第16話

 空を赤く染めだした夕暮れ時。

 空夜は麻莉亜の手を引いて湖へと近づいていく。


「帰りなさい、空夜君。もうすぐ夜になるわ」

「帰る場所なんてないよ。僕は家族に捨てられたんだから」

「世話をしてくれる人達がいるでしょう。心配をかけては駄目よ」

「いいんだ、麻莉亜様が気にかけてくれるだけで。今日も麻莉亜と一緒にここに来ることが出来た。神様に願いが届くひと時に」


 空夜は嬉しそうに空を見上げる。

 夜が訪れる前のひと時、湖を赤く染める夕陽。


「麻莉亜様が教えてくれたんだよ。夕暮れ時、湖に現れる神様のことを。毎日お願いしてるんだ、ひとつだけの願いを」


 麻莉亜の長い髪を揺らす風、僕達をも包み込むそれはやけに冷たい。


「僕を早く大人にしてください。麻莉亜様をお嫁さんにして、誰よりも幸せにしてあげるんだって」

「空夜君……私は神様にすべてを捧げた身。誰との結婚も許されはしない。それに君は」

「わかってるよ、子供のままだって言いたいんだろ? どんなに願っても大人になれやしないって。それでも……僕は、麻莉亜様が」


 空夜の顔が赤いのは夕陽のせいじゃない。


「何よりも大事なんだよ。幸せにすることに大人も子供も関係ない。僕は麻莉亜様のためならなんだってする」

「君の気持ちは嬉しいわ」

「だったら待っててよ、僕が大人になるのを」


 ピシャンッ


 気のせいか?

 今、湖面で何かが跳ねたような。


「君と出会ったのは、私が神様にすべてを捧げたからこそよ。安寧を願い、祈るために訪れた孤児院」

「僕に近づいた時、麻莉亜様が眩しく見えたんだ。一緒にいたいって思った。そう思ったのは麻莉亜様だけなんだよ」

「私が祈る者ではなかったとしたら? 町ですれ違うだけならそうは思わないでしょう?」 

「意地悪なこと言わないで。僕は本気で」

「君の想いには答えられないのよ……わかって」

「わかるくらいなら、好きにはなってない」


 ピシャンッ


 まただ、何かが跳ねた。

 目には見えないものが。


「ルイスは気づいた? 湖の中、何かが動いたのを」

「わからないわ、水の音は聞こえたけど」


 何が跳ねるんだ?

 魚?

 それとも、僕達が知らない水棲動物。


 夕陽が闇に飲まれ、夜が訪れた。

 離れ見える教会。


 見上げた空に浮かぶ月。


「新月ね」


 麻莉亜は呟いた。


「願いを叶えてくれるのは新月も同じよ。たぶん、私が教えた神様より優しいもの」


 寂しげに微笑み、麻莉亜は空夜の手を握る。


 空夜の手の中で何かが音を立てた。

 広げられた手の上、月明かりが照らすもの。

 それは深紅の石の首飾りだ。


「これは?」

「私だと思ってほしいの。私は、もうすぐ……この世から消える」

「なんだよそれ、死んじゃうって言わないよね‼︎」


 震えだした空夜。

 彼の小さな手が麻莉亜の体を包む。


「僕が子供だからって‼︎ 突き放すならもっと」

「私が君に、嘘をついたことがある?」

「信じない‼︎ そんなこと誰が信じるもんかっ‼︎」

「私に会っていたら、嫌でも信じることになるの。だからもう、ここに来ては駄目」

「どうしてわかるんだよ、自分が死んじゃうなんて。麻莉亜様は祈るだけじゃないかっ‼︎ 神様の代わりにに……人々の幸せを」

「それだけじゃないわ。私の命は、神様を生かすためにある」


 ルイスと顔を見合わせた。

 どういうことだ?

 神様を生かすって。


「湖に棲むのは、人の命を吸い生き続けるものよ。それは神ともあやかしとも呼ばれている。住人の安寧を願い祈るのは、生き餌として選ばれた者だけ」

「麻莉亜様が選ばれたって言うの? どうやって? どうして……麻莉亜様なんだよ」

「ご先祖様から引き継いだ運命よ、家族の誰かが犠牲になり次々に繰り返されるもの。それを私が引き継いでしまっただけ。……それに」


 空夜を前に、麻莉亜は肌を晒していく。

 月明かりが照らす裸身を前にあとずさった空夜。


 蛇を思わせる硬化した肌と女の体とは違う——


「男? ……麻莉亜様が?」

「私は双子の弟として生を受けた。姉は生まれてすぐに死んでしまったけれど。両親は私を女として育てたわ、死んだ姉の分も私が生きるようにと。わかったでしょう? 君の想いに答えることは出来ないのよ。君が想ってくれても、生き餌として……私が選ばれていなかったとしても」

「嘘だっ‼︎ こんなの全部嘘だっ‼︎」


 闇に落ちた世界、逃げるように駆けだした空夜。

 あとを追い見えだした孤児院の中。

 笑い合う子供達の中、空夜はひとり離れ座り込む。空夜を気にかける者はいない。


「麻莉亜様。僕は……麻莉亜様がいればいいんだ」


 空夜の手の中で、乾いた音を立てた首飾り。





 湖に向かう日々が続いた。

 夜まで待ち続けても麻莉亜は現れない。


「なんでだよ。僕は……麻莉亜様のためになら」


 ピシャンッ‼︎


 水が跳ねる音が響く、いつもよりも大きな音で。

 僕達の目を引き寄せたもの。


「なんだ……あれ」


 赤い夕陽に照らされる中。

 空夜を覆い濡らす水飛沫。


 その中に光輝くものがある。

 ギョロギョロと動くそれは……巨大な目だ。


「何ガ出来ルノダ、子供ヨ」


 しゃがれた声が空夜を包む。

 水が喋ってる?

 まさか、そんなことが‼︎


「我ノ生キ餌ガソンナニ恋シイカ? 生キ餌ノタメニ何ガ出来ル?」

「なんだって出来るさ。僕は死んでも」


 スブリ……


 肉が切れる音と空夜を染める血。


「死ンデモ……何ダ」

「麻莉亜様を愛する‼︎ 麻莉亜様と一緒にいたいんだ」

「ナルホド。生キ餌ト引キ変エ二、我ニ差シダスモノハ何ダ?」

「そんなのあるもんか。家族も友達もいない、僕には麻莉亜様しかいないんだよ‼︎」

「話ニナラナイナ。慈悲ヲト思ッタガ」

「僕を喰えばいい。亡霊になってでも麻莉亜様のそばにいられるなら」

「肉ナド美味クハナイ、我ハ綺麗ナモノヲ好ム」


 水と混じり合い、花を赤く染める空夜の血。

 空夜の口から血が滴る。

 力なく倒れ込んだ体。


「花カ……ナント美シイ。決メタゾ、人間ノ子供ヨ」


 ズズ……


 水が生き物のように流れ動く。

 地面を這いずり、花を飲み込みながら。


「生キ餌ト引キ換エニ、花ヲ貰ウトシヨウ。ダガ……生キ餌ハモウスグ死ヌ。我ガ全テノ花ヲ飲ミ込ムマデ、オ前ニ力ヲ与エヨウ」

「花? ……力」

「思ウママニ生キヨ、我ノ力ヲ秘メシ者ヨ」

「……麻莉亜様」


 空に浮かぶ新月。

 血塗れの空夜が姿を変えていく。

 幼い体から大人の体へと。

 地面に落ちた小さな服、一瞥し教会へと走りだした空夜。


 たどり着いたのは麻莉亜が眠る部屋。


「麻莉亜様、叶えたよ。僕は……大人になったんだ」


 空夜が近づき見えるのは、硬化し柔らかみを失った顔。途切れ途切れの息、それは麻莉亜が死を迎えることを告げる。


「麻莉亜様。返事を……聞かせて」


 硬化した頬に触れた手。

 空夜へと微かに動いた目。


「聞かせてよ、お願いだ」


 麻莉亜の手が伸びる。

 空夜が身につける首飾りへと。深紅の石が光輝く、空夜に答えるように。


 麻莉亜に顔を近づけ、空夜は深々と口づける。

 空夜の背中へと、伸ばされた手が力なく落ちた。


 冷たくなった麻莉亜。空夜が抱きしめた体は、砂となり床へと崩れ落ちた。


「答えてくれたね、麻莉亜様。僕は……あなたの想いと共に」


 空夜の体から落ちた首飾り。

 割れ砕けた石が作りだしたのは、美しい女性ひとの体。麻莉亜と同じ顔が空夜に微笑んだ。


「麻莉亜、僕だけの……美しい人」








 朝の光が、教会から出た空夜と麻莉亜を包む。

 空夜の手の上にある小さな棺。中にあるのは砂になった愛しい人。


 ふたりは肩を並べ湖へと近づいていく。

 棺を……深く沈めるために。

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