約束
空港を出てすぐ、エルフリーデたちを出迎えたのは、夜闇に飲み込まれることない近代的な街並みだ。
流石に空港の近くということもあってビルなどは見当たらないが、アスファルトで舗装された道路を、等間隔で設置された街灯が照らし出している。
街路樹が植えられた道路沿いの景色は、ヴガレムル市の都市計画が極めて順調に行われていること――要するに道路が真っ直ぐで真新しく、最近になって整備されたものだと見て取れる――を報せていた。
流石に真夜中ということもあり、外を出歩いている人間はほとんど見当たらなかったが、夜景一つとっても電灯の多さからその豊かさがうかがえた。
今、エルフリーデとティアナは自動車の後部座席に乗っている。
如何にも貴族御用達という感じの広々とした車内は、分厚い防弾ガラスに守られており、わざわざ小型の冷蔵庫まで据え付けてある。
この自動車一台だけでも、そこらの労働者の年収が何年分吹っ飛ぶのか想像もつかない。
イルーシャ姉妹は今、何故か伯爵と同席していた。
何せヴガレムル伯直々に「乗れ。お前たちは客人なのだから」と言われてしまっては、断る方が無作法になってしまう。
これまでの人生で乗ったこともない乗り物の中に、ティアナは目をキラキラさせていたが――故郷の土を踏んだことでいよいよ緊張が解けてしまったのか、今はすやすやと寝息を立てている。そんな妹の寝顔を優しく見守るエルフリーデは、ふと、向かいの席――高級車は向かい合って座れるほど内装が広い――に座るクロガネを見た。
相変わらずの無表情である。
何を考えているかさっぱりわからない男を前にして、エルフリーデは疑念を抑えることができなかった。
「ヴガレムル伯、一つお尋ねしても?」
「なんだ」
「どうして人を犬呼ばわりするのでしょうか? バナヴィア人を見下しているのですか?」
運転席に座ってハンドルを握るロイ・ファルカは一言も言葉を発さない。彼はあくまでヴガレムル伯であるクロガネと、庶民であるエルフリーデの会話を看過する姿勢らしい。
露骨に差別されるよりは全然いいのだが、それにしたってヴガレムル伯爵の手下たちは、やけにいい人揃いだ。
今だって帝国の価値観では卑しい異民族であるバナヴィア人の小娘と、彼らの主である伯爵の会話を許している。
エルフリーデが何か裏があるのではないか、と勘ぐってしまうのも無理はなかった。
「――お前がベガニシュ人であろうと、バナヴィア人であろうと関係ない。俺にとって重要なのは、お前が最強の
「人を動物扱いする理由が差別じゃないなら、趣味ですか」
「違う」
エルフリーデは眉をひそめた。
おそらくその言葉は本音だ。この男に、バナヴィア人だのベガニシュ人だので人を差別するような性質はないだろう。
そういう道徳的な意味では信用がおける相手だと、ここ数日のやりとりでエルフリーデはクロガネを信じる気になっていた。
だが、そうなると――なおのこと不可解になる。
ここまで自分を厚遇してくれる理由も、その割に犬呼ばわりしてくる理由も。
思考を巡らせた末、エルフリーデ・イルーシャはたった一つの冴えた答えにたどり着いた。
「……やはり、わたしが美少女だから……?」
「率直に言おう、勘違いはやめろ」
クロガネは無表情に訂正を飛ばした。
聞きようによってはエルフリーデの美貌を否定するかなり失礼な物言いだったが、少女は段々この男の物言いに慣れてきている。
なのでするりと聞き流して、こんなことをのたまった。
「しかし徴兵されただけの……わたしのような一般人を伯爵様が見いだす理由がありませんよ」
「…………ん?」
クロガネは無表情だった。
主に一般人という自称に対して、男は心底、理解しがたいという顔をしていた。
「エルフリーデ・イルーシャ。お前の現実認識にはいささか問題が見受けられるようだが……」
「初対面の時の状況からして明らかです。わたしだって数で攻められれば死にかける程度の凡人ですよ」
「凡庸な人間は、そもそもあの状況で敵陣に単独で空挺降下させられれば、戦死するか投降するかが関の山だぞ。その自己評価の低さはどこから来る?」
クロガネの問いかけはもっともだった。
少なくともエルフリーデ・イルーシャが謀殺されるほど憎まれたのは、突出した結果をもたらす、本物の英雄だからだ。
その存在自体が身分階級と異民族差別の根拠を揺るがすと認識されたから、貴族の悪意の標的になった。
それはそうなのだろう。
だが、エルフリーデは困ったように微笑むしかなかった。
「少しだけ、人の命を奪うのが上手いだけです。あまり誇らしくなる特技じゃないですよ」
英雄と呼ばれるほど人殺しをしても、彼女は芯の部分まですり切れていなかった。
あまりに小市民的な感性を保持しているエルフリーデは、それゆえに戦場の英雄として自意識を適応させることができなかったのだ。
そのおかげで、こうして日常に戻ってきてもほとんど支障がない――戦地で精神的後遺症を患い、日常生活に支障を来すものは大勢いる――のだから、それは少女の美徳と言えるかもしれなかったけれど。
クロガネはそんなエルフリーデの心境を聞かされて、しばし思案したあと、息を吐いた。
「……だが、お前に待っている暮らしは、俺のために戦う日々だ。それを忘れるな」
「そうですね、そういう約束です」
エルフリーデはそう言って目を閉じた。
栗色のミディアムヘア、ウェーブしたくせっ毛に戦地帰りにしては白い肌。整った顔立ちの少女は、あるいはただの町娘だったならとても恋愛でモテたかもしれない。
その左目から頬にかけて、大きな切り傷のあとがある今となっては、それも夢物語に過ぎないだろうけれど。
エルフリーデは自分の容姿について、そういう自己愛が強いのか、悲観的なのか判断がつきかねる判定を下していた。
なんとなくクロガネの言わんとすること――少女から人並みの青春を奪ってしまうこれから――を察して、エルフリーデは微笑んだ。
なんだ、意外と可愛らしい感傷があるじゃないか、この男。
「問題ありません、わたしは読書家なので大抵の青春を熟知しています」
そして飛び出た軽口は、エルフリーデ・イルーシャが妹から天然気味の変人と罵られる所以だった。
ヴガレムル伯クロガネ・シヴ・シノムラは、少女が何を言っているのか理解できず、「んん?」と小首をかしげる。
もちろんエルフリーデは得意満面な表情で解説を始めた――始めてしまった。
「たとえば……そうですね。わたしに恋愛経験はありませんが、恋愛については博士と言ってもいいほどの手練れです。極めて高度な
エルフリーデは真面目だった。彼女の妹が聞いたら即座に姉のド天然ぶりをたしなめただろう。
しかし悲しいかな、ここにエルフリーデをたしなめる人間はいない。
クロガネは困惑した。
「……お前は錯乱している。言っていることが支離滅裂だぞ」
「ヴガレムル伯爵、小説には人間の空想と浪漫が詰め込まれているんですよ。そして人間を動物と隔てているのは、空想する力です。つまり空想はおおよそ、人間らしい営みを再現できます」
「論理の飛躍がすぎる。本当に、何を言っている?」
黒髪の伯爵はひどく困惑していた。もちろん貴族社会には、相手を愚弄すべく世迷い言をふっかけてくる性根の腐った手合いもいる。
しかしながらエルフリーデ・イルーシャはそういう人種ではなかったし、少女の澄みきった赤い瞳は大真面目だった。
そしてクロガネは少女の純情を斬り捨てられるほど非情ではない。結果としてエルフリーデの奇矯な発言に困惑する伯爵という、世にも珍しい風景が出現していた。
「ロイ」
「旦那様、イルーシャ様は真剣なのです」
バックミラー越しに顔が見える金髪碧眼の従者は、ニコニコと微笑んでいる。彼は明らかにこの状況を微笑ましいものとして受容していた。
もちろんクロガネは困り果てた。
「ああ。俺も困惑を禁じ得ないが……ロイ、黙るな」
「ちょっと待ってください、わたしがおかしいような空気は変です。正論を言っているつもりですが――」
「……エルフリーデ・イルーシャ。お前の持論は独創的だが……」
クロガネ・シヴ・シノムラはなんと言うべきか悩んでいるようだった。これを妄想とか世迷い言とか斬り捨ててしまうのは、あまりに彼女が歩んできた過酷な人生に対して敬意が足りない。
だが真に受けるには非常識すぎる。
少女の妄言に対して渋面になったクロガネに助け船を出そうと、従者のロイ・ファルカがラジオのスイッチを入れた。
ラジオから流れてきたのは、数時間前にはクロガネの耳に入っていたニュースだ。
『――本日、帝国標準時間十九時。帝国政府とガルテグ連邦の間で停戦協定が結ばれました』
車内の空気が引き締まる。
真面目ぶった顔でわけのわからない持論を垂れ流していたエルフリーデ・イルーシャは、流石にショックを受けたのか、無言でクロガネの方に目を向けてくる。
クロガネ・シヴ・シノムラは
「大陸間戦争はじきに終わる。この停戦協定は和平の準備段階にすぎない――少なくとも皇帝陛下と軍の主流派は現時点が戦争のやめ時だと判断している」
「……わたしの除隊が通ったのも、これが理由ですか」
「そうだ。そしてお前がバナヴィア独立派に合流することはないと、ヴガレムル伯爵が保障して身柄を引き取った……そういうことになっている」
現在の情勢についてクロガネの口から答えをもらって、ほうっとエルフリーデはため息一つ。
手品の種明かしみたいだったが、こうして言葉で聞かされると思っていたより筋が通っていて安心できた。
そんな栗毛の少女に対して、クロガネが投げかけたのはこれからの予感に満ちた言葉だ。
「俺の目的は平和を作ることだ。そしておそらく、本当の意味で戦いが始まるのはこれからだろう」
大陸間戦争は終わろうとしている。ベガニシュ帝国とガルテグ連邦の双方が互いの出し続けた犠牲に耐えかねて、和平の道を探り始めたのだ。
だがこの戦争に終わってもらっては都合が悪い人々も大勢いるのだ、とクロガネ・シヴ・シノムラは告げる。
それは時にベガニシュ帝国内部の魑魅魍魎であり、時に諸外国の暗部だろう、とも。
「改めて言おう、エルフリーデ・イルーシャ。俺はお前の望みを叶える、お前の妹ティアナ・イルーシャの平穏無事な暮らしを約束しよう。その代償として力を貸せ、お前が必要だ」
真面目ぶった物言いのくせに、言葉選びはプロポーズみたいだったので、エルフリーデはどんな顔で聞けばいいのかわからなくなった。
まったく、犬呼ばわりをやめたらやめたで面倒くさいなこの男、と思う。
こんな問答しなくたって、答えなど最初から決まっているのに。
「――約束します。その契約が守られる限り、わたしはあなたの剣となるでしょう」
あるいはこれまで重ねられた言葉が全部、虚偽で――この男が私利私欲で罪を重ねる極悪人の可能性だって大いにあるのだ。
それでもエルフリーデは、この男が悪魔ではないことを祈った。
それが妹の幸福のためなのか、目の前の男の善性を信じてみたくなった感傷ゆえなのか。
――エルフリーデ・イルーシャにはわからなかった。
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