第6話

高等部のグラウンドでは本庄真珠の所属する陸上部がウォーミングアップを始めていた。今日は秋の大会に向けて出場する選手がタイムを取ることになっている。

顧問の秋山美夏は昨日,自分が不在の時に熱中症の事案が発生したために本庄真珠の参加を止めたが,本人はここでタイム計測に参加しないと大会へ出場するチャンスすらないと知っているので,是が非でも参加すると言って聞かなかった。

秋山美夏は様子を見て駄目なら強制的に止めるのを条件に参加を認めた。

準備運動の終わった本庄真珠は他の短距離走の選手と200mのタイムを計る。

「位置について! ‥‥‥よーい! ‥‥‥」

「‥‥‥パーン!」

渇いた空砲の音を合図にスタートを切りトラックを駆け始める少女たち。

その中で本庄真珠は異様な加速力で2番手の選手をグングンと引き離していく。

その光景を周囲で見ていた陸上部部員をはじめ,顧問の秋山美夏は唖然として目を思わず丸くする。まさにあっという間の出来事だった。

ゴールでタイムを取っていた部員はそのストップウォッチに計時された数値を見て絶句する。

「うわあぁぁぁぁ!」

その刹那,光景を見ていた陸上部部員たちは思わず声にもならない叫びとともに本庄真珠の周りに駆け寄った。

秋山美夏はゴール地点に駆け寄り,記録係の部員が手にしているストップウォッチを奪い取り,その画面を覗きこむ。

そこにあった数値は非公式な記録とはいえ高校生記録どころか,女子陸上の日本記録にもほぼ匹敵するものだった。

本庄真珠は優秀なスプリンターではあるが,いくら何でも女子陸上の記録を出せるほどの実力はまだない。何せ高校1年生なのだから。

秋山美夏は何が起きたのか理解できないでいる。

ドーピングでもしたのならあり得るが,学校の練習でそんな事しても仕方がないし,本庄真珠を中学生から見ている秋山美夏からしたら彼女がそんなことを絶対にする訳がないと知っている。

だからと言って計り間違いもないだろう。

あの走りを見ていれば,そんなことは思えない。

「真珠,おめでとう!」

「本庄さん,すごいじゃん!」

「うん,ありがとう!ありがとう!」

陸上部部員たちは先輩も後輩も関係なく本庄真珠を中心に歓喜の輪を作り祝いの声を掛ける。本庄真珠はその輪の中心であまりの喜びに我を忘れそうな心地になっていた。

「皆は一先ず,小休止ね! 本庄さんは一緒に来て」

秋山美夏は部員たちを掻き分けて歓喜の輪の中に入り,声を掛けると直ぐに本庄真珠を連れて馬場佐波のいる学長室へと向かった。

「まあ,それは立派な成績ね。スポーツ特待を検討してもいいわ」

スポーツ特待生は学費免除に加えて親元を離れて百周年記念館で寮生活となり将来を嘱望される立場になる。

ただ現時点で本庄真珠はその申し出を辞退した。

学内の非公式な記録だけで特待生になっても地区大会で同じように記録を出せるとは考えていなかった。

秋山美夏は彼女が特待生になることで長いイップスから解放されて自信を取り戻して欲しいと願っていたのだが‥‥‥


長尾智恵は高等部校舎の玄関ホールの下駄箱の前で加地美鳥を待っていた。

もちろん,本庄真珠が現れれば引き留めて今朝の話をしたかったのもある。

つい先ほどグラウンドで本庄真珠が200m走で非公式とはいえ日本記録に並ぶタイムを出していて,その報告するのに帯同して学長室に行っていることは彼女に知る由もない。

「お待たせぇ,かなり待たせちゃった?」

「ううん,ついさっき来たばかりよ」

加地美鳥がのほほんとした感じで声を掛け,長尾智恵と合流し,2人で玄関ホールからグラウンドの見える外へと出てきた。

「やっぱり,真珠は居ないかぁ‥‥‥」

グラウンドでは先程の興奮が冷めやらぬ陸上部部員たちが練習を再開している。

長尾智恵はトラックを走る陸上部部員たちの姿を目で追うが,その中には本庄真珠はもちろん居なかった。

遊歩道まで出てきた加地美鳥はようやく本題を切り出す。

「ねぇ,真珠と何かあったの?」

「えっ? 別に何もないと思うんだけど‥‥‥」

長尾智恵は加地美鳥の問いに戸惑っていた。

夏休みが始まるまでは特に仲が悪くなるようなこともなかった。

夏休み中は本庄真珠は陸上部の練習や合宿であんまり会ってなかったけど,メールや電話のやり取りも普通にしていた。

だから「拗れるようなこともなかった」と信じたい。

仮に樋口ソフィアと仲直りしたとしてもそれが長尾智恵を無視する理由にもならないだろう。

「でも真珠の今朝の様子は明らかにおかしいよね。智恵はソフィアのことを気に掛けていたけど,入学式前後でのあれを考えたら真珠がソフィアに自分から近づくなんてのもないだろうし。だとしたら,真珠の態度は智恵への当て付けとしか思えない」

「私も気がつかないところで真珠に何かしちゃったのかな?」

「どちらにしても私が間に入るから真珠と明日ちゃんと話をしよっ! ねっ」

長尾智恵には何が起きたのか理解ができていないが,それでも加地美鳥は長尾智恵と本庄真珠がいつもの2人に戻って欲しいから,そのためには何でもするつもりでいた。

「それに‥‥‥」

「それに?」

「いや‥‥‥いいや」

長尾智恵にはホームルームの終わった後のことが気になっているのだが,それはあまりに漠然としていて加地美鳥に現時点でどう説明すればいいのか? 

言葉に出来ないと感じていた。

そんな長尾智恵たちの様子を教室の窓からじっと見つめる人影があった。

『次は,あの娘‥‥‥』

そう呟くとその人影はスーッと教室の闇へと吸い込まれて消えた。

学院の正門でバスに乗車して最寄り駅に向かうのだが,バスの中で加地美鳥は形容し難い違和感に襲われていた。

2人掛けの椅子に座り肩の触れる距離に長尾智恵が居るのだが,本庄真珠には間に厚い見えない壁が立ち開かって手を伸ばしても届かないと感じていた。

まるで長尾智恵が別の空間に飛ばされてしまったような感覚に原因はアリス症候群かとも思ったが,インターネットで調べると子供が罹り易いと記載されていて自分は子供ではないと意地を張り目を閉じた。

(駅に着くまで少し寝よう)

大人でも片頭痛を原因として起こるアリス症候群だが,今回の原因はそれではない。

彼女の深層意識にある精神体が侵入したために拒絶反応を起こしたのだが,気がつくのは少しばかり後のことになる。


『マイロード,御報告しなければならないことがあります。実は‥‥‥』

『何っ,シンクロできなかった? お主の格なら人間とシンクロさせるのは問題ないはずだろう?』

『はい。ですが,弾かれてしまいました』

『弾かれたのか? まさか,我々でも突破できない防壁を張っていたとでも言うのか?』

『いえ,体内には侵入できました。ですが,深層意識を侵蝕しようとするとブロックされた‥‥‥というよりも強制的に体外に排出させられたという感じでした』

『それにしてもそのような術者が科学の蔓延るこの時代に存在するとは思えんのだが‥‥‥もしや,記憶の次元のアクセスできる超越者か?』

『僭越ながら記憶の次元など神の領域さえも超越していなければ無理かと‥‥‥我らですら記憶を次元にアクセスするのが精一杯ですし』

『うむ。ましてや人間に記憶の次元にアクセスできる者が居るとは思えんな』

『それ程の力を持っているのなら緻密に準備を進めなければならないな‥‥‥』

『申し訳ございません』

『よい。但し,次は失敗できないと思え』

深々と立礼すると黒い影は消えた。

『まさか‥‥‥有り得ぬな』


高等部のグラウンドの奥にある屋内温水プールでは水泳部部員たちが練習に励んでいた。

ここには長尾智恵たちのクラスメイトである水原光莉が次の大会に向けて競泳200m個人メドレーのトレーニングをしていた。

(やっぱりバタフライでタイムが落ちてしまう‥‥‥)

成績は次のインターハイで学校代表になれるレベルではあるが,どうしてもバタフライが弱点でそこで順位を落としてしまうのが難だった。

「光莉はバタフライのタイムさえ何とかできれば,個人メドレーでオリンピック強化選手にだって選出される」

周りからもずっとそう言われ続けており,自分自身でもそうだと思っている。

だからこそ歯痒くて歯痒くて仕方がない。

バタフライはクロールに次ぐスピード泳法でフォームに敏感な泳法だ。

自身では綺麗に泳いでいるつもりでもタイミングの悪い部分があるのかも知れない。

水泳部顧問の穴山麻鈴と映像でチェックもしたがおかしなところはなく,自由形や平泳ぎで出場しないかと言われるも固辞している。

別に出場するのは他の自由形や平泳ぎなどの種目でもいいわけだが,そこは水原光莉なりの拘りがあった。

物心着いたころにはプールに浸かっていて,歩けるようになるよりも泳げるようになったのが早かったとまで云われた水原光莉の目標は日本の女子競泳選手としてオリンピックで金メダリスト最年少獲得記録を作り,「今まで生きてきた中で,一番幸せです」と語り一躍時の人となった選手で,単一の泳法ではなくメドレーのように総ての泳法で一番を狙いたいというのもある。

周囲の部員たちも顧問の教諭もそれを知っているからプレッシャーになる応援や言動を避けるようになっていた。

気を遣ってくれているから余計にプレッシャーになっているとも思わず‥‥‥

練習の終わった水原光莉は水泳部部員たちと帰宅の途に就いた。

(どうすれば‥‥‥バタフライのタイムを上げられるんだろう‥‥‥)

教本やインターネット,得意とする先輩のアドバイス,と有りと有らゆる方法を試してみたがタイムは伸びなかった。

一時期は諦めの境地にも至ったが,結局目指すべきモノが個人メドレーである以上,諦めがつかなかった。

高等部の校舎から視線を飛ばしてプールを見遣る人影があった。

『それでは次は,この娘だな』

その人影は北叟笑んでいた。


樋口ソフィアにとって今日は聖ウェヌス女学院に編入してから不可思議な1日だった。そう思わざるを得ない。

昨日だったはずの始業式‥‥‥なのに今日も始業式が行われた。

だとすると昨日の始業式は何だったのか?

でも今日の長尾智恵の反応は昨日の始業式を覚えていない様子だった。

(幾ら何でもあの子があんな他人を騙すような事はしないはず‥‥‥)

4か月という短い付き合いだが,それだけは確かだ。

加えて今朝の本庄真珠の態度もおかしかった。

(真珠は何時もなら私のことなんか気にも留めないのに‥‥‥智恵に目向きもせず,声も掛けずに‥‥‥ましてや私に絡んでくるなんて‥‥‥あり得ない‥‥‥それに始業式の後は真珠と喋ってもいないし,会ってもいない。だから真珠の真意が掴めない。真珠は夏休みの間に私との関係には何もなかったし‥‥‥まぁ,接触がないんだから当たり前だし‥‥‥それとも智恵との間に何かあったのかな? でもそれで私に絡んで来る理由にはならないよね)

昨日の抜けている記憶についても未だに思い出せないでいる。

正直,覚えている部分も断片的で細かいところまで思い出せない感じがする。

まるで自分が自分でないような感覚‥‥‥

今日も両親は帰って来ない。

お父さんは世界中を飛び回っていて次に帰って来るのは早くても来月になると言ってたし,お母さんは翻訳の仕事を何本か抱えていて締切が近いから最低1週間はホテルに缶詰めだろう。2人とも相変わらずの忙しさのようだ。

まだ暫くはこの家で樋口ソフィアは独り。

何時ものことだからもう慣れている。

「はぁ~,もう寝よう。明日からは普通に授業始まるだろうし‥‥‥」

樋口ソフィアはそう自分自身に言い聞かせて,まだ19時だが夕食も撮らずにシャワーで汗だけ流すと激しい眠気に打ち勝てず,パジャマに着替えてベッドにごそごそと潜り込んだ。

明日からは何時もと変わらぬ日常に戻っていると信じて‥‥‥

瞼を閉じて1分も経たずに彼女は夢の世界へと誘われていた。

まるで悪夢の神イケロスの罠に嵌ったかのように‥‥‥

そんな異様な1日だったから毎日欠かさなかったウェヌス・ウェルティコルディア礼拝堂でのお祈りを今日はすっかり忘れてしまっていた。

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