第5話
西暦2020年9月X日X曜日‥‥‥
チュン,チュン,チュン‥‥‥
ベランダの柵に留まりお互いを啄ばむ雀の囀りと窓のレースのカーテン越しにベッドに差し込む朝日の眩しさに樋口ソフィアは目を覚ました。
「う~ん‥‥‥あれぇ? 確か‥‥‥礼拝堂でお祈りをしていたはず‥‥‥」
惚けた頭で思い出そうとする。
少しずつと意識が覚醒し始めて,ベッドの周囲をキョロキョロと見回す。
そして此処が自分の部屋だと確認する。
タオルケットを捲るとパジャマも着ている。
枕元の時計を見ると5時30分だった。
昨日とまったく同じ状況‥‥‥まさにデジャヴというやつだ。
「今日から授業があるし,とにかく学校に行く支度をしなきゃ‥‥‥」
普段の樋口ソフィアなら就寝前に翌日の授業で使う教科書や参考書,ノートなどを鞄に詰めているのだが,明らかに支度をした記憶がないから慌てて準備に取り掛かる。
部屋を出て,いつもの日常と変わらず,制服に着替えて,洗面所で顔を洗い,歯を磨き,キッチンに入り朝食の用意をする。
そう何もかもが習慣のように‥‥‥普段と変わらずにパン・ド・ミのトーストと目玉焼きにベーコンと牛乳の朝食を済ませて,使ったお皿などを食洗器に仕舞い,スイッチを入れる。
「よし! 学校に行こう‥‥‥」
朝食のエネルギーを気合いに変えて玄関を出る。
学校に向かう道すがら昨日の出来事を思い返すが,一昨日と同じくウェヌス・ウェルティコルディア礼拝堂で気を失ってから起きるまでのことが思い出せない。というよりまるっきり記憶がない。
「本当に私,どうしちゃったんだろう‥‥‥」
ずっと考え込んでいたせいで周りの事をまるで気にしていなかった。
その疑問は正門の前に着いた時,違和感となって樋口ソフィアに襲い掛かる。
「おはよう!」
「おはようございます!」
「はい,おはよう」
久しぶりに顔を合わす友だちや正門前に立つ教師と挨拶を交わしながらわいわいと賑やかに女子生徒たちが女学院内に入り,遊歩道をそれぞれの校舎へ向かって歩いて行く。
「ねぇねぇ,夏休みどうだったのよ?」
「これ,写メ見て,これが新しい彼氏! 夏祭りでナンパされたんだけどぉ‥‥‥大会に出られるほどテニスが上手でぇ,スマートで身長も高いしぃ‥‥‥それから,それから‥‥‥」
「いいなぁ,私は花火大会の時に二股掛けてた彼氏に振られちゃったし‥‥‥」
「ほら,そこの3人は学校の入口でそんな会話はしないように!」
女子生徒たちが一昔前の初心で夏休み明けには何処でもありそうなお約束の,他愛もない会話を交わしていて,嬉しそうに自慢げに話す子もいれば,どよーんと沈みダンマリを決めて涙ぐむ子もいる‥‥‥そばで生徒指導の教師に会話を聞かれてツッコミを喰らっている。
「あれ? これって昨日同じ光景を見たような‥‥‥いや絶対に見た! それに一言一句一緒じゃない!? 何で? そうすると今日は始業式? ‥‥‥いや,そんなことはないよね。だって,始業式は昨日だったし。まさかドッキリ? でも私にそんなことしても何の意味もないし‥‥‥」
樋口ソフィアは思わず正門の前で立ち竦んでしまった。
一瞬,目の前で何が起きているのか理解に苦しむ。
まさかと思いつつテレビカメラを探すがそんなものは当然のごとく見当たらない。
辺りを見回した樋口ソフィアは困惑していたが,取り敢えず遊歩道に脚を進めて,高等部の入り口にいた担任の山県朋未に近づいていく。
「山県先生,おはようございます」
「はい,おはよう」
「あの,先生‥‥‥今日は‥‥‥始業式‥‥‥ですか?」
「今日は始業式ですよ。何を言っているのですか?」
樋口ソフィアは恐る恐る訊ねてみるが,それに対して山県朋未は怪訝そうな顔で答えた。
「ということは9月2日ではなく9月1日?」
樋口ソフィアは消えるような小声で呟き,山県朋未の訝し気な表情を見て,これ以上何か言うとおかしいと思われると感じ取ったからか,軽く一礼すると踵を返して校舎の方へとゆっくりと歩きだした。
樋口ソフィアは置かれている状況をまるで理解できなかった。
「ソフィアちゃん! おはよう!」
「あっ,おはよう‥‥‥」
「何かあったの?」
高等部の校舎の玄関ホール前で樋口ソフィアの背後から声を掛けてきたのは長尾智恵だった。
考え込んでいた樋口ソフィアは思わず長尾智恵の声にいつもと違う形で応えていた。
長尾智恵も違和感を覚え樋口ソフィアの顔を覗き込むようにして聞き返す。
「今日ってっさ‥‥‥始業式‥‥‥だよね?」
「うん,そうだけど‥‥‥どうかしたの?」
「いや‥‥‥何でもない‥‥‥もう,放っておいて‥‥‥」
迷いながらの樋口ソフィアの問いに戸惑いながら答える長尾智恵。
長尾智恵は樋口ソフィアのいつもと違う様子を敏感に捉えていた。
「お・は・よ・っ!」
「えっ?!」
樋口ソフィアに考え込む余裕を与えず,背中をポンッと軽く叩かれた。
2人の後ろから声を掛けてきたのは本庄真珠だった。
本庄真珠は長尾智恵ではなく樋口ソフィアの左腕と取り腕を組んで来た。
「さっ,いいから早く教室に行こうよ!」
「えっ? 本庄さん?」
本庄真珠は組んだ腕を外して,今度は樋口ソフィアの制服の袖を引っ張る。
「えっ,ねぇ,何か間違ってない?」
「何が?」
あからさまに戸惑う樋口ソフィアは本庄真珠に尋ねてみるが,そんな事は我関せずの本庄真珠は樋口ソフィアをグイグイと引っ張り,連れていく。
見るからにその力は女子高生のものとは思えない力強さだった。
「真珠,いったいどうしたんだろう‥‥‥?」
長尾智恵はそんな光景を見送りながら,いつもと違う雰囲気に何が起きたのか分からず呆然と立ち尽くしてしまった。
「おはよう,智恵‥‥‥って,どうしたの?」
「あ,いや大丈夫だよ。心配させてごめんね」
「あれ? 下駄箱の所に居るの真珠じゃない? その隣にいるのは‥‥‥えっ,ソフィア‥‥‥?」
長尾智恵の後ろから声を掛けてきたのは加地美鳥だった。
茫然自失となって立ち尽くす長尾智恵を心配して加地美鳥は両手で肩を掴んで揺すってくる。
長尾智恵は意識を取り戻し返事をしたが,今度は加地美鳥が目の前に起きているあり得ない光景に驚愕している。
「だってあんなに反目って言葉が合うくらいに口も利かなかったのにね。何があったの?」
「さぁ,私にもさっぱり‥‥‥とりあえず,真珠とは帰りに話しをすればいいかな‥‥‥」
加地美鳥と長尾智恵の会話を割くように予鈴のチャイムが鳴る。
急いで教室に入ると長尾智恵は本庄真珠に話し掛けようとしたが,間髪入れず担任の山県朋未が現れて教室移動をクラスの生徒全員に促した。
仕方がないので委員長である長尾智恵はクラスメイトを廊下に並ばせてウェヌス・ウィクトリクス講堂に向かうように指示をする。
確認でチラ見をすると列の後ろの方で本庄真珠の隣には加地美鳥が居て話し掛けている。
その様子は普段と変わらず,その光景に安心した長尾智恵は気持ちを切り替えて始業式に向かった。
ウェヌス・ウィクトリクス講堂での始業式が終わって,生徒たちは各自の教室に戻り,ホームルームが始まった。
1年A組では担任の山県朋未が席替えや新学期のカリキュラムの説明など諸々の伝達を淡々と進めていく。
座席は長尾智恵は窓側に近い前寄り,本庄真珠は廊下側の真ん中辺り,加地美鳥は教壇の正面で一番後ろ,樋口ソフィアは教壇の正面一番前になった。
樋口ソフィアは今朝の本庄真珠の急変した態度に加えて,昨日に続き今日も始業式だというのがどうにも腑に落ちず,考え込むあまり山県朋未の話には身が入らない。
長尾智恵は本庄真珠の今朝の態度が気になってはいたが,先ほどの加地美鳥との様子で若干不安を拭えており,クラス委員という立場と元来の真面目さから教師の話には集中するようにしていた。
対照的な2人に我関せずと本庄真珠は至極普通に教師の話に耳を傾けている。
「今朝の智恵への態度を見ると真珠と何かあったのかな? でも,さっき話をした感じではそんな素振りもなかったし。だからと言ってあれだけ毛嫌いしていたソフィアと仲良くできるものかな?」
長尾智恵,本庄真珠,樋口ソフィアの様子が加地美鳥は気になって仕方がなく,考えを巡らせながら3人を見続けて,あまり山県朋未の話に身が入らないでいた。
「‥‥‥では,これでホームルームを終わります。委員長お願いします」
「起立! 礼!」
長尾智恵の合図でクラスメイトたちは立ち上がり,一礼する。ホームルームが終わり,礼を直り,長尾智恵は本庄真珠と話をしなきゃと席を見たが,そこにはすでに本庄真珠の姿はなかった。
「あれ? 真珠はもう練習に行っちゃったのかな?」
長尾智恵は一礼の間ほんの一瞬だけ目を逸らした程度で,本庄真珠の姿を見失った事には動揺してしまった。そこに加地美鳥が長尾智恵の席に近づき声を掛けてきた。
「智恵,私はこのあと部活動があるけど,何か用事がある?」
「いや,私は特にはないけど‥‥‥」
「私の部活動が終わるまで待っててくれる?」
「うん,いいけど‥‥‥どうしたの?」
「理由はいいじゃない。じゃあ,絶対に待っていてね。待ち合わせは下駄箱のとこね。私は今日は新学期の顔合わせだけだから1時間もあれば終わるから」
「うん,分かった」
「じゃあ,1時間後にね」
加地美鳥は振り向きながら手を掲げて長尾智恵を教室に残して後側の扉から出て行った。
「智恵,私たちも部活動があるから行くね」
開け放たれた教室の前側の扉越しに廊下からひょこっと顔を出して呼び掛けてきたのは水原光莉だった。
「じゃあね!」
一緒に千坂紅音,安田晶良,齋藤由里,高梨瑠璃が手を振って姿を消した。
「さてと,どうしようかな? ソフィアちゃんもいつの間にかいなくなっているし,今日は生徒会の活動はないけど,会議室に顔を出して時間を潰そうかな」
本庄真珠と話のできなかった長尾智恵は樋口ソフィアと話ししてみようと思っていたが,彼女も既に教室から居なくなっている。
仕方なく加地美鳥との待ち合わせまで会議室で最近嵌っている小説を読んで待つ選択をした。
彼女が読んでいるのは神と呼ばれる管理委員会の実験体として製造された人間が文明を開化させて発展させていくとされるが実際には破滅に導くのが目的で,主人公たちが人類滅亡の邪魔をするのだが‥‥‥というのが粗筋だ。
(思い返しても何でこの小説に目を奪われたのかな?)
今まで好んで読んでいたのは恋愛小説や精々女性向けの異世界モノでこんな奇譚に手を出したのは初めてだった。
それでも読み始めると食い入るように何度も読み返してしまう程に嵌ってもう1年が過ぎている。
目が疲れてきて本を閉じて小休憩する。
窓の外のグラウンドからはまだまだ汗を掻く暑い空気の中で無心に走り込む陸上部部員たちの姿があり,本庄真珠も駆けていた。
高等部1年生ながらに部内での記録は3年生の先輩たちを凌駕するが,大会となるとどうしても伸び悩む。
(まだ,イップスを抱えているのかな?)
長尾智恵は本庄真珠の走る姿を目で追っている。
(それにしても今朝の真珠は少しおかしかったな‥‥‥)
樋口ソフィアが編入した来た当時はそうでもなかったけど,ゴールデンウィーク前には本庄真珠にしては珍しく毛嫌いから無関心を貫いていた。
あんなに無関心になるような事案が2人の間にあった訳はない。
ほぼ学校に居る間は一緒に居る機会が多く,唯一一緒に居ない部活動中なら樋口ソフィアが絡んだという話も聞かない。
確かに樋口ソフィアは当初日本語への理解がなく彼女の内向的な性格で友人を作れない雰囲気はあったが,本庄真珠がそれを理由に無関心になるなんて考え難い。
(いったい,何があったのか? それなのに昨日のあの感じから,今日は態度が急変したのか? 訊きたいことが一杯ある‥‥‥)
本庄真珠の走る姿を眺めながら長尾智恵は頬杖を突いて思案していた。
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