霊獣のサガ ~白鴉のセンチネルと黒狼のガイド~

あかつき雨垂

第1話 夢は跡形もなく崩れ

 薄青色の空に、白い鴉が飛んでいる。

 アルヴァルは真昼の太陽の光に目を細めながら、その姿を追い続けた。その日、自分の夢が崩れ去ることになるなどとは考えもせずに。


 文明が咲き誇る南のアルヴ大陸と、無人の極北大陸とを繋ぐ橋のような地峡──そこに、北方民族の国々がある。ノルド四国と呼ばれるそれらは、南の黒森ウンスヴィク、東の背骨ローアズ、西の大国オルスティアに、北のほまれと名高い最北のビョルランドだ。

 ここはビョルランド。峡湾フィヨルドの湾口、谷の底に位置するレイクホルの港町。

 ノルド四国が二つの大陸を繋ぐ橋なのだとしたら、ビョルランドはその橋の、北のたもとに位置している。レイクホルはビョルランドにある大きな内海、ドラッカル湾と外海のちょうど境のあたりにある街だ。商人で賑わっているのは東側の対岸にあるトルグの街の方だが、こちら側もそれなりに栄えている。

 アルヴァル──街の住人からはアルと呼ばれる──は、のんびりと通りを歩いていた。トルグに取引に出かけてゆく仲間のために、船に荷を積み込むのを手伝った帰りなのだ。

 港から吹いてくる風に乗って、魚や、潮や、冬のにおいが漂ってくる。冬を目前に控えた今、街の人びとは冬支度に忙しい。近くの農場では羊を放牧から呼び戻し、そのうちの何頭かを屠って塩漬けにする。港には魚を乾燥させるための棚が並び、毎日ぎっしりと魚ぶら下がっている。今年は海の機嫌が良かったから、誰かが飢え死にする心配はしなくてもいいだろう。

 アルは再び空を見上げた。白い鴉はまだ上空にいる。

 南北に聳える切り立った山と、西に開ける海に囲まれている。そのせいで、上空の気流は複雑になる。ここに住む鳥は──普通の鳥も、ものも──この難しい気流を乗りこなさなければならない。

 アルの心配をよそに、白鴉はくあは悠々と飛び続けた。いきなり急上昇したかと思えば、目を瞠るような急降下をやってのける。

「見せつけてくれるよなぁ」

 呟くと、アルの足下で同じく空を見上げていた黒い仔犬が、同意するようにワンと鳴いた。

 その声に気付いたのか、鴉が翼を傾けて旋回をはじめる。

 鴉は螺旋を描くように高度を落とし、街の中で一番高い建物──その名もトルンの陰に消えていった。白鴉の主、ヨエルの見張り番が終わったのだ。

 アルはさりげない振りをして、〈トルン〉の砦に向かって歩き始めた。

 〈トルン〉とは場所であり、組織の象徴でもある。

 ビョルランドの王に直属する従士団のうち、特殊な力を持つ兵士だけを集めた軍団が、国内の各地に塔を持つ砦を築いて、そこで生活をする。そこから、塔に住む従士団のことを〈トルン兄弟団〉と呼ぶようになった。

 このレイクホルの街は一見すればただの港町だ。港があり、市場があって、小さな畑や牧草地がある。しかし他の街と違って、ここに首長ヤールはいない。この街を治めるのは〈トルン兄弟団〉の団長である。街は〈トルン〉を中心にして成り立っているのだ。

 兄弟団に所属する者は、ひとりの例外もなく霊獣持ち──つまり、霊獣フィルギャそなえている。霊獣フィルギャとは、その者の守護霊が具現化した存在だ。

 常人の理を外れた霊獣持ちは、さらに二種類の能力者に分類される。

 ひとつが哨兵センチネル、もうひとつが導手ガイドだ。

 哨兵センチネルは並外れた五感を有し、霊獣の力を身に宿して戦う戦士だが、それゆえに精神に脆弱性を持っている。一方ガイドは、センチネルの精神を守り、獣の性を制御する力を持った能力者である。

 兄弟団は首長同士の勢力争いには加担せず、王の命によってのみ動く。その使命は、最高神グリムの秩序を保つこと。平たく言えば、人助けをすることだ。だから、兄弟団の団員は国中のどこに行っても尊敬され──同時に、その能力ゆえに畏れられる。

 アルも〈トルン兄弟団〉の一員で、ガイドだ──一応は。

 霊獣は能力者の成長に応じて成熟してゆくものなのに、今年の夏に二十歳になったアルヴァルの霊獣・マーナは、いつまでたっても未熟な仔犬のままなのだ。だから、外見では成人と見なされてはいても、霊獣持ちとしては半人前だと認識されている。

「アル! 今年の干し鱈はいい出来なんだ。味見させてやるから、今度よっていきな!」

「ありがと!」

 アルは顔なじみの漁師に手を振った。

 街の住人の半数は非能力者で、霊獣の姿を見ることは無い。にもかかわらず、彼らもまた、アルヴァルを畏怖したりはしない。子供の頃にこの街に来てからずっと、彼らの中ではアルは『やんちゃ坊主』とか『わんぱく小僧』の位置づけらしかった。

 それを疎ましく思うわけではないのだが、少々情けないと思うのが本音だった。物語サガに語られるような立派な者のことを『語るにふさわしいソールグリム人物』と呼ぶが、アルはどう転んだってそんな風にはなれそうにない。

 傍にあった水たまりに自分の顔を映してみる。

 黒い癖毛は、寒さをしのげる程度に短く切ってしまっている。他の北方ノルドの男たちとはちがって、アルは髭を生やしていない。それは、憧れているを真似てのことなのだが、そのせいで余計に幼く見えているのかもしれない。

 目鼻立ちはくっきりしている。目の色は、マーナと同じ琥珀色。

 強面こわもてを作ろうと顔をしかめてみるものの、いまいち迫力に欠ける。どことなく人懐こい雰囲気がにじみ出てしまっているからだろうか。

 大人になったらさぞや偉丈夫になるだろう、と子供の頃から言われ続けてきた。大人になった今でも同じことを言われる。身体は大きくなったし、並みの男以上に鍛えてもいるのにこのザマだ。半分冗談のつもりなのはわかっていても、情けないのを通り越して笑えてくる。

 アルの憂鬱を感じ取ったマーナが、心配そうにピィと鼻を鳴らした。

「何でもないよ、相棒」

 アルはマーナを抱え上げて胸に抱いた。擽るように頭を撫で、再び歩き始める。

 〈トルン兄弟団〉の砦は、港町の丘の上に立っている。砦の中には、見張り台を備えた塔と、団長のルドヴィグが住む長屋ロングハウスがある。百人もの客をもてなせるほど大きな広間には、端から端まで伸びる長い炉があり、〈トルン兄弟団〉に所属する者と、彼らに助けを求めに来るものとを温めるべく、いつでも火が入れられている。

 アルが広間に入っていくと、兄弟団の団員が炉端に集まって談笑していた。ちょうどその時、彼らのために食事を運んできた召使いとすれ違ったので、アルは素早い身のこなしで、盆の上から蜂蜜がけのパンと、羊肉の串焼きをくすねた。

 見とがめた仲間がガタッと席を立つ。赤毛の栗鼠を肩に載せた、ガイドのヘルゲだ。

「アル! お前、また──!」

 アルは肩を竦ませて一瞬だけふり返った。

「ヨエルに持ってく!」

 その名前を聞いた瞬間、ヘルゲの霊獣である栗鼠のビッケはボッと毛を膨らませ、主の服の胸元に潜り込んだ。ヘルゲも苦々しい顔をして、ドスンと椅子に座り込んだ。

 いつもこうだ。ヨエルの名前を出せば、大抵の人間は文句を引っ込める。

「悪い、あとで埋め合わせするから!」

「忘れるなよ!」

 アルは広間を横切ってロングハウスをでると、見張り塔に向かった。料理が冷めないように、足早に螺旋階段をのぼってゆく。ただし、どたどたと足音をたてることなく、あくまで落ち着いて。

 アルヴァルは一人前の〈トルン兄弟団〉の団員だ──というか、そうありたいと思っている。だから、どんなに慕っている相手だろうと、仕事終わりを見計らって犬みたいに尻尾を振って駆け寄ったりはしないのだ。ただでさえ子供扱いされてるのに、これ以上ガキっぽいところを見せたくない。

 ところが、そんなアルヴァルの決意を裏切って、マーナは階段が尽きた途端に尻尾を振りながらちゃかちゃかと駆け出していった。

「あ……おい!」

 霊獣は主と魂でつながっている。アルヴァルがどれほど取り繕おうと、霊獣であるマーナがいつでも本心を明かしてしまう。

 ヨエルは見張り塔の手摺りに腰掛けていた。

 あまりに整った顔立ちは、戦士として名を上げるには不向きだと言われる。だが、ヨエルはまごうことなき北方人ノルドの戦士で、同時に絶世の美男子でもあった。

 雪花石膏のように滑らかな肌。立派な髭を生やしていなくても、ヨエルは不思議と、北方人らしい威厳を漂わせることができる。雪が積もりそうなほど長い睫毛に縁取られた、氷を思わせる薄青の瞳。見つめられると、いつも背筋が震えてしまう。

 長い金髪が風に靡いて、きらきらと輝いていた。幾筋かの細い三つ編みが揺れ、金属の留め具同士が触れあう小気味いい音がしている。

 彼は片脚を曲げ、もう片脚をだらりと下げてくつろいでいた。ぴったりとした羊毛の白ズボンと、アザラシの毛皮を裏打ちしたブーツが、ヨエルのすらりと長い脚を包み込んでいる。肩から流れ落ちる毛織物ヴァズマールのマントは濃紫で、伝統的な組紐模様の刺繍に縁取られた最高級品だ。

 そのマントの裾に向かってマーナは遠慮無く駆け寄り、端を噛んで引っ張った。そこで初めてアルたちの存在に気付いたかのように、ヨエルがゆったりとふり返る。

 彼こそ、ビョルランドに存在する〈兄弟団〉の中で最高のセンチネルのひとりだ。その姿は、詩人がどんなに言葉を尽くしたって語り尽くせないほど麗しい。

 ヨエルは床にぺたりと座り込んで尻尾を振るマーナにそっと微笑みかけてから言った。

「アル、来てたのか」

 名前を呼ばれただけで、心臓が二倍の大きさに膨らんだみたいになる。バレていなければ良いと思うけれど、無駄だろう。ヨエルはセンチネルだから、敏感な聴覚でアルの鼓動が早まったのをしっかり聞いているはずだ。

 さらに言えば、センチネルは霊獣と意識を繋げたり、一体化することさえ出来る。彼の霊獣である白鴉のスニョルの目を通して、さっきアルが塔に向かうところも見ていたに違いない。

 いま、スニョルはヨエルの肩にとまって、賢そうな黒い目でアルを見つめている。全部お見通しだぞと言われているような気がする。

「えーと……その、昼飯持ってきた」

 この期に及んで、まださりげなさを装いながら、アルはヨエルの隣に腰掛けた。

「悪いな。気にしなくていいのに」

「俺もまだだったから、ついでだ」

 能力を使った後は腹が減る。ヨエルはまだ湯気の立つ羊の串焼きを受け取ると、上品な顔立ちからは想像が付かないほど豪快に、肉にかぶりついた。

 口の端からしたたり落ちる肉汁が顎に伝う様子を盗み見て、アルの鼓動がまた早まる。アルの心情に気付かないふりをするのをやめたらしいヨエルは、小さくクククと笑った。

「せっかく持ってきてくれたんだから、落ち着いて食わせろ」

「わ、わかってるよ」

 アルは言い、俯いて蜂蜜パンを食べた。〈トルン〉の料理人が作る食事はどんなものでも美味い。けれど、今日はその味もよくわからなかった。

 ヨエルが食事を終えたのを見計らって、切り出す。

「今日の見張りは終わりだろ。浄化ケアは?」と尋ねる。

「必要ない」と、ヨエルが即答する。

 これがふたりの間のお決まりのやりとりだったから、アルは遠慮無く、ヨエルの手の甲に自分の手を重ねた。すると案の定、ヨエルの身体の中に溜まったノイズの気配があった。

「付く意味のない嘘をつくなよ。いい大人のくせに」

「やかましい」

 ヨエルはそう言いながらも、小さく笑っていた。

 手のひらの下、ヨエルの身体の中で、ドロドロしたものが溶けて消えてゆくのを感じる。長く触れれば触れるほど、ヨエルの眉間の間にあるかすかな皺が薄くなる。

 ──ああ、よかった。

 アルは内心で、大きなため息をついた。

 無敵に思える哨兵センチネルは、鋭敏な感覚と引き換えにいくつかの弱点を持っている。その一つが、能力を使うほど身体の中に溜まっていくノイズだ。これを放置しておくと……いつか彼らは、心を喪ってしまう。

 ノイズを放置したばかりに心神喪失し、抜け殻のようになってしまった者や、霊獣に身体を乗っ取られ〈獣堕ち〉してしまった団員も、過去には居た。それを防ぐことが出来るのが、アルをはじめとする導手ガイドなのだ。

 ガイドはセンチネルの肉体や、時に精神そのものに触れ、彼らがため込んだノイズ浄化ケアしてゆく。ふたりのあいだの絆が強ければ強いほど──そして、接触が濃厚になればなるほど、浄化はうまくゆく。

「ん……」

 ヨエルが小さな声をあげる。肩にとまったスニョルも、クルクルと柔らかく喉を鳴らした。

 センチネルにとって、浄化ケアは快感を伴う行為だ。弱みを見せたがらないヨエルは、それゆえなかなか他人に浄化ケアをさせない。

 本来、ガイドにはセンチネルの心を読む能力が備わっている。ヨエルの心は分厚い盾に覆われていて、そう簡単に中を覗くことはできない。けれどアルにも、ヨエルが癒やされているくらいのことはわかる。

 癒やされている──それだけだろうか。そこから先には行けないだろうか。

 浄化ケアはただ触れるより、撫でる方が効果が高い。撫でるより、愛撫の方がさらに良い。想いのこもった口づけなら申し分なく、その上をいくのが閨での目合まぐわいだ。ガイドの体液には強力な浄化ケアの作用がある。唾液や血液、それにもちろん、精液にも──。

 ふと脳裏に、アルの体液にまみれて恍惚とするヨエルの姿が浮かぶ。中にも外にもたっぷりと注がれて、彼の心身は無垢とさえ言えそうなほどまっさらに浄化されて……。

 生々しい想像をしてしまったせいで、アルの下半身に血が集まってしまった。慌てふためいたアルは、唐突に手を放した。

「……終わったか?」

 ヨエルは、微睡みから目覚めたようにゆっくりと目を開けた。目元に刻まれていた険しさが、少しだけ薄れたように見える。

「ああ……楽になった。ありがとう」

「お、おう」

 アルはわざと素っ気なく答える。だが、足下にいるマーナは千切れそうなほど激しく尾を振っていた。

 大人になるにつれて素直に好意を伝えることが出来なくなってしまったけれど、本当はアルだって、マーナのように全身で想いを伝えたい。

 センチネルとガイドが互いに心をつなげて〈誓約〉を交わせば、お互いが唯一の相手に──番になる。霊獣持ちの間では、他に類を見ないほど強い絆だ。

 それに……この北方では、センチネルには優先的に伴侶を娶る特権が与えられている。センチネルが「この者を」と望めば、相手の性別さえ無関係に婚姻することが出来るのだ。それは、精神に異常を来しやすい彼らを守るための特権でもあった。

 アルは物心ついてから、いつかヨエルと〈誓約の番〉になりたいと──さらに言うなら、伴侶としてヨエルに選ばれたいと、ずっと願い続けてきた。

 正直に言うと、望みはある……と思う。

 アル以外のものに浄化をさせないのも、アルの前ではよく笑ってくれるのも、心を許してくれているからだろう。だから、アルの霊獣がきちんと成熟して一人前のガイドになったら、その時は、自分の方から切り出そうと思っていた。

 何も、容姿が優れているというだけでここまで慕っているわけではない。ヨエルは優しい。高潔で、情に篤く、そして──孤独だ。十年前に戦場で彷徨っていたアルを引き取り、育ててくれた恩人でもある。

 アルにとってはヨエルこそ、語るにふさわしいソールグリム人物だった。彼の隣で共に戦い、共に憩い、残りの人生を生きていくことが出来たら──どんなに幸せだろう。

 いつかはそんな風になりたい。

 いつかは。

 その時ふいに、ヨエルが切り出した。

「そういえば、お前にはまだ言ってなかったな」

「え、何?」

 顔を上げると、ヨエルと目が合った。彼は、今夜の夕飯に何を食べるか話すような調子で、こう言った。

「一年後に結婚する。相手はお前の知らない奴だ」

 鋳鉄の鍋で頭を殴られても、これほどの衝撃は受けなかっただろう。アルは文字通り硬直した。息をするのも忘れた。


 正気を取り戻したとき、そこにヨエルの姿は無く、あたりは夜の暗闇に包まれていた。

 そしてようやく、数刻前に口に出すべきだった言葉が出てきた。

「……嘘だろ?」

 かくしてその日、アルヴァルの夢は跡形もなく崩れ去ったのだった。

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