第9話
高等部校舎の玄関ホールで長尾智恵はローファーに履き替えて加地美鳥が来るのを待っていた。
無論,その前に水原光莉が来れば引き留めて話をしたかったのもある。
だが長尾智恵は少し前に屋内プールで水原光莉が非公式の新記録を叩き出したなどとは知る由もない。
「お待たせぇ,かなり待たせちゃった?」
「ううん,ついさっき来たばかりだよ」
加地美鳥がのほほんと声を掛けてきて合流し,2人で玄関ホールから屋内プールの見えるグラウンドへと出てきた。
(やっぱり,光莉はプールには居なさそう‥‥‥)
長尾智恵はプールの方を一瞥したが,もう練習が済んでいるのか見た限りではプールサイドには誰一人の姿もなかった。
遊歩道まで歩いてきた加地美鳥は漸く本題を切り出す。
「ねぇ,光莉と何かあったの?」
「えっ? 別に何もないと思うんだけど‥‥‥」
突然話し掛けられた長尾智恵はその問いに戸惑った。
「でも今朝の光莉の様子は明らかにおかしいよね。入学式以来,智恵はソフィアを気に掛けていたけど,例の一件を考えたら光莉がソフィアに自ら近づくなんてのもないだろうし。だとしたら光莉の態度は智恵への当て付けとしか思えないから」
確かに加地美鳥の言う通りだ。
当て付けでない限りあんな行動は有り得ない。
ただ当て付けされなければならないような喧嘩や諍いにも覚えはない。
「私が気づかないところで光莉を怒らせる何かをしちゃったのかな?」
「どちらにしても私が間に入るから光莉とは明日ちゃんと話をしよっ! ねっ? 私は8人の絆を壊したくない」
何が原因なのかさえ長尾智恵にも加地美鳥にも理解が出来ていないが,それでも加地美鳥は長尾智恵と水原光莉がいつもの仲の良い状態に戻ってほしいから何でもするつもりでいた。
加地美鳥が視線を向けると目が合い,長尾智恵は少し恥ずかしそうに視線を落とす。
「あれ? そういえば,美鳥ってそんなペンダント着けていたっけ?」
朝は気づかなかったが,長尾智恵は目に入った加地美鳥の胸元のペンダントについて訊いていた。
「あっ,これ! これはね‥‥‥」
登校時,加地美鳥は制服の中にペンダントを隠していたらしい。
持ち物検査でもあって取り上げられたら目も当てられないからだ。
何より帰りに長尾智恵に見てもらい感想を聞きたくて,待ち合わせ前に着用したのだった。
「昨日の夜,御祖母様からもらったの,誕生日のお祝いに」
「あれ? 美鳥の誕生日って5月だよね?」
「御祖母様は春先に入院して昨日退院してきたから漸く戴いたの。誕生石のエメラルドのなんだぁ」
「そう言えば,そんな話していたね。退院できたんだ,おめでとう。それにしてもそのペンダントいいね。私もそんなの欲しいな!」
「ありがとう。それにこれは御祖母様が曾祖母様に16歳の誕生日に戴いたもので,代々うちに娘が生まれると16歳の誕生日に上げると決めたんだって。何でも御祖母様が16歳で婚約したのもあったらしいけど」
「へえ。そんな由緒あるペンダントなんだ」
加地美鳥の話では昨夜はその同居している祖母の退院と快気祝いに家で豪勢に食事会をしたそうだ。
「ところがね‥‥‥」
そこに顔見知りの芸能事務所のマネージャーが訪問してきて,玄関先で空気を読まずにあまりにもしつこく勧誘してきて,私の腕を掴んで連れ去ろうとするものだから,父親が追い返し「もうあんな事務所に関わるな!」と激怒したとか。
「ほら,覚えている? 智恵も会ったことあるんだけど‥‥‥そのマネージャーさん,普段なら空気の読めない態度はしないと思うんだけどね。本当にどうしちゃったのかな?」
「えっ,あの人が‥‥‥実は昨日の方が素だったりしてね」
「まさか‥‥‥だとしても家族の前なんだから機嫌を取るならまだしも怒らせるのは愚策だよ」
「まあ,言われればその通りかな」
お蔭で祖母の退院のお祝いの和やかな雰囲気も滅茶苦茶にされてしまったそうだ。
始業式の前日にそんな事件があれば気落ちするのも分かる。
そんな長尾智恵たちの様子を教室の窓からじっと見つめる人影があった。
『次こそは失敗できぬ‥‥‥』
そう呟くとその人影はスーッと教室の闇へと吸い込まれて消えた。
同時刻‥‥‥千坂紅音は完全防音の施された音楽部部室内の個室に置かれたピアノの前に座り,独り演奏に集中していた。
音楽部の練習は音楽室とは別になるこの部室で行われる。
音楽部は学院にある講堂で開催されるコンサートやリサイタル,クリスマスの賛美歌,大晦日の第九などの学内活動と学院外で催される学生音楽コンクールへの参加がある。
千坂紅音は弾き語りを最も得意としており,その実力は音楽プロダクションや有名なレコード会社からも勧誘があるほどだが,まだ高校生という身分であること,聖ウェヌス女学院高等部の学校規則もあり,「アマチュアとして活動したい」とオファーを一切断っている。
加地美鳥の場合は初等部入学前から子役として芸能事務所に所属し活動しており,入学の際に特例として認められた。
アマチュアの最高峰であるコンクールに於いて中学の時は声楽部門で優勝したので,高校ではピアノ部門で優勝するのが目標になり,今はピアノ曲の最高難度と言われる曲の一つベートーベン作曲ピアノソナタ第23番【熱情】をコンクール本選で披露しようと練習を積み重ねている。
楽聖と呼ばれるルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの代表作で日本で有名なのは第14番嬰ハ短調【月光】で,探偵アニメで殺人事件の題材などにも使われたりしているが,【熱情】は作曲人生の中で中期に於ける傑作と呼ばれるうちの1つで,ピアノソナタとして第8番・【悲愴】ハ長調作品53,第14番【月光】と列せられる。
【熱情】は過去には怪盗アニメやボクシングアニメに使われていた。
初級から上級まで難易度を5段階で表せば上級に当たり,流石に高校1年生では難かしいと思われる曲だが,春にエントリーした時点で高校3年間のうちにこの曲でコンクール優勝を目指すと心に決めていた。
まだ今のところ演奏を完全に成功させたことはないが‥‥‥
(この曲を完璧とまでは言えなくても最後まで満足のいく演奏するのは私には無理なのかな?)
どうしてもネガティブな気持ちが頭を擡げてくる。
頭を振るともう一度弾き始めた。
第一楽章では【熱情】というタイトルとは思えない弱音の分散和音から奏でられ,交響曲第5番【運命】で有名な「ジャ,ジャ,ジャ,ジャーン」の擬音で表現される動機が囁くように入り,緊張感を高めながら下降音型が静寂を破る。
【運命】の冒頭で劇的に現れる動機は当時ベートーヴェンが交響曲第5番【運命】のスケッチも開始していたからだと言われている。
曲調はタイトルのように激しく燃え上がる感情を露にするように展開していく。
第二楽章では明るく穏やかな曲調に変わり,回想シーンを語る雰囲気を醸し出すが,拍節の強拍と弱拍のパターンを変えて独特の効果を齎すシンコペーションの第1変奏,右手から奏でられる16分音符が滴り落ちる雨粒を思わせ主題が隠される第2変奏,更に32分音符まで細かくなり主旋律と声部を交代しながら進行する第3変奏と続く。
第三楽章ではディミニッシュ・セブンス・コードと云われる強い減七の和音が打ち鳴らされ力強いファンファーレを思わせる不協和音の連打で始まる。
16分音符が途切れることのない川の流れのように奏でられて印象的なリズムを刻んでいく。
強弱を繰り返しつつもラストに向けて力強さと速度を増していき駆け巡るような旋律を響かせて終曲を迎える。
(また駄目だった‥‥‥)
思い描いた通りの演奏が出来なかったと落ち込む千坂紅音は鍵盤の蓋を閉じて立ち上がった。
樋口ソフィアはホームルームが終わると直ぐに教室を飛び出し,ウェヌス・ウェルティコルディア礼拝堂に来ている。
昨日はすっかり礼拝するのを忘れて帰宅してしまった。
(昨日と言っても日付は一緒だから昨日という訳ではないかもしれないけど‥‥‥)
少し言い訳を考えながら礼拝堂の扉を押した。
(聖ウェヌス女学院に編入してから4か月間,土日祝日も含めて毎日ここでの御祈りを欠かさなかったのに‥‥‥)
聖マリア像の掲げられた祭壇の下で跪いて胸の前で手を握り静かに瞼を閉じる。
2学期を迎えてからこの3日間,樋口ソフィアの周囲はおかしい。
毎日続く始業式の日‥‥‥しかも樋口ソフィア以外は繰り返される9月1日を誰も気づいていない節がある。
(昔,お母さんのファンだという有名なアニメの映画でも文化祭の前日がループするというのを聴いたけど,まさか私が同じ事態に置かれるとは思わなかった)
それにまるで友だちができる気配すらなかったというか,声を掛けてもらえなかったのが,この2日で本庄真珠と水原光莉に話し掛けられた。
(とは言ってもまだ朝の登校時だけだけど‥‥‥何で急に彼女たちから声を掛けてくるようになったのかな? そこは未だに分からない‥‥‥)
休み時間や放課後にも彼女たちと話をしたいけど,部活動で直ぐに教室を出てしまう所為か全然タイミングが合わない。
ただ独りでないというのは嬉しいことでもある。
御祈りを済ませたソフィアはウェヌス・ウェルティコルディア礼拝堂を出たところで振り向いて見上げた。
「そういえば,夏休み最後の日に御祈りしていて‥‥‥誰かに話し掛けられてからだよね‥‥‥」
その時,誰に声を掛けられたのか正体は分かっていない。
その声の主は友だちを作ってくれると言っていた。
確かに本庄真珠と水原光莉は少なくとも友だちへの一歩を踏み出した。
その声の主が関わっているのか,始業式の日という同じ1日を繰り返し体験もしている。
早く繰り返される始業式の日という状況は何としてでも解決したい。
迎えるであろう明日という日が始業式の翌日になるのか?
それともまた始業式の日なのか?
もうそれは日が明けないと分からない。
この強烈な不安はどうしても拭えない。
(今の私って,夢を見ているだけなのかな?)
頬を抓ってみるが,痛い。やはり現実のようだ。
(病院を受診した方がいいのかな? でもこの状況を何と説明したらいいのかな‥‥‥睡眠障害とか? 過眠症とか? それで記憶が曖昧になっていると言うのが一番いいのかな?)
帰宅した樋口ソフィアは一先ず始業式の日が明けて,授業が始まる事を期待して鞄に明日の授業の準備を済ませた。
「今日も早く寝てしまおう‥‥‥」
頭が痛いとか熱があるとかではないけれども,樋口ソフィアは今置かれている状況から現実逃避しようと布団に潜り込み,何もかもを忘れて眠りに就いた。
彼女は肉体と精神に起きている異変にまだ気づいてはいなかった。
『それで首尾の方はどうだった?』
『イエス,マイロード。やはり,また失敗してしまいました』
『何? お主程の実力者でもまた駄目だったのか?』
『申し訳ございません。どうも彼女が肌身離さず身に着けているアクセサリーが影響しているようです』
『アクセサリーと言うとエメラルドのネックレスか‥‥‥』
エメラルドはダイヤモンド,サファイア,ルビーと並ぶ世界四大宝石の1つで5月の誕生石として,古代エジプト・プトレマイオス朝の女王にも愛され,彼女専用の鉱山すら存在した程だ。
石言葉は幸運や幸福,安定や希望だが,神の栄光や恵みを象徴している。
『彼女の中で神の分霊が眠っているという噂はなかったし,心魂に神の因子が混ざっている感じもなかった‥‥‥だとすれば,あのネックレスがこの世界の神の加護を享けているということか‥‥‥』
『そのネックレスを外させればシンクロできますか?』
『うむ,その可能性が高いな。ただ一時的に外させても,また着用されてはシンクロが切れてしまうだろう。あくまで己らは彼女の中にある負の感情を喰らうためにシンクロさせているだけだ。何か方法を考えねばなるまい』
『あのエメラルドに問題があるのなら代わりのネックレスを着けさせるのはどうですか?』
『用意は出来るか?』
『出来ます』
流石に2度の失敗に加えて用意が出来なければお払い箱にされると思い答えてしまったが,もう口に出したのだから無理を承知で遣るしかなくなった。
『では頼んだぞ』
本当なら痛みなど感じないはずの存在なのに,胃に穴が開くのではないかと感じるくらいに痛みを覚えながら辞去した。
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