亡国の民バナヴィア
ベガニシュ帝国。
世界に名だたる軍事大国にして、この大陸の三分の二を支配下に収めている列強、皇帝と貴族の二重の支配構造を持った古き帝国。
その巨大な領土は、周辺国を武力侵攻によって併合し、国という国を滅ぼしてきた過去と表裏一体だ。
多くの小国がベガニシュ帝国の前に敗れ去り、その国名は地図から消えるか、多額の税金と引き換えに自治区としてギリギリの存続を許されるかの二者択一であった。
――自らの野蛮に気づかぬ民へ文明の光を与えるための偉業。
――皇帝陛下のご威光の下に、帝国は大陸統一を進めている。
それがベガニシュ帝国の言い分である。
この帝国を支配する側の人々、ベガニシュ人からしてみれば当然の論理であり、その支配の恩恵としてインフラの整備や平和を与えているのだ、と。
遅れた暮らしをしている人々に文明の恵みを分け与えているのだから、帝国の行いは紛れもなく善であり、これに逆らう叛徒たちはものの道理がわからぬ愚か者に過ぎない。
征服は善意であり、支配は道徳そのものと言えよう――これがベガニシュ帝国において、民衆の間にまで浸透した価値観である。
少なくとも自らをベガニシュ人と自認している人々は、そのようにして帝国の行いを正当化している。
この世界観において、ベガニシュ人による異民族への差別や搾取は存在しない。そういった行いが存在するとしても、それは躾になっていない野蛮人への当然の区別であり、文明化してやっていることの対価なのだ。
もちろんこんな寝言を聞かせられている側が、真に受けるはずもない。
ベガニシュ帝国によって併合された最も新しい地域がある。
大陸を二つに割るように流れるバベシュ大河に隔てられ、長年、異なる国として独自の文化を育んできた歴史ある国――バナヴィア王国。
かつてそういう豊かな国があった。地図の上から王国の名が消え失せ、今ではいくつかの小さな自治区にその名残を残すばかりとなっても、その地に住んでいた人々は生きている。
ベガニシュ帝国では二等市民として扱われ、明文化されない無数の差別を受けている亡国の民。
それがバナヴィア人だ。
今から十五年前、まだエルフリーデ・イルーシャが物心つかなかった時分、まるで雪崩が起きるように戦争は始まった。
当時、すでに軍事大国の地位にあったベガニシュ帝国のことを、隣国であるバナヴィア王国は十分に警戒していたし、そのための軍備増強も進めていた。
次世代の戦争は、互いが血を流し続ける凄惨なものになるだろう、と予見もされていた。ベガニシュ帝国が周辺国への侵略戦争を通じて、様々な現代戦に関する知見を作り出していたからだ。
当時、帝国に次ぐ地位にあったバナヴィア王国は、それに見合う経済力があった。バナヴィア王国はベガニシュ帝国の軍事的圧力に対抗して、様々な兵器を生産し、また諸外国から買い集めた。
大河を挟んだ隣国にまで届く誘導ミサイル、機関銃や大砲を積んで自在に大地を走り回る
それらは帝国の侵略を思い留まらせるだけの価値があると、バナヴィア王国の誰もが信じた。
けれどそれは無意味な空想だった。
戦争が始まってすぐ、バナヴィア人は現実を突きつけられた。
――何もかもが踏みにじられ、打ち壊され、バナヴィア王国は滅んだ。
後世でバナヴィア戦争と呼ばれることになる戦争は、たった一年で終わってしまった。
かくして亡国の民となったバナヴィア人には、多くの心ないプロパガンダが浴びせかけられた。
――善というものを理解できない愚劣な民族。
意訳:バナヴィア人はバカ。
――本質的に文明を理解できない忌むべき野蛮人の文化。
意訳:バナヴィア人はアホ。
――ベガニシュ人は歴史を作る使命を背負った、ゆえに我々こそが世界で最も先進的な啓蒙国家なのである。
意訳:俺たちは賢い。
帝国はバナヴィア人の存在を
ベガニシュ帝国の支配層である貴族たちが中心となり、自国のありとあらゆる不平不満のはけ口として異民族を利用する一方、その豊かさを搾取してもいる。
十五年くらいでは吸い尽くせないほど、バナヴィア王国の資産は宝の山だった。
その対象には無数の土地と企業があり、かつてバナヴィア王国の防衛のため稼働し、世界有数の生産拠点として動いていた工業地帯も例外ではない。
――西ベガニシュ(旧バナヴィア王国)・ヴガレムル伯爵領もその一つだ。
つまるところヴガレムル伯爵とは、十五年前の戦争によって生じた利権の一つと言えよう。
西ベガニシュのヴガレムル市を中心とした領土を持ち、古代文明の遺産である
以上、戦地で仲良くなった貴族軍人(バナヴィア人差別もしない子だった)から聞いた話の受け売りである。
エルフリーデ・イルーシャの脳みそが理解するところによれば、ヴガレムル伯爵領というのは、十五年前のバナヴィア併合で生じた領土なのである。
ベガニシュ帝国から見ればぽっと出もいいところだろう。
貴族の伝統もクソもない。
となると俄然、謎になってくるのがクロガネ・シヴ・シノムラを名乗った伯爵の正体である。
あの男、おそらくまともな貴族ではない。話し方こそ上流階級っぽいが、物言いがすべてにおいて貴族制に対して冷笑的なのだ。
貴族らしい地位や身分に対する気位の高さが見受けられない。
エルフリーデの知る貴族というのは、実家に反発して激戦区にやってくるような跳ねっ返りだったので、サンプルとしては適当ではないかもしれないけれど。
低俗な俗物であれ、高貴なるものの義務を本気で信じている手合いであれ、貴族というのは多かれ少なかれ自意識が強い。
平民を差別せず、身分制度の改革を訴えるようなものたちすら、そういう意味では庶民とは意識が異なるのだ。
これは偏見なのかもしれないが、少なくとも生まれながらの伯爵家ならば、あの男――クロガネのような物言いはしないはずだ。
要するに、だ。
「わからない……今の状況がさっぱりだ……」
割り当てられた個室のベッドの上で、エルフリーデはうめくように呟いた。
あの劇的な出会いから数日後。
大型トレーラーでベガニシュ帝国の検問を易々と突破――貴族が支配する帝国において伯爵の家紋は威力抜群だ――した一味は、エルフリーデをどこかの都市の一角にある屋敷に案内した。
西ベガニシュ――つまり旧バナヴィア王国まではずいぶんと距離があるから、ここがヴガレムル伯爵領ではないのは確かだ。
流石に伯爵様ともなると、本拠地以外にもお屋敷の一つ二つは用意してあるものらしい。
屋敷から出ないよう堅く言いつけられて、放り込まれた個室はとにかく広かった。間違いなくエルフリーデが暮らしていた故郷の実家より広いし、天井もやたらと高い。
ベッドもやたらと横にも縦にも大きいし、毎日、メイドが部屋を整えにやってくる。
大衆娯楽小説の中で描かれる貴族の暮らしそのものという感じ――着替えの服も、すぐにちょうどいい感じのが用意されていたし、何から何まで好待遇だ。
相応に値が張りそうな白シャツとジーンズに身を包んで、あまりに居心地がよすぎる部屋に対して苦悶の声をあげた。
「陰謀だ、わたしを堕落させようとしている……!」
ごろごろとベッドの上に寝転がる。ウェーブしたくせっ毛の頭髪が、白いベッドシーツの上に広がる。ふかふかしていて寝心地抜群のベッドは、軍の宿舎の硬いベッドとは明らかに値段の桁が違っていそうだった。
バレットナイトを駆使する竜騎兵小隊だった関係で、少なくとも最前線の歩兵に比べればはるかにマシな待遇だったとはいえ――いや、やはりベッドの質は次元が違う。
最高によく眠れるのは否定できない。
――これじゃまるっきり客人扱いじゃないか。
どうやら自分は、伯爵様が自らバレットナイトでお迎えに上がるほど執心されているようなのだが。
どうにも買いかぶられている気がする。
確かに戦地では〈剣の悪魔〉だの〈魔女〉だの、物々しい二つ名を頂いていたが――所詮はプロパガンダの材料に過ぎないのに、とエルフリーデは思う。
本土の東海岸に上陸されるほど押し込まれていた時期の帝国軍が、将校から下士官まで綺麗に吹き飛んだ機甲猟兵の生き残りを持ち上げて、ノリで野戦任官(下っ端を一時的にえらい地位につけること)させただけである。
不死身の英雄などいない。
一区画を丸ごと消し飛ばすような砲撃の雨を叩き込まれれば、為す術なく乗機を破壊される程度の人間。それがエルフリーデの自己評価であった。
そもそも基準がおかしい――常人ならばそのような危機的状況に陥る前に戦死している――ことについては、さらりと流していく。
戦地で小隊を指揮していた頃は毎日が必死だった。少女は常人の普通――つまりは部下や同僚に求めていい能力値の限度――について認識していながら、けろりとこれを自分に適応しないことが可能だった。
つまりは変人なのである。
それにしても暇である。
食事の時間は決まっているし、外出もできないからやることがない。かつてはよく親しんでいた私物の文庫本がちょっぴり恋しくなった。
エルフリーデの趣味は読書だ。
そして摂取すべき活字が尽きていると、暇つぶしに筋トレをする習性が彼女にはあった。
上着とジーンズを脱いで腕立て伏せでもするかな、と思案した刹那、控えめなノックの音。
「イルーシャ様」
年若い青年の声。
「ああ、どうぞ。鍵は開いていますので」
失礼します、という声と共にドアが開く。姿を現したのはすらりと手足の長い、執事服を身にまとった青年だった。
少し垂れ気味の目元が愛嬌になっている。
彼はクロガネの従者ロイ・ファルカ。
口ぶりから察するにどこかの下級貴族の出らしい、金髪碧眼の青年だ。例によって美形である。貴族というのは美男子でないといけない決まりでもあるのだろうか。
摩訶不思議である。エルフリーデの身の回りの世話をするメイドは別にいるのだが、かの伯爵絡みの要件のときは彼が連絡しに来る。
「イルーシャ様、旦那様がお呼びです」
剣呑な雰囲気を漂わせる主とは異なり、柔和な微笑みを絶やさない青年は人当たりがすごくいい。
如何なる時も微笑みを絶やさない本物のプロという感じだ。
どうやら件の伯爵様が、エルフリーデを呼びつけているらしい。最後にあの男と言葉を交わしたのは三日前で、多少、バレットナイトについて意見を交わした。
バレットナイトはベガニシュ帝国陸軍の機甲戦力の一つで、見た目通り、身長四メートルの巨人である。
人間の二倍以上はある背丈に合わせて、
歩兵よりも装甲が分厚く、車輪で走行する
それがバレットナイトである。
一応、これを運用する3321独立竜騎兵小隊の長だったエルフリーデには、相応の見識があった。たぶん自分は、バレットナイトを動かすために雇われた傭兵のようなものだろう。
ロイの後ろをついて行く。
向かう先はこの屋敷の主の執務室――といってもここは別邸なので仮のものだ――だ。
伯爵に面会するとなったら、普通はもっと着飾るのだろうが、徹底した実務家らしいあの男はそういう虚飾を好まなかった。
そこはまあ、エルフリーデとしては気楽でいいのだが。
分厚い木製のドアがノックされ、ロイと扉の向こうの主のやりとりがして。
扉が開かれた。
やたらと高そうな机と椅子に納まって、長身の男がこちらを見やる。鋭い目つきの奥、黄金色の瞳がじっとエルフリーデを映している。
ヴガレムル伯クロガネ・シヴ・シノムラ。異国風ということはわかるが、一体どこの名付けなのか見当もつかない奇妙な響き――少なくともベガニシュ風ではない。
黒髪金目の男が口を開いた。
「来たか、犬」
「――不快です」
エルフリーデの意思表示は素早かった。いきなり繰り出された主人への無礼にも、従者ロイ・ファルカは慌てない。彼は柔和な笑みを崩さず、無言でエルフリーデとクロガネのやりとりを見守っている。
ここまで自身の存在感を消せるのはすごいな、と少女が感心するぐらいに自己主張がない。
少女からの苛烈な反応にも動じず、クロガネは頷き一つ。
「納得する必要はない。お前の意思は、常にお前自身のものだ」
「……先日は選択の余地がない状況だった気もしますが……」
「気にするな、不幸な出会いだったが、俺は最大限の努力をもって契約を遵守する」
この男、これで微笑みの一つも浮かべない仏頂面である。
古代の神殿に飾られている神々の像みたいに表情を変えないクロガネに、エルフリーデはひとまず矛を収めることにした。
目を閉じて口を閉じた少女に対して、伯爵の言は唐突であった。
「ベガニシュ軍では、エルフリーデ・イルーシャのあつかいは作戦行動中行方不明だ。数日以内にお前の妹が軟禁されている場所も特定できるだろう」
「……そうですか」
驚くべきことではない。
今のエルフリーデ・イルーシャは軍にとって厄介者である。
たとえ死体が確認できない情勢であろうと、軍を二分する貴族派の都合次第で戦死扱いまでスムーズに書類がでっち上げられるだろう。
そしてエルフリーデが指揮していた3321独立竜騎兵小隊はすでに解体済みだ。自分がいなくなったことで影響を被る人間は、思いのほか少ないのだ。
ゆえに今、少女が気にするのは人質扱いの妹のことだった。
「ティアナの身の安全は、大丈夫なんですか?」
「今のところはな。連中も彼女の処遇を決めかねている。あるいはお前の妹としてプロパガンダに利用する腹づもりかもしれん」
「…………つくづく、ろくでもないですね」
「同感だ。いずれにせよ、すぐに危害を加えることはない。お前自身のネームバリューを少しは信じるがいい、英雄」
あんまりな物言いに、エルフリーデは閉口した。
自分の英雄としての名声に価値があると言われても、それが原因で殺されかけた身としては困る。
そんな少女の気持ち――しらけた表情になっていたと思う――など気にも留めず、クロガネはエルフリーデの顔を見た。
その左目から左頬にかけて走った傷跡を、一瞬、目をすがめて見つめて。
「お前のためのバレットナイトを手配する。ティアナ・イルーシャの救出作戦では、お前にも働いてもらう」
何の感情も込めず、そう言った。
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