第3話
西暦2020年9月1日火曜日。聖ウェヌス女学院二学期始業式の日。
チュン,チュン,チュン‥‥‥
ベランダの柵に留まりお互いを啄ばむ雀の囀りと窓のレースのカーテン越しにベッドに差し込む朝日の眩しさに樋口ソフィアは目を覚ました。
「う~ん‥‥‥あれぇ? 確か‥‥‥礼拝堂でお祈りをしていて‥‥‥」
惚けた頭で思い出そうして意識が徐々に覚醒し,寝たままの状態で顔だけを左右にゆっくりと振って周囲を見回してみる。見覚えのある此処は確かに自分の部屋だった。
完全に覚醒したところで体に掛けているタオルケットをガバッと捲るといつものお気に入りのピンクのパジャマも着ている。
自分の部屋だという安心感から落ち着きを取り戻して枕元のデジタル時計を見ると時刻は5時30分を指していた。
上半身を起こして朧気に昨日のことを思い返してみる。
「礼拝堂でお祈りを終えて‥‥‥帰ろうとしたら‥‥‥窓の外には黒い雲が垂れ込めて‥‥‥急に雨が降ってきて‥‥‥物凄い雷の音‥‥‥怖くなってしゃがみ込んで‥‥‥」
(祈りを終え立ち上がってウェヌス・ウェルティコルディア礼拝堂の出口へと向かった?)
綺麗な夕焼け空だったがほんの数分のはずのお祈りの間に暗雲が垂れ込めて,暗くなっていた。あっという間にゲリラ豪雨の雨と雷。そこまでは確かに覚えている。
「礼拝堂を包んだ雷の光‥‥‥目が眩むほどに照らし出されて,その光が収まると暗闇に支配されて,その後にマリア様の祭壇の下で何かが青白く光っていた‥‥‥」
多分,雷がウェヌス・ウェルティコルディア礼拝堂の屋根の十字架に落ちたのだろう,
物凄い光に包まれ,祭壇の下で何か光るものを見付け,確かにこの手で何かに触った。
彼女は右手の親指の腹で人差し指と中指の腹を擦り撫でてみる。まだ,触った感触はあるが,それが何だったのか? 全然思い出せない。
「それで体に電気が走って‥‥‥気を失って‥‥‥しまった?」
その何かに触れたであろう瞬間,電気のようなものが体の中を駆け巡り,そこで気を失ったはずだった。
「そのあとは‥‥‥??」と幾ら思い出そうとしても思い出せない。
(気を失ったのであるならどうやって家まで帰って来たのだろう?)
しかもちゃんと着替えているし,髪の毛を撫でるとさらりと指が通り,お風呂にも入ってシャンプーもしたようだ。汗のべたつきや臭さとかは一切感じない。
何度も思い返してみるが,気を失ったと思われる直後から今朝まで約12時間の記憶がない。
改めて時計を見ると短針がもう6時を指そうとしている。
「とにかくもう起きて,学校に行く準備しなきゃ」
彼女は独り暮らしのために朝の身嗜みに始まり朝食の準備や片付けと熟さなければならない。
今日は始業式だ。
休みが終わるということに加えて学校に行くという気の重さが理性に抵抗をする。さらに一人で家に居る孤独よりも教室で周囲に人がいる中で孤独になる方が辛いというのもある。
それでも何とかゆっくりと起き上がり制服に着替えて洗面所に向かう。
顔を洗い,歯を磨き,軽くファンデーションを塗り,身支度を整える。
重い足取りでキッチンに入り,朝食の準備をする。
最近の子は朝ご飯を食べないというのも多いが,樋口ソフィアは簡単なものでもいいから朝ご飯を食べるのは大事だと思っている。
やはり一日の活力であり,食べないと昼まで持たないからだ。
(でも本当に私‥‥‥どうやって家まで帰って来たんだろう‥‥‥?)
厚切りのパン・ド・ミをトースターに入れて,ターンオーバーの目玉焼きを専用のフライパンで焼き,生野菜サラダを盛り付けながらもまだこの12時間の記憶を辿ろうとしていた。
ボーッと考え込んでて危うく目玉焼きを焦がすところだった。
ダイニングの椅子に座り,こんがりきつね色に焼けたバターの照りとイチゴのジャムの塗られた美味しそうなトーストを適当な大きさに千切って頬張り,冷たいミルクを飲み干しても未だ記憶を探っている。
自分の体験のはずなのにまるでスクリーンで映像を見せられているような‥‥‥そんな感覚になってしまうくらい実感がない。
「今までにこんなことはなかったのに‥‥‥私,どうしちゃったんだろう‥‥‥」
でも誰かに何かを相談したくてもこの食卓には独りだけ‥‥‥寄る辺ない状況だ。
樋口ソフィアの家は父親と母親の三人家族だ。
父親はアイルランド人で,母親は日本人。
父親はビジネスマンで世界中を仕事で忙しく飛び回っている。
母親もソフィアの育児が落ち着いてからは昔の翻訳関係の仕事に戻り,仕事が立て込んでいる時はホテルに缶詰めになり,ほとんど家に居つくことはない。
そういう家庭環境の所為か昨日は疎か今年に入って両親に会ったのも片手で数えられるくらいだ。
幼少の頃は両親もなるべく家に居てくれてそうでもなかったが,今は他人だけでなく家族との会話もあまりない。
両親ともに私には苦労をさせたくないからと一生懸命に働いてくれているのには感謝している。
でも独りの寂しさが募るのは仕方ない。
「だから独りで家に籠っているよりは‥‥‥」
そう思い,夏休み中は土日も関係なく毎日ウェヌス・ウェルティコルディア礼拝堂にお祈りに行っていた。
学校に行っても誰かとお喋りすることがないから友だちを作れない。
独りが当たり前になる‥‥‥そういう悪循環になっている。
本当なら何かしらの部活動でもしていれば,ここまで独りになることはないのだが,勉強以外に何かこれが得意だというものもなく,引っ込み思案の上に入学式の日にあんなこともあったからどうしても自分から部活動には飛び込めなかった。
「おはよう!」
「おはようございます!」
「はい,おはよう」
久しぶりに顔を合わす友だちや正門前に立つ教師と挨拶を交わしながらわいわいと賑やかに女子生徒たちが女学院内に入り,遊歩道をそれぞれの校舎へ向かって歩いて行く。
「ねぇねぇ,夏休みどうだったのよ?」
「これ,写メ見て,これが新しい彼氏! 夏祭りでナンパされたんだけどぉ‥‥‥大会に出られるほどテニスが上手でぇ,スマートで身長も高いしぃ‥‥‥それから,それから‥‥‥」
「いいなぁ,私は花火大会の時に二股掛けてた彼氏に振られちゃったし‥‥‥」
「ほら,そこの3人は学院の入口でそんな会話はしないように!」
「すみません」
女子生徒たちが一昔前の初心で夏休み明けには何処でもありそうなお約束の,他愛もない会話を交わしていて,嬉しそうに自慢げに話す子もいれば,どよーんと沈みダンマリを決めて涙ぐむ子もいる‥‥‥そばで生活指導の教師に会話を聞かれてツッコミを喰らっている。
「はぁ‥‥‥やっぱり全然,思い出せないな‥‥‥」
そんな女子生徒たちの中をまるで両脚にパワーアンクルを装着しているかのような重い脚取りにどんよりとした溜め息をつき樋口ソフィアがバスから降りて登校してきた。相変わらず昨日の事を未だに思い出せないでいる。
「ソフィアちゃん! おはよう!」
「おはよう‥‥‥」
「大丈夫?」
「‥‥‥‥‥‥」
ラベンダーアッシュのストレートロングを棚引かせ,後ろのバスから降りて颯爽と駆けて来て,ポンッと樋口ソフィアの背中を軽く叩いたのは長尾智恵だった。
容姿端麗という表現がぴったり合う切れ長の目の長身でスレンダーな美人。ソフィアのクラスメイトで,生徒会役員とクラス委員長を兼任している。
心底鬱陶しいと思いながらも一応気の抜けた返事だけは返す樋口ソフィア。
長尾智恵は樋口ソフィアが編入してきた時からクラスに馴染めない彼女の事をずっと気にしている。
「どうせ智恵はクラス委員だから気にしてくれているんでしょ?」と心の中で樋口ソフィアはそんな穿った気持ちしか感じていない。
何でこんなに拒絶してしまうのかは分からないが長尾智恵を受け入れられない気持ちが樋口ソフィアには出会った時からあった。
覗き込むように心配する長尾智恵にその視線さえも煩わしく感じてしまう樋口ソフィアはプイッと視線を逆方向に逸らす。
樋口ソフィアは,長尾智恵の友達も多くてしかもこの人懐こさに不快感を感じているのかもしれない。
「おはよっ!」
「おはよう! って,もう,痛いなぁ」
「いいから,いいから。早く教室に行こうよ!」
「もう,そんなに引っ張らないでよ。それに昨日は熱中症で倒れたんでしょ? 注意しなきゃダメだよ」
後からスタスタと駆けて来てドンとタックルをかますようにしてまさに元気いっぱいを表現するかの如く長尾智恵の左腕を掴み声を掛けてきたのは本庄真珠だ。
長尾智恵は本庄真珠に抗議をするが,樋口ソフィアを置き去りにして本庄真珠は長尾智恵の腕を取るとグイグイと引っ張り,スタスタと早歩きで去っていく。
長尾智恵は樋口ソフィアを気にしつつも流れに逆らえなかった。
(あの娘だって‥‥‥私の立場に置かれれば‥‥‥そうすれば私の気持ちだって分かるはず‥‥‥)
長尾智恵には初等部からの幼馴染で親友と云える存在が本庄真珠以外に6人いる。
彼女たちの名前は水原光莉,加地美鳥,千坂紅音,安田晶良,齋藤由里,高梨瑠璃。
髪型は,水原光莉がアッシュベージュのショートボブ,加地美鳥がブルージュのランダムカールセミロング,千坂紅音がグレージュのワンカールボブ,安田晶良がダークブルージュのストレートスーパーロング,齋藤由里がダークトーンアッシュベージュのベリーショート,高梨瑠璃がラベンダーブラウンのミディアムだ。
8人ともそれぞれが世の中では美少女と云って通用する存在で,部活動で外の学校と交流のある子は男女問わずファンがいて,ファンクラブまであるといわれている。
部活動は,水原光莉が水泳部,加地美鳥が演劇部,千坂紅音が音楽部,安田晶良が弓道部,齋藤由里が剣道部,高梨瑠璃が体操部に所属している。彼女たちはこの学院のそれぞれの部活動で将来キャプテンや部長となって引っ張っていくとも云われている。
樋口ソフィアは,10年来というこの8人の仲良さに馴染めず,その中心的な存在である長尾智恵に打ち解けられない‥‥‥のかもしれない。
「はあぁぁ‥‥‥何か嫌だな」
晩夏のまだまだ濃緑を称える遊歩道の歩道は,菩提樹‥‥‥背の高い科の木が作る涼しい木陰をそれぞれの校舎へ急ぐ女子生徒たちが思い思いに歩いているが,その波の真ん中で樋口ソフィアはさっきよりも重い溜息をつき,置いていけぼりになり立ち尽くしてしまっていた。
ウェヌス・ウィクトリクス講堂での始業式が終わって,生徒たちは各自の教室に戻り,ホームルームが始まった。
1年A組では担任の山県朋未が席替えや新学期のカリキュラムの説明など諸々の伝達を淡々と進めていく。しかし教室に樋口ソフィアは居なかった。
「ソフィアちゃん,どこ行くの?もうホームルームが始まるよ」
「ちょっと,お腹が痛いからトイレに行ってくる‥‥‥」
「じゃあ,先生には私から言っておくね」
「‥‥‥‥‥‥」
ホームルームの始まる少し前,山県朋未がまだ来ないその隙を狙い教室を抜け出そうする樋口ソフィアを長尾智恵は止めた。
樋口ソフィアはバレやすい言い訳で誤魔化し,トイレに行く振りをして教室を出て行く。でも教室を出て行くその姿を長尾智恵以外は気にも留めていない。
樋口ソフィアは独り閑散とした廊下を通り抜け,高等部の校舎の外へ出て,躑躅の通り道を越えて,ウェヌス・ウェルティコルディア礼拝堂へと足を運んでいた。
コツンコツンと歩く靴の音がウェヌス・ウェルティコルディア礼拝堂の中に鳴り響く。ゆっくりと聖母マリア像の祭壇の前まで進むと跪いた。
「友だちは欲しいんです‥‥‥でも引っ込み思案で自分からは輪に入っていけない。クラスメイトくらいと‥‥‥とは思うものの馴染めません。そんなことを考えていたら1学期が終わっていました。もう今さらどの輪にも入っていけない気がします。それと長尾さんとその幼馴染たちには拒否反応を示してしまう。何で私はこうなんでしょう‥‥‥」
樋口ソフィアは聖母マリア像に向かって眼を瞑り祈りを捧げる。
「‥‥‥汝はそんなに友だちが欲しいのか?」
何処からともなくウェヌス・ウェルティコルディア礼拝堂内に男性の声が響いた。
声がしたと言うよりは頭の中に直接語り掛けてくる感じでもあったのが‥‥‥。
「えっ!? 誰なの‥‥‥」
「もし汝が本当に友だちが欲しいと言うのなら余が授けてやろう。余の声に従い,余を救い出せ,さすれば汝の願いも叶えられる」
樋口ソフィアはキョロキョロと辺りを見回すが誰の姿もない。
声の主は樋口ソフィアの問い掛けに耳を傾け向けることなく,畳みかけるように語り掛けてきた。
直後,聖母マリア像の祭壇の下でピカッと青白い閃光が発した。
それは昨日と同じ場所だった‥‥‥と思う。
その眩しさに視界を奪われたが,程なくして視界が回復して窓の外を見ると暗雲が垂れ込めて周囲は真っ暗になっている。
デジャヴとも思える状況に樋口ソフィアは驚いたが,聖母マリア像の祭壇に恐る恐ると近寄り,その光を発しているモノへと手を伸ばす。
そして,その光るモノに触れた瞬間,また体の中を電気が走る感覚に襲われた。
またしてもその場で気を失ってしまった。
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