焼きごてをあてられたみたいに、痛くて熱い。
アルは俯いて、絶対に想像したくない光景をまんまと頭に思い浮かべていた。見知らぬ男の腕に抱かれて、アルに向けるような微笑みを浮かべているヨエルの姿を。
アルは、ヨエルの過去を知らない。
でも、ヨエルの伴侶になるというその男は、ヨエルと同じ
完敗だ。
アルが唯一その男に勝てる部分はあるとしたら、それは
アルは、ヨエルの腕にそっと右手を置いた。見張り塔で浄化してから数日の間に、また細かなノイズが溜まっている。
「おい──」
「いいから」
身を引きかけたヨエルの腕を握って留める。ヨエルは観念したように力を抜いた。
「まったく、お前は過保護だな。婚儀で俺の母親役をつとめてくれないか?」
「やるわけないだろ」
ヨエルの揶揄のせいか、それとも、ヨエルについて知らないことが多すぎると気付いたせいだろうか。ヨエルを心配する気持ちも相まって、アルはつい、いつもより
触れた指が、ヨエルの肌に焦げ付くような感覚──そこで止めておけばよかった。けれど、やめなかった。すると、浄化に伴って、ヨエルが感じている快感がアルにまで伝わってきた。
今まで、こんなにはっきりとヨエルの内面を読み取れたことはなかった。
もっと触れあえたら、もっと彼を癒やせる。もっと気持ちよくさせられる。
その確信が、アルを突き動かした。
左手をヨエルの首筋に置く。指先の下で、ヨエルの筋肉がぴくりと震える。だが、拒まれはしなかった。
目と目が合う。かすかに翳る薄青の瞳に、問いかけるような色が浮かんでいる。
その問いの中身は「正気か?」だろうか。それとも「本気か?」だろうか。似ているようで、天と地ほども違う。
アルは囁くように答えた。
「俺は、本気だよ」
そして、左手をヨエルの首の後ろに滑らせて、そっと引き寄せた。
唇が重なり──狼狽したヨエルが、声にならない声をあげる。そのせいで唇が開いた。アルは迷うことなく舌を差し込んだ。
濡れてあたたかい舌の感触。甘く芳醇な蜂蜜酒の名残り。アルの唾液に触れたヨエルが、浄化の陶酔に身を震わせている。
ヨエルを浄化できるのは俺だけだ、とアルは思う。
俺だけが、ヨエルを守れる。誰にも渡したくなんか無い。
狂おしい気持ちに唆されるまま、ヨエルを強く抱きしめる。その瞬間、自分の意識が肉体を離れ、ふわっと浮上するような、脱力して前に倒れ込むような感覚がした。
瞬き一つの後、アルは見たことが無い景色を見ていた。
それは、
それは、燃えさかる戦場。
それは、泣きじゃくる子供の声。
何百羽もの鴉が金切り声を上げて、辺りを飛び回っている。その中心にいるのは──
「やめろ」
気付くと、アルは床に倒れ込んでいた。思い切り胸を突き飛ばされたのだろう、じんじんと痛い。顔を上げると、立ち上がったヨエルが険しい表情でアルを見下ろしていた。
「深入りしすぎるなと言ったはずだぞ、アルヴァル」
ヨエルは、滅多にアルを『アルヴァル』と呼ばない。例外は、本気で褒めるときと本気で叱るときだけだ。今は間違いなく後者だった。
声を荒げられたわけでも、思い切り殴られたわけでもない。それでも、身動きが取れなかった。
炉の火灯りを受けたヨエルの姿は、復讐の女神を宿したように神々しく、冒しがたい存在に見えた。センチネルの感情に敏感なガイドでなくたって、彼の全身から発せられる強烈な否定の意志に背筋が震えたはずだ。マーナも両脚の下に尾を隠して、アルの後ろで縮こまっていた。
「ごめん……! 俺、こんなつもりじゃ──」
ヨエルはそれ以上何も言わなかった。彼はくるりと踵を返し、振り向きもせず外へ出た。白鴉のスニョルも梁から舞い降り、羽音一つ立てずに戸口を潜って姿を消した。
アルは、ヨエルが出て行った戸口を、ただ呆然と見つめていた。
──最悪だ。
──最悪中の、最低の最悪だ。
「なにやってんだよ、俺は……」
アルは呟き、自己嫌悪に苛まれて床の上に蹲った。申し訳なさのあまり消えてしまいたいと思った。
だがそれでも、さっきほんの一瞬だけ垣間見たヨエルの心──彼の奥底にある、あまりに壮絶な心象風景について、考えずにはいられなかった。
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