第7話
水原光莉は水泳部部員たちと別れて駅から電車に乗車して帰宅の途に就いていた。
珍しく独りでの下校でシートも空いていたので腰を下ろし,疲れと心地良い電車の揺れに身を任せて眠ってしまった。
どのくらいの時間眠っていたのか分からないが瞼を開けると彼女は周囲に一切陸地の見えない大海原の真ん中に漂っていた。
(えっ,どういうこと?)
立ち泳ぎしながら全周を見回したが陸地も船も空に飛行機も見当たらない。
明らかに夢だろうと思い,頬を抓ってみると存外痛い。
(‥‥‥ということは現実?)
彼女の服装は聖ウェヌス女学院の制服だった。だが,持っていた鞄はない。
(確か,膝の上に載せて抱えていたはずなのに‥‥‥)
水を舐めてみると塩分を感じない。真水だ。
(だとしたら海ではない? でも,陸地も見えないほどの大きな淡水湖なんて在り得ない)
世界最大の湖はカスピ海だが塩湖だ。淡水湖であれば北アメリカのスペリオル湖で東西は563キロ,南北は257キロで面積で言えば北海道より大きいので,もしかすると岸が見えないのも納得できる。
(納得は出来るけど,私の乗っていた電車は何処に行ってしまったの? どうやって日本からアメリカ東海岸に近いこの地まで来たというの?)
物理的にワープや転移でもしたというのなら分からなくもないが,一介の女子高生にそんな能力は備わっていないはずだ。
それにまだここがスペリオル湖と決まった訳ではない。
どっちに向かって動けばいいのかすら分からない状況だが,何時までもこのままの状況では力尽きてしまう。
水に浸かる夢であれば一番の問題は失禁の可能性だ。ましてや自分の部屋のベッド寝ていた訳ではない。夕方の通勤ラッシュで周囲を見ず知らずの乗客に囲まれている。
その中で高校生にもなって失禁という事態に為れば‥‥‥と考えただけで赤面してしまう。しかも目を覚ませばそれだけでは済まない。
水に入る夢‥‥‥特にその水が綺麗であれば吉夢とも言われると以前加地美鳥に教えて貰ったのを思い出した。ただ,それは本人の気の持ちようだとも‥‥‥
それはさておき,夢ならば現実に戻らなければならないし,現実ならば岸を探さなければならない。
(どうしようか?)
何方にせよ,悩んでいる場合ではないのだが,こういう時に自身の優柔不断さが恨めしく思うが,迷いを消して泳ぎ始めた。
クロール,ブレストストローク,バックストロークと泳法を試すが水の抵抗が思いの外強く,身体は浮くが前に進めない。
(まさか,バタフライでないと進めない?)
立ち泳ぎの状態で大きく深呼吸をし意を決してバタフライで泳ぎ始めた。
今までのような水の抵抗を受けることなく,返って後方から水の推進力が加わってくるみたいでいつもとはスピードが違う。
(それに腕の振りと腰の動きの連携が明らかに違う‥‥‥)
顧問の教諭にも教えを請い,動画で正しい泳ぎ方や速く泳ぐ方法も見て実践してきてもタイムは伸びず,自分には向いていないと感じていた。
(それが少しの修正でここまで変わるものなの?)
手首,腕,腰,脚の動きがかっちりと噛み合ったのだと泳ぎながら感じ,さらにフォームが綺麗になっていく。
聖ウェヌス女学院の施設にも個人トレーニング用の流水プールはあるが,あくまで流れに逆らい泳ぎフォームをチェックするためのもので,水原光莉もバタフライのフォームチェックに利用したことがある。
もしかすると逆流が原因でフォームが崩れたのかもしれないとさえ思えた。
それはともかく初めてバタフライを泳いでいて楽しい。
感覚的には彼是数時間は泳ぎ続けているが,永遠に泳いでいられるとそんな錯覚を覚える。
暫くして,ブレスで顔を上げた瞬間に正面の水平線に陸地の影らしきモノが目に飛び込んできだ。
バタフライを止めて立ち泳ぎでジッと見遣ると確かに陸地だった。
漸く陸地に上がれる嬉しさが溢れてくるが,同時に不安も湧き起こる。
(そもそも,ここが何処かは分からない)
もしかすると地球上ではない可能性や小説にある異世界という可能性もある。
現に彼女の感覚では数キロでは済まない距離を泳いでいた。
広大な海とも湖とも言えるこの水域には波が立っていない。
凪の状態だから水面が静まっているのはおかしくはないが,四方を山に囲まれる風の弱い内海でもなければ凪が数時間も続くとは考えられない。
(仮にここがスペリオル湖上としたら有り得るのか,私に知識がないだけのことなのだけど‥‥‥)
ともかく陸地が見えてきたのだから目指すしかない。
彼女はまたバタフライで泳ぎ始める。
また,数時間泳ぎ続けて彼女は足の着く岸に辿り着き,水から上がって岸辺にへたり込んだ。
(やっと着いた‥‥‥)
その安心感からゴロリと寝転ぶと「はぁ‥‥‥はぁ‥‥‥」と息が上がっていて視線を落とすと胸が激しく上下しており,案外疲れていたのだと自覚する。
そのまま瞼を閉じると眠りに就いたが,直ぐに肩を揺すられる。
「お客さん,終点ですよ」
「‥‥‥はい?」
目を開けると乗車していたバスの中だった。
バスの運転手さんが終点に着いたので起こしてきた。
「終点‥‥‥ですか? えっ,終点?」
水原光莉は驚きを隠せなかった。
彼女の乗車した路線バスは界隈では有名な長距離路線バスで,終点ということは山に近いことを意味していた。
「折り返しって,まだありますよね?」
「まだありますが,このバスは一旦車庫に引き上げるので,降りて頂かないといけません」
「すみません」
料金を支払ってバスを降り,バス停の時刻表を見る。
既に時刻は20時を回ろうとしている。
次のバスは最終で30分ほど待つことになる。
スマートフォンを取り出して母親に電話を掛けた。
「もしもし。あっ,お母さん? ごめんなさい。バスで寝過ごして終点まで来ちゃった。これから戻るから10時頃になるかも‥‥‥」
「もう,何やっているの? 部活で疲れていたんでしょ。バスで戻らずにタクシーで戻っていらっしゃい。その方が早いでしょ?」
「でも,所持金額が全然足りないかも」
「タクシーなら降りる時に払うんだから家に着く少し前に電話を掛けてちょうだい。お母さんが払ってあげるから,いいわね?」
「分かった。ごめんなさい。ありがとう,お母さん」
電話を切るとタクシーを拾うために表通りに向かって歩き始めた。
『おう,戻ったか。それで成果はどうだった?』
『イエス,マイロード。無事にシンクロできました』
『ほう,そうか。それはよかったな』
『ところで,先ほど通路で擦れ違った者がいたのですが,随分と項垂れておりました。何かありましたか? 幾ら声を掛けても気付かずに素通りしていましたもので‥‥‥まさかシンクロできなかったとか,ですか?』
『‥‥‥ああ,弾かれてしまったようだ』
『えっ,弾かれた? 本当ですか? 人間の,しかも少女にそんなことが可能なのですか?』
『うむ。完全に不可能ではないのだが,俗に仙人とか聖人と呼ばれるレベルに達しなければ無理だ。少女の年齢でシンクロを弾いたというのは流石に聞いたことがない』
『そうなのですか‥‥‥』
顎に手を当てて少し考え込み,『失礼しました』と言うと辞去した。
『これで2人が手に入った。そろそろ儂も動いてみてもいいか‥‥‥』
樋口ソフィアは黄葉に染まった秋景色の菩提樹の並木道の中央にある散策路に立っていた。何時から此処に居るのかは覚えていない。
後ろを振り向くと聖ウェヌス女学院の正面のものとは違う5つの入口を持つアテネの神殿を模した門が見える。
目を凝らすと門の上には四頭立ての馬車クアドリガに乗る勝利の女神ヴィクトリアの姿があるので確かだ。
(この景色,以前に見た覚えがある‥‥‥そう,ドイツのベルリン‥‥‥パパの転勤で半年程住んでいたベルリンのブランデンブルク門‥‥‥ということは此処はウンターデンリンデン‥‥‥)
編入試験を受験する際,聖ウェヌス女学院の敷地に入って菩提樹の並木道を見て,樋口ソフィアは直ぐにウンターデンリンデンを思い出して懐かしさを感じた。
学院の並木道が南北に伸びるのに対してウンターデンリンデンは東西に伸びており,朝夕の登下校時に受ける陽射しに違いがある。
(あの好きだった並木道‥‥‥)
友達が居なくて外で遊ぶのがあまり好きではなかった彼女にとって忘れられない好きな街の景色の1つだった。
左右を見遣れば大きな通りが貫いている。
(‥‥‥だとすれば,Uバーンの6号線が地下を走るフリードリヒ通りとの交差点‥‥‥)
でも現在は母親の故郷である日本の実家で寝ていたはずでドイツに居る訳がない。
(‥‥‥ということは夢よね?)
それにしてはバーチャルとは違い物凄くリアリティー感があるが,もう1つ違いがあった。
ウンターデンリンデンのこの辺りの通り沿いには日本で青と白のロゴのハンドクリームで有名な化粧品の店や信号機の赤と緑のランプに描かれた男児をモチーフにとしたキャラクターグッズを販売する店をはじめカフェがあったはずだが,目の前にあるのは学院の建物だった。
振り向けば,本物のウンターデンリンデンであれば,フンボルト大学やベルリン国立歌劇場,ドイツ歴史博物館があり,その先にはフンボルトフォーラムとして再建中のプロイセン王宮と向かいには高さ114メートルの巨大なドームを持つベルリン大聖堂があるはずだった。
しかし,視界に映ったのは左右に並ぶ学院の校舎と図書館や百周年記念館,大聖堂の位置にはウェヌス・ウェルティコルディア礼拝堂が立っていた。
冷静に分析すれば,通りと建物のサイズ感がおかしいと感受できた。
(学校とベルリンが混在している‥‥‥やはり,明らかに夢ね)
何方にせよ,夢なら醒めればいいだけだ。でもその方法がいまいち掴めない。
(どうすれば目が覚めるの?)
『どうすれば‥‥‥等と考えてもこれは普通の夢ではないから醒めぬよ』
(えっ,誰?)
その言葉は耳を通じ音として認識したというよりも脳内に直接響くように語り掛けてきたという感覚だった。
それが余計に彼女に夢ではないかと思わせた。
『我はヤルダバオト。其方たち人間にはこの世を創造した【偽の神】とか【混沌の息子】と呼ばれておる』
(何故,そのような御方が私の夢に現れたのですか?)
『其方は悪とも謂われる我が怖くはないのか?』
(そうですね。どうしてでしょうか‥‥‥畏怖は感じますが恐怖ではないです。それに初めてお会いした感じではないのです。遠い昔にどこでお会いしたのか‥‥‥)
『そうか。やはり,其方はあの方の分霊を持っておるようだな』
(あの方の分霊とは?)
『それについては追々の話だ。我の口からは語れぬ。あと,敬語でなくともよい』
(そうですか? 分かりました)
『これから其方はこの世界に巣食う異物を排除しなければならない』
(異物,ですか?)
『ああ,そうだ。今回は前以て其方にその情報を与える』
ヤルダバオトには何か陰謀めいた隠された情報があり,それは【偽の神】としての立場にある彼でも樋口ソフィアに明かせないのだろうと勘付いた。
『今は我も力を貯めている最中だ。もう少しすればその力を其方に分け与えられるようになる。総てはそれからだ』
(了解しました。あと着かぬことを伺いますが,時間がループしているのも貴方の仕業ですか?)
『いや,それは違う。状況を利用はしているが,我にこの世界で時間を改変するだけの能力も権限もない』
(そうなのですか‥‥‥だとしたら時間をループさせている者が遺物ですか?)
『その可能性もあるが,我にはそこまで分からぬのだ。済まぬ。もう質問がなければ,其方をこの夢の世界から解放しよう。そろそろ我の力も限界だからな』
(訊きたいことは‥‥‥あると言えばありますが,何から訊いていいのか分からないので,またの機会があれば今度でいいです)
『そうか‥‥‥それではまた会おう』
視界を遮る濃霧が広がり,ヤルダバオトは霧散して消えた。
それと共にウンターデンリンデンと聖ウェヌス女学院の混ざった風景も消えて樋口ソフィアは暗闇の世界に包まれる。
彼女が次に目を開けるとそこは自分の部屋だった。
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