偽りの世界
――夜空に輝く星を信じるな。
――星々とは天球に描かれたまやかしの輝き、実体なき幻影に過ぎない。
有名な天文学者の言葉である。
この大地と海原が世界の中心であり、太陽も月も星々の光もその周囲を巡っている――天動説は科学的に正しいことが立証されている。
世界を記述する真理は単純明快で美しい。
天は球形であり、我々の住まう星もまた球形であり、すべては
天体の質量から割り出される本来あるべき重力に比べて、この世界に作用している重力の影響はずっと小さい。何らかの超自然的な力が作用していると、科学的検証をすればするほど明らかになっていく。
人知の限界を知らしめるがごとく、神秘は尽きない。
それがエルフリーデ・イルーシャの生きるこの星の常識である。
「人の手で作られた大地と海原、限界高度百万キロメートルの天空――それがこの閉じられた世界の姿だ。これは今の時代の科学的見解で明らかになっている。ここまでは問題ないな?」
「ちょっと待って、この流れでそれを言い出すってことは……」
「そうだ。お前たちの神話で語られる
大地と海原、天空の果てをお作りになった
エルフリーデ・イルーシャの母親もまた、そういう信仰の厚い人だった。今のエルフリーデの人格は、開明的で科学的知識を尊んだ父親の影響が大きいけれど――そういう世界観そのものは深く少女の中に根付いている。
しかしその存在そのものが人工物となると、俄然、話が変わってくる。
「……えっと、それってつまり、空も海も大地も何もかも、大昔の人間が作りあげた作り物ってこと?」
「そういうことだ」
とんでもないホラ話だ、と切って捨てられればよかったのに。
あるいはこの与太話を始めたのが他の誰かだったなら、奇想天外な空想科学小説のアイデアとして少女は評価したかもしれない。
しかしそれを語るのがあのクロガネ・シヴ・シノムラ――口が悪いけれど、今まで嘘らしい嘘をついたことがない誠実な伯爵様――となると話は変わってくる。
エルフリーデ・イルーシャは困惑しきって、視線を宙に泳がせた。
「いきなり、あなたが、その…………超古代文明の生き証人だなんていわれても、困ります。突拍子もなさすぎる」
「そうだ。はっきり言ってオカルトかぶれの貴族の妄言にしか聞こえないだろう? 今まで俺がお前に事情を説明しなかった理由は、第一に信じられないからだ」
「……別に、あなたが嘘をついていると思ってるわけじゃない、です。ただ少し、わたしの知ってる常識とかけ離れているから、びっくりしただけ……信じます、あなたのことを」
そうか、と呟いてクロガネが目を閉じる。
黒髪の貴族は、遠い遠い昔を回顧するように言葉を紡いだ。
「人類がここまで復興するのに、十万年かかった。過去にあの兵器――〈ケラウノス〉が使用されたことで、土壌の微生物までもが致命的なダメージを受けた影響だ。環境再生プログラムの適応によって、一度、この大地は生まれ直したと言える」
十万年。
そこまで行くと歴史の生き証人というより考古学の領域ではないだろうか。
想像を絶する数字を出されて、エルフリーデは思わずうめいた。
「えっ、天文学的若作り――」
「せめて不老不死と言えないのか? 俺も老人扱いは傷つくのだが……」
ちょっと傷ついたような口調だが、クロガネは真顔でそんなことをのたまった。どうしよう――冗談で言っているのか本気で言っているのか、判断に困る。
動揺しっぱなしのエルフリーデは唖然として呟いた。
「急に繊細な年頃の子みたいなこと言い出したな、この人……」
「お前の中で俺の扱いがどうなっているのかは疑問だが……お前はおそらく、情報体に転化されたとき、この世界に遍在するエーテル粒子の記憶領域と繋がったのだろう。そこでお前が見た景色は事実だ。先史文明種を滅ぼした〈天の業火〉は実在し、俺はその元凶を射殺したが……何もかも手遅れになった」
白いシャツを着ている少女は、クロガネの言葉を噛みしめて思案にふけった。
小難しい専門用語の意味はさっぱりだが、自分が見ていた悪夢は現実に起きた事象だった、と彼は認めた。
つまり細かい経緯はさておいて、大昔、
終末神話で謳われる神罰、罪人たちの都を焼いた〈天の業火〉は実在しており、現在サンクザーレ森林地帯にその姿を現している。
そして先ほどまでの会話の内容から察するに、クロガネ・シヴ・シノムラはそれを追い求めてきたようだ。最悪の事態も想定しながら、エルフリーデ・イルーシャは男の目を見て問いかけた。
「……クロガネ、これだけは教えて欲しい。あなたがわたしを取り込もうとしたのは、あの恐ろしい……都市を焼いた光があるから?」
少女の真剣なまなざしを受けて、クロガネは真っ正面からそれを見つめ返した。黄金色と緋色の瞳が互いを映し合い、数秒間、誰にも立ち入れない沈黙が生まれた。
黒髪の男は、頭一つ分は小さい少女と視線を交錯させながら、ゆっくりと口を開いた。
自らの決意を言の葉に乗せるように。
「……俺の目的は古代兵器〈ケラウノス〉の完全な破壊だ。その障害を排除するために、俺はお前を必要としている」
はぁ、と安堵の息を漏らすエルフリーデに、クロガネは少し心外そうだった。鉄面皮という感じの怜悧な表情は不変だが、目線がそんな感じがする。
その言外の抗議に気づいて、栗毛の少女は困ったように肩をすくめて笑う。
「そんなに責めないでください。わたしだって恐ろしい兵器を前にしたら、緊張ぐらいするんです」
「責めてはいない。俺が権力欲や独占欲であのような大量破壊兵器を求める人間だと思われていたなら、それは俺の不徳が為せる業なのだろう」
「そういうの、非難がましく聞こえますよ」
「……かもしれん」
――この男、言葉に詰まるとかもしれんに逃げるなぁ。
これまでのクロガネの言動の振り返ると、存外、感情がわかりやすい男なのかもしれない。そのようにエルフリーデが納得していると、二人のやりとりを見守っていた家令――ブリキ缶を被ったような怪人、機械卿ハイペリオンが口を開いた。
調子の外れた陽気な大道芸人みたいなやかましさで、彼はとんでもないことをのたまった。
「さて、エルフリーデ様と旦那様が親睦を深めたところで定時連絡です。現在、ヴガレムル伯領に向けてドゥガリオ公爵の戦力が集結しつつあります。鉄道橋が借り上げられ、バベシュ大河を渡ってベガニシュ側から大規模な機甲戦力の流入が始まっています」
不吉すぎる内容に、エルフリーデ・イルーシャは真顔になった。
「――えっ?」
◆
「この世界は偽りのものであると主張する学者がいる。天体運動の計算され尽くした見事さと、計算で求められる重力の大きさが噛み合わぬ整合性のなさ――真実に従わぬ世界など、悪魔のささやきで作られたまやかしに過ぎない、とな」
椅子に腰掛けた老貴族が、そう独りごちる。
季節は初春だが、海から遠い内陸部にあるこの地では、まだまだ寒冷な風が吹いていた。
領地では多くの平民が重ね着をして、寒々しい風に耐えながら春の訪れを祈っていたが――もちろん、この老貴族の住まう屋敷にそのような情緒は無縁だ。
広々とした屋敷は歴史あるベガニシュ貴族の風格を漂わせており、その内部はまるで宮殿のような華やかさすらある。数多くの臣下を従え、座するその姿は国王のような威厳に満ちていた。
事実、中世には公国として一つの国だったこともあるその地はこう呼ばれていた。
――ドゥガリオ公爵領、と。
ベガニシュ帝国南部――大陸を横切るように走った大山脈によって隔てられながらも、確かに他国の領土と接している地域。
その一角を埋め尽くすように、ドゥガリオ公爵領は存在していた。大陸南方の大国が有する山岳猟兵と睨み合い、高地の領有権を巡って領土紛争が絶えぬ国境沿いの要衝である。
ベガニシュ帝国がまだベガニシュ王国だった時代、敵対する諸部族連合や無数の王国に睨みを利かせ、必要とあらば攻め滅ぼすこともしてきた支配者の血族。
それがドゥガリオ公爵ガトア家であった。
その現当主である男は、中央集権化と近代国家への歩みを進める帝国の中に未だ存在する、古い時代の遺物であり――紛れもなく戦乱の世を生き抜いてきた王の末裔だった。
豊かな髭を蓄えた老貴族が、厳かに自らの本意を述べた。
「傲慢だが真理を突いた金言と言えよう――真理に従わぬ世界など存在するに値せぬ」
傲岸不遜な物言いは、この地を統べる大公爵たる男の精神世界を一言で体現していた。
ベガニシュ帝国とは貴族の国であり、皇帝と官僚とはそれを回すシステムの一部に過ぎず、真なる支配者とは門閥貴族に他ならない。
巨大な権力を握り、絶対的な暴力を振るい、何者も抗えぬ恐怖で異民族を支配する――古きベガニシュの原理原則を体現したかのごとき振る舞い。
ドゥガリオ公爵ガトア家を統べる男の世界観は単純明快だ。
――この世界は狂っている。
奇しくもそれは、貴族と暴力を憎んだエルフリーデ・イルーシャと同じ結論だったが、その理路は大きく異なっていた。
正しきありようから外れ、亡国への道を歩むベガニシュ帝国を憂えて嘆く――そういうありようから放たれた、今ここにある現実への痛罵こそがその真意である。
かの公爵にとって人間とは貴族であり、貴族とはガトア家に連なる門閥貴族のことであり、正しきベガニシュとは貴族を頂点として下々を統制する形態そのものなのだ。
その瞳の中に平民などいない。
これは公爵の視座の狭さを意味するのではない。
暴力と恐怖と利益によって統べられる古きベガニシュにあっては、民の存在を意識に上げること自体が惰弱の証なのだ。
税を納め、労役に就く家畜として下々の民は必要不可欠である――だが家畜の顔色をうかがい、明日の生き方も決められぬものを人間と呼べるだろうか?
――答えは否。
この古きベガニシュ貴族にとって、群衆とは統治の
今、ドゥガリオ公爵ガトア家の現当主たる男が見ているのは、
ヴガレムル伯領に侵攻してサンクザーレ森林地帯で紛争を巻き起こしたのは、彼の臣下の一人であり、その子飼いの兵たちだった。
最終的に全滅したものの、彼らは無事に役目を果たしていた。すなわちヴガレムル伯領内に存在する遺跡――先史文明種の〈封印〉を暴き立て、秘匿されていた古代兵器の所在を明らかにしたのだ。
「神の恩寵だ。ベッカーは最後にその役目を果たした――ヴガレムル伯が動いていたことも、ここに至っては儂に確証を与えてくれた」
彼の前にかしずく臣下たちを前にして、公爵は散っていったものたちの功績を讃える。
老貴族はその敵対者であるヴガレムル伯クロガネ・シヴ・シノムラを、正しく評価していた。卑しい成り上がり者だが、むしろこの短期間に伯爵の地位にまで駆け上がったものが無能者であるはずがない。
ガトア家が長年、探し求めた先史文明種の遺産――〈天の業火〉の所在を探っていたことからも、その有能さは明らかだった。
まったく厄介な敵である。
此度の大陸間戦争で、彼が主導する上級貴族の集い――貴族派は大きくその威信を低下させた。これに乗じて下級貴族や平民出の軍人、そしてその背後にいる官僚たちが権力を握ろうと企てているのだから、堪ったものではない。
くだらぬ権力闘争である。完成されたベガニシュ帝国というシステムを、皇帝も官僚も軍人も進んで壊そうとしている。
真っ暗闇の断崖絶壁へ突き進むことが、改革であるはずがないというのに。
強い信念の元、ドゥガリオ公爵は言葉を重ねていく。
「かつてこの大陸を焼いた大災害があったことは、帝国の研究でも明らかになっておる。先史文明種の遺産とは、その天災を生き残った文明の残骸だという学説を唱えるものもおった。今まで軟弱な学者どもの戯言だと思っていたが……」
公爵の言葉を受けて、臣下の一人が頷いた。
ドゥガリオ公爵の私設軍隊を率いる男は、ベガニシュ帝国の退役軍人だった。帝国で士官教育を受けた将校であり、ドゥガリオ公爵ガトア家に絶対の忠誠を捧げている忠臣だ。
「罪深き都を焼いたという〈天の業火〉、その実在が確認されたのですね」
うむ、とドゥガリオ公爵は頷いた。
どんなに情報を封鎖しようとヴガレムル伯爵が試みようが、天を突く巨塔の存在はすでにガトア家の情報網に引っかかっている。
あちこちに潜り込んだ密偵による情報網は、大貴族の盟主たるガトア家の資産だ。
〈天の業火〉の実在証明に至ったベッカーたちの襲撃も、元々はヴガレムル伯爵の遺跡好きに関する情報を精査した結果に他ならない。
厄介な英雄エルフリーデ・イルーシャも行方不明になったのだから、決して無駄死にではなかった。この時点でエルフリーデの生存を察知できなかった彼らは、そのように今回の一件を評していた。
「ベガニシュ帝国は貴き血によって支配されねばな。民は愚かで見境がない。彼らの我欲に任せていれば、百年も経たずに国は食い尽くされよう。これは我らの危機に神より与えられた啓示に他ならぬ」
「然らばアルフレッド様」
すでに準備はできていた。
ドゥガリオ公爵の名の下に大陸連絡網を構成している無数の鉄道網が借り上げられ、武器弾薬を満載した貨物列車をヴガレムル伯領の近隣まで移動させる手はずになっていた。
公爵領でこれまで養われていた将校と兵士たちに命令が下り、その私設軍隊が動員されつつあった。
軍事演習を名目として陸上駆逐艦の移動も始まっている。ドゥガリオ公爵の影響下にある貴族の領土を伝って、大量の人員と物資がヴガレムル伯領に集結しつつあるのだ。
それはベガニシュ帝国が皇帝と貴族の二重支配を敷いているがゆえに起きる、必然的な暴走であった。
最早、何者も彼らを止めることはできない。
「ガトア家当主アルフレッド・エル・ガトアの名において命じる。目標はヴガレムル伯領サンクザーレ――進軍せよ、蹂躙せよ、〈天の業火〉を奪い取れ! 戦争こそが、我らを生かすのだから!」
――こうしてもう一つの戦争が始まる。
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