ヴガレムル伯領








――そこはまるでおとぎ話の国だった。




 ヴガレムル市にあるヴガレムル大聖堂は、ベガニシュ帝国とバナヴィア王国の戦争のあとも傷つくことなく、この地に残された貴重な文化遺産だ。

 ヴガレムル大聖堂は白亜の神殿である。


 外から見れば優美な純白の聖堂、中に入れば色とりどりのステンドグラスが宗教的感動を呼び覚ます空間。

 この広大な大地と海原、そして天空の果てをお作りになった造物主ライフメーカーを讃え、神意に祈りを捧げるための大聖堂は、ヴガレムル市の歴史的遺産の中でも特に価値の高いものだった。


 現在のような生産方式――つまり工場を作るための設備を造物塔プラントに作らせ、そうして組み立てた半自動化工場によって工業生産を行う――が普及する前、自動化生産プラントの生産力が貴族たちによって独占されていた時代の芸術的建築物だ。


 一見すると石造りに見える構造材は、先史文明種の超高度科学文明の産物だという生体レンガで、かれこれ二千年以上の悠久の時間を過ごしてなお建材として劣化していない。

 当時としては革新的な免震構造が導入された、ドーム状の屋根を持つ聖堂――その内部から仰ぎ見るステンドグラスは、着色ガラスを用いて表現された壮大な宗教画であり、まるでそれ自体が光り輝いているかのように神と人の物語を語っている。


 造物塔プラントによって設計・製造された耐震性フレームと当時の美術家たちの優れた美的感覚の融合。

 識字率の低かった時代に、人々に神の意志と威光をすり込むために機能したそれは、現代を生きるエルフリーデの目から見ても見事な芸術品だった。



「……信心深い方じゃなかったけど、これはすごい」



 そう呟いたエルフリーデは、結局、妹とメイドからの圧力に屈して可愛らしい衣装を着ていた。

 昨今の流行りだという服装――白のハイネックブラウスに黒のレイヤードワンピースを重ね着して、ワンポイントとして首元に赤いリボンを結んだ衣装である。

 もちろんウェーブした頭髪にもくしを通してあり、くせっ毛は控えめになっている。


 メイドのアンナに言わせれば当世風モダンな着こなし、どこに出しても恥ずかしくないレディのできあがりである。

 長袖のブラウスの上から重ね着する膝丈のワンピースドレスなので、肌もほとんど見えていないし、これならば伯爵様の品格を疑われたりはすまい。


 まず白のブラウスからしてえらく上等な生地だったので、服装一式でどれだけの価格になっているのかは考えたくもない。

 妹のティアナに着せる服ならいざ知らず、自分で着るのに高値の服は気が引けるなあ、とエルフリーデがぼやいたのに無理からぬことだ。


 一方、街の中を査察して回っているクロガネ――どうやらお忍びでの抜き打ち検査に近いそれ――は、ヴガレムル大聖堂に見入っているエルフリーデの後ろで施設のあちこちに目を光らせている。

 貴重な文化遺産に対する管理体制をチェックしているようだ。


 こんなにも素晴らしい美術の極致を前にしていても、クロガネ・シヴ・シノムラという男は実務家になってしまうらしい。

 従者のロイ・ファルカがするりと施設の状況を報告する中、黄金色の瞳を輝かせて、クロガネは何事かを考えている。

 エルフリーデはちらりと彼の方を盗み見て、声をかけることにした。


「こんなに見事な宗教画なのに、もったいなくないですか?」


「リヴ・スラウスのステンドグラスは一千二百年前に完成したヴガレムル大聖堂で最大のガラス工芸品だ。題材は天の業火――虚栄に塗れた罪人の都に、天空から神の裁きがくだるという終末神話の一幕だな。安心するがいい、お前の味わった感動は経験済みだ」


「それ、入り口で配ってる解説パンフレットの受け売りじゃないですか」


「あのカタログを作るよう指示したのは俺だ」


 だいぶ意外性のある発言だった。

 エルフリーデは困惑して、視界に映るステンドグラスとクロガネの顔を往復して二度見した。


「えっ……」


「ヴガレムル伯領の文化遺産の価値を把握するのは領主の務めだ。その保全と管理も当然、重要な責任と言えるだろう」


「ぶ、文化人だ……!」


「今までどう思っていたのかは聞かないでおこう」


 そりゃあ十五年前に爵位を得た新興貴族で、巨大企業グループの代表ときたら――金に任せて貴族に成り上がった成金領主をイメージするではないか。

 クロガネの経歴は別に隠されているわけではないので、状況が落ち着いてから調べてみるとすぐにわかった。

 屋敷の使用人たちに尋ねてみても、屋敷の書斎からヴガレムル領の歴史に関する本を借りてみても、だいたい同じことが書いてあるのだ。


 ヴガレムル市は元来、騎士と神官の街だった。

 造物塔プラント制御呪文プロンプトで自在に動かし、望みの品を魔法のように作らせることができた特権階級たちは、まるで神々のごとく民衆を支配した。


 銃弾を弾く重厚な騎士甲冑、人工筋肉で走り回る馬、一方的に銃撃できる狙撃銃、火を使わずに明かりを灯せるランプ、何千という人間の飲み水を作り出す浄水器、それらを動かせる巨大な発電機――あらゆる文明は貴族のものだった。

 この壮麗なヴガレムル大聖堂も、元々はそういう豊かな支配者たちの権威を誇示するため、統治者と宗教家たちが手を結んで建造したものだ。


 そうして続いた騎士たちによる支配は、基幹インフラである造物塔プラントが自由民たちによって奪取され、強力な歩兵用小銃ゲベーアが登場したことで終わりを告げる。


 貴族による支配が存続しているベガニシュ帝国と異なり、バナヴィア王国ではそうして封建制が終わり、議会と国王の名の下に中央集権化が進められてきた――というのがヴガレムル市の歴史である。

 つまりこの地は騎士の支配とその終焉の始まりの地なのだ。バナヴィア王国が滅ぼされた今、再び貴族の支配を受け入れているのが不思議なぐらい、歴史的経緯を見れば貴族制への反発が強いはずだ。


 大聖堂を出る。

 時刻はもう夕刻になっていた。

 西に沈んでいく太陽の光を浴びる街並みは、まるで絵画の中から抜け出てきたように美しい。


 歴史ある旧市街と、科学技術を基幹として郊外に発達した工場地帯、それを繋ぐように整備された新市街――すべてが美しく調和した豊かな街がそこにあった。

 夕日に当たって濃い光と影のコントラストに沈んでいる都市を目に焼き付ける。

 自動車に乗り込みながら、ぽつりとエルフリーデは疑問を口にする。


「妙な話ですね。この街は騎士の支配を終わらせた革命が始まった場所なのに……こんなにもベガニシュに馴染んでいる」


「ヴガレムル伯爵を受け入れているのが不思議か? 簡単なことだ――この都市では、クロガネ・シヴ・シノムラはベガニシュ貴族である以前に、企業連合体ミトラス・グループの代表だ。権力の裏付けとなっているのは、帝国の権威よりも経済的基盤の方かもしれんな」


 クロガネが手元の板型端末タブレット(造物塔で極少数が生産されている情報端末。貴族や高級官僚が用いる)を操作しながら、エルフリーデの疑問に答える。

 いきなり際どい発言――ベガニシュ帝国の貴族制の権威をほぼ否定している――が飛んできたので、少女はぎょっとして男の顔を見た。


 黒い髪、黄金色の瞳、すっと通った鼻筋、不機嫌そうに引き締められた口元。怜悧な美貌の美男子である。背もエルフリーデより頭一つ分は高いから、紳士然とした服装と相まってとても絵になる。

 その何気ない口ぶりを見るに、深い意図はなさそうだった。ヴガレムル伯爵家というのは本当に自由な家風らしい。

 付け加えるように、自動車のハンドルを握っているロイが喋り始めた。


「旦那様は行政を司る市長を、市民たちが選挙で選ぶことをお許しになっています。つまり実際の権力構造がどうあれ、市民の生活の実感としては、帝国に併合される前と何も変わっていないのです」


「…………それって貴族的にありなんですか?」


「ベガニシュ帝国が必要としている戦略物資の生産、そして技術開発の拠点としてこの地は保護されている。バナヴィア人の優秀な人材を獲得する上でも必要な施策だった」


「なるほど……」


 考えてみれば当たり前の話である。

 ベガニシュ帝国に併合されたあと、バナヴィア王国の領土が辿った運命は千差万別である。直接、帝国直轄領として併合された地域もあれば、税金を納めることで辛うじて自治区として存続した地域もあるし、ヴガレムル伯爵領のように帝国貴族に与えられた地域もある。


 そして帝国の影響力が強ければ強いほど、バナヴィア人の暮らしは悲惨になっている。土地や資産を奪われ、低賃金労働者として生きることを余儀なくされた人々だって大勢いるのだ。

 明文化された法律では、少なくともバナヴィア人は差別されていない。だが実際のところ、そういう文書では可視化されない部分でバナヴィア人は二等市民扱いされていた。


 住居の賃貸、保険加入、医療サービス、警察や司法、職業選択の自由――あらゆる場面で理由のない制限が課せられる。

 そういう悲惨な目に遭わず暮らせるのなら、ヴガレムル伯領はさぞ栄えることだろう。

 エルフリーデはふと、思い出した。

 自分の故郷を。



――どうして、わたしたちの暮らしていた街はこうじゃなかったのだろう。



 バナヴィア北部にあるその街は、帝国に併合されて西ベガニシュ地方の一市町村になってしまった。大勢のベガニシュ人がやって来て、行政も医療も司法もめちゃくちゃに食い荒らされた。

 たぶんヴガレムル伯領の住民と比べたら、かの地に住まうバナヴィア人の暮らしとは天と地ほども異なるだろう。


 そうしてエルフリーデが暗い思索の海に沈んで、何分経ったろうか。

 自動車が停車したタイミングで、ふとクロガネが手を伸ばしてきた。少女の左目から頬にかけて走った傷跡――眼球にまで達したであろう深さの切創の痕。


「その目は、どうした」


「…………他人の顔に無断で触るのは極めて無礼な行為です、伯爵」


 エルフリーデが白い目で見ると、クロガネは動きを止めた。思わず伸びてしまったらしい右手を引っ込めながら、伯爵は無表情に頷いた。


「ああ、正論だな」


「それ言っておけば許されると思ってませんか?」


「かもしれん」



――かもしれんって?



 エルフリーデは口の端をひくつかせて、助けを求めるようにロイ・ファルカを見た。

 金髪碧眼の青年はバックミラー越しにもわかるぐらいの笑顔だった。

 腹が立つレベルで爽やかな笑みである。


「ロイさん、これは?」


「エルフリーデ様も旦那様の良さがわかってきたようで何よりです」


「主従そろって割と自由ですね……?」


 呆れた。

 段々とわかってきたことがある。

 ヴガレムル伯爵領の人々はとても気持ちのいい人たちだ。

 少なくともここに、エルフリーデ・イルーシャが漠然と想像していたような民族差別や階級の壁はなく、ついでを言うならクロガネ・シヴ・シノムラはお人好しの部類らしい。


 もしかしたら自分は「犬呼ばわり」の屈辱に囚われて、この男の本質を見落としているのかもしれない。

 そんな風に思ったので、栗毛の少女は伯爵の疑問に答えることにした。

 頬の傷跡を撫でる。


 思い出すのは、とびきり美人で可愛らしい副隊長の姿だ――すみれ色の瞳をした銀髪の少女は、この傷跡のことをいつも気に病んでいたけれど。

 エルフリーデ・イルーシャはこう思うのだ。


「この傷跡を得たときは……友達の命を守ることができました。悪くない代償です」


「深い傷だ。視力に問題はないのか?」


「ええ、まあ……一度は失明しかけたんですが、機甲駆体バレットナイトと融合してたらなんか治りました」


 そうか、と呟いて。

 クロガネはすべてを理解したとばかりに、エルフリーデの顔を見た。


「肉体の情報的復元――電脳棺コフィンと一体化したことで損傷したお前の眼球が回復した、と考えるべきだろう。バレットナイトの騎手にはよくあることだ。」


「ええと……?」


「バレットナイトに乗っているとき、お前は眠気や空腹を感じたことがないだろう? 電脳棺コフィンの中では物質が情報に変換され、その意識活動そのものが物理作用としてエネルギーを生む。ああ、つまりはヒトの魂というやつが、お前自身の傷を癒やしたんだ」


「わかるようなわからないような話ですね……?」


「興味があるならばエーテルサーキット理論とアンゲルシウム構造体についての入門書を送ろう。お前の助けになるはずだ」


 何故だろう、今ちょっとクロガネが乗り気になっているのがわかる。ひょっとしてこの男、科学技術の愛好者テクノロジー・オタクなのだろうか。

 エルフリーデ・イルーシャは読書家だが、決して専門書を読みふける類の読書家ではない。


 彼女が読んでいたのは娯楽小説や大衆向け科学の解説本であり、いきなり敷居の高い話をされるとびっくりしてしまう。

 少女は嘘偽らざる気持ちを述べた。


「あんまり難しい内容だと、たぶんわたしは放り出しますからね? 読書は面白いから好きなのであって、難解さは求めていません」


 クロガネは数秒間、黙り込んだ。

 そして重々しく口を開いた。


「善処しよう」


「伯爵様の本のチョイスに期待します」


 フロントガラスの向こう側で信号機が青に変わる。

 自動車が走り出した瞬間だった。

 どぉおおおん、と重く響く音。



――遠雷?



 晴れ渡った夕焼け空の下、聞こえてきたのは雷鳴と聞き間違えるような――

 それまで気が抜けていたエルフリーデは即座に戦士の顔になって、何事かと窓の外に目を向ける。

 遠く、工場地帯の方から黒煙が上がっていた。










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