第5話

 砂礫世界を夜の闇が包み込む。

 紺碧の空に浮かぶのは新月だ。


 新月には願いが叶う。

 そう伝えられるのはいつの時代からなのか。


「花を呼ぶんだ」


 闇の中、誰かの声が聞こえる。

 それは優しく懐かしい響きだ。


「花を呼ぶんだ、世界から消えた美しいものを。想いを祈りに変えて、願いを力に変えて呼び寄せる。いつかはこの世界に美しい花を。僕達を繋ぐのは……不変の愛」


 闇の中温かい手が頬を撫でる。

 待ち続けた……ひとりだけの。


「サラ……僕の、ただひとりの姫君」


 サラ?


 この名前は……






 見えるのは部屋の天井。

 僕の中に響く、夢の中で聞いた名前。


「……サラ」


 声は確かにそう言った。

 砂礫世界にもサラという姫君が?


「まさかな、そんなはずは」


 僕と同じ顔の残像が浮かぶ。

 艶やかな黒髪の漆黒の姫君。


 ルイスと話す中紗羅の名前が出た。

 広場での出来事を思いだす。

 僕に会いに来るはずの姫君。考えていたことが夢に出てきただけのことだ。


 ベットから出て窓に近づく。


 外を歩く人がいるかもしれない。

 少しだけカーテンを開け見えるのは、降り続く雨と夜が近い夕暮れの町。


 昼の食事を終えルイスと別れたあと。部屋に入るなり猛烈な睡魔に襲われた。誰かの手が瞼を覆ったような奇妙な感触。

 抗えず眠りについた午後。


 振り向き見える本棚と古びた本の群れ。

 ルイスが教えてくれた。ダリアが死に別れた夫は、人一倍の読書好きだったと。閉じ込められる中、手にする本のどれにも文字と線が書き込まれている。感銘を受けたものや忘れてはいけないもの。ダリアの夫は勉強熱心だったのか。


 本を眺めながら思う。

 ルイスの知的さは父親から受けた影響だ。

 ダリアに買われこの町に来なければ、僕は父さんのようになっていたんだろうか。酒に溺れ、女遊びに明け暮れるいつかの未来。

 母さんと羅衣羅の笑顔を奪い去る日々が……もしかしたら。


 部屋の外、ガタゴトと賑やかな音が響きだした。

 夕暮れ時。

 それは酒場が客を呼び寄せ賑やかさに包まれだす時だ。賑やかさは夜遅くまで続く。


 僕が物乞いを演じる中、ダリアは酒場でひとり仕事を続けている。皿に盛り付ける料理やつまみ、そのひとつひとつを作り込む。カウンターとテーブルを拭き窓と床を丁寧に磨きあげる。

 綺麗に洗われたおしぼりとグラス、選び抜かれたこだわりの酒とワイン。

 従業員が店に来るのは夕暮れの少し前。

 開店準備はすべて、ダリアがひとりでこなしている。


 僕とルイスには、金の亡者に見えるダリアだけど。

 従業員にとって、ダリアは神様のような存在らしい。仕事がなく、食べることに困っていた彼らを雇った。報酬を払うだけじゃない。店じまいのあと、厨房に残った料理とつまみはすべて従業員に配る。


 ダリアが秘め隠す優しさの中、働いている従業員達。

 僕も違う形でダリアに会っていたら。

 物乞いなんて馬鹿なことじゃなければ……ダリアを見る目は違ってるかもしれないのか。


 酒場から響く話し声と笑う声。

 いつもならそれを聞きながら眠りにつくはずだけど。


「寝れるかな……今夜」


 やけに目が冴えている。

 少し寝ただけなのに。


 暗くなりだした部屋。

 窓の外に見える月。

 ルイスから聞かされている。今日は願いが叶うという。


「「新月だ」」


 ゾクリとしたものが僕を震わせた。

 僕の呟きに重なった誰かの声。なんだ……今の、聞き違いなのか?

 部屋の中、僕しかいないんだ。

 そうだ、聞き違いに決まってる。幽霊とか魔物とか、そんなものは物語の中にしかいないんだから。


 寝られなくても寝よう。

 朝になるまでベットから出ない。


 飛び込むように潜り込んだベッド。シーツを被り何も見えないようにする。僕を包む暗闇、それ以外には何もないんだ。


 思い浮かぶ紗羅と黒豹の残像。

 僕と同じ顔と獣の蒼く輝く目。


 ——サラ……僕の、ただひとりの姫君。


 あれは誰の声だったんだ?

 見えるのは砂に覆われた誰もいない世界。人がいない中、誰かに語りかけていた。

 僕に言ってないよな、夢を見てるだけなんだから。

 語りかけたのは男の声だった。男が男を……姫君と呼ぶはずもない。

 だけど、頬に残る触れられた感触。


 シーツを被っても酒場から響くのは相変わらずの賑やかさだ。顔は知らないまでも常連らしい声はわかるようになってきた。

 賑やかさに救われる。

 静けさは余計な考えを呼び寄せるから。





 ガシャンッ‼︎


 コップが割れる音。

 誰かが手を滑らせたのか。


 ガシャンッ‼︎

 ガシャンッ‼︎


 割れる音が続く。

 夜になったばかりなのにもう悪酔いした客が?


「やめておくれよっ‼︎」


 ダリアの大声が響く。


「あんた何者だ‼︎ 大事な客を」


 客が襲われてる?

 まさか盗賊が?

 響きだした叫び声と向かいのドアが開けられる音。

 ルイスだ。


 僕も行かなきゃ。

 ルイスは体を盾にしてでもダリアを守ろうとするだろう。ここには屈強な従業員もいる。ルイスの無茶を僕が止めなくちゃ。


「ルイス‼︎」


 ドアを開けるなり、振り向いたルイスと目が合った。見たことがないこわばった顔。


「酒場、何かあったのか?」

「わからないわ。お母さんの声がしたから」


 ルイスを追って店に向かう。


 叫び声に混じる鈍く響く音。おそらくはテーブルと椅子が倒されている。


「従業員まで、傷つけるなら私だけにしなっ‼︎」

「あいにくと僕には」


 ダリアの叫びに続いた声。


「女を痛めつける趣味はない」


 この声……僕は確かに聞いた。

 広場で聞いた、低く涼やかな。


 僕と同じ顔の——


 カウンターに続く扉。

 ルイスと顔を見合わせ僕が開けた。ルイスの前に立ち見回した店の中。

 倒れたテーブルと椅子、割れたコップと酒に濡れた料理。倒れる従業員と客の中立ち尽くすダリアと。


「来たか。……螺子」


 銀の仮面を被る黒衣の男。頭を隠すよう深々と被られたフード。傍らにいる蒼い目の黒豹。


 グルル……


 黒豹が唸り声を上げた。


「お母さんっ‼︎」


 ダリアへと駆け寄ったルイス。

 動けない。

 僕も行かなきゃいけないのに。僕がふたりを守らなきゃ。なのになんで……動けないんだよ。


 黒衣の男、あいつは確かに螺子と呼んだ。

 僕を知ってるのは何故だ? どうしてあいつは……紗羅と同じ声を。

 あの黒豹、広場で見たのと似てるような。


「迎えに来た。さぁ、僕と来るがいい」


 外された仮面とフード。

 あらわになったのは、僕と同じ顔と薄い灰色の髪。


 ドクドクと体中が音を立てる。

 どういうことだ?

 何もかもが僕と同じじゃないか‼︎


 ルイスに微笑む男。

 重なる姫君の残像。


 まさか……まさかこいつは‼︎


「僕は紗羅。もっともこれは、偽りの名に過ぎないが。詳しくは僕達の世界で話そうじゃないか。螺子……

「え?」


 こいつが言ったこと。

 夢の中と同じじゃないか。


 ——僕の……ただひとりの姫君。


 夢が本当のことだと言いださないよな。なんだよ僕を姫君と呼ぶなんて。

 僕は……男じゃないか‼︎

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