エピローグ









――春がやってきた。






 帝都コルザレムの春は穏やかな気候で知られている。

 魑魅魍魎うごめく〈大宮殿〉での所用が終わったヴガレムル伯クロガネ・シヴ・シノムラは、金髪碧眼の従者と共に衛兵が守る宮殿の扉を跡にした。

 美術的価値の計り知れない見事な建造物も、黒髪黄金目の伯爵にとってはあまり興味を引くものではなかった。

 帝国貴族としての教養を身につけているクロガネ・シヴ・シノムラは、そこらの世襲貴族よりよっぽど芸術に対する造詣は深かったが、今はそういう気分ではなかった。

 そう、今の状況は彼にとって不本意なものだった。


 よもや自分の騎士であるエルフリーデ・イルーシャだけが〈大宮殿〉への立ち入りを許されず、敷地内に留め置かれるなどという状況が出現するとは。

 明らかに何者かの作為を感じる状況だけに、クロガネは少々、気が急いていた。

 あるいは彼の心情を一言で表すならば――のだ。

 扉を出る。

 朝に〈大宮殿〉へ赴いたというのに、帝国中央の要人たちと顔を合わせていたらすっかり昼下がりになっていた。

 色とりどりの花が咲いた美しい庭園を横切って、その真ん中に作られた広大な石造りの噴水が織りなす水の芸術を眺めて――そうして男は、探していた少女を見つけた。



――深い栗色ブラウンのミディアムヘア、ウェーブしたくせっ毛は首元まで伸びていて。



――宝石めいた深紅の瞳、真冬に降り積もった雪のように白い肌、左目から左頬にかけて走った傷跡。



 美しい少女だった。

 本来、乙女の可憐さを損なう傷跡さえもが、かえって鮮烈な印象を引き立てるような見目麗しさ。あるいは色気のない男装のスーツ姿すら、彼女の生来の美を強調するためにあるかのようだった。

 エルフリーデ・イルーシャの姿は、クロガネ・シヴ・シノムラの目にそのように映っていたけれど、もちろんそんなこと彼女には知るよしもない。

 クロガネと時を同じくして、少女の側も自分の主の姿を認めたようだった。

 こちらに歩み寄ってきたエルフリーデは、クロガネとロイの二人に近づくと少々すねたように口を開いた。


「伯爵。流石にわたしもお腹が空いちゃいましたよ、何時間待たせるんですか?」


「ああ、待たせたようだ。これでも一番早く切り上げてきたつもりなのだが……」


 肩をすくめる伯爵に、少女騎士はこれまたやれやれとため息をついて。従者ロイ・ファルカはそんな二人の様子を、ニコニコと微笑みを浮かべて眺めている。

 口調だけは申し訳なさそうなのに、表情はいつもの鉄面皮のままだから、エルフリーデとしてはやりにくいことこの上ない。

 そして何気なく、少女はついさっき起きた事件を報告した。


「カール・トエニ将軍閣下から引き抜きのお誘いを受けました。もちろん断りましたけど」


「油断も隙もあったものではないな」


 クロガネは目を細めた。

 そんな彼の様子を知ってか知らずか、とぼけた口調でエルフリーデは尋ねた。


「一応、連絡先を押しつけられちゃいましたが……どうします?」


「捨てろ、とは言わん。だが彼を頼るのは最後の手段にした方がいい。否が応にも帝国の政治に巻き込まれる」


「……あ、やっぱりだいぶ怖いおじさんなんですね……」


 クロガネとエルフリーデ、そしてロイの三人は〈大宮殿〉の門をくぐって、帝国の要人しか入れない区画の外に出た。

 〈大宮殿〉は何重もの城壁に区切られており、それぞれに時の権力者が築き上げた宮殿と大聖堂が建設されている。それに付随して広々とした庭園も整備されており、門で区切られている区画ごとに独自のコンセプトがあるようだった。

 色とりどりの花々と噴水が見事だった先ほどの区画の外には、ピンク色の花弁が目線よりも上の高さに咲き誇っていた。


「わあ……」


 思わずエルフリーデは感嘆の吐息を漏らした。

 桜の木だ。

 大陸東海岸に比べればずっと遅いが、帝都にも桜の花が咲く季節がやって来たらしい。

 見渡す限り一面、城壁の内側を満たすように植樹された桜の木が、満開の花をつけている。整備された桜並木の下を歩きながら、その光景に圧倒されて見惚れているエルフリーデ――そんな少女に対してクロガネが頷いた。


「現状を共有しておこう。ロイ」


「はい、旦那様。エルフリーデ様、手短に申し上げますと此度の戦について、ヴガレムル伯領が罰を受けることはありませんでした。ベガニシュ帝国陸軍の派兵時に、速やかにその駐留を受け入れて戦闘を停止したのがよかったのでしょう。つまりエルフリーデ様のお手柄です」


「……これって褒められてる?」


「はい、エルフリーデ様」


 風が吹いた。

 桜の花びらが、はらはらと踊るように地面へ落ちていく。

 その様子を目で追いながら、エルフリーデ・イルーシャはぽつりと呟いた。


「そっか。わたしは殺すことでも、誰かを守れたんですね」


 これまでエルフリーデにとって戦うことは、不可避であり、顔も知らない誰かに強いられた戦いだった。

 少なくとも大陸間戦争での経験は、少女にとってそういうものだった――クロガネに望まれ、その意思に納得して戦いに赴いた今回の戦闘は、これまでと違った意味合いを持っている。

 自分の意思で敵を定めて、斬り捨てるということ。

 その罪悪を噛みしめるエルフリーデに対して、クロガネはお呪いのようにお決まりの言葉を述べた。


「お前の戦いはすべて俺の責任だ。お前が背負うべき罪などない……それを忘れるな」


 エルフリーデ・イルーシャが顔を上げる。怜悧な表情の男は、黄金色の瞳でじっとエルフリーデのことを見つめていた。

 数秒間、二人の間から言葉が失われた。

 深紅の瞳が黒髪の伯爵の顔を捉えて、やがて笑みと共にその両目が細められた。


「お優しいんですね、伯爵様は」


 冗談めかした言葉に対して、クロガネは生真面目な顔で頷いた。


「ああ、俺はお前には優しいつもりだ」


 エルフリーデは形容しがたい表情になったあと、何かを言おうとして――結局、何を言っても自分の負けみたいな気がしたので、何を言うべきかわからなくなってしまう。

 目を逸らして、少しだけうつむいて。

 ぼそりと呟いた。


「…………口説き文句?」


「この程度が口説き文句ならば、世の貴族は誰もが老若男女を口説き落とそうとしていることになる」


 またわけのわからない言い回しをしてきたな、この男。

 エルフリーデは少々呆れながら、この程度の台詞で照れてしまう自分が情けなくなってしまった。

 意を決してちらりとクロガネの顔を見る。いつも通りの平常心あふれる鉄面皮、顔の造形は抜群にいいのでそんな無表情でも絵になるのが反則だと思った。

 思わず抗議めいた言葉使いをしてしまった。


「人のことを犬呼ばわりする男がそれ言うのおかしくないですか? あなたにしては、その、言葉遣いが優しすぎるんですよ」


「……かもしれん」


 クロガネはエルフリーデの言葉を切って捨てることもなく、これまた生真面目に頷いた。

 エルフリーデは戸惑った。



――え、ここでそういう反応するのは反則でしょ!?



 およそ自称・恋愛博士とは思えない醜態である。

 どうすればいいのかわからず目を回す少女と、そんな自身の騎士の様子を慈しむように見守る主。それを後ろから見守るロイ・ファルカは、従者として最高にいい空気を吸っていた。

 自身の存在感を完璧に消してこその従者であり、したがって主人と少女騎士のやりとりに一切口を挟まないのも従者の務めなのだ。

 これほど美味しい立場もそうあるまい――金髪碧眼の美青年は、とてもいい笑顔だった。

 そんなこんなで一通り空回りしたあと、エルフリーデ・イルーシャは気を取り直したように、凛とした表情で顔を上げた。


「クロガネ。少しだけ、あなたの過去に触れさせてください」


「……いいだろう」


 エルフリーデが今その話をしようと思ったのは、それが彼自身と向き合う上で避けては通れない話題だからだ。

 ヴガレムル伯クロガネ・シヴ・シノムラは、その実、十万年の時を生きる不死者であり、数々のオーバーテクノロジーを残した先史文明種プリカーサーの生存者である。

 そんな彼が長年探し求め、葬り去ろうとしていた〈天の業火〉――〈ケラウノス〉の処理は無事に終わった。

 今ではこうしてヴガレムル伯領から離れても大丈夫なほどに、あの塔は無害なものになったのだ。

 ならば疑問は一つだけだ。


「あなたの懸念事項だった塔の問題は片付きました。これからどうするんですか?」


「……ああ、そうだな。実のところ、途方に暮れていると言ったらどうする?」


 この男らしからぬ物言いにびっくりして、エルフリーデはクロガネの顔を見上げた。身長百八十八センチの長身を礼服に包んだ紳士は、やはりいつも通りの怜悧な印象を抱かせる表情。

 まったく言葉では弱っているようなことを言うくせに、顔には全然出さないのだから可愛げがない。

 自分より二十三センチも背が高い男に対して、少女はため息交じりの苦笑をしたあと――自然と言葉がこぼれ落ちていた。




「そんなの――。そのために頑張る。それでいいんじゃないでしょうか?」




 不思議だった。

 あんなにも世界に、人間に対して怒っていたエルフリーデ・イルーシャが、こんな風に前向きな願いを言えるなんて。

 きっと一、二ヶ月前の少女だったならば、絶対に出てこない言葉だった。


 この世界は狂っている。

 理不尽と暴力が吹き荒れ、容易く彼女の大切なものを奪い去っていく嵐の時代。

 力あるものが大義や信念を棍棒のように振りかざして、市井に生きる人々を殴りつけて踏みにじっていく不条理。


 エルフリーデ・イルーシャはそんな世界が大嫌いだ。今でも怒りはある。この手に馴染んでしまった暴力を憎んでいる。

 けれど、彼女はもう知っている。

 この世界は嵐の中にあるけれど――それに抗うためだけに、孤独な戦いを続けてきた誰かがいることを。

 祈るようにエルフリーデは言葉を重ねていく。

 まるで愛を歌うように。



「世界は、人間は、決して正解を選べない。この世界は無限の過ちを積み重ねて、誰も教えてくれない正解を探し続ける迷路の中にある――わたしはそう思うんです」



 

 そう信じられるから、エルフリーデ・イルーシャは微笑みながらクロガネの一歩先を歩いて。

 おどけながら、そっと手を差し出すのだ。




「クロガネ・シヴ・シノムラ卿、エルフリーデ・イルーシャと一緒に――。あなたの過去がなんであれ、わたしが斬り伏せてみせるから」




 時間が止まったような錯覚――黒髪の伯爵は、目を見開いて差し伸べられた手を見つめていた。

 どれほど長い間、この世をさまよい歩いてきたのか、男はもう思い出すことさえしなかった。



――不死なる放浪者ノーマッド



 彼は限りなく人間を信じてきた。

 そして数え切れないほど、長い歳月によって裏切られてきた。多くの友と寝食を共にして、理想を語らい、その知恵を貸して文明の始まりを目にしてきた。

 あらゆる統治のためには権力が必要だった。

 だが、そうして作り出された権力構造に、人は容易く飲み込まれる。飢えぬ豊かな暮らしを目指した王国は、血なまぐさい謀略と暴力に彩られていった。

 誰しもが矛盾する現実と理想の狭間ですり潰され、やがて時代の徒花として消えていった。

 そしてクロガネは彼らのよき友にはなれても、その王として君臨することを許されはしなかった。

 不死なる知恵者、決して王冠を手放さぬ王など人は望まない。不死とは酸っぱいブドウであり、決して人の手には入らぬ異物、醜悪な世迷い言でなければならないのだ。



――そうでなければ、彼らの生はあまりにも苦しすぎる。



 その苦しみにすら意味があると信じなければ、この世はただの地獄だ――永遠を生きるクロガネの存在は、そういう理を信じる人間の世界にとって猛毒すぎた。

 わかっている。

 エルフリーデの言葉は、永遠を生きる彼の絶望など知らない、まだ二十歳にもならぬ子供の無邪気な祈りだ。



――それでもクロガネはたった今、自分が救われていることを悟った。



 黄金色の瞳に、言葉では決して言い表せない大きな感情を秘めて――うやうやしく少女の手を取った。

 喉から絞り出されるもの。

 それは嘘偽りなき魂の音だった。








「――ありがとう」









――桜の花が舞い散る季節の中。








――少女は花開くように笑った。












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