第8話

2020年9月X日X曜日‥‥‥

チュン,チュン,チュン‥‥‥

ベランダの柵に留まりお互いを啄ばむ雀の囀りと窓のレースのカーテン越しにベッドに差し込む朝日の眩しさに樋口ソフィアは目を覚ました。

枕元の時計を確認すると表示は5時30分で,ここまではこの2日間と変わらない。唯一違うのは昨日の寝るまでの記憶はしっかりとあることだ。

それだけでも気分の持ちようが違うというもの。本当に清々しい。

今日の支度も昨晩のうちに済ませてあるので,あとは何時もと同じように朝飯を摂り学校に向かう。

(昨日の夜は何かとんでもない経験をしたような気がしたんだけど‥‥‥いったい何だったんだろう)

ヤルダバオトとの邂逅は彼女の記憶の奥底に埋もれていた‥‥‥


「おはよう!」

「おはようございます!」

「はい,おはよう」

久しぶりに顔を合わす友だちや正門前に立つ教師と挨拶を交わしながらわいわいと賑やかに女子生徒たちが女学院内に入り,遊歩道をそれぞれの校舎へ向かって歩いて行く。

「ねぇねぇ,夏休みどうだったのよ?」

「これ,写メ見て,これが新しい彼氏! 夏祭りでナンパされたんだけどぉ‥‥‥大会に出られるほどテニスが上手でぇ,スマートで身長も高いしぃ‥‥‥それから,それから‥‥‥」

「いいなぁ,私は花火大会の時に二股掛けてた彼氏に振られちゃったし‥‥‥」

「ほら,そこの3人は学校の入口でそんな会話はしないように!」

女子生徒たちが一昔前の初心で夏休み明けには何処でもありそうなお約束の,他愛もない会話を交わしていて,嬉しそうに自慢げに話す子もいれば,どよーんと沈みダンマリを決めて涙ぐむ子もいる‥‥‥そばで生徒指導の教師に会話を聞かれてツッコミを喰らっている。

「はぁ‥‥‥やっぱり,またなんだ‥‥‥」

聖ウェヌス女学院の正門まで来た樋口ソフィアは深い溜息を吐く。

この2日間とまるっきり同じ光景を見てしまう。

もう自分がどうかしてしまったとしか言いようがない。

こうなると誰かにこの事を話したところで信用してもらえないどころか頭がおかしい娘と思われるのが関の山だろうと感じている。

樋口ソフィアはこの場から逃げ出したくなる気持ちを抑えながら大きく溜め息を着くと同時に背中をポンッと叩かれた。

「ソフィアちゃん,おはよう!」

(ここもまた一緒か‥‥‥)

思わず樋口ソフィアはうんざりとした気持ちになった。

「あっ,いや‥‥‥うん,おはよう」

「何かあったの?」

「別に何にも‥‥‥」

樋口ソフィアの背後から声を掛けてきたのは長尾智恵だった。

考え込んでいた樋口ソフィアは思わず長尾智恵の声にふといつもと違う感じで応えていた。

長尾智恵もそう感じて,樋口ソフィアの顔を覗き込むようにして聞き返していた。

ここまでも昨日と一緒なのかと樋口ソフィアはさらに憂鬱になる。

「もしかして,今日って‥‥‥始業式‥‥‥だよね?」

「うん,そうだけど‥‥‥どうしたの? 何かあったの?」

(何かあったのじゃない‥‥‥私の置かれた立場を分かっていて訊いてくるのは態となの?)

「いや‥‥‥何でもない‥‥‥」

陰鬱となる樋口ソフィアは戸惑いながら答える。

長尾智恵は彼女のいつもと違う様子を敏感に捉えていたが,言葉を間違っていた。

(また‥‥‥今日も始業式なんだ)

樋口ソフィアはますます憂鬱な気持ちに堕ちていく。

そんな彼女に考え込む余裕を与えず,背中をポンッと軽く叩かれた。

2人の後ろから声を掛けてきたのは水原光莉だった。

水原光莉は長尾智恵ではなく樋口ソフィアの左腕と取り腕を組んで来た。

「さっ,いいから早く教室に行こうよ!」

「えっ? 水原さん?」

水原光莉は組んだ腕を外して,今度は樋口ソフィアの制服の袖を引っ張る。

「えっ,ねぇ,本当に何か間違ってない?」

「何が?」

あからさまに戸惑う樋口ソフィアは水原光莉に尋ねてみるが,そんなのは我関せずの水原光莉は樋口ソフィアをグイグイと引っ張り,連れていく。

見るからにその力は女子高生のものとは思えない力強さだった。

あっという間に2人の姿が離れていく。

「光莉,いったいどうしたの‥‥‥?」

長尾智恵はそんな光景を見ながら,いつもと違う雰囲気に何が起きたのか分からず呆然と立ち尽くしてしまった。

「おはよう,智恵。‥‥‥って,どうしたの?」

「あ,いや大丈夫だよ。心配させてごめんね」

「あれ? 下駄箱の所に居るの光莉じゃない? その隣にいるのは‥‥‥えっ,ソフィア‥‥‥ちゃん?」

長尾智恵の後ろから声を掛けてきたのは加地美鳥だった。

茫然自失となって立ち尽くす長尾智恵を心配して加地美鳥は両手で肩を掴んで揺すってくる。

長尾智恵は我に戻り返事をしたが,今度は加地美鳥が目の前に起きているあり得ない光景に驚愕している。

「正直,光莉ってソフィアちゃんの事どうでもいいって感じで口も利かなかったのにね。何かあったの?」

「さぁ,私にもさっぱり‥‥‥とりあえず,光莉とは帰りに話しをすればいいかな‥‥‥」

加地美鳥と長尾智恵の会話を割くように予鈴のチャイムが鳴る。

急いで教室に入ると長尾智恵は水原光莉に話し掛けようとしたが,その前に本庄真珠に掴まり,その直後,担任の山県朋未が現れて教室移動をクラスの生徒全員に促した。

仕方がないので委員長である長尾智恵はクラスメイトを廊下に並ばせてウェヌス・ウィクトリクス講堂に向かうように指示をする。

確認でチラ見をすると列の後ろの方で水原光莉の隣には本庄真珠が居て話し掛けている。

その様子は普段と変わらず,その光景に安心した長尾智恵は気持ちを切り替えて始業式に向かった。


ウェヌス・ウィクトリクス講堂での始業式が終わって,生徒たちは各自の教室に戻り,ホームルームが始まった。

1年A組では担任の山県朋未が席替えや新学期のカリキュラムの説明など諸々の伝達を淡々と進めていく。

座席は長尾智恵は窓側に近い前寄り,水原光莉は廊下側の真ん中辺り,加地美鳥は教壇の正面で一番後ろ,樋口ソフィアは教壇の正面一番前になった。

樋口ソフィアは今朝の水原光莉の急変した態度に加えて,自分にだけ始業式の日が3日も続くというのがどうにも腑に落ちず山県朋未の話に身が入らない。

長尾智恵は水原光莉の今朝の態度が気になってはいたが,先ほどの本庄真珠との様子で若干不安を拭えており,クラス委員という立場と元来の真面目さから教師の話には集中するようにしていた。

そんな対照的な2人に我関せずと水原光莉は至極普通に教師の話に耳を傾けている。

(今朝の智恵への態度を見ると光莉と何かあったのかな?)

そんな長尾智恵,水原光莉,樋口ソフィアの様子が加地美鳥は気になって仕方がなく,考えを巡らせながら3人を見続けて,あまり山県朋未の話に身が入らないでいた。

「‥‥‥では,これでホームルームを終わります。委員長お願いします。」

「起立! 礼!」

長尾智恵の合図でクラスメイトたちは立ち上がり,一礼する。ホームルームが終わり,礼を直り,長尾智恵は水原光莉と話をしなきゃと席を見たが,そこにはすでに水原光莉の姿はなかった。

(あれ? 光莉はもう練習に行っちゃったのかな?)

そうすると加地美鳥が長尾智恵に声を掛けてきた。

「私はこの後,部活動あるけど智恵は何か用事がある?」

「いや,私は特にはないけど‥‥‥」

「私の部活動が終わるまで待っててくれる?」

「うん,いいけど‥‥‥」

「じゃ,絶対に待っててね。待ち合わせは玄関ホールね。今日は新学期の顔合わせだけだから1時間もあれば終わるから」

「うん,分かった」

そう言い残すと加地美鳥は教室を出て行った。

「さてと,どうしようかな。ソフィアちゃんもいないし,今日は生徒会の引継ぎはもうないけど,生徒会室に顔を出しておこうかな」

水原光莉と話のできなかった長尾智恵は樋口ソフィアと話ししてみようかと思ったが,彼女も既に教室には居なくなっており,加地美鳥との待ち合わせまで生徒会室で時間を潰すために移動した。

(何かこんな遣り取りを昨日もしたような‥‥‥でも昨日は夏休み中だから有り得ないか‥‥‥)


屋内プールでは水原光莉の所属する水泳部がウォーミングアップを始めていた。

今日は秋の大会に向けて出場する選手がタイムを取ることになっている。

準備運動の終わった水原光莉たち競泳選手はまず軽く流して泳いだ。

それが済むとそれぞれ競技のタイムを計る。

水原光莉の種目は200m個人メドレーだ。

「On Your Mark‥‥‥」

ビーッ!

一瞬の静寂を破り笛の音を合図にスタートを切りプールに飛び込む少女たち。

その中,先頭を泳ぐ水原光莉は2番手の選手をグングンと引き離していく。

(水を上手く掴めている? これならタイムが上がるかもしれない‥‥‥)

飛び込んで直ぐに今日の調子がいいと考えられる程の余裕がある。

(ストロークがいつもより少ない)

その異様とも云えるスピードに周囲で見ていた水泳部部員をはじめ,顧問の穴山麻鈴は彼女の泳ぎの変化に気づき目を丸くする。

ここは25メートルの短水路プールなので折り返しが多く加速しやすいのを加味してもそのタイムは標準記録を上回っている。

水原光莉はバタフライが苦手だったので,次の折り返しでタイムが落ちると周囲で見学していた水泳部部員たちは思っていた。

(ここからが問題ね‥‥‥)

穴山麻鈴も同じ考えだった。

でもバタフライでさらに加速する水原光莉を見て呆然としていた水泳部部員たちは歓声を上げ始める。

(凄い! バタフライであんなに滑らかなストロークで泳げるなんて!)

息継ぎで顔を上げると正面から彼女の方に向かって泳いでくる他の泳者の姿が目に入り,差が開いているのも認識した。

ゴール板にタッチした水原光莉が顔を上げた一瞬,プールは他の泳者の泳ぐ音だけが響き全員がゴールすると静寂に包まれる。

ゴールでタイムを取っていた記録係の部員はそのストップウォッチに計時された数値を見て絶句している。

その刹那,光景を見ていた水泳部部員たちはまさに声にもならない叫びとも云える大声を上げた。

穴山麻鈴はすぐさま水原光莉の記録係の部員が手にしているストップウォッチを奪い取り,その画面を覗きこむ。

表示された数値は非公式な記録とはいえ高校生記録どころか,女子水泳の日本記録にも匹敵するものだった。

水原光莉は優秀なスイマーではあるが,いくら何でも女子水泳の記録を出せるほどの実力はまだない。発展途上なのだ。

穴山麻鈴は中学生の時から見て来ているからこそよく知っている。

だが何が起きたのかも同時に理解できている。

仮にドーピングでもしたのならそのタイムは有り得るが,学校の練習レベルで薬物投与などは意味がないし,彼女がドーピングを絶対にするわけないと信じている。

だからと言って計り間違いもないだろう。

あの泳ぎを見ていれば,そんなことは思えない。

「全員練習を止めて! みなさん,一旦休憩ね!」

穴山麻鈴は水泳部部員たちにそう声を掛けると,直ぐに馬場佐波のいる学長室へと急いで向かった。

「光莉,おめでとう!」

「水原さん,すごいじゃん!」

「うん,ありがとう! みんな,ありがとう!」

プールから上がった水原光莉の周りにプールサイドで観ていた水泳部部員たちが輪になって集まりお祝いの声を掛ける。

一緒に泳いでいた泳者はプールから上がれない程に脱力し呆然としていた。

水原光莉はその輪の中心であまりの喜びに我を忘れそうな心地になっている。

屋内プールは興奮の渦に包まれていた。

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