第35話
「お前、劇団員になりたいのか。」
と驚かれた。劇団員になりたいわけではなくニューヨークに行ってみたいんだとは正直に言えず、少しヘラヘラしていた。
「まぁ、なんにせよ一晩で良い顔になったな。それじゃ、資料請求しておくから、親御さんともちゃんと話しておくんだぞ。」
確かに何か胸のつかえが取れたような、すっきりとした感覚があった。
8
翌年の夏、上地はニューヨークの街の中をバスに乗って走っていた。日本から飛び立ち、ケネディ国際空港に着いたのは午前十時。上地たち専門学生は二十名ずつ先発と後発に分かれて研修旅行に来ている。上地は先発組だ。その他引率の先生が二名と現地に在住の日本人通訳が一名。総勢二十三名でバスに乗っていた。全員が長いフライトでくたくたになっていたが、一人の、
「マンハッタンだ!」
の声に、全員がスマホを取り出し興奮して写真を取り出した。イースト川を渡り、もう目の前にあのビルディング街がそびえている。黄色いトヨタのタクシーもある。UPSと書かれた映画でよく見かけるこげ茶色のトラック。フェデックスの白いバン。赤と青のランプを照らすパトカー。全員が目にしたものを我先にと口に出し、スマホに収めていく。街並みが流れていく。
「先生、どんどんマンハッタンから離れていってます!」
また誰かが叫んだ。
「姉妹校はニューバーグにあるからな。」
「ニューバーグって遠いんですか?」
通訳の人が答えた。
「道が空いていれば、二時間もかからないくらいですよ。」
「え~、二時間も離れたら、そこはもうニューヨークじゃないじゃん。」
「ニューバーグもニューヨーク州です。」
「詐欺だ!」
「詐欺じゃない!お前は研修予定表見てないのか。きちんと書いてあるだろうが。」
車内に笑いが起こる。日本演劇専門学校の姉妹校はニューバーグにある。そこでアメリカの演劇の指導を二週間受けることになる。
目にする景色がすべて新しく、上地はずっと窓の外を眺めていた。特に空を眺めていた。日本の空とは違って、マンハッタンを抜けるとビルディングも無くなり、山もないので何処までも続く空に一人感動していた。雲の形ものびやかで、やはり日本のそれとは違って見えた。
上地が日本演劇専門学校に入学してから、すでに4か月が経っている。入学時は緊張したがすぐに友達も出来た。近藤、大谷、村上、吉田、岡本と特に気の合う六人でよく一緒にいることになった。授業も初めてのことばかりで面白かったが、なにより学校が終わった後、仲間でハンバーガーショップやドーナツショップに行ってくだらないことを話したり、ゲームセンターで遊んだりしている時が何より楽しく、充実した毎日を送っていた。ある日上地は、
「俺、実は演劇とか見に行ったことないんだよね。」
と告白した。すると以外にも、
「俺も。」
「実は俺も。」
と全員が答えた。じゃあ、なぜ演劇学校にきたのかと聞かれ、
「ニューヨークに行ってみたいから。」
と正直に答えると、それも全員同じ答えだった。彼は安心した。自分だけが本気で演劇を習いに来たわけじゃないと知り、より心を開けるようになった。
「じゃあ、今度みんなで演劇観に行かない。」
誰からともなく言い出し、週末全員で行くことになった。ネットで調べ、小さな劇場で上演中の「劇団てんびん座」の演目を見に行くことに決まった。
それが、上地らが初めて見た演劇である。内容は介護の問題を面白おかしく描いたコメディだ。社会問題をとらえつつ、それを押し付けがましくならないよう、また嫌味にならないように、介護をする側、受ける側、両方から問題を提起しているような演劇だった。妻子持ちの主人公が、夜勤で二人きりとなった若い女性と浮気を試みようと、何度も挑戦するが、そのたびに入所者から呼び出しアラームが鳴り、毎度、事の直前で「くそっ!」といいながら布団から飛び出ていく場面では、会場が笑いの渦に巻き込まれた。亡くなった入所者が一年ほど前に書き留めて置いた介護者への感謝の手紙には、すすり泣きの声も聞こえてきた。最期を迎えた人も、見送った人も感動で終われる物語であった。上地ら六人は、初めて生で見る本物の舞台俳優の、少し大げさな演技も観ていてとても勉強になった。照明に照らされて、額に輝く汗がこんなにも素敵なものだと初めて知った。それからというもの、彼らは少し本気で演劇に取り組むようになる。専門学校の先生たちも上地らのやる気に、少し嬉しそうにしていた。
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