元・副隊長ミリアムの困惑
――この世には見えない壁がある。
それはある種、恵まれた立場の人々は存在すら知ることなく、その壁があると知っているものだけが足踏みする大きな壁だ。
たとえば男女の壁、たとえば剣の貴族と杖の貴族の壁、たとえば上級貴族と下級貴族の壁、たとえば貴族と平民の壁、たとえばベガニシュ人とバナヴィア人の壁、たとえばベガニシュに併合されて久しい諸民族と新参のバナヴィア人の壁。
それぞれの壁の間には、目には見えない多くの試練が存在していて、それに耐えきったとしても報われる保証などない。
あるものはそれを区別と呼び、あるものはそれを差別と呼ぶ。
――貴族の話をしよう。
貴族の使命とは第一に血を存続させることであり、貴い血筋によって継承される系譜を繋いでいくことだ。
血を残せぬならば、等しく男にも女にも価値はない。
この冷酷な原理こそ貴族の精神世界の本質だ。
女の戦場という言葉がある。
男の戦場が弓矢や銃弾が飛び交い、重厚な装甲をまとった騎士たちが斬り結ぶ殺し合いであるならば――女の戦場とは家事を差配して社交の場で序列をつけることにあるのだ、と。
そのように先人は貴族のあるべき姿を説いてくる。
伝統と名誉に彩られ、華やかな精神文化を持つものこそが貴族であると――そう、うそぶく。
貴族という仕組みの非人間性とは、第一に貴族ならざるものを人として扱わないことにあり、第二に規範に従わないのならば貴族すら人間扱いしないことにある。
貴族と平民の間にある絶対的な格差が幻想であることは、ベガニシュ帝国の戦争システムが肯定している。
平民出身でありながら士官学校を首席で卒業し、征服戦争で名を上げた若き大将軍の活躍を知らぬベガニシュ人がいるだろうか?
帝国が徴兵制度を敷いて、その中でも適性のあるものを
そして貴き血と庶民の血で戦力的な価値が変わらないのならば――身分階級の根拠そのものが誤っているのは、誰の目にも明らかな事実であろう。
銃弾すら弾く騎士甲冑と馬で戦場を支配した貴族たちの戦争観は古すぎる。そういった合理的な見解は、伝統ある貴族の世界には一切通用しない。
――男らしい貴族が褒め称えられる世界とは、同じぐらいに女らしい貴族でなければ存在する価値がない世界だ。
少女はそんな世界が嫌だった。
その息苦しさと根拠のない伝統の馬鹿らしさは、あの束縛の中に置かれたものにしかわからない毒となって、幼い少女を蝕んでいた。
ねばねばと絡みつくような抑圧は、少女にとって耐えがたいものだった。
自我をそぎ落とされて、綺麗な服を着せられて、嫁入り修行を課されて、やがて嫁いで子を産むことを期待される人形。
そのような生が、自身のたった一度の人生であっていいのかと――そのような意思が、少女に女性軍人の道を志すきっかけになった。
少女の実家は剣の貴族だった。爵位こそ伯爵だが、小さな領地があるだけの貴族である。彼らを貴族たらしめるのは、代々、貴族軍人として帝国に仕えてきた血筋の伝統だった。
ちょうどこのとき帝国は、様々な対外プロパガンダの一環として男女同権を叫んで、士官学校の門を女性にも開き始めていたのである。
少女はこれしかないと思い、士官学校の狭き門をくぐり抜けた。
結論から言おう。
結局、少女の人生を賭けた反骨心の発露は、要らぬ疑いを生んだだけだった。
少女には兄がいた。凡庸な兄である。貴族軍人として士官学校に入ることも叶わず、学業も凡庸で振るわず、実家のコネでやっと医者になったような男である。
男にしか認められていなかった士官学校の門を、そのずば抜けた優秀さと貴族の血筋で通ってみせた妹――まさに貴族の理想、貴きものの義務の体現。
これに対して兄が抱いたのは、底なしの劣等感と憎悪であった。
――この俺から嫡子の地位すら奪おうというのか、女風情が。
完全な被害妄想である。しかし愚かさというものには際限がなく、悪意というものにも限界がない。結局、この一件で生まれたしこりは大きくなるばかりで、兄妹仲が悪いで済まなくなった。
猜疑心の塊となった兄は、妹が士官学校を卒業して戦地に着任したことを知ると、戦場での謀殺を図ったのである。
愚かな兄は質の悪い悪漢どもの伝手があり、ベガニシュ帝国陸軍の兵士たちの多くは徴兵で戦地に送られたものたちだった。
当時の帝国の裏社会のネットワークが戦場にまで伸びていたのは、ただただ驚異的と言うほかない。
ともあれ、兄の悪意は妹を襲う凶刃となって解き放たれた。
当時、やはり帝国のプロパガンダで戦地に送られた少女は、いきなり味方の兵士からナイフで斬りつけられる状況に対応できなかった。
完全な不意打ちだった。
あるいはそれが刺突だったなら、為す術なく少女は息絶えていたかもしれない。
彼女の幸運は二つあった。
一つは刺客として襲ってきたのがゴロツキのチンピラだったこと。
一つはその場にあの人がいたこと。
刃が振るわれた瞬間、咄嗟に誰かが少女と刺客の間に割り込んできた。
本来、少女の喉笛を深々と切りつけるはずだったナイフが弾かれる。軌跡が変わる。
――鮮血が散った。
鈍い打撃音と共に刺客の男がうめき声をあげ、ナイフを取り落として地面に倒れ伏す。まるで別世界で起きているかのような出来事を前にして、少女は何もできないままだった。
強ばっている身体を無理に動かして、動揺しきってうわずった声を出す。
「あ、あのっ……」
オリーブドラブ色の軍服を着た若者がこちらを振り返る。中尉の階級章をつけたその士官は、何事もなかったかのように振る舞っていた。
身長は百六十五センチぐらい、深い茶色の髪はウェーブしていて、綺麗な顔立ちをしていて――その左目から左頬に大きな切創が走っている。
血。
真っ赤な鮮血が涙のようにその頬を伝い落ちている。
激痛を感じていたはずである。
なのに、あの人は笑っていた。
ナイフで深々と斬りつけられた左目から血を流しているのに、美しい少女は微笑んで。
「――きみが無事でよかった」
誰が信じるだろう。
彼女が徴兵されただけの平民で、劣った民族だと喧伝されるバナヴィア人で、自分よりも年下の少女であるなどと。
その超然とした姿にどれだけ救われたかなど知りもせず、あの人は――エルフリーデ・イルーシャは、怯えきっている自分を落ち着かせようと微笑んでいて。
人が人に惚れ込む瞬間というのは、そういう風に劇的にやってくる。
この人のために死のう、と決めた。
――この世には見えない壁がある。
存在を意識していようがいまいが、否応なく突き当たることになる壁がある。
そのはずだった。
だが、そのバナヴィア人の少女は、ありとあらゆる見えない壁を粉砕して、その顔に負った深い傷跡すら飲み込んでそこに立っていた。
――その日、私は何よりも自由で美しいものを見た。
――輝いて見えるものを。
貴族令嬢ミリアム・フィル・ゲドウィンにとって、エルフリーデ・イルーシャは救世主にも似ていた。
◆
「――信じられない、薄情にもほどがある!」
ここはベガニシュ帝国内でも前線にほど近い陸軍基地、そのなかでも精鋭であるバレットナイト部隊の駐屯地の一角――腕を地面につけた前屈みの駐機姿勢で格納庫に並ぶ巨人たちは、すぐにでも展開できるよう整備済みだ。
とはいえ停戦協定が結ばれたことでやや弛緩した空気が漂っている基地内で、獰猛な怒りを露わにしている若者が一人。
つかつかと早歩きするオリーブドラブ色の軍服姿――階級章は彼女が少尉であることを表しており、その滑らかな銀の
まだ少女と言っていい年頃だった。
布地の下の身体こそ筋肉質で引き締まっているものの、それすらほっそりした顔立ちや骨格の華奢さを強調するかのよう。
如何にも貴族令嬢という雰囲気――少女は、ベガニシュ帝国陸軍ではまだ珍しい女性士官である。
この古き帝国は、慣習としても意識としても男尊女卑の気が強い。
最近になって
こういった情勢下でわざわざ軍人を志す少女というのは、それはもう意思が強い。
そういうわけで絶賛、ミリアム・フィル・ゲドウィンはぶちキレていた。
――隊長が死んだという噂が流れたかと思ったら、軍を辞めて誰もその行方を知らない。
まったく不可解だった。それでは放逐ではないか、と怒りがみなぎってくる。
敬愛する隊長がそんな仕打ちを受けているのが信じられなかった。
そもそもエルフリーデ・イルーシャは特例で兵役を課された挙げ句、いつの間にやら軍人に志願したことにされ、英雄に祭り上げられた平民である。
本来もっとも陰険な権謀術数から遠い場所にいるべき人が、部隊を解体された挙げ句、ひっそりと除隊扱いになっていた。
エルフリーデを女神のごとく崇拝するミリアムにとって、この現実は信じがたいほど衝撃的だった。
3321独立竜騎兵小隊――ベガニシュ帝国陸軍・第3機甲猟兵連隊第3大隊第2中隊旗下第1小隊といえば、泣く子も黙る英雄部隊である。
あの英雄〈剣の悪魔〉エルフリーデ・イルーシャの指揮するバレットナイト部隊であり、如何なる激戦区でも連戦連勝、敵陣を突破し制圧することにかけては並ぶものなき精鋭。
もっともこの部隊は少し前に解体されて、人員は軒並み新たに再編された竜騎兵部隊に振り分けられたのだが――ミリアムはその部隊で副隊長を務めていた。
士官学校出たての新品少尉――何せ、3321独立竜騎兵小隊に彼女が配属されたのがたったの一年前だ――が副隊長だったあたりに、この部隊の異様さが詰まっている。
そもそも正式に士官学校を出た士官が配属されたのなら、エルフリーデ・イルーシャのような野戦任官された軍人は元の階級に戻るのが筋というものだ。
そういった通常の人事が一切行われなかったかの部隊は、軍内部の様々な思惑に振り回された部隊だったと言えよう。
そういう諸々の大人の事情を承知している下士官――ユーグ・モラン軍曹は困ったような表情で、自身の上官である少尉殿に声をかけた。
「はい、少尉殿。しかし我々も御上からは睨まれているわけでして、あまり派手に目立つのもよろしくないかと」
「モラン軍曹は隊ちょ……イルーシャ中尉の受けた仕打ちは何とも思わないのか? あの方は我がベガニシュにとって手放すべきでない人材だ」
「はい、少尉殿。イルーシャ中尉は傑物でしょう。士官学校さえ出ていれば、将軍の座だって狙えたかもしれない方です」
まあ、女性であることも不利だと思いますが、という言葉をぐっと飲み込むモランは、気が昂ぶっている上官を見た。
彼は逆境に抗ってやろうという少尉殿の気概と能力を高く買っていたが、ベガニシュ帝国軍という組織の現実をよく知ってもいた。
軍隊とは官僚組織であり、つまりは先例主義である。
ここに「女は能力的に劣っている」というような男尊女卑の思想が加わると、それはもう出世が難しくなる。
軍隊の仕組みというやつは明確だ。
士官学校でみっちり知識を仕込まれた人間を指揮官に据えて、現場のたたき上げ――モラン軍曹のような人間が下士官としてそれを支える。
それが軍の考える理想的な人事である。
あらゆる意味でエルフリーデ・イルーシャのようなパターンは例外的だ。
本土防衛戦で壊滅的に敗走し、命令系統が破壊されきった東海岸の惨状があればこそ、彼女の異例の出世は起きたのである。
そもそも彼女が特例で徴兵されたのも、軍内部のさる派閥――いわゆる改革派の意向だったという噂もある。平民出の士官や下級貴族が中心となって構成された改革派は、今のベガニシュ帝国でかなりの勢力を誇っていた。
――貴族の威信を打ち砕く英雄。
そういうお偉方の思い描くプロパガンダに利用されたのが、あの若すぎる小隊長だったのかもしれない、とモランは思う。
エルフリーデ・イルーシャ周りの人事はとにかく特例だらけだったし、それに対するやっかみや誹謗中傷を、圧倒的な戦果だけでねじ伏せる少女自身も特別だった。
そんなエルフリーデの信望者であるミリアムは、モランの諫言に納得していなかった。
「利用するだけ利用して、用済みになったら除隊で放り出すなんてどうかしてる……そうは思わないか、軍曹」
「はい、同感ですが……しかしイルーシャ中尉はお優しい人です。本来、我々と同じ世界にいるべきではなかった、と自分は愚考します」
「……それは、そうかもしれないけど」
昨今、ベガニシュ帝国内で先例主義を覆して、女性の社会進出が叫ばれるようになったのは、ひとえに労働力不足が原因だ。
長年続いた戦争であるとか、醜態をさらす貴族たちの不合理の反動だとか、いろいろと原因はあるらしいが――欲しいのは従順で安価な労働者であって、それは女性労働者でもバナヴィア人労働者でもいいのだ。
如何に口先で愛国心や男女同権を訴える流れが生じたとしても、実際には「これまで通りの世の中がいい」と考えるのが世の中の大多数の人間なのである。
このような傾向ゆえに、平民出の士官や女性軍人のような異端が出世できるのは、平時よりも戦時の方である。
ガルテグ連邦との停戦協定が結ばれ、和平に向けて世の中が動き始めた今――この辺りの流れがどうなるのかは不透明だった。
「確かに……これ以上、軍に残って陰険な謀略に巻き込まれるぐらいなら……」
ミリアムは
まだ少女と言っていい年齢の彼女は、エルフリーデ・イルーシャの忠実な信望者ではあったが、同時に彼女の人柄をよく理解してもいた。
ある種、朴訥ですらある善良さと高潔さ――エルフリーデが小隊を率いる長として人望を得られたのは、その実力もさることながら人柄の良さが大きい。
とても面倒見がよく、世話焼きで有能な上官。
おおよそ下っ端の兵士にとって理想と言えよう。それは将としてのカリスマかもしれなかったが、組織内の権力闘争に強い性格ではない。
つまりベガニシュ帝国陸軍に残っても、エルフリーデが幸せだったかは大いに疑問である。
それはミリアムにも理解できる。
理解できるのだが。
「でもっ……いけないことかもしれないけどっ……ダメだってわかってるけどっ……イルーシャ隊長に指揮されたかったんだ、私は……!」
「少尉殿。それは私欲では……?」
モランは生暖かい目で少尉を見つめた。
とても困ったことにミリアムのようなエルフリーデ・イルーシャのシンパは東海岸に派兵された部隊では珍しくない。
相手がバナヴィア人だと言うことを差し引いても――否、むしろそういう偏見があった手合いほど、実際にエルフリーデの鬼神のごとき活躍ぶりと献身に救われると、ころっと落ちてしまうのだ。
まるで不信心者が、神秘体験を経て熱烈な信仰者に生まれ変わるような光景である。
エルフリーデという少女はそういう意味で、かなり厄介な部類の英雄だった。呼吸するように当たり前に、周囲の人間の魂に自分の存在を焼き付けていってしまう存在なのだ。
比較的、冷静に物事を見ているつもりのモランでさえ、かの隊長には強く惹かれてしまうぐらいに。
――それから数分後。
ミリアム・フィル・ゲドウィンは上官の上官である大隊長から呼び出しを喰らうことになる。
戦地で過ごしたとはいえ、着任してから一年足らずの少尉にとっては凄まじく緊張する状況である。思い当たる節がありすぎて、銀髪の隙間から見える首筋には冷や汗が伝い落ちていた。
基地内の一角、再編された第3機甲猟兵連隊第3大隊の大隊長の執務室――ひょっとして軍上層部に対する批判的言動が不味かったのだろうか、とミリアムは目を泳がせている。
それでも敬礼はびしっと決まっているのだが。
そんな若き少尉の姿をじっと見つめながら、年かさの将校は口を開いた。
「ミリアム・フィル・ゲドウィン少尉、貴官に新たな任務を言い渡す――」
――その任務が望まぬ再会への道しるべであることなど、このときのミリアムは知りもしなかった。
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