第10話
西暦2020年9月X日X曜日‥‥‥
チュン,チュン,チュン‥‥‥
ベランダの柵に留まりお互いを啄ばむ雀の囀りと窓のレースのカーテン越しにベッドに差し込む朝日の眩しさに樋口ソフィアは目を覚ました。
枕元の時計を確認すると表示は5時30分で,ここまではこの3日間と変わらない。
昨日の寝るまでの記憶もしっかりとある。
今日の支度も昨晩のうちに済ませてあるし,あとはいつもと同じように朝ご飯を摂って学校に向かう。
(今日こそ,始業式ではありませんように‥‥‥)
でも彼女の願いは脆くも打ち砕かれてしまう。
『9月1日火曜日,午前6時30分になりました。今朝のニュースです‥‥‥』
普段は両親の躾でご飯を食べる時にはテレビや新聞とかを視る習慣がないのだが,テーブルにあったテレビのリモコンを手に取ると無意識にテレビのスイッチを入れていた。
耳にしたアナウンサーの言葉に手にしていたリモコンをポトリと床に落としていた。
電源の入ったテレビから流れてくるニュース‥‥‥
画面に映し出された日付は前日と一緒だった。
(これで4日連続で始業式が確定かぁ‥‥‥いったい私はどうしてしまったんだろう‥‥‥もう,いっそのこと今日は休んじゃおうかな? どうせ,同じ一日になるだろうし‥‥‥そうだ,病院に行った方がいいかもしれない)
樋口ソフィアはもう学校に行く気がなくなっていた。
(よしっ,今日はもう学校を休んでしまおう! また始業式なんだし‥‥‥4回も同じ式に出席したって意味ない。病院に行ってこの症状がどんな病気なのか聞いてみよう。もし病名が分からないにしても学校に行かないことで状況が変化するかもしれないし‥‥‥)
気持ちを切り替えて,食事と身支度を終えると決意して家を出た。
玄関先で,近所に住むお母さんと仲の良い話好きなおばさんとばったり会った。
お隣に住む夫婦は祖父母と仲が良かったらしく,独りで暮らす樋口ソフィアを何かと気に掛けてはくれるが,あまり出掛ける前に会いたくない人でもある。
ちょうど旦那さんの出勤を見送ったところのようだ。
「おはようございます」
「あら,おはよう! もうすっかり元気そうね。ソフィアちゃんはこれから学校へ行くのね。そういえば,昨日は帰りがものすごく遅かったけど,何処かに出掛けてたのかしら?」
「えっ? どういうことですか‥‥‥?」
朝の挨拶だけ済ませようとしていた彼女の足を止めさせる。
「どういうことって‥‥‥昨日はうちの主人の帰りが遅くて,タクシーで家まで乗り着けて来たのを迎えに出たら,ちょうど貴女が家に入って行くのを見掛けたんだけど‥‥‥ボーッとしている感じで何回も声を掛けたのに返事もしなかったからかなり疲れていたのかと思ってね」
「それって,何時頃ですか?」
「そうね,午前2時は過ぎてたと思うけど‥‥‥」
「えっ? そんな時間に?」
樋口ソフィアは唖然となった。
(昨日は確か18時には帰宅して20時には眠くて布団に入っていたいうのに‥‥‥どういうことなの?)
気持ちを落ち着けてもう一度樋口ソフィアはおばさんに尋ねる。
「それって,本当に私でした?」
「確かにソフィアちゃんだったわよ。その金髪は目立つしね」
そう言うとおばさんは「じゃあね」と軽くお辞儀をして家の中に歩いて行ってしまった。
せっかくお喋りから早く解放されたのに立ち尽くす樋口ソフィアはその後ろ姿を茫然と見送るしかなかった。
今,これ以上何か訊いても自分の欲しい答えは出ないだろう。
(そんな深夜に出掛けた記憶はない。まさか夢遊病?)
ここのところ家では独りだからこんな病気があっても自分自身では分からない。
(いったい,私は何処へ出掛けたというのだろう? 確か夢遊病は歩き回るのがせいぜい30分くらいだからそうそう遠くまで出掛けるわけないし,そんな時間だからバスや電車は動いてないし,徒歩でなら行けるところも限られる‥‥‥そういえば服装ってどうだったんだろう? まさかパジャマで? それはちょっと恥ずかしい‥でもそれだったらおばさんも格好のこと何か言うよね,普通。だとしたら着替えて出掛けて,帰って来てまたパジャマに着替え直したということ?)
樋口ソフィアは玄関先で呆然と立ち尽くす。
意を決して病院へ行こうという気持ちも削がれてしまった。
虚ろな目になり,何分‥‥‥いやもっと時間が過ぎただろうか,肩を落として家の中に戻る。
自分の部屋に入って制服のままベッドにうつ伏せでダイブする。
くるりと寝返りし,額に左腕を載せて天井をボーッと見上げる。
(もう何が何だか分からない‥‥‥どうせ今日も学校に行ったって始業なのは確か式だし,始業式なんか4回目ともなれば内容も分かっているし‥‥‥なんか病院に行くのも面倒くさくなっちゃったな‥‥‥さっきのおばさんの話って本当なのだろうか? やっぱり,夢遊病の気でもあるのかな‥‥‥今思えば,今日はいつもに比べて気怠さがあったような気がする。そうでなければ,ご飯を食べる時にテレビを付けっ放しにするなんてのはあり得ない。寝ている間に何処かに出掛けて,寝付きが悪くて疲れていたという説明が成り立つけど‥‥‥)
樋口ソフィアは学校に欠席の連絡を入れてから部屋に戻り,ベッドの中に頭から掛け布団を被り枕に顎を預けて俯せに潜り込んでいた。
さっき聞いたおばさんの話を思い返していた。
(昨日は眠くて早めにお風呂に入って20時にはベッドでゴロゴロと寝ころんでいた‥‥‥そして,ウトウトとしてしまい,目を閉じてからものの2,3分くらいで眠ってしまったはず‥‥‥私の中では今朝起きるまでぐっすりと眠っていた‥‥‥だから途中で起きて,ましてや何処かに出掛けてなんて絶対に有り得ない)
布団から顔を出して,寝返りを打ち,仰向けになる。
(おばさんがお母さんと私を見間違えたなんてないはず‥‥‥だって,お母さんが帰国したなんて聞いていない。まさか誰かがその時間に家に侵入した!? いやいや,玄関の鍵は掛かっていたし,窓を破られたりしてもいない。泥棒だとしたら家の中も荒らされてもいないし)
額に掌を載せて考えてみる。
(だとしたらやっぱりおばさんが見たのは私‥‥‥なのかな? それに4日連続で始業式だという謎だって残っている。本当に私の周りで何が起きているの?)
いくら考えても纏まらないから苛立ってくる。枕に頭を預けて横向きになり現実逃避をするように瞼を閉じる。
いつの間にか眠りに誘われ,意識を手放していた。
「おはよう!」
「おはようございます!」
「はい,おはよう」
久しぶりに顔を合わす友だちや正門前に立つ教師と挨拶を交わしながらわいわいと賑やかに女子生徒たちが女学院内に入り,遊歩道をそれぞれの校舎へ向かって歩いて行く。
「ねぇねぇ,夏休みどうだったのよ?」
「これ,写メ見て,これが新しい彼氏! 夏祭りでナンパされたんだけどぉ‥‥‥大会に出られるほどテニスが上手でぇ,スマートで身長も高いしぃ‥‥‥それから,それから‥‥‥」
「いいなぁ,私は花火大会の時に二股掛けてた彼氏に振られちゃったし‥‥‥」
「ほら,そこの3人は学校の入口でそんな品のない会話はしないように!」
女子生徒たちが一昔前の初心で夏休み明けには何処でもありそうなお約束の,他愛もない会話を交わしていて,嬉しそうに自慢げに話す子もいれば,どよーんと沈みダンマリを決めて涙ぐむ子もいる‥‥‥そばで生徒指導の教師に会話を聞かれてツッコミを喰らっている。
「おはようございます!」
元気な声で長尾智恵は正門前に居る先生に挨拶をして,門を潜り遊歩道へと入って来た。
何時もと変わらない登校風景。
今日は始業式だ。
早く教室に行って,クラス委員としてクラスを纏めて式典の行われるウェヌス・ウィクトリクス講堂へみんなを連れて行かないといけない。
別に気負う必要はない。
初等部高学年以来,年に3回繰り返されてきた同じ状況だからもう慣れたものだ。
「おはよう,智恵」
「おはよう,美鳥」
ここで前日の会話の記憶が2人の脳に残っていれば,その話題になるはずなのだが一切の言及はなかった。
「さあ,始業式の用意もあるから早く教室に行こう」
長尾智恵の肩をポンと軽く叩いて駆け出し振り返った加地美鳥の微笑みがそこにはあった。
長尾智恵は促されて一緒に急ぎ足で校舎に入っていく。
教室に入ると2人が一番乗りだったようだ。
まだ誰も来ていない。
新学期だから席替えになるのだが,席は決まっていないので今までの席に座り,机に鞄を置く。
「おはよう」
「おはよっ!」
次々とクラスメイトたちが登校して来て,1学期の座席に一先ず鞄を置いて行く。
「ねぇ,ねぇ,夏休みはどうだった?」
「何処かに行ったの?」
「彼氏とはどうだったのよ?」
幾つかの話の輪ができて,ここでも夏休みの話題で盛り上がる。
長尾智恵と加地美鳥も自分の席に腰掛けながら同じように夏休みの話で盛り上がっていた。
「おはよっ! 智恵,美鳥」
「おはよう。みんな。あれ,真珠たちは一緒じゃないの?」
「そういえば見ていないなぁ‥‥‥」
「ソフィアちゃんも来てないか‥‥‥」
長尾智恵と加地美鳥に声を掛けてきたのは幼馴染の安田晶良,齋藤由里,高梨瑠璃の3人だった。
もう直ぐ始業式の式典のためにウェヌス・ウィクトリクス講堂に移動するのを考えると長尾智恵は本庄真珠,水原光莉,千坂紅音も一緒に来ると思っていた。
本庄真珠,水原光莉,千坂紅音,そして樋口ソフィア‥‥‥
30人程度のクラスでさすがに4人もいないと空席が目立つのは否めない。
長尾智恵はスマートフォンを取り出して,「もう直ぐ始業式が始まるよ? 何処にいるの?」と急ぎメッセージを送る。
「真珠に,光莉に,それに紅音も来ていないなんてどうしたんだろう?」
「始業式が終わっても返信が来てなければ,あとで電話もしてみよう」
心配する加地美鳥に長尾智恵は冷めやらぬ胸騒ぎを感じつつも抑えて,入室してきた山県朋未の指図を受けて,クラスメイトを廊下に並ぶように長尾智恵は促した。
「あらっ,本庄さん,水原さん,千坂さんの3人は無断欠席なのね」
「先生,樋口さんは連絡あったのですか?」
「ええ,樋口さんからは連絡を受けています。家を出たところで体調不良になったから今日は休む,と」
ウェヌス・ウィクトリクス講堂での始業式が終わって,生徒たちは各自の教室に戻り,ホームルームが始まった。
1年A組では担任の山県朋未が席替えや新学期のカリキュラムの説明など諸々の伝達を淡々と進めていく。
本庄真珠,水原光莉,千坂紅音,そして樋口ソフィアが座るはずの空席を見て,長尾智恵はスマートフォンを確認したが,やはり彼女たちからは返信は来ていない。
校舎中にチャイムが響き渡り,ホームルームが終了すると,長尾智恵は山県朋未に話し掛けた。
「本庄さんたちからは今日の休みの連絡はなかったんですか?」
「ええ。あの3人が無断欠席するとは思えないわね‥‥‥仮に事故とかに遭ったとしても警察や救急から連絡あるでしょうし。考えたくはないですが,誘拐とかだと連絡が入らなくてもおかしくはない‥‥‥のかな?」
「私,3人にメッセージを送ってしまいました‥‥‥大丈夫でしょうか?」
「一応,親御さんには私の方から連絡しておきますので心配し過ぎないように」
そう言うと山県朋未は教室から出て職員室に戻って行った。
「そうか,やっぱり連絡なかったんだ‥‥‥3人とも無断欠席するなんて‥‥‥」
「智恵,私たちは部活動があるから行くね」
「真珠たちから連絡があったらよろしくね」
長尾智恵の背後に立っていた加地美鳥,安田晶良,齋藤由里,高梨瑠璃が不安な表情をしながら声を掛けてきた。
「今日はまだ委員会の活動もないし‥‥‥家に帰って連絡を待つわ」
本庄真珠たちの消息を長尾智恵に任せて加地美鳥たちは部活動に向かった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます