大ベガニシュの名の下に







――帝都コルザレム。




――ベガニシュ帝国首都にて。




 晴れ渡った空の下、まだ少し肌寒い空気が喉を通り過ぎていく。

 いにしえの時代から続く都には、数多くの歴史的建造物が残っている。巨大な帝国を統べるこの大都市は、数多の運河と放射状に広がった幹線道路によって結ばれており、それらすべての中心に巨大な城塞を擁していた。

 〈大宮殿〉と呼ばれるその施設は無数のビルディングを擁する帝都コルザレムの中にあって、それ自体が独立した都市であるかのごとく広大な敷地を持っていた。


 中世にこの地が開拓されて以来、幾度となく時の権力者の手によって荘厳な宮殿が作られ続け、神のお作りになった天球を讃える大聖堂もその数を増やしていった。

 それはすなわち、ベガニシュ帝国という国家の歴史そのものであり、その精神文化が物質世界に形を為したのだ――そう、讃えるものもいる。


 すべての宮殿と神殿を長大な城壁で囲い込み、見上げるほど巨大な城門によって区切った〈大宮殿〉の一角。

 皇帝近衛師団のバレットナイト〈ブリッツリッター〉――敷地内のため重火器こそ装備していないが、複合装甲の盾と鞘に収まったロングソードを装着している――が各所に配置されている中庭に、エルフリーデ・イルーシャの姿はあった。


「暇だ……」


 呟きが宙に消える。傷ありスカーフェイスの少女は、黒のスーツ姿の男装をして、この庭園を散策していた。

 中庭と呼ぶことさえはばかられるような、見事な庭園――まったく美術的素養がない人間が見てもわかるほど、色とりどりの花々がその蕾を開いている。

 どうやら春先に花を咲かせる種類だけを選別して、庭師が整えたらしい見事な美がそこにあった。



――わたしみたいなのがいるには場違いだなあ。



 こればかりは仕方がなかった。

 クロガネとその従者ロイと共に帝都までやって来たものの、〈大宮殿〉の建物の中には入れるのは相応の身分がある人間だけなのだという。

 まったく同化できていない被征服地のバナヴィア人で平民の英雄で今は伯爵家の騎士、えらく立場が難しいエルフリーデ・イルーシャは、〈大宮殿〉の敷地内には入れるが宮殿の建物には入れない、という微妙なポジションだった。

 従者であるロイは入れたあたり、やはりあの金髪碧眼の青年は貴族の出なのだろう。


 ヴガレムル伯領サンクザーレで起きた伯爵家と公爵家の紛争から二週間。戦闘の後始末が終わった今、ヴガレムル伯クロガネ・シヴ・シノムラは、帝都に召集を受けていた。

 ここに来るまでの道中、クロガネが語ったところによれば、情勢としては悪くない状況らしいし大事はないと思いたいのだが。


 それにしたって、庭を眺めて散策するだけで時間を潰せというのは酷だろう。そう思いながら庭を歩いていると、反対側から人が歩いてくるのが見えた。

 宮殿の中から出てきたらしいその人影は、壮年の紳士だった。

 年齢の割によく鍛えられた身体を包む将校の軍服、短く整えられた灰色の髪、柔和な笑み――その胸元の階級章が見えた瞬間、エルフリーデは反射的に敬礼をしていた。



――帝国陸軍の将軍!?



 おおよそ軍事大国の将軍というイメージに相応しくない、人懐っこい笑みを浮かべて、男が敬礼を返してくる。そして何を思ったのか、将軍の階級章をつけた紳士はエルフリーデに歩み寄ってくるではないか。

 その所作でわかった。


 向こうはこちらがどこの誰なのか認識している。

 エルフリーデはこれまで顔も見たことがない相手に、どこかで見覚えがあることに気づいた。

 たぶん特例で徴兵を受けて座学を叩き込まれていた頃、教科書に写真で載っていた人物――そこで眼前の人物が誰なのかに思い至り、少女は息を呑んだ。


「こんにちは、うら若きフロイラインエルフリーデ・イルーシャ。私はカール・トエニ、見ての通り帝国陸軍のものだ。君と顔を合わせるのは初めてだったと思うが、少し、時間を割いてもらってもいいだろうか?」


「もちろんです、閣下」


 カール・トエニ。

 若くして功績を重ねた平民出の大将軍であり、皇帝からの信任も厚いベガニシュ帝国の英雄。

 十五年前のバナヴィア戦争でバナヴィア王国を滅ぼした当事者とも言えるその男は、意外なほど覇気とは無縁の温厚な紳士のように思えた。

 ただ彼の灰色の瞳だけが、悪戯っぽい光を宿してエルフリーデを見ている。

 そんな男はニコニコと微笑みながら、いきなりこう切り出した。



「エルフリーデ・イルーシャ。軍に戻ってくる気はないかね?」



 まさか軍から切り捨てられた当人に向かって、こんな口説き方をしてくるとは思わなかった。

 呆気に取られたエルフリーデが言葉に詰まっていると、助け船を出すようにカール・トエニが茶目っ気たっぷりの笑顔を浮かべた。


「士官学校に通えるよう取り計らおう。今の君であれば、ベガニシュ帝国陸軍で初めての女性の将軍とて目指せる。なぁに、平民上がりの英雄ならこの通り前例があるからね」


「お言葉ですが、閣下。自分には今、守るべき家族がいます。その身の安全を保障してくださっているのはヴガレムル伯爵なのです。ですから――」


「君にもわかっているはずだ。ヴガレムル伯爵は決して、君の妹を害するような人物ではない。相応の対価を払えば、君たちを解放するだろう――それは我々が支払う。必要なのは君の意思だけだ」


 わからないことだらけだった。

 そんなにもサンクザーレで自分が上げた戦果は価値があるものだったのか。

 確かに単騎駆けで公爵家の軍勢を半壊させたのはエルフリーデ・イルーシャだが、実質的にとどめを刺したのは、ミリアム・フィル・ゲドウィンの駆るバレットナイトだった。

 軍部の影響力拡大の観点から見れば、功績をミリアムに集中させてしまう方が、よほど都合がいいだろうに。

 そのように首を傾げながら、エルフリーデは嘘偽らざる本音を口にした。


「……自分には、閣下がどうして、そこまでヴガレムル伯爵を信頼しているかがわかりません」


 少なくとも彼の裏の事情など知らずにその立ち振る舞いを見聞きするなら、野心家の貴族として警戒するのが、軍部の重鎮としての当たり前ではないだろうか。

 そう問いかけたエルフリーデに対して、カール・トエニはやはり人懐っこい笑みを浮かべて、好ましい人物について言及するように口を開いた。


「クロガネ・シヴ・シノムラ卿は。私は彼のそういう点を美徳だと思っているし、その行動は長期的視点で見てベガニシュ帝国にとって利益となるものだ。今回のように多少、我々の意図と行き違いがあったとしてもね」


「ミリアム・フィル・ゲドウィンを遣わしたのは閣下では?」


 この手で撃墜した元・副隊長のことを思い、少女は潔癖な疑念を――自分たちが殺し合わねばならなかった状況を作りあげたのが、目の前の将軍であることを突きつける。

 なんて生やさしいものではなかった。

 間違いなく世界を滅ぼせるだけの厄災を、ベガニシュ帝国の改革派は求めていたのだ。


 その尖兵として現れたミリアムと、クロガネの騎士としてそれを阻止したエルフリーデの殺し合いは、少しボタンが掛け違っていればどちらかが戦死していたであろう激闘だった。


 ただでさえ公爵家の軍勢から死者が出ているのに、それを一言で片付けられるのは面白くなかった。

 そういう少女の心の機微を読み取ったのか、カール・トエニは真剣な表情になって、じっとこちらの目を見つめてきた。


「ゲドウィン少尉の働きには満足している。療養が終わり次第、彼女には次の任務を任せたいと思っている――我々が必要としているのは、彼女のように有能な若者だ」


 その言葉に嘘はなかった。

 カール・トエニという人物は確かに心の底から、ミリアム・フィル・ゲドウィンを評価しているようだった。

 その瞳に宿った情熱の炎を見て取って、エルフリーデ・イルーシャは戸惑った。

 もし誤魔化しが少しでもあったのなら、会話を打ち切るつもりだった。だが実際に遭遇したのは、これまで少女が出会ったことがない類の、ごうごうと燃え盛るような熱だった。


「すべての痛みを礎として、我々にはよりよい未来を築く義務がある。そのために今は、一人でも多くの同志が欲しいのだよ」


「閣下。わたしはバナヴィア人です」


。この悪習に満ちた国を変えるために、エルフリーデ・イルーシャが必要だと私は信じる……本来、我々は同じ帝国の臣民として手を取り合うべきなのに、この国はそれができないでいる。変えねばならないときが来ているんだ」


 それはエルフリーデ・イルーシャが、クロガネの元で確かな戦果を上げた結果ではあるのだろう。この将軍の中で彼女の利用価値が想定を上回ったからこそ、こうして彼は恥も外聞もない引き抜きをかけてきている。

 そういう理屈はわかっているのに、その言葉に込められた熱量に圧倒される。


 それはまるで、鉱石を煮溶かす炉のような焔だった。心底、誰もが手を取り合える国が必要だと信じて、そのためにすべてを賭けて戦える人間。

 戦場の歩兵がバレットナイトの巨体に圧倒されるように、エルフリーデは今、巨大な思想的怪物を前にしていた。


「わたしは……模範的臣民とは言いがたい人間です、閣下。此度の事件で……つくづくそれが実感できました」


「エルフリーデ・イルーシャ。国家を強くするものが何かわかるかね?」


「いえ……強大な軍隊や、それを支える経済的な繁栄でしょうか?」


 それも正解の一つではあるがね、と言い置いてカール・トエニが笑う。

 彼はこの春の青い空の下、どこまでも続く大地の上に生きている万民を慈しむように目を細めた。



「私が思うに、それはだ――服従、無知、無関心、怠惰、卑屈、。真に偉大な祖国とは、従順だけを求めるものではない。正しく寛容な父のように民を抱擁するものなのだ」



 このときのエルフリーデには知るよしもなかったが、それこそがカール・トエニの思想家としての側面を象徴するフレーズだった。

 大ベガニシュ主義――ベガニシュの名の下に大陸の諸民族を統一し、一つの文明世界を構築して平和を築き上げる。


 それはどこまでも傲慢な覇権主義の表れであり、同時にあまりに多くに分かたれた民衆をまとめ上げようという、確固たる平和を願う意思でもあった。

 あるいはその思想こそが、ベガニシュ帝国皇帝にこの男が重用されている理由なのかもしれない。

 そんな熱意に満ちた言葉が、すぅっとエルフリーデ・イルーシャの耳朶に染みこんでいく。


「今まさに大ベガニシュこそが、その役割を果たすべきなのだと私は願っている。この国には直すべき箇所も多いが、紛れもなく民をまとめ上げる力を持った強国でもあるのだから」


 しばしの間、沈黙が降りた。

 左頬に大きな傷跡を負っている少女が、その赤い瞳で壮年の男を見つめた。

 ぽつり、と問いかけがこぼれる。


「……閣下の目指している大ベガニシュの理想の中に、の居場所はありますか?」


 大陸を飲み込まんとする壮大な理想、今まさに時代を動かそうとしている巨人を前にして、エルフリーデが思ったのは、身近な人々の抱えている傷跡のことだった。

 それは悔恨。

 エルフリーデ・イルーシャが愛おしく思う人々の誰もが抱いている感情。


 変えようがない過ぎ去った記憶が、彼らを責めさいなんでいた。決して消え去ることはないそれの痛みが、その心身を形作っているからだ。

 それは忘却されてはならない傷跡だ。

 時代を包み込む嵐が、容易く蹴散らしてしまうような痛みを、エルフリーデは見落としたくはなかった。



「――悔恨を覚えないのであれば、それは死んでいるのと同じです。きっと人間も国家も、そういう痛みを振り返ることの積み重ねでできているのだと、わたしは思います」



 カール・トエニは数秒間、沈黙した。

 初春を通り過ぎて、ようやく始まった春の風が吹く。柔らかな草木の香りが、二人の鼻先を通り過ぎていった。

 じっと灰色の瞳が少女の顔を見つめて、やがて理解の色を浮かべて頷いた。


「その果ては腐り落ちた手足にも気づかぬ生きた屍、か。中々、含蓄がんちくに満ちた言葉だ――君は今、自身の選択を後悔しているのかな?」


「いいえ」


 エルフリーデ・イルーシャは〈剣の悪魔〉であり、戦場で数え切れないほどの命を奪ってきた。

 たぶん彼女は機甲駆体バレットナイトという兵器システムに完全に適合した最初の世代であり、どうしようもなく他の人間と隔絶した英雄だ。


 どれだけエルフリーデが平穏な暮らしを望んだとしても、その事実から逃れることはできない。この手から取りこぼしたくない大切なもののために、少女は罪深い選択を続けてきた。

 懺悔する資格などないし必要もない――断罪のすべてを斬り捨てて、エルフリーデ・イルーシャは生きるだろう。

 だからこそ裏切りたくないものがあった。




「どうしようもない暗闇の中で、わたしに手を伸ばしてくれた人がいました。今はただ、その人の剣でありたい――それが、エルフリーデ・イルーシャの答えです」




 眼前の少女の答えを聞いて、満足そうにカール・トエニは頷いて。

 やはり人好きのする微笑みをその顔に浮かべると、ポケットから手帳とペンを取り出してさらさらと書き物をし始めた。

 そして壮年の将軍はページを破ると、連絡先の書かれたメモ書きを差し出してきた。



「気が変わったらいつでも連絡したまえ。我々はいつでも君の力になる」



 この期に及んで引き抜きを諦めていない姿勢に、「大物ってやっぱり違うなあ」と感心するエルフリーデだった。









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