第26話

電車に乗って来た道を帰る。相変わらず二人は黙って電車に揺られている。東京の小さな空を電車の窓から覗くと、今にも雨が降り出しそうな真っ暗な雲が空を覆っている。

「降られなくて良かったな。」

上地の気持ちを代弁するかのように従兄がささやくように言った。

「はい。」

と、だけ答え、この人はあまりしゃべらないけど色々気を使っていてくれてたのかも知れないなと思った。よく考えれば、いや、よく考えなくても初めから気付かなきゃいけないのだろうけど、せっかくの休みの日に、こんな中坊を連れて、ボリウッドランドに連れていき、何時間も一緒に待ってくれた人だ。きちんとお礼を言わなきゃ。そう思った。

乗り換えで、また同じように長い道を早歩きで歩いた。別の路線のホームまで来たところで、従兄は上地に振り向き言った。


「じゃあ俺、そのまま寮に帰るから。次来る電車に乗れば、最寄り駅まで着くからさ、一人で帰れるよね。」

「あ、はい。あの、今日はありがとうございました。」

上地はそう言って頭を下げた。

「どういたしまして。」

背中を見せ、行こうとする従兄を呼び止める。

「あっ、あの!」

「ん?」

帰りの電車の中でもずっと言いたかったことを思い切って声に出した。

「あの、ひょっとして・・・」

「なに?」

「ジャンゴって、貰えたりしませんか?」

「え?ジャンゴ?ああ、何だよ、読みたかったのか。早く言えよ。」

そう言って従兄は、リュックサックを手前に持ってきて、中からジャンゴを取り出した。

「ほらよ。読みたければ、ボリウッドランドで並んでるときに言えばいいのに。言わなきゃわかんないぞ。」

「はい、すいません。ありがとうございます。」

上地は、照れ笑いなのか、ジャンゴを読める喜びなのかわからない顔をして、それを受け取った。

「じゃあな。」

「はい、今日はありがとうございました。」

従兄の背中を見送った後、少し中を開いてみた。お目当ての漫画の最新話が載っている。と、すぐに電車がホームに入ってきた。それに乗り込む。ジャンゴを読みたいけれど、停車駅の掲示板を見ていなければ、いつ下りればいいかわからない。彼は漫画を読みたい衝動を抑え、ジャンゴを小脇に抱え、乗り過ごすことがないように、軽い緊張と共に、掲示板と外の景色をずっと交互に見ていた。



次の日上地は、一人で外に出かけた。親戚の人たちに対して遠慮があったのだろう。心配もされたが、大丈夫だと答えた。午前10時頃、身支度を整え、財布だけ後ろポケットに入れて外に出た。国道に出て、それに沿ってひたすら歩いた。ただ真っ直ぐ歩いた。迷子になっては困ると思ったからだ。国道沿いを真っ直ぐに歩いて、疲れたらそのまま引き返せばいいと考えていた。何か目的がある訳ではないが、歩いて何処まで行けるか試してみたかったのだ。東京の街がどんなものか歩いて見てみたかった。空は一面が白い雲に覆われていて、歩くのにはちょうど良い気候だった。何度も信号を渡り、どんどんと進んだ。一度大きな交差点に出た。片側三車線の大きな道路だ。いろいろな色や形をした車が、秩序正しく進んでいる。その道路の真上には橋がある。道路の上に橋がある!上地は驚いた。それが首都高速道路だとは、彼にはわからなかった。ただ、今まで見たこともないような何処までも続く橋を見ることが出来、その強固な人工物に感動していた。どこまでも続くその橋は雄大で、壮大で、これが人の造ったものだと思うと、なんだか人間のすごさを感じた。どうやって造ったのかなんて上地には皆目見当もつかなかったけど、少しずつ、一つ一つ橋を繋げていって、いつ終わるかもわからないような長い年月をかけてたくさんの人々が関わって造り上げたものだということだけは、なんとか想像できた。しばらくの間立ち止まり、終わりの見えない橋を見上げていた。


家を出てから二時間程経っただろうかというところで、一軒のラーメン屋を見つけた。カウンターだけの小さな店だ。入り口には扉はなく、真ん中の開いた透明のビニールシートが垂れ下がっているだけの小さな店だ。カウンターには三人の男性客が座ってラーメンを啜っている。腕時計を見ると、十二時を少し回ったところだった。

(ラーメンか・・・旨そうだな、どうしよっか・・・)

少し躊躇した。一人で店に入った経験が無いからだ。一瞬尻込みしたものの、彼は思い切ってビニールシートをくぐり、カウンターに座った。

「いらっしゃい。」

思ったより若い店主が、作業をしながら声を掛けてきた。軽く会釈で返し、カウンターに置かれてあるお品書きに目を通す。メニューは少なく、とんこつ醤油がメインのラーメン屋のようだ。

(とんこつ醤油?)

と思った。彼はラーメンといえば、醤油、塩、味噌の三種類しか食べたことがなかった。地元には中華料理屋いくつかあるが、ラーメン専門というのは一件もなかった。

「じゃあ、とんこつ醤油ラーメン下さい。」

どんな味だろうと、期待に胸を膨らませ注文した。

 手持ち無沙汰になったので、もう一度お品書きに目を落とす。チャーシュー麺の文字が目に入った。

「あの、すいません。やっぱチャーシューの・・・」

「チャーシュー。はい、かしこまり!」

少し高いと思ったが、思い切って奮発した。せっかくの旅だし、良いだろうと、顔がほころんだ。

「はい、チャーシュー麺おまち。」

目の前に、どんぶりが置かれる。麺が隠れるほどにチャーシューが敷かれている。割り箸を割り、

「いただきます。」

さっそく一口。ズズズッ、うまい。蓮華でスープをひとすくい。ズズッ、うまい。濃厚で奥深い味。彼は初めての味に感動した。世の中にこんなにうまいラーメンが存在しているとは夢にも思わなかったのだ。チャーシューも薄切りなのに、肉の油が上品に口の中に溢れてくる。もう夢中で食べた。汁も残さず、最後まで飲み切った。

「ごちそうさまでした。」

代金を支払い、店を出る。みんなに教えなきゃ、東京にはめちゃくちゃうまいとんこつ醤油ってラーメンがあるんだって。そう思い、ハッとする。そうだ、「みんな」は居ないんだ。と思う。サッカー部の同級のことだ。上地は一人逃げ出したことを思い出した。でも、寂しいとか、悲しいなんて感情は湧いてこなかった。何故だろうか?自分自身に疑問に思う。おそらく少しの自信がついたのかも知れない。一人で東京に来て、一人でラーメン屋に入った。そして自分の知らないものに出会った。たったそれだけのことかと思われるかもしれないが、彼にとっては、それが大きな一歩だった。彼は来た道を、足取り軽く戻り始めた。灰色に染まった都会が、彼を少しだけ大きくした。



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