第3章
その日はあっという間にきた。
わたしは、たった一言だけど、何度も何度も練習して。
皇先輩にも見てもらって、大丈夫と思えるまでがんばった。
お母さんは、皇先輩のお母さんと直接電話でやりとりして、ひとまずは安心したみたいだった。
収録当日、お母さんが車でスタジオまで送ってくれた。
帰りは皇先輩が送ってくれるから、お母さんとはここでお別れ。
「がんばりなさい。皆さんにちゃんとあいさつしてね」
「うん、ありがとう」
遠くなる車を、つい心細い気持ちで見送る。
そびえ立つビルは、5階だから都内ではそんなに大きいわけでもないのに、わたしにはとっても大きくて怖いところに思えた。
飛び出そうな心臓を押さえて、扉を開く。
入口すぐの受付で名前を言って、ロビーに向かう。
ソファに見慣れた姿が見えて、わたしはほっとした。
「皇先輩!」
「美緒、おはよ」
片手を上げた皇先輩が、ものすごく頼もしく見えた。
さっきまでの重い気持ちが嘘のように、わたしは笑顔で駆け寄った。
「ごめんな、迎えに行けなくて。オレもさっきまで収録だったから」
「いえ、お母さんが送ってくれたので大丈夫です」
答えてから、わたしはくすりと笑った。
それを見て、皇先輩が首を傾げる。
「ごめんなさい。もう夕方なのに、おはよって言うから」
「まぁ、慣習だからな。美緒もあいさつするときは『おはようございます』って言ってな。2回目からは『お疲れさまです』」
初めて会う人ばかりなのに、あいさつした人かどうか覚えておけるだろうか。
おんなじ人に「おはようございます」って言っちゃいそう。
「最初から『お疲れさまです』って言っちゃだめなんですか?」
「それがなー。『疲れてない!』って言うひねくれものがいるから。見栄で生きてる人たちだから、合わせてあげて」
やれやれという風に肩をすくめた皇先輩に、わたしはまたくすくすと笑いをこぼした。
すれ違う人たちにあいさつをしながら、皇先輩に連れられて、『Bスタジオ』の札がかかった部屋の前まで行く。
皇先輩がノックをしてから扉を開くと、中にいた人たちがこちらに視線を向けた。
部屋にいたのは、3人のおじさんだった。
放送室にあるみたいな機械の前に座っているのは、眼鏡をかけたしゅっとしたおじさん。
隣にある小さいモニターの前にいるのは、ずんぐりしたおじさん。
その後ろのソファに、スーツのおじさん。
おじさんたちに気圧されていると、ずんぐりしたおじさんが口を開いた。
「ああ、コウくん戻ってきた。ってことは、その子?」
「はい。彼女が、同じ学校の小鳥遊さんです」
皇先輩がわたしを示して、耳元で小さく「あいさつして」と囁いた。
「お、おはようございます! 響明中学校1年、小鳥遊美緒です。今日はよろしくお願いします!」
勢いよくそう言って頭を下げたわたしに、部屋の人たちは朗らかに笑ってくれた。
「1年生! 若いねー、いいねー、初々しいね!」
「なんだコウくんこんなかわいい子連れてきて、隅に置けないな」
「冴木さんそれセクハラですよ」
「ぐわ! 出た令和厳しい! これもだめなの!?」
皇先輩はおじさんたちに全然萎縮することなく、普通に笑っていた。
すごいなぁ、と思わず呆けてしまう。
ぽかんとした顔のわたしに視線を合わせて、ずんぐりしたおじさんが笑顔であいさつをした。
「初めまして、音響監督の鈴木です。隣にいるのが、ミキサーの塚本。後ろにいる偉そうなのが、プロデューサーの冴木」
「偉そうってなんだよ!」
「偉そうでしょー。いなくていいのに、女子中学生見たいからって残っちゃって。いなくていいのに」
「いいじゃん俺くらいいたって! 他のやつら帰ったんだし!」
まるでだだをこねる子どもみたいな口ぶりが、大人なのにおかしくて、わたしはちょっと笑ってしまった。
「中学生に笑われてますよ冴木さん」
「むしろ褒めてほしい。緊張をほぐした俺グッジョブ」
ポーズをきめた冴木さんを無視して、鈴木さんがわたしに笑いかける。
「ごめんねー、大人げないけど、エンタメはこういう大人げない大人が作ってるから。無視していいよ」
「ひどい! 俺にもJCと喋らせて!」
「JCとかいう大人に子どもと話す権利ないですよ」
「塚本くん俺に冷たいよね……」
お仕事だから、と固くなっていたけど、ここにいる人たちはなんだか和やかで、わたしはちょっと安心した。
わたしの様子を見て、鈴木さんが軽く手を叩く。
「さて、それじゃそろそろ始めようか。原稿は持ってきてるよね?」
「は、はい」
ひと言だけだからもう暗記してるけど、渡された原稿と資料など一式は封筒ごと全部持ってきている。
「じゃ、スタジオ入ろっか。塚本くんよろしくね」
「はい」
塚本さんが席を立ってこちらに来ると、皇先輩はソファの方に移動した。
「オレは調整室にいるよ。ここから見えるから、がんばって」
学校の放送室でいうディレクター室のことを、ここでは調整室というらしい。
調整室とスタジオを隔てるガラスを指さして、皇先輩は手を振った。
そっか、いっしょにスタジオの中には入らないんだ。
心細く思ったけれど、ついてきてほしいとも言えない。
塚本さんに案内されて、わたしは一度調整室を出た。
隣にある分厚い防音扉を塚本さんが開けてくれて、スタジオの中に入る。
「スタジオ内の物は一切触らないでね。ものすごく高いから、壊したらとんでもないことになるよ」
「わかりました」
放送部の機材も高いって言ってたから、ここにあるものはきっともっと高いんだろう。
わたしは期待と興奮のまじった目で、スタジオ内を見回した。
しんと静かな空間に、乾いた空気。
どこか圧迫感があって、心臓がどきどきしてきた。
「小鳥遊さん。マイクの高さを合わせるから、前に立ってくれるかな」
「は、はい!」
いつもは大人の人が使っているんだろう、背の高いマイクの前に立つ。
塚本さんがスタンドを調整して下げてくれるのを、落ち着かない気持ちで目で追っていると。
「口の高さに合わせるから、顔は原稿を見る角度でね」
「すっすみません!」
慌ててぴしっと背筋を伸ばす。
さっそくやってしまった、と慌てていると、塚本さんが安心させるように穏やかに声をかけてくれた。
「いいのいいの、スタジオ初めてでしょ? 緊張するよね」
「はい……」
「その緊張を、マイクは拾うからね。緊張するなってのも無理だけど、大丈夫。ここには君の味方しかいないから」
「味方?」
「そう。オーディションとかではライバルもいるけどね。一度決まってチームになったら、メンバーは全員、いい作品を作るための仲間同士だから。それは演者だけじゃなくて、僕たちスタッフもいっしょ。君を攻撃する人はいないし、失敗しても録り直せるから、最初から完璧にやろうとしなくても大丈夫。安心して、のびのびやってね」
「っはい! ありがとうございます」
「うん、いいお返事」
マイクの高さを合わせた塚本さんは、「がんばってね」と声をかけて、スタジオを出て行った。
1人残されると、本当になんの音も聞こえなくなった。
普段とは全然違う環境だし、緊張はどうしてもちょっと残るけど。
スタッフさんたちは優しかったし、皇先輩もいる。
よし、とわたしはお腹に力を入れた。
「戻りました」
調整室に戻った塚本に、からかうような表情で冴木が声をかける。
「おかえりー。塚本くん、小鳥遊さんとなに話してたの?」
「ちょっとした雑談ですよ。緊張してたみたいなんで」
「やっさしー。塚本くん子どもに甘いよね」
「大人として当然の対応です」
「俺は仕事に大人も子どももないと思うけどねー」
ソファにのけぞった冴木に、塚本が溜息を吐きながら機材卓の前に座る。
「コウくんみたいに慣れてるならともかく、初心者ですよ。こっちもわかってて受け入れたんですから、最大限配慮しますよ」
「今の子どもは堪え性がないからなー。ちょっと指摘しただけで泣いちゃうし、怒ると辞めちゃうし。ご機嫌とらないと仕事にならないか」
呆れたように言う冴木に、塚本が眉をひそめる。
「僕は元々、昔の暴力的なやり方には反対なんです。みんなの前で怒鳴りつけて、机叩いて物投げつけて。そんなやり方で芝居が良くなったところを見たことがありません。大人だって萎縮するだけですよ。ましてや子どもなんて、怖がらせてもいいこと1つもないでしょう」
ピリついた空気を感じ取って、鈴木が仲裁に入る。
「まーまー! 冴木さんも本気で言ってるわけじゃないから。僕も耳が痛いなー。若い頃は尖ってたし、監督ってちょっと偉くなった気になるんだよねー」
「えー、鈴木さんも物とか投げてたんだ?」
「そこまでしてないけどさぁ。厳しくするのがいい、みたいな風潮あったしね。それを乗り越えてきたやつが本物、みたいなさ。だから緊張感あったし、悔しさで這い上がってくる人はハングリー精神も強かったけど。悔しさから成長できる人ってのは、言われなくても自分でだめだったことに気づいてるもんだから、怒る意味ないんだよ。気づいてなさそうなら後から個人的に話せばいいし。見せしめみたいなやり方、今はあんまりしないね」
「鈴木さんもやっさしー。だから新人の案件多いんだ」
「そりゃこっちだって、役者に嫌われたら仕事なくなるからさぁ。でも未だに気をつかうよ。優しく言ったつもりでも、怒られたって思う子、やっぱいるからね。そこんとこどうなのかなぁ、令和っ子?」
大人同士のやり取りを傍観していた皇に、鈴木が話を振る。
水を向けられた皇は少し考える素振りをして、
「オレは鈴木さんのやり方、ありがたいですけどね。ある程度経験を積むまでは、ミスをしても、どうしてそうなったのかわからないこともありますから。指摘してもらって初めて納得できることもありますし。人前で怒鳴られると仕事のパフォーマンスが落ちるってのは、今はもう心理学的に立証されてますから、威圧するやり方はオレも反対ですけど。鈴木さんの言い方で立ち直れないようなら、どこ行っても無理だと思います」
「コウくんにそう言ってもらえると、救われるなぁ」
「逆に放っておかれる方が怖いですよ。できてないのになにも言われないって、諦められたってことですからね。本人はなにが悪かったのかもわからないまま、二度と呼ばれなくなって、仕事がなくなる。指摘してくれる人がいなくなると、最初から完璧にできる人間しか出てこれなくなりますから。現場は勉強する場所じゃないって意見もわかりますが、育成が全く機能しなくなったら、業界が衰退しますよ。ただでさえ少子化なんですから、今の中堅以上がいなくなった時に、がくっと人が減るんじゃないですか」
「業界って。コウは本当に子どもらしからぬ考え方するよな……」
「子ども扱いしてくれない冴木さんみたいな大人がいっぱいいたんですよ」
にっこりと笑顔で返ってきたカウンターに、冴木が「うっ」とわざとらしく呻いた。
「指導に関しては、オレは鈴木さんを信頼してますよ。だから美緒のこと預けたんです」
「嬉しいねぇ。じゃ、その信頼に応えるとしますか」
軽く肩を回して、鈴木は手元のマイクのスイッチを押した。
『小鳥遊さーん。聞こえるかな?』
「はい、聞こえます」
スタジオ内に突如響いた声に、びくっと肩を揺らす。
鈴木さんの声だ。
そっか、向こうの声聞こえないなって思ってたけど、こうやってスピーカーから聞こえるんだ。
『こっちから指示出す時は、こうやってマイクを通して話すから。なにも聞こえなくても焦らないでね。そっちからなにかある時は、ガラスの方じゃなくて、マイクに向かって話してね。そうしたら、マイクを通してこっちに聞こえるから』
「っわかりました!」
ガラスの方に向けていた顔を、ぐるんとマイクの方に戻す。
ひゃぁ、さっきの返事、ガラスの方にしちゃった。
だって、顔見て話さなきゃ、って思って。
『放送部って聞いてるから、ある程度わかってるかもしれないけど、一応説明するね。そこから、目の前に赤いランプがあるの見える?』
「はい、見えます」
『これがキューランプね。このランプが赤く光ったら、始めますって合図。だからランプが光るのを見て、消えてから台詞しゃべり始めてね』
説明しながら、鈴木さんがわかりやすいようにちかちか赤く光らせてくれた。
これが光って、消えたらしゃべる。
光って、消えたらしゃべる。
頭の中でくり返して、よし、と確認する。
「わかりました」
『じゃ、まずは1回やってみようか。よろしくお願いします』
「よ、よろしくお願いします!」
またスタジオの中がしん、と静かになる。
台詞は覚えてるけど、原稿は念のために顔の高さに掲げて持つ。
どきどきしながらキューランプを見つめていると、赤く光って、少しして消えた。
消えたから、しゃべり始める!
「負けるな、A組! がんばれーっ!」
設定はとても単純。
中学校の球技大会で、クラスメイトを応援する女子生徒。
だから応援の気持ちを込めて、めいっぱい叫んだ。
『はい、お待ちください』
鈴木さんの声がして、その一言だけでまた静かになる。
え、今の、良かったの? 悪かったの?
待って、と言われたので、わたしは待つしかない。
不安な気持ちで振り返ると、ガラス越しに鈴木さんたちがなにか話している。
急に心臓がばくばくなってきた。
クラスの子が、わたしのことをちらちら見て、なにかを話している時の感覚に似ている。
もしかして、悪口言われてる? って。
大人の人たちだから、悪口、なんてことはないだろうけど。
全然できてないから、どうしよう、って話かもしれない。
確実にわたしの話をされているのに、なにを言っているのかわからない。
それがこんなに怖いなんて。
原稿を持つ手が震える。
だめ、とその手を反対の手で握りしめた。
緊張はマイクに乗る。
それは声だけじゃなくて、体の動きもそう。
手が震えると、原稿がカサカサと揺れて、ペーパーノイズが乗ってしまう。
そういう声以外の余計な音が入ると、その台詞は使えなくなってしまう。
だから絶対、余計な音を立ててはだめ。
俯きそうな視界の端に、ひらひらと揺れる手が見えた。
顔を上げると、皇先輩がこちらに向かって笑顔で手を振っていた。
そして、口をぱくぱくと動かしている。
なんだろう、と思ってじっと見ていると。
『だ・い・じょ・う・ぶ』
目を丸くするわたしに、皇先輩はさらに笑みを深くした。
安心させようとしてくれている。
それがわかって、ふっと体の力が抜けた。
そうだ、大丈夫。
だって皇先輩がいるんだもん。
さっき塚本さんも、最初から完璧じゃなくていいって言ってくれた。
だめなところがあったら、直せばいい。
だから大丈夫。
落ち着くために深呼吸をしていると、スピーカーから音がした。
『お待たせしましたー。うん、小鳥遊さん、いいよ。自然だし、きれいにマイクに乗ってるね』
「あ、ありがとうございます!」
褒められた! で、いいんだよね?
ちょっと照れながらもほっとして、顔がゆるんだ。
『それでね。今の感じだと、ちょっとヒロイン声なんだよね』
「ヒロイン声……?」
『透明感があって清楚な感じ、って言って伝わるかな。コウくんから聞かせてもらったシンデレラね、あれはお姫様だから、ぴったりだったんだけど。今回はヒロインが別にいて、そっちのキャラが清楚系なのね。だからバランス取るために、元気っ子な感じでいけるかな?』
「が、がんばります!」
『じゃもう1回、お願いします』
ぷつりとマイクの音が切れて、またしんと無音になる。
赤いキューランプが光って、消えた。
元気な感じ、元気な感じ!
「負けるな、A組! がんばれーっ!」
さっきと同じ台詞。
だけど、さっきより力を込めて言ってみた。
どきどきしながら待っていると。
『うん、いいね、さっきより元気になった』
「ありがとうございますっ」
『じゃぁ今度は、シチュエーションも考えてみようか。この試合って、A組は勝ってる? 負けてる?』
「えっと」
台本を思い返す。
全部じゃないけど、わたしのキャラが出てくるシーンの原稿は前後も含めてもらっている。
「負けてます」
『そうだね。勝ってるチームを応援する時の「がんばれ」と、負けてるチームを応援する時の「がんばれ」って違うよね。どんなところが違うと思う?』
どんなところ。
そんなこと聞かれると思ってなかった。
なにが違うんだろう。
聞かれたことに答えなくちゃ、とわたしは一生けん命考えた。
「えっと……勝ってたら、安心して、応援するけど。負けてたら、もっと強くがんばれって思うっていうか……あ、必死? な感じになると思います」
『そうだね。じゃぁ次は、その必死な感じを出してみよう』
「はい」
自分のチームが負けている時をイメージして。
もっと必死に、がんばれ、って思った。
キューランプが光って、消えて。
「負けるな、A組! がんばれーっ」
あっ! 最後、カスッてなっちゃった!
やってしまった、と思って慌てていると。
『うん、必死感は出た! 必死になりすぎて、最後掠れちゃったか』
「す、すみません!」
『大丈夫大丈夫。映像がないから、はっきり聞こえないと、聞いているお客さんはなにを言っているのかわからなくなっちゃうんだよね。感情を乗せるのはいいことだけど、声は潰れたり掠れたりしないように、しっかり音にしようね』
「はいっ!」
『じゃぁもう1回』
丁寧にやってくれるんだな、って嬉しく思ったのも、最初だけだった。
『必死すぎてちょっと悲壮な感じがするかなー。元気っ子なの忘れないでね』『最後ヨレちゃったか。語尾までしっかり音にしようね』『ら行ロレっちゃったね。疲れてきちゃったかな。お水飲んで、もう1回いこう』
(ひええええ!!)
怒られることはないけど、容赦もない。
やり直しはあると思っていたけど、職場体験って言ってたし、2、3回やらせてもらうくらいかなって思ってた。
(もう10回はやってる……!)
同じ台詞をくり返しすぎて、頭がぐるぐるしてきた。
これどうなったら正解なの? どうなったら終わりなの?
『よし、次がラストだと思って、思いっきりやってみよう』
「はいいぃ……!」
ここまで言われたことが頭の中を駆け巡る。
元気に、音にして、必死に、滑舌、ノイズ、ええと、ええと。
キューランプが光った瞬間、ぶつん、と考えていたことは全てふっとんだ。
「負けるな、A組! がんばれぇーッ!!」
肺から空気が全部吐き出された。
たった一言なのに、息が切れた。
少しの間、荒い呼吸をくり返していると。
『OK! いただきました!』
いただきました。
つまり?
「あ、ありがとう、ございました……っ!」
ガラスの方を振り返って、頭を下げる。
鈴木さんは指でOKサインを作ってくれて、皇先輩も親指を立ててくれた。
やった、できた……!
達成感に包まれていると、重い扉が開く音がして、塚本さんが迎えに来てくれた。
「小鳥遊さん、お疲れさま」
「ありがとうございます」
スタジオを出ると、閉塞感から解放された気分になって、大きく呼吸をした。
扉を閉めた塚本さんに、そうだ、と気になっていたことを聞いてみる。
「あの、塚本さん」
「ん?」
「わたし、声、ちっちゃくなかったですか?」
「ああ、普段はちょっと小さめだね。でも今回は張る台詞だったし、普通の台詞でも音量上げればいいだけだから。調整室で聞いてたらなにも気にならなかったよ。むしろよくマイクに乗る声だから、無理して潰さない方がいいんじゃないかな?」
「そうなんですね。ありがとうございます」
皇先輩も小さくていい、って言ってたけど、大人の人から見てもそうなのか不安だった。
けど、実際にお仕事している人がこう言ってくれるなら、本当に気にしなくていいんだ。
不安が1つ解消されて、わたしも声優になれるかもって、ちょっと自信がついた。
「戻りましたー」
塚本さんが調整室の扉を開けてくれたので、あとに続いて部屋に入る。
「お疲れさま」
「おつかれー」
「お疲れさまです、ありがとうございました! お時間取らせちゃって、すみません」
鈴木さんと冴木さんに向かって頭を下げる。
謝ったわたしに、鈴木さんは軽く手を振った。
「いーのいーの、元々じっくりやろうと思ってたから。まぁ、小鳥遊さんが途中でめげちゃうようなら、適当なところで切り上げようと思ってたけど。がんばってくらいついてきたね。そのやる気、大事にしてね」
「ありがとう、ございます」
なんだかむずむずする気持ちで、わたしは鈴木さんにお礼を言った。
「さて、じゃぁ収録は無事に終了ということで、あとは手続き関連と。原稿類全部回収するから、机の上に置いていってね」
「はい」
持ってきていた封筒と、さっき使った原稿を全部机の上に出す。
「それから、これが本日のギャラです」
「……え?」
「薄謝だけどねー」
お金を渡されて、わたしは目を白黒させた。
だって今日、職場体験って。
お給料、出るの?
「領収書にサインもらえるかな」
「あ、あのっ!」
「ん?」
「えっと……わたし、プロじゃ、ないので。お金もらえるような、こと……」
そこまでのこと、できてない。
俯いてしまったわたしに、鈴木さんは優しく声をかけた。
「小鳥遊さん。できていても、できなかったとしても、これは仕事だ。お金をもらうだけの責任を持つということを学んでほしくて、僕らはギャラを払うことを決めたんだよ」
千円札を、3枚。
しっかりと手渡された。
「小鳥遊さん。3千円でなにができる?」
「え? えっと……ハンバーガー15個分……? あ、アクセサリーとか……お化粧品も」
「そうだね。それだけのものが買えるお金だ。それを今日、小鳥遊さんはあの一言で手に入れた」
どきっとした。
わたしがやった、たった一言。
あれが、3千円。
「小鳥遊さんのその一言に、それだけの価値を見出して、お金を払う人がいる。本当のプロになったら、もっと高いお金をもらうこともある。君が口にする、たった一言で、だ。そのことをよく考えて、これからもがんばってね」
お金をじっと見つめて、返事をしようと口を開くと。
「鈴木さーん、今の子どもは月に1万とか小遣いもらってるから、それ響かないよ」
後ろから口を挟んだ冴木さんに、鈴木さんがぎょっとして叫ぶ。
「そうなの!? 僕の頃500円とかだったのに!?」
それは逆になにができるんだろう、と思いつつ、慌ててフォローする。
「あ、えっと、わ、わたしも、1万円とかはもらってないです。月に3千円です」
「そ、そっかぁ……」
鈴木さんはちょっと落ち込んだみたいだったけど、すぐに持ち直した。
「えーと、じゃぁ、こう考えよう。学校で、掃除の時間あるよね? 掃除を仕事にしている人は、ああやって一生けん命掃除をして、お金をもらっているんだ。都内の最低賃金だと、時給千円くらいかな。1時間、ずうっと掃除をがんばって、千円だ。大人でもね」
「はい」
それならわかる。
学校の掃除の時間だって、1時間もやらない。
短い時間でも、みんなふざけちゃう。
お仕事でやっている人は、お金をもらうから、ふざけたりしない。
ちゃんときれいにして、それを1時間やり続けて、千円。
「それを、3時間。3時間がんばって、やっと手にすることができるお金が、それだ」
そう言われると、手の中のお金がずしっと重みを増した。
3千円、と数字で言われた時も、わからなかったわけじゃない。
でも、3千円くらいの服なら、お母さんにねだれば買ってもらえる。
だけどその金額は。
自分で稼ごうと思ったら、何時間もがんばって掃除したり、物を売ったり、そうやって手に入れるお金なんだ。
わたしの今日の台詞。
たった一言。
わずか数秒で終わるあの台詞に、大人が3時間がんばって働いたのと同じだけのお金を払ってもらう。
それが、声をお仕事にするということ。
「……がんばります。お金を出して良かったって、思ってもらえるような声優になります」
鈴木さんとまっすぐ目を合わせると、鈴木さんは嬉しそうに微笑んでくれた。
全部終わって皇先輩とビルを出たわたしは、どっと疲れを感じて、大きく息を吐いた。
そんなわたしに、皇先輩が苦笑する。
「お疲れさま。がんばったな」
「はい……。でも、すごく勉強になりました。色んなこともわかったし。やって良かったです」
「そっか。ならオレも、紹介したかいがあった」
笑顔の皇先輩に、真剣な表情で向き合う。
「皇先輩。今日のこと、本当に……本当に、ありがとうございます。わたし、すごく恵まれてるって、思います。皇先輩みたいなすごい人が隣にいてくれて、力になってくれて。お母さんも、応援してくれている」
今日のお仕事をして、改めて気づいたことがたくさんある。
わたしはきっと、すごく運がいい。
だって普通、中学生で声優になりたいなって思っている子がいたとして、ここまでのことはできない。
だから。
今だから、進みたい。
「わたし、声優になります。そのために、今できること、全部がんばりたいです。皇先輩、力を貸してくれますか」
わたしの宣言に、皇先輩は目を見開いて、やがてゆるゆると微笑んだ。
「もちろん。美緒のためなら、いくらでも力になるよ」
「ありがとうございます」
「でも、そうなるとなぁ」
「えっなんですか!?」
うーん、と考え込むような素振りを見せた皇先輩に、なにか問題があるのかと慌てた。
「ほら、オレたちって、今恋人(仮)じゃん?」
「えっ? えと、そういえば……そう、ですね」
「これからもっといっしょにいることになるならさ。お試しじゃなくて、正式にオレと付き合わない?」
「ええっ!?」
にこーっと笑顔で迫ってくる皇先輩に、わたしは1歩さがった。
それとこれとは、別問題のような!?
「もう結構好感度上がったと思うんだけど。美緒、オレのこと好きでしょ?」
「す、え、それはっそのっ」
すごい直球で聞いてくる……!
顔に血が集まっているのがわかる。
どうしよう、絶対真っ赤だ。
あわあわしていると、皇先輩がそっとわたしの前髪を払って。
なにかついてたかな? なんて思ってたら、額に柔らかい感触があった。
……え?
「ごめん。かわいかったから、つい」
目の前で笑う皇先輩に、わたしは固まってしまった。
え、え? 今のってまさか。
(お、おでこにちゅーされたっ!?)
「帰ろっか」
皇先輩に手を引かれて、帰り道を歩き出す。
その間、わたしはずっとうわの空だった。
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