第4話

「樋口さん,体調が悪そうに見えたから‥‥‥」

長尾智恵はホームルームの始まる前に教室を出て行ってしまった樋口ソフィアについて担任の山県朋未に報告をした。

実際には体調不良ではないだろうというのを長尾智恵も,山県朋未も察してはいたが‥‥‥

ホームルームが終了すると今日から部活動があるため,本庄真珠たち運動部組は練習でグラウンド脇の各部室に,そして加地美鳥たち文化部組も校舎内のそれぞれの部室に向かう。

「私,ソフィアちゃんが心配だから探してくる!」

「別に彼女のためにそこまですることはないんじゃない?」

「私,クラス委員だし,ホームルームも終わったのに鞄もまだ教室に残っているから‥‥‥」

長尾智恵は本庄真珠に話し掛けながら8人で一緒に教室を出る。

どうも本庄真珠は樋口ソフィアと相性が合わないのか,未だに毛嫌いしている感じがある。

長尾智恵はクラス委員という義務感もあり,席に鞄を残してまだ戻ってきていない樋口ソフィアを探しに教室を出た。

校舎内,ウェヌス・ウィクトリクス講堂,体育館など高等部の敷地内の考えられる場所は全て探して回った。

どれくらいの時間が経ったのだろうか,走り回った長尾智恵は息が上がってしまっているが,結局樋口ソフィアを見付けられなかった。

「本当に‥‥‥ハァ,ハァ,何処に行ったんだろう‥‥‥ハァ,ハァ,もう帰っちゃったかな‥‥‥ハァ,ハァ,時間も時間だし,私もそろそろ帰らなきゃ‥‥‥」

長尾智恵は途方に暮れて教室に戻ると無人となり閑散とした室内に長尾智恵と樋口ソフィアの机にそれぞれの鞄だけが取り残されていた。長尾智恵は一旦自分の椅子に座り,息を整えてから自分の鞄を取り上げ,教室を出て廊下へと進む。

「ソフィアちゃん,戻って来なかったな‥‥‥」

長尾智恵は廊下に出て歩き始めるが,気になって教室の方へ振り向いては進み,また教室の方へ振り返りの動作を何度も繰り返してしまう。

下駄箱のところでちょうど帰宅する本庄真珠,水原光莉,安田晶良,齋藤由里,高梨瑠璃の運動部組と,加地美鳥,千坂紅音の文化部組と鉢合わせしたので一緒に帰ることになった。

「まさか,こんな時間まで探していたの?」

「やっぱりクラス委員長としては,ね」

「そこまでお節介焼かなくてもいいんじゃない?」

「うーん‥‥‥でもね‥‥‥いや,そうかもね」

これ以上は堂々巡りになりそうだと感じた長尾智恵は本庄真珠に同意した。

それに本庄真珠たち7人は長尾智恵の事が心配で一緒に帰ろうと待っていてくれたようだった。

本庄真珠は長尾智恵の手を取り玄関ホールから外へと引っ張っていく。

校舎を出て,ふと長尾智恵は自分の教室の窓を見上げる。

燃え上がるように真っ赤に染まるその窓のカーテンには何か人影が写っているようにも見える。

それは樋口ソフィアなのか?

正直,長尾智恵にも分からないが,誰かが居るのは確かだった。

長尾智恵は本庄真珠に引かれる手を振り切ってまでその正体を確かめようという気持ちは起きなかった。

後になって思えば,確認すればよかったのかもしれないのだが。

「せっかく一緒に帰るんだし,久しぶりにみんなで寄り道して何かスイーツでも食べていかない?」

「それもいいね。最近はこうやってみんなで一緒になることも少なくなったし!」

「じゃあ,何を食べて行く? 駅前のクレープなんかもいいね」

「私はチーズケーキがいいな。ローズマリーのハーブティーと一緒に」

「だったら喫茶店に入る? ほら有名なチェーン店のができたじゃない」

「ファミレスでもいいんじゃない? その方が安上がりだし」

「じゃあ,いつものとこだね! それでいいよね,智恵」

「うん,そうだね。任せるよ」

正門へと続く菩提樹の遊歩道を歩きながら本庄真珠,水原光莉,加地美鳥,千坂紅音,安田晶良,齋藤由里,高梨瑠璃の7人が思い思いの意見を出していても話は纏まっていく。

後ろをついて行く長尾智恵はその初等部の頃から変わらない光景をにっこりと微笑みながら眺めている。それがこの8人が10年間で築いてきた関係だ。

今はそれぞれが部活動や委員会で忙しく,なかなかタイミングが合わなくなり,その回数は減ってしまったが,この関係は続けていけばいいなと長尾智恵はいつも思っている。

長尾智恵にとって,本庄真珠と加地美鳥,高梨瑠璃の3人は初等部受験の面接を一緒に受けて以来の仲でまさにこの学校で一番古い友人だし,水原光莉と千坂紅音,安田晶良に齋藤由里は3人に加えて初等部1年のクラス編成で一緒になった。

クラス替えで一時は違うクラスになったこともあったが,そんな腐れ縁とも云える関係が中学生,高校生と続いている。

もちろん,ちょっとした諍いで喧嘩をしたこともあったが,常に仲間内で誰かが間に立って納めてきたし,今となっては美しい思い出でもある。

そんな長尾智恵たちの様子を教室の窓からじっと見つめる人影があった。

男性か女性かは分からないその影は視線を本庄真珠に注いでいるが,当の本庄真珠はその視線には気づいていなかった。

『まずはあの娘から‥‥‥』

そう呟くとその人影はスーッと教室の闇へと吸い込まれて消えた。


寄り道と買い食いをしながら楽しい時間を過ごし,長尾智恵たちは駅の改札で分散してそれぞれの電車に乗車し帰宅の途に就いた。

勿論その中には本庄真珠の姿もある。

彼女は途中の乗換駅で一緒に乗って来た幼馴染と別れて一人になった。

乗車時間は30分にも満たないが,雑談の楽しい下校のひと時が終わるとどうしても寂しさを覚える。

ドアの傍に立ちその身を委ねてボーッと夕陽の沈み闇の支配が進む外の風景をぼんやりと眺めていた。

ふと窓ガラスに向かいのドアの所に立って彼女の方を見ている黒尽くめの服装の人物が目に飛び込んで来る。

パッと一瞥しただけでは男性なのか女性なのか分別できない不気味な怪しさを醸し出している。

思わず本庄真珠は視線が合わないように目を逸らしていた。

(いったい,何なの?)

顔を逸らしても貫くような視線をまだ感じてしまう。

下車する駅は次の次だ。あと5分はないが視線に堪えられる自信がない。

次の駅の案内が流れて彼女は途中下車する決断をした。

駅に到着しドアが開くが直ぐに行動はしない。怪しい人物を撒くのが目的だ。

危ないのは分かっているが物理的な危険と精神的な危険なら前者の方がまだ好い。

発車サイン音が鳴りドアが閉まる寸前に飛び降りた。

振り向いて車内を見ると黒尽くめの人物は反対側のドア際に立った侭で,電車がホームから去って行くのを見送った。

本庄真珠は安堵の表情を浮かべて溜息を吐いていた。

(さてと,どうしようかな?)

本来の下車する駅は次の駅だが,それは乗り継ぎの路線バスがあるのと朝夕のラッシュ時に始発電車があり座席に座れる可能性が高いからだ。

この駅からでも徒歩で帰宅は出来る。

もしかしたら次の駅でさっきの黒尽くめの人物が待ち構えている可能性もある。

ここでまごついている場合ではない。

早く決断して動かないとあの怪しい人物が戻ってくるのも考えられる。

彼女は駅前通りに出て来た。駅前には大手のスーパーマーケットがあり,通りに沿って様々な店の並ぶ繁華街となっているが,一本路地裏に入ると住宅街が広がっている如何にも郊外を思わせる街並みだ。

既に日は沈んでおり空を見上げると全体が真っ青に見えるブルーモーメントで引き込まれそうな恐怖を覚える。

(こんな青の瞬間を見るのは久しぶりね)

視線を通りに戻して自宅に向かって歩き始めた。

暫く歩くと繁華街は切れて道は登り坂になりマンションやアパートの住宅が並ぶ。

車道と歩道を分けるように銀杏並木が連なり,紺青の空に加えて頭上を覆う青々とした銀杏の葉が逢魔が時を演出していた。

本庄真珠は速歩で急ぐ。

日没後で蒸し暑さが緩んではいるが速歩で坂道を上ると薄らと汗ばんで背中にブラウスが引っつく感触が気持ち悪い。

坂を上り切ると自宅まではもう直ぐだが通りには街燈がなく真っ暗だった。

(えっ,何処かで道を間違えた? 普段は街燈が点いているはずなのに‥‥‥)

吸い込まれるような漆黒の闇に足を動かせないでいると突如として背後から肩を叩かれた。

驚きで心臓の音が聞こえそうな程にドキドキが止まらず,肩を叩いた人物を振り向いて見る勇気が湧かない。

それに肩を叩いておいて声を掛けて来ないのも解せなくて,ゆっくりと首を回転させたが背後には人の姿はなかった。

(えっ,どういうこと? 私の勘違いだったの?)

冷たい何かが背筋を駆け上ってブルッと震えさせる。

その場に留まるのが怖くなって走り出していた。

幾ら走っても背中にはずっと冷たい何かが当たり続けていて悍ましさに心が苛まれ,徐々に体力を奪われていく。

(いったい,何なの?)

心の中で叫んでも答えが見つかる訳でも返ってくる訳でもない。

目下のところは只管に走って走って走り捲って逃げるしかない。

(やっぱり,尾行てきている‥‥‥私の足について来られるなんて‥‥‥)

背後を一瞥しても視界に追っ手の姿は見えないが足音と気配は感じる。

(‥‥‥にしてもおかしい‥‥‥)

全速力でこれ程の時間走ればもう家に着いていいはずだった。不思議と信号も全部青で引っ掛かっていない。

「まさか,罠?」と考えてみたものの信号を弄るの事態が警察でもなければ無理だ。

当然,本庄真珠が警察に追われる理由もない。

ただ,見えない敵に追い立てられている状況なのに彼女の中に走る楽しさが取り戻されていく。

(何だろう‥‥‥この感覚‥‥‥まるで,陸上を始めた頃に一等賞を取った時のような‥‥‥走るのが,気持ちいい!)

暫く忘れていた感覚だった。

そう感じた刹那に目を瞑らないと失明するのではと思える眩しい程の閃光に包まれ,彼女は自宅の前に立っていた。

(えっ,家の前?)

一瞬呆気に取られたが,直ぐに我に返ると門扉を開けて急いで家の中に入った。

「ただいま‥‥‥」

「お帰りなさい。少し遅かったのね」

キッチンに居た母親の本庄翡翠の愛情の籠った言葉に本庄真珠が安堵の表情とは裏腹に涙を浮かべていた。

「学校で何かあったの?」と訊きながら本庄翡翠はゆっくりと近づいて来て優しく抱き締め背中をポンポンと叩く。

それは本庄真珠にとって幼い頃から一番安心できる抱擁だった。

「ううん,大丈夫」と答えて本庄真珠は眼尻の涙を拭い本庄翡翠の顔を見上げる。

「そう‥‥‥」と本庄翡翠は一言だけ残してキッチンに戻った。

「もう,ご飯にするから早く着替えていらっしゃい」

「うん。ありがとう」

本庄真珠は自分の部屋に向かった。

(それにしてもさっきのは何だったんだろう‥‥‥)

制服を脱ぎながら先程の奇妙な体験が気になってしまうが,明確に彼女が失い掛けていた走る楽しさを取り戻したのは確かだった。

夕飯を摂り入浴を済ませて部屋に戻った本庄真珠は明日の支度を終わらせると早いとは思いつつもベッドに入った。

部活動の肉体的な疲労というよりも帰宅中の精神的な疲弊が大きい上に明日からは授業が始まるから疲れを残しておきたくなかったのだ。

瞼を閉じれば自然と眠りに誘われていった。

やはりそれほどに疲れていたのだろう。

あっという間に深い眠りの海に沈んでいた。


『うむ,上手くシンクロできたようだな。では,この娘はお前に任せるぞ』

『ははっ! 畏まりました。マイロード』

本庄真珠は頭の中で響く会話に虚ろながら目を覚ました。

(いったい‥‥‥今のは何? 夢だったのかな?)

枕元の時計を見ると2時22分だった。

(何かの暗示? それとも予兆? そう言えば,222って何だったけ?)

俗に222はエンジェルナンバーと呼ばれ,努力が報われて奇跡が起こる前兆と謂われているが如何に‥‥‥

彼女はぼんやりとした頭で思考していたが,徐々に瞼が重くなっていき再び深い眠りへと誘われた。

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