第2話

高等部にあるグラウンドのトラックでは真っ赤に燃えるような夕焼けを背負い,ランニングに打ち込む陸上部部員たちが居た。

その集団の中には樋口ソフィアのクラスメイトの本庄真珠の姿がもある。

オーシャングレージュのショートヘアで,陸上をやっているだけあってユニフォームの上からでも分かる小柄ながらも引き締まった身體は狩猟豹と呼ばれるチーターのようでもある。

彼女は聖ウェヌス女学院の中でもトップクラスの短距離走選手だ。

本来は女性に使う言葉ではないのだが,ボーイッシュな彼女には眉目秀麗という形容がよく似合う。

中性的な美しさはこの学校において女性同士の恋愛を助長するのに疑いはない。

(もう中学生の時のようなことは失敗は失くすんだ‥‥‥次の大会こそは‥‥‥絶対に優勝するんだ!)

非公式の200メートルの持ちタイムは高校生としては破格で地方大会はもちろん全国大会でも通用するはずの実力者の彼女。

ではあるもののメンタルの弱さからか,中学生の時には練習の時とは違い大会になると緊張してしまい,なかなか記録が伸ばせず歯痒い成績しか残せていない。

高校生になって生まれ変わってみせるという気負い‥‥‥本庄真珠は額から流れる汗さえも気にすることなく,努力を惜しまず今日も一心不乱に走り続けていた。

(今日もいい汗掻いた)

本庄真珠はトラックの直ぐ脇に置いておいた水筒を手に取り,顔を持ち上げて呷るとグイッと水を喉の奥へと流し込む。

思わず「プハーッ!」と息が洩れる。

彼女の視線が偶然にも宗教施設区画へと向いた。

区画の上空だけを低い真っ黒な雲が覆い,ウェヌス・ウェルティコルディア礼拝堂の十字架の直ぐ上にまで垂れ込んでいたが,ピカッと閃光が走り本庄真珠が眼を守るように腕を掲げた一瞬の間に雲は消えていて,何事もなかったように上空は茜色の夕焼けが綺麗なグラデーションを作っていた。

(いったい‥‥‥今のは何だったの?)

先ほどのどす黒い雲があったのは生徒の絶対立入り厳禁とされている礼拝堂の上だったので確かめに行こうという好奇心は湧かなかった。

そもそもウェヌス・ウェルティコルディア礼拝堂は数十年前から曰くつきとして厳重管理されているのだ。

それにもう少しするとグラウンドを取り囲むナイター照明の灯りが点る。

数年前まで学院では暗くなるまで練習していても問題はなかったが,とある時期に夜間練習をして帰りの遅くなった女子生徒が帰宅途中で痴漢に襲われて拉致監禁されてしまい,生命だけは無事で生還したものの,その精神的ショックから立ち直れずに退学したという忌まわしい事件があったために照明がセンサーで自動的に点く前に自宅から通学している生徒は集団で下校するように通達が出ている。

実は学院の敷地内には百周年記念館という学院創立百年事業で建設された運動部向けのトレーニング施設と特待生や地方から出て来て独り暮らしする生徒向けの宿舎を備えた建物がある。

トレーニングジムは空きがあれば生徒なら誰でも利用可能だが,本庄真珠は自宅が都内にある通学者で特待生ではないので宿舎に宿泊を認められていない。

「そろそろ,上がらないといけないか。もう,光莉たちも上がっているはずだし」

本庄真珠は水筒の横にある鞄からスマートフォンを取り出して時刻を確認した。

因みに彼女が言った「光莉たち」とは初等部入学当初から特に仲の良い幼馴染で通学を伴にする運動部系のクラスメイトでもある,水泳部の水原光莉,体操部の高梨瑠璃,空手部の齋藤由里,弓道部の安田晶良の5名だ。

今日まで夏休みなので学院には来ていないが,文化部系のクラスメイトでも演劇部の加地美鳥,音楽部の千坂紅音,学級委員長で生徒会にも所属する長尾智恵も仲良しグループの一員である。

この8名は1学年100名を超える聖ウェヌス女学院での成績は常に上位20位以内に入っており,長尾智恵はTOP3から陥落したことがないほどの才媛だ。「次期生徒会長に‥‥‥」との声も上がっている。

他の友人たちも学業成績は勿論だが,それぞれの部活動で優秀な記録や実績を残してきている。

優秀とは言われるが,本庄真珠は納得していない。

それは学院と云う井の中の蛙状態で,大会などでは緊張が先走り,どうしてもいい成績が残せていないからだ。

夏に開催される中学生陸上競技選手権大会で選手として出場した2年生と3年生の2年間で学内での記録では地区や地方では群を抜いており,全国でも通用すると顧問の教師からも太鼓判を押されていたのに,いざ競技となると彼女の真価が発揮される事はなく不発に終わっていた。

一時は「高等部進学を機に競技を辞めてしまおうか‥‥‥」とも考えていたが,幼馴染たちに背中を押されて勇気づけられ,高等部でも競技を続ける決意をした。

仲の良いクラスメイトだけでなく,陸上部の憧れの先輩が相談に乗ってくれたのも大きかった。

周囲の皆が自分に期待を寄せてくれるから頑張れる‥‥‥裏切れないという気持ちがプレッシャーにもなっているのだが‥‥‥先輩からは「もっと気軽に楽しむくらいでも真珠は全然大丈夫だから」と指摘されていた。

無論,本庄真珠もとっくに気がついていたのだが,性格的に矯正するのは難しかった。‥‥‥と色々考えていたらすっかり遅くなってしまった。


「ごめん! 皆,待った?」

「何していたの,真珠」

「もう来ないから,先に帰ったんじゃないのって話してたくらいよ」

「心配させたんだから今日はドリンク,皆に奢りなさいよ」

「えーっ! それは勘弁してよ。私のお小遣いが幾らか皆だって知っているでしょ?」

菩提樹の並木道を輪になってワイワイとお喋りしながら正門に向かって歩いて行く。

5人の女子高生なら途切れないマシンガンのような会話の応酬が続くだろう。

いや,続くはずだった‥‥‥

会話が途切れた一瞬の静寂,その刹那に本庄真珠は背後に何か神々しくもあり悍ましくもある気配を感じて足を止め,恐る恐る後ろを振り返る。

その視界に飛び込んで来たのはウェヌス・ウェルティコルディア礼拝堂の尖塔だった。

グラウンドに居た時もそうだったが,あの礼拝堂に覆い被さるように垂れ込めた暗雲といい,電のような閃光といい,そして今度は畏怖を感じさせる尖塔の姿。

何か悪い出来事が起こるのではないかと思わせる雰囲気に本庄真珠は悪寒からガタガタと身震いさせる。

いつの間にか会話の輪から外れて両腕で胸を抱き震えて立ち尽くす彼女の周りに友人たちが駆け寄る。

「真珠,どうしたの? 大丈夫?」

4人は不安そうな表情で優しく声を掛けるが,遂には立っていられなくなった本庄真珠は腰を抜かしたようにその場にへたり込んでしまう。

比較して身長の近い水原光莉と高梨瑠璃が手を貸して立たせて肩を抱く。

本庄真珠は生まれたての仔鹿のように膝をブルブルとさせて彼女1人では立てなく,支える2人が手を貸しただけでは保てない。

仕方なく近くのベンチに連れて行き座らせると「心配させて,ごめんね」と本庄真珠は謝ってくる。

安田晶良は自動販売機でドリンクを買って来て渡す。

齋藤由里は正門の守衛所まで走り,警備員に状況を伝えて戻って来た。

「どうしますか? 独りで帰れないようだったらお家に連絡して迎えに来てもらうか,タクシーを配車しますか?」

「いえ。もう,大丈夫です。落ち着きました。ありがとうございます」

守衛所から職員室に連絡をしていたらしく,担任の山県朋美が高等部の校舎から飛んできた。

「本庄さん,大丈夫ですか?」

「はい。もう,大丈夫です」

「そう? でも,保健医に診てもらいましょう。あとは,私に任せて。心配でしょうけど,水原さんたちは帰宅して下さい。本庄さんの親御さんには連絡しておきますから」

「分かりました,先生。後はお願いします。真珠,具合が良くなったら連絡してね」

水原光莉たちは山県朋未に本庄真珠を任せると帰宅していった。

山県朋美が保健医に連絡すると,暫くして学内にある診療所から車椅子を押して担当医師の土屋真理が現れた。

「山県先生,お待たせしました」

「いいえ。こちらこそ,すみません。土屋先生」

「それで,気分が悪くなったというのはその娘かしら。だったら,この車椅子に乗せてあげて」

本庄真珠を車椅子に腰掛けさせて,土屋真理は正面にしゃがんで様子を見終わると後ろに回り手押しハンドルを握って,山県朋未はその隣に立って歩き始めた。

「見た感じでは熱中症の症状に似ているんだけど,ね。立ち眩みに,脚の筋肉のこむら返り,目の焦点もあっていないし,熱も少し高めね。詳しくは診療所で診ましょう」

明日から9月とは言えまだまだ残暑は厳しく,日中に日陰のないグラウンドを走り込んでいたのが原因だろうと土屋真理は診断していた。

一応,水筒を持っているとは言え,それで水分,塩分や糖分の補給が足りているとは思えなかった。


診療所に着くと診察室に移されて本庄真珠はベッドに寝かされた。

体温を計り,触診と聴診を済ませて,問診に入る。

土屋真理の問い掛けに答えはするものの吐き気や嘔吐の症状はないが頭痛と体のだるさが見られ,中等度と軽度の間くらいだと診断した。

経口補水液のペットボトルを渡すと本庄真珠は口腔内を潤す程度の量をゆっくりと飲み,横になると瞼を閉じて,スース―と寝息を立てていた。

「それで,彼女はどうなの?」

「うーん,そうね。症状は熱中症そのものなんだけど‥‥‥」

「だけど?」

「体温計で計った彼女の熱は36.5℃なのよ」

「それって,平熱‥‥‥ということよね?」

「そうよ。熱中症であれば,出るはずの発熱がない。咽喉やリンパの腫れなんかもないから感染症でもないでしょうし。何か,持病があるという話は聴いていない?」

「持病があるとは,聴いたことがないわね」

「そう。だったら,親御さんを呼んで迎えに来てもらいましょう。先生,連絡をお願いしていいかしら? 私が様子を看ながら待っているわ」

「えっ,いいのですか? 私のクラスの子ですから,私が看ててもいいですけど‥‥‥」

「まあまあ,それを言ったら美夏‥‥‥いえ,陸上部顧問の秋山先生に看てもらわないといけませんからね」

土屋真理はお茶目にウインクして山県朋美の気持ちを解す。

高等部1年B組の担任でもある陸上部顧問の秋山美夏と保健医の土屋真理は聖ウェヌス女学院初等部からの幼馴染でもあるからこその言葉でもあった。

「では,土屋先生。済みませんが宜しくお願いします。本庄さんのお家には私の方から連絡しておきますので」


それから約1時間経って本庄真珠の母親が迎えに来ていた。

「先生。本当に申し訳ございません。うちの娘がご迷惑をお掛けしまして」

「いえ,大丈夫ですよ。これが私の仕事ですので」

診療所に着くと本庄真珠の母親・本庄翡翠は恐縮して頭を下げる。

本庄真珠はまだ目を覚ましていないので,その間に本庄翡翠に問診をしたが,やはり彼女には大きな疾患はないようで,軽度の熱中症が原因ではないかと伝え,今夜は経口補水液を与えて様子を看るようにお願いした。

母親が到着して30分ほど経つと本庄真珠は目を覚まし母親に付き添われてタクシーで帰宅していった。

「‥‥‥という訳で,本庄さんは帰宅したわよ」

「そう,連絡ありがとう。明日は始業式だけだから登校すると思うけど,私の方でも注意しておくわ。秋山先生にも伝えて,部活動の方でも注意してもらう」

「ええ,宜しくね」

山県朋美は百周年記念館の自室で電話を受けて,一安心していた。

(そう言えば‥‥‥)

彼女はテーブルに向かいノートパソコンを立ち上げた。

(本庄さんは練習では良いタイムを出すのに大会になると駄目だったと中等部からの申し送りがあったような‥‥‥)

内申書のデータフォルダから本庄真珠のファイルを開いた。

(これだわ‥‥‥ああ,やっぱり‥‥‥)

極度の緊張から本番で実力を発揮しきれない状態が続いていると記されている。

陸上部に入部した中等部1年生の時に学内で非公式ながら女子100メートル走中学生記録を叩き出し,ポテンシャルを感じさせた。

夏前には初の学外との練習でも能力を発揮して他の同級生たちの追随を許さないぶっちぎりのタイムを記録した。

充実の夏合宿を終え秋を迎えると更に記録を伸ばすと思われた矢先から勝ち切れなくなってしまった。

その原因がイップスなのか,プラトーなのか,スランプなのかと当時の中等部陸上部顧問の山中成実は書き残しているが,山県朋美は一時的な不調であるはずのプラトーやスランプであれば3年間というのは長過ぎると思いイップスを疑ったが,イップスになるような原因は思い当たらなかった。

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