いつかの赦し
「……帝国政府は、貴族同士のこんな紛争を見過ごすんですか?」
ドゥガリオ公爵による大規模な軍の動員――あくまでベガニシュ帝国陸軍とは異なる貴族領の軍隊だが――を知って、エルフリーデ・イルーシャが放った第一声はこれだった。
元々は貴族制が解体されていたバナヴィア王国の民であり、帝国に併合されたあとも帝国貴族というものを直に見たことはなかった少女にとって、不条理すぎる現実は飲み込みがたいものだった。
戦場で貴族将校の不合理さは幾度か目にしてきたが、それだって「伝統に固執しすぎる」とか「権威に対して弱すぎる」とか「単純に能力不足」とかの常識の範囲内である。
まさか皇帝陛下のご威光が照らし出している(もちろん皮肉である)ベガニシュ帝国の内部で、平然とその意思を無視して、自前の軍隊まで持ち出すとは思っていなかった。
しかしクロガネの方は顔色一つ変えなかった。あるいは以前からその兆候は聞いていたと見える。
「それが公爵家であり、ベガニシュ帝国の現状と言える。サンクザーレ森林地帯はヴガレムル伯領とバナヴィア自治区の境界線だ、言い逃れはできる」
クロガネの言葉を補足するように、不気味なブリキ缶の怪人が口を開いた。
「たとえば実弾を使った軍事演習、あたりがオーソドックスな建前でございます。うーん、これはピンチですね、いやはやヴガレムル伯爵の爵位を授って以来の苦難と言えましょう!」
「このカカシを黙らせる方法はないんですか?」
「失礼な。私はクロガネ様と堅く同盟を結んだ人工知能、共犯者ですよ? その絆は超硬度重斬刀の特殊合金よりも固いのです」
ブリキ缶の紳士こと機械卿ハイペリオンの言を聞いて、エルフリーデは露骨に嫌そうな顔になった。
歌って喋って踊れる機械人形という異様な物体も、こうしていると段々見慣れてしまうのが恐ろしいところだ。たぶん伯爵家の人々もこうして慣れっこになった挙げ句、エルフリーデの前では存在を匂わせもしないほど感覚が麻痺していったのだろう。
絶妙に鬱陶しい存在である。
少女は心からの忠告を伯爵に投げかけた。
「クロガネ、友達は選んだ方がいいですよ……」
「エルフリーデ、今回の紛争が見過ごされている理由がわかるか?」
クロガネは機械卿ハイペリオンの存在そのものを無視し始めたようだ。そんなに鬱陶しいなら使わなければいいのでは、と思ったが「野放しにして敵に回したらもっと面倒くさいタイプなんだろうな」と一瞬で悟る。
たぶん今、エルフリーデとクロガネはかつてなく通じ合っていた。
投げかけられた問いかけに対して、今まで見聞きした物事を整理してみる。
まず現在、ベガニシュ帝国は敵国との間に停戦協定を結んだばかりで、和平に向けた交渉をしている最中である。これは軍部の主流派――反攻作戦で敵国の遠征軍に大打撃を与えることに成功した――と皇帝の意思である。
単純に考えて皇帝とそれを支える官僚たち、そして軍部は和平の成立を願っている。ベガニシュ帝国の立て直しをするのであれば、ここで戦争を終わらせる方がマシだと判断しているのだ。
一方、貴族派と呼ばれる門閥貴族――血縁や主従関係を基準にした人事で権力を握る上級貴族たち――はそうではない。
此度の大陸間戦争の発端となった紛争を引き起こし、開戦後の劣勢状態の原因と目されている彼らは、戦後が始まれば確実に責任を追及される立場だ。
最悪の答えが見えてきた。
「……今が和平交渉の真っ最中だからこそ、ベガニシュ帝国は国の内側で争っているなんて事実を認められない?」
エルフリーデの答えに満足したように、黒髪の青年――見た目は少なくとも若い成人男性だ――は頷いた。
これで十万歳の神話的若作りとは、人は見た目でわからないものだなあ、と思う。だいぶふわふわした少女の雑感に気づかず、クロガネが補足するように口を開いた。
「そういうことだ。そして貴族派は和平交渉が打ち切られてもいいし、〈天の業火〉を手にして再び帝国を掌握できてもいい――武力行使を決断した時点で、状況の主導権はドゥガリオ公爵の側にある」
「破れかぶれになってるバカの開き直りじゃないか、そんなの……!」
「エルフリーデ様、如何に敵対しているとはいえ公爵家にバカとは……危険な表現です。以後、お気をつけください」
金髪碧眼の従者、ロイ・ファルカに注意されてしまった。
ここまで豪快にあらゆる法と秩序を無視している連中、バカ呼ばわりして何が悪いんだ、と思う。しかし最終的には貴族社会の悪意からエルフリーデを守るための忠告なのもわかっていたので、渋々、頷いた。
映し出されたのは、巨大なコンテナを満載した貨物列車が、バベシュ大河にかけられた巨大な橋――鉄道橋を通っていくのが見えた。
コンテナのサイズに、エルフリーデは見覚えがあった。
ベガニシュ帝国は複雑怪奇な皇帝と貴族の二重支配体制にあるが、鉄道網や高速道路を整備する上では奇跡的に規格統一が行われている。
これは大陸連絡網の整備をした当時の皇帝の権力が強かったこと、貴族社会がこういった比較的歴史の浅い交通インフラの利権に疎かったことが原因である。
つまり鉄道を使った物資の輸送は極めて効率的なのである。
言わば帝国の物流網の大動脈というべきものを、ドゥガリオ公爵家は私的な紛争に悪用しているのだ。
輸送されているのはベガニシュ帝国陸軍ではなく、あくまでドゥガリオ公爵家の私設軍隊だというが――
「――本当に、戦争になるんですね」
「そうだ。エルフリーデ、お前の力を貸せ」
「わたしはすごく強いですが、それだけの兵士です。軍隊を一人で殲滅なんてできない。勝ち目はあるんですか、伯爵閣下」
クロガネの言葉に対して、エルフリーデはひどく冷静だった。
この男――クロガネ・シヴ・シノムラの正体はわかった。恐ろしい兵器を解体したいという言葉にも嘘はあるまい。だが、命がけで戦う以上、勝利するための目標ぐらいは聞いておかねばならなかった。
「奴らの目的は〈天の業火〉――自在軌道戦略熱線砲〈ケラウノス〉だ。現在、サンクザーレ森林地帯に露出してる砲身と、その地下に広がる制御施設を手中に収めることが敵の勝利条件と言える。ドゥガリオ公爵軍も長期戦をする余裕はない。帝国軍の本格的な介入が始まる前に、〈ケラウノス〉を手に入れねばならないからだ」
「短い間、敵の猛攻を凌げばいい……ってことですね」
エルフリーデは一瞬、納得しかけた。如何にヴガレムル伯領の軍備に比べてドゥガリオ公爵軍が強大であろうと、時間的制約に縛られているならば戦術を練る余裕はない。
それならば遅滞戦闘もやりようはあるだろう。
しかし何かが引っかかった。たぶん見落としてはいけない何かがある。これまでのクロガネとの会話で出てきた要素を思い返して、ふと違和感に気づいた。
一度気づいてしまうと、それは無視できない歪みだとわかってしまう。
エルフリーデ・イルーシャは眉をしかめて、お腹の中に横たわった据わりの悪い感覚を言葉にしていく。
「……ちょっと待ってください。あなたが〈天の業火〉を危険視していることも、敵の狙いが〈天の業火〉なのもわかりました。でも……アレが先史文明種の特別な遺跡だってことはベガニシュ帝国にも伝わっているはずです。この事件の落としどころはどこになるんですか?」
「…………お前が知る必要はない、犬」
露骨すぎて怒る気にもならなかった。いや、少しむかっ腹は立ったが、都合が悪い話題に触れられたのだということは、誰にだってわかる。
クロガネの様子はかなりおかしい。
前々からエルフリーデの前だと態度が悪い男だったが、今日は極めつけだ。
こういう状態の人間に対して、エルフリーデは見覚えがあった。妹を人質に取られて、戦地で送り込まれていた頃の自分がちょうどこんな感じだったと思う。
背負わねばならない何かを抱え込んで、無理をしてでも気丈に振る舞って、死地へ赴く人間の嘘のにおい。
クロガネは憮然とした表情のまま、静かにこう言った。
「すべてだ。すべて俺が救う。お前はただ俺の手足になればいい。その過程で生じる罪悪は俺が背負う」
「エルフリーデ様、今はこのぐらいでお引き取りを――」
エルフリーデの怒りの気配を感じ取ったのか、従者ロイ・ファルカが口を挟んでくる。しかしながら少女の勘が告げていた。
ここでうやむやにしてしまったら、きっと自分は後悔する。
ごめんなさい、と心の中で謝りながら、エルフリーデはあえてその心遣いを
「クロガネ。あなたの思考なら、わたしにも推測はできる。あなたは公爵家にも帝国にも、〈天の業火〉を渡せない。だから誰にも言えないような危険の高い作戦を取ろうとしている――違いますか?」
「正解だ。エルフリーデ・イルーシャ――ティアナ・イルーシャの保護をしている以上、お前にも契約は果たしてもらう。これ以上のやりとりに意味はあるまい?」
露骨だった。
何故だろう、ああ、今になってようやくわかってきた気がする。
エルフリーデと話すときクロガネはいつも露悪的で意地悪な物言いをするが――あれはたぶん、後ろめたさがそうさせているのだ。
その感情の名前は、きっと罪悪感だ。
自分と向き合っている男の顔を見つめる。眉一つ動かさない表情、整った顔立ちに苛立ち一つ浮かべない冷然とした態度。
だけどそう短くもない間、その様子を見てきたエルフリーデ・イルーシャには、その裏側にある彼の真意がわかってしまう。
「意味ならある。わたしには、あなたの意思を確認する義務があるから」
「……ベガニシュ帝国が〈天の業火〉を手にすれば今以上の惨劇が引き起こされるだろう。お前たちバナヴィア人の苦難の原因はなんだ? 民族の優劣など存在しない。すべては人が犯し続ける過ちの産物だ――人々は差別を自明のものとしている。搾取することを当然のように思い、遺跡から吐き出されるオーバーテクノロジーに浸りきって科学技術を進歩させようともしない。一人でも多くの人を救えるはずの
とても帝国貴族の言とは思えない直球の体制批判――以前のエルフリーデならば呆然とするか、あまりの厚顔無恥に怒るかしたかもしれない。
少女には想像もつかない悪夢の中を、この男は歩いてきたのだ。
思えばすべてがおかしかったのだ。
ふらりとバナヴィア王国時代のヴガレムル市に現れ、企業グループを急成長させた外国人――帝国に併合されたあとは帝国貴族として振る舞い、この地のすべての利権を守りきった野心家。
あるいはバナヴィア王国の滅亡に手を貸した売国奴、ベガニシュ帝国の伝統ある貴族への挑戦者、科学技術の未来に投資する
ヴガレムル伯クロガネ・シヴ・シノムラはあまりにも多くの顔を持っていて、そのどれもが真実であり、同時にこの男の本質ではない。
何故ならば、エルフリーデ・イルーシャが見てきたクロガネという男は、どうしようもなく真面目で優しい人だったから。
「――この世界は地獄だ。こんなにも歪みきった文明、何もかもがおかしくなって歯止めが利かない世界になったのは、十万年という時間がありながら何もなし得ていない俺の責任だ」
息を呑む。
栗色の髪を揺らして、エルフリーデは男の黄金色の瞳を見つめた。
例えようもない悔恨があった。絶望があった。悲嘆があった。長い長い年月によって男の中に刻み込まれた歴史の
その神話的ですらある後悔の情は、エルフリーデが生まれ落ち、こんなにも彼女を傷つけてきた世界への懺悔でもあった。
ああ、とびきり頭にくる。
「――ふざけないで」
ここで怒ってしまうのは自分の悪い癖だな、と頭の中では思っている。
しかしエルフリーデはこう思うのだ――今怒らなかったら、一体誰が、この不器用すぎる男のために怒ってやれるのだろう、と。
金髪碧眼の従者はいつだってクロガネの意思を尊重するだろう。ブリキ缶の紳士は野次馬根性丸出しで、二人のやりとりを楽しげに見守っている。
その胸中がどうあれ、クロガネの部下は、絶対にこの伯爵の意思を裏切ったりはしない。
ゆえに決めた。
猫科の猛獣がそうするように、エルフリーデは一息で間合いを詰めた。
――真っ赤な瞳が、黄金色の瞳を覗き込む。
クロガネの胸ぐらを掴み、ぐいっと引き寄せて、エルフリーデ・イルーシャは強く睨み付けた。
視界の隅で、金髪の従者をブリキ缶の紳士が押さえているのが見えた。主人の襟首を掴まれたら普通は怒るだろう、それが従者というものだ。
むしろニコニコしてる雰囲気で見守っている機械卿ハイペリオンの方が不気味ですらある。
彼らはどうでもいい。
許せなかったのは、この男がこの世界を哀れんでいることだ。どうにもならなかった歴史の歩みを
この苦痛と暴力に満ちた文明が、まともな世界だなんてエルフリーデは思わない。今だってこんな世界は間違っていると怒っている。父母が虫けらのように踏みにじられて、たった一人残った妹すら、ボタンが掛け違っていたら陰謀の犠牲になっていただろう。
すべて間違っている。こんな世界は狂っている。この時代は犠牲を生み続ける。
だが、その責任すべてが、たった一人の人間に集約されるなんてバカな話があってたまるか。
――わたしは認めない、そんな理屈は絶対に。
エルフリーデ・イルーシャは怒りをみなぎらせた赤い瞳で、黄金色の瞳を見つめた。その知性を湛えた光が、どれだけ多くの業を背負ってきたのか少女は知らない。
彼女が垣間見た景色は、結局のところ偶発的な事故で知ってしまった、クロガネという男の過去の断片でしかない。
十万年という気が遠くなるような時間、どんな気持ちでクロガネ・シヴ・シノムラが生きてきたかなんて――わかるはずがなかった。
だがきっと、他人の生とはそういうものなのだろう。
同じ時代、同じ土地に生きたところで、想像できない痛みはいくらでもある。
ゆえにエルフリーデが吐き出すのは、この世界を生きる一人の人間としての想いだった。
「惨めでも、哀れでも、わたしの生き方と死に方は自分だけのものです。それがどんなに救いがなかったとしても――神様みたいな誰かに救いを請うたりはしない。この世界が痛くて苦しくて悲しいものだとしても、あなた一人に背負えるはずがないんです」
クロガネがじっと自分を見ている。
黒い髪。黄金のような瞳。生真面目に結ばれた口元。背が自分より高いせいで、胸ぐらを掴んでいる今でさえ、その顔を見上げなければいけないなんて。
つくづくいけ好かない男だと思った。
特に自分を犬呼ばわりする
――ああ、だけど。
――それだけではないって、わたしはもう知っているから。
エルフリーデ・イルーシャの赤い瞳にうっすらと涙がにじむ。
確かにあの日、冬の名残が色濃い夜空の下で――少女はこの男に救われたのだから。
何もかもを背負おうとして、一人きりですべてに対して懺悔するような生き方なんて、クロガネにして欲しくなかった。
ああ、どうすればこの思いは伝わるのだろう、と考えて。
言葉を紡いだ。
「哀れみなんか要らない、わたしがこの世界に生まれ落ちたのは――この世が地獄だからじゃない!」
男の目が見開かれた。
ぽたり、と少女の頬を涙がしたたり落ちる。
二人の視線が交錯する――まだ二十歳にも満たない少女と、十万回の冬を越えた男。バナヴィア人と
何もかも遠くて、わかり合おうとするなんて行為が無意味に思えるほど、二人はあらゆる属性がかけ離れていた。
それでもなお、この言葉に意味があるとエルフリーデは信じた。
――ああ、こんな当たり前のことも、あなたは見失っていたのか。
人はこの世が楽園だから生まれてくるのではない。幸福になるために生まれてくるわけでもない。
何も得られず、何も与えられないとしても、生命とは生まれてしまうものなのだから。
せめてエルフリーデは、今この瞬間、胸の中にある願いを伝えようと思った。
「クロガネ、少しだけでも――あなた自身を
少女の涙に、心打たれたのか。
それとももっと原始的な感傷によるものなのか、男には判断がつかなかったけれど。
その刹那、確かにクロガネはこう応えていた。
「――善処しよう」
「また、それなんだ」
くすり、とエルフリーデが笑う。
はにかむような微笑みは、少女がとても美しいことを男に思い出させていた。
ただ、美しいと感じた。
その感情の意味を知らぬまま、男は目を細めた。
――祈るように、刻み込むように。
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