第4話 運命か人為か

  神の摂理(創造主である神の意志、または自然界の法則)、或いは運命で動いている人間がいる。一方で、その場・その時の人間の考えから発する言動で(その場・その時を)生きている人間が存在する。

  私が18歳の頃から見て(接して)きた人間とは、この二つに大別することができます。


  私の場合、ごく自然に人間くさい「人間擬き」とは疎遠になり、真の人間・運命で生きている人間とは、こうして何らかの関わり合い・絆を持ち続けています。まるで、前世からの約束であるかのように、来世への新たなる契約であるかの如く。 → 「何億・何光年分の物語を語りに来たんだよ。(RADWIMPS)」


  同じ茶碗でも、使わなくなれば捨てられてしまうものと、長年、更には親子代々にわたり使い続けられるもの、とがある。

  人間も同じで、使い捨てポリ容器のような一過性の存在もあれば、神の意志によって・天界の巡り合わせによって、すなわち「運命」によって、その「役割・寿命」が与えられる者が存在する。


  私は大学日本拳法時代より今日まで「大学日本拳法を哲学する」ことで、「大学日本拳法とは運命的なる人間になるための(一つの)道である」と考える(確信する)ようになりました。

  優勝する・昇段する・納会で酒を飲んでバカ騒ぎをする、等々の事象は一つの位相にすぎない。「花や実のなることばかりを求めず、生き物として・生命体として、大自然の理に適った成長こそが根本であることを無意識に思い出し、その「元を尽くす過程で生じた花や実を楽しむ」ことを人生として、これまで歩んできたようです。


  数多(あまた)ある星のうち、人間という生命体の存在が確認されているのはただ地球のみ。

  それと同じように、地球上に何十億人いようとも、その「元」に忠実に生きている人間に出会うのは、藁のなかにある針を探すくらい機会が少ない。

  とは言っても、アメリカン・インディアンのように「グレート・スピリット」で生きることで、その位相を変えることを実際に行っている人たちが現実に存在するし、大自然と共に生きるエスキモー、各地の原住民とは、まさに「大元(おおもと)・根源」で生きている人間です。

  「YELL」で謳われた「ほんとうの自分を、誰かの言葉で取り繕う」ことなく、「ありのままの弱さと向き合う強さ」を持つ人間とは(この地球上には)確かに存在するのです。


摂理 :創造主である神の意志。または、自然界を支配する法則節理 :ものごとの筋道。また、岩石中に見られる規則正しい割れ目。


「位相を変える」→「サヨナラは別れの言葉じゃない.それぞれの道へと僕らをつなぐYell」(歌「YELL」) YELLエール(声援)。

 

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