圧制者/解放者/犠牲者
――遠くで何かが燃えている。
もくもくと上がる黒煙に目を見開くエルフリーデと対照的に、少女と向き合って後部座席に座るクロガネは悠然と構えていた。
黒髪の貴族は表情一つ変えていない。
「……停止中の工場か。想定の範囲内だな」
ロイ・ファルカは車に備え付けられた無線機を手にして、何者かと言葉を交わしている。
聞こえてくるのは「爆弾が仕掛けられた」「死傷者は出ていない」「点検作業で休止中の工場が狙われた」といった無線の向こうからの報告だ。
ここ半日ほどの気楽な街の名所巡りが嘘みたいに、張り詰めた空気が車内に漂っている。
「現場は封鎖しろ。囮爆弾の可能性がある」
御意、と応えるロイ・ファルカを横目に――クロガネは眉一つ動かさず、淡々と指示を出していた。
エルフリーデは状況を整理した。
何者かがミトラス・グループ(ヴガレムル伯領を本拠地にする企業グループだ)の工場に爆弾を仕掛け、クロガネはそれが起きることを予期していた。
まるで爆弾テロの下手人も、その目的も、何もかもを知っていたみたいに。
自動車はいつの間にか、ミトラス・グループの本社ビル――午前中に紹介された巨大な高層ビルだ――の地下駐車場に止まっていた。
厳重なセキュリティに守られた場所だ。分厚い防弾装甲が積層されたドアが勝手に開く。
「降りろ。俺はこれから事件の対応をする」
エルフリーデはよろめくように立ち上がって、車を降りた。
クロガネとロイも車を降りた。主従二人の顔に動揺はなく、すべて想定済みの事態だったと言いたげだった。
少女はようやく、自分がお気楽すぎたことを悟った。
「わたしのせい、ですか?」
呆然と呟いた。
爆弾テロ――思い出したのは、父と母が帰ってこなかった日の出来事だ。
忌まわしい記憶だった。
――ティアナを助けたから、この街の工場が報復に狙われた?
少女の罪悪感のにじんだ声に、クロガネは即座に答えた。
否定の言葉を携えて。
「違う。――すべての責任と罪悪は、俺のものだ。何一つとして、お前が背負うべきものはない」
それはたぶん、クロガネなりにエルフリーデを気遣っての発言だった。にもかかわらずそれが少女の逆鱗に触れてしまったのは、ほとんど事故と言ってもいい。
伯爵の言葉を聞いて、エルフリーデ・イルーシャは目を細めた。その表情は安らぎからほど遠く、剣呑な光を赤い瞳に宿している。
「……傲慢だ。あなたはこの世の王にでもなったつもり?」
エルフリーデがそう呟いたときだった。
いつも通りの柔和な微笑みを消して、クロガネの従者ロイ・ファルカが一歩、前に出てくる。
常日頃、自己主張というものをしない彼らしからぬ態度――青年の喉から放たれたのは、感情の乗っていない警告だった。
「エルフリーデ様、それ以上の旦那様への暴言は看過しかねます」
「ロイ。今はいい」
「……旦那様」
ロイは主人への忠誠心と正義感の狭間で、一瞬、その顔を曇らせたあと――即座に表情を消して、再びクロガネの後ろに下がった。
彼はプロフェッショナルだから、自分自身の感情すら抑え込んだのだ。
たぶん彼はずっと、エルフリーデより大人だった。どこか他人事のようにその光景を眺めていた少女に、黒髪の貴族は声をかけた。
傲岸不遜に、何もかもを受け止めるとでも言いたげに。
「いいだろう、俺の時間をお前に使おう――エルフリーデ、お前の怒りを聞かせてみろ」
わかっていた。
それはたぶん、どうしようもなく不器用な優しさだ。
けれど一度、火がついた激情は収まってくれなくて。
――何様だ、この男。
深呼吸する。
精一杯の皮肉な笑みを浮かべて、冷たい声で本音をぶちまけた。
「不幸自慢ならありきたりのしかありませんよ――野良犬のように死ぬのが当然だと言われるのがバナヴィア人です。友達がリンチされて殺されても、警察は犯人捜しなんてしてくれない。ベガニシュ人なら治療して貰える病気を医者が診てくないのは当たり前――わたしの祖父母はそうして死にましたよ」
「…………そう、か」
ああ、どうして。
どうしてよりによって、ベガニシュ帝国の伯爵だなんて雲の上の人間が、そんな風に辛そうな顔をするのだろう。
みしり、と胸が軋む。
今までずっと蓋をしてきた思いが、熱に浮かされたみたいにあふれてくる。
記憶。
優しく微笑む父の笑顔。
しっかりものの母のお日様みたいな笑顔。
もうこの世のどこにもないものが、意識に浮かび上がる。
「わたしの父は教師でした。バナヴィア人の教師……国が滅んで、ベガニシュに併合されて、真っ先にその影響を受けた職業です。昨日まで教えていたことが間違いになって、偉大な征服者の歴史を教えることになって……真面目な人だから、いつも気に病んでいましたよ。でもわたしにとっては、本の読み方を、物語の楽しみを教えてくれた立派な先生だった」
父は娯楽として小説というメディアを好んだ。彼はあらゆるジャンルを楽しむ読書家で、その影響を受けて、エルフリーデもどっぷりと空想の世界の魅力に取り付かれた。
奇想天外な空想科学小説、波瀾万丈の恋愛小説、おどろおどろしい怪奇小説、探偵が事件を解決する推理小説、夢と神々の世界を綴った幻想小説、中世の騎士浪漫を扱った騎士道小説。
すべての物語に貴賤はなかった。あらゆる虚構の中で、エルフリーデ・イルーシャは数多の冒険をして、数え切れない結末を見届け、登場人物たちの運命に涙した。
素晴らしい時間を幾度も過ごして、父と感想を語らう日々が大好きだった。きっとそんな時間を、いつまでも過ごせると思っていた。
――そうはならなかったから、エルフリーデは今こんなみっともない八つ当たりをしている。
この世界は狂っている。
ペンが剣に勝った日はない。
あらゆる文筆はより深い歴史を持つ暴力の邪悪に踏みにじられる。あらゆる自由と人間賛歌の物語は、見え透いたプロパガンダに塗り潰される。
隣人の抱いていた親愛は憐憫に、憐憫は隔意に変わっていく。
わかっている。
エルフリーデの過去なんてどうでもいい。
目の前の伯爵とは何一つ関係ない事象だとわかっていながら――あるいはこの男の懐の広さなら、こんな恨み言すら受け入れてくれるだろうという甘えも混じって――どうしようもない何かが、口からこぼれ落ちた。
「ある晴れた日の朝です。広場に仕掛けられていた爆弾が爆発して、大勢のバナヴィア人が死にました――帝国の占領政策に協力する裏切り者。それが、わたしの父と母がバラバラに吹き飛ばされた理由です。それでみんな、納得しちゃったんですよ」
爆弾テロの標的はベガニシュ帝国から派遣されてきた監督官だった。たった一人のベガニシュ人を殺すために、数十人のバナヴィア人が巻添えになって吹き飛ばされ、その犠牲は独立闘争のために正当化された。
一度に父と母が消えたあの日、エルフリーデの胸に去来したのは虚無だった。
理解を拒む悪が、そこにある気がした。
だけど彼女にはわかってしまう。父によって教育され、育まれた頭脳が、父を殺したものたちの理屈を飲み込ませる。
征服者たちの駆使する冷酷な搾取の原理も、解放者を自認する人々の正義の輝きも――きっと余人を惹きつけてやまない魅力があるのだと、頭では理解できてしまった。
そんなものが父と母の命を奪っただなんて、到底、納得できるはずがないのに。
「…………それが、お前の痛みか」
クロガネの静かな呟きに、応えるだけの余裕すら失っていた。
エルフリーデ・イルーシャはたぶん今、何者でもなかった――彼女はティアナ・イルーシャの姉でもなければ、ガルテグ連邦軍の将兵を震え上がらせた〈剣の悪魔〉でも、3321独立竜騎兵小隊の指揮官でもなかった。
痛み、怒り、憎しみ、哀しみ、苦しみ。
その狂える熱のままに慟哭する。
「何もかも――何もかもです、あなたたちはいつもそうだ。大ベガニシュによる平和、虐げられた同胞の解放……口では大きな物語を語るくせに、足下にいるわたしたちのことは虫けらみたいに踏み潰していく」
すべての暴力を振るうものたちが憎かった。
ベガニシュ帝国の貴族も騎士もみんな死ねばいい、バナヴィア独立派の偽善者たちも死んでしまえばいい。
遠い昔、少女はそんな真っ黒な怒りと憎しみを抱いていた。彼女にとっては侵略者の圧政も、それに抗う独立闘士たちのレジスタンスも、等しく理不尽な暴力でしかなかった。
――どうしてわたしのお父さんとお母さんを巻き込んだ?
――どうして新聞の見出しの向こう側で勝手に殺し合ってくれない?
――どうしてわたしの大切な人たちをゴミみたいに吹き飛ばした?
あるいはそのように、すべての戦いを憎む傍観者でいられたなら、エルフリーデはまだ幸せだったろう。
だがエルフリーデが陥ったのは、笑えるほど救いのない自己矛盾だ。容易く人の命を奪ってしまう暴力をこんなにも嫌悪しているのに、実際のところ少女は誰よりも殺戮者の才能にあふれていた。
生き延びるために大勢の敵を殺してきた。それは彼女自身が定めた敵味方ではなく、ベガニシュ帝国の始めた戦争が定める敵だった。
納得も許容も慈悲もなく、ただ教えられたとおりに
機関砲を誰よりも上手く当てた。重斬刀で命を絶ちきることばかり上手くなった。見知った味方を殺させないため、見知らぬ敵を殺す術を磨いてきた。
〈剣の悪魔〉だとか〈魔女〉だとか呼ばれたって、エルフリーデ・イルーシャは何一つ変わっていなかった。
頬を伝い落ちる涙の熱を感じながら、少女は嘆くように言葉を吐き出す。
「わたしはもう、父と母の死を背負っている。この世の中で起きたことの全部を、あなたが好き勝手に差配できるだなんて思わないで」
「――ああ、そうだな。お前は正しい」
ヴガレムル伯爵クロガネ・シヴ・シノムラは、エルフリーデの絶望を肯定する。理不尽に愛するものを引き裂かれて、それでも従順な振りをして生きていくしかなかった子供の痛みを。
何かを堪えるように、男は目を細めて。
まるで祈るような切実さを込めた言葉を、いつも通りの冷血漢めいた声音で喋るのだ。
「だが、この世界が剥き出しの残酷さにあふれているとしても――お前が、そんな痛みばかり背負うのは間違っている。たとえエルフリーデ・イルーシャの歩んできた人生がそういうものだとしても、俺はその現実を許容しない」
「……クロガネ。あなたはそれを強いている側だ。どうして、わたしに優しいんです?」
「お前の感情など知ったことか。エルフリーデ・イルーシャは俺の犬であり、俺はその全責任を負う。それが、俺とお前の契約だ」
バカみたいに言葉使いが下手で、バカみたいに誠実なことだけは伝わってくる言葉だった。
どうして自分が泣いているのか、エルフリーデはわからなかった。
赤い瞳から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちる。
まるで浄罪のように。
「憎むのならば、世界を憎むな。理不尽を許せとは言うまい、だが――お前が恨むのは俺だけでいい」
クロガネ・シヴ・シノムラは、いつも通りの表情で彼女の目の前に立っていた。彼は理不尽に少女のトラウマをぶつけられただけなのに、まるで動じていなかった。
涙を流してその姿を見つめるエルフリーデは、ふと、男の黄金色の瞳に見入った。
それはこの世ならぬ輝きだったが、同時に――放っておいたら世界のすべてを背負い込んでしまいそうな色だ。
エルフリーデ・イルーシャは初めて気がついた。
眼前の男は自分と同じく、いろいろな立場と役割の仮面を被っているだけなのだ、と。
「エルフリーデ、今日、お前が口にした言葉は俺も覚えておこう。だから――――もう泣くな」
地下駐車場の照明の下。
差し出されたのは、何の変哲もないハンカチだ。
貴族らしく刺繍の施された高そうな布地だが、それが何ともクロガネの人柄に合っていない気がした。
少女はこぼれ落ちる涙を拭き取るため、その布きれを受け取った。涙に濡れたまつげ越しに、エルフリーデの赤い瞳が男の顔を映す。
「お前の涙は、そんな悪夢のために流されるべきではない」
真剣な表情だった。
ああ、自分はなんて単純でみっともないんだろう。
安い行動だ。泣いている小娘一人の忠誠心を買うためならば、このぐらい大根役者だってできるだろうに。
頭の中のとびきり冷静な部分はそう言っているのに、エルフリーデ・イルーシャの胸の鼓動はそうではなかった。
おそらく半信半疑だった今までよりずっと、この男の言葉を信じてみようと思った。
涙が引いていく。
それでもなんとなく皮肉を言いたくなったのは、半分ぐらいは照れ隠しだったかもしれない。
「……でも、わたしを犬呼ばわりしたことは許しません。というか、犬以外の語彙がないんですか?」
一瞬、クロガネは呆気に取られたように目を見開いた――よもやこの場面で苦言を呈されるとは思っていなかったらしい。
仏頂面に加えて半眼でじっとりと自分を見つめてくるエルフリーデの圧力に、とうとう伯爵は不器用な一言で応じた。
「…………善処しよう」
これほど当てにならない一言もあるまい。
この場の誰もがそう思った。
――その後、都市で起きた爆弾テロは地方紙の一面を賑わせたが、犠牲者が皆無だったこともありすぐに忘れ去られた。
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