第2章
「美ー緒ー、ちょっといい?」
お昼休み。
にこにこ顔の皇先輩に呼び出されて、わたしはお弁当を広げかけた手を止めて、目をぱちくりさせた。
教室から移動して人の少ない階段に腰かけると、皇先輩は持っていた鞄の中から、大きめの封筒を取り出した。
「この前さ、放送部でラジオドラマ作っただろ? あれを知り合いの音響監督に聴いてもらったんだ」
「え!?」
「それで主役の子が声優志望だって話したら、じゃあモブで呼んでみる? ってことになって」
「え!?」
情報量が多すぎて、わたしは早くもパニックになっていた。
お遊び企画のラジオドラマを!? プロの監督さんが聴いて!?
わたしが声優を目指してるって言ったの!? どうして!?
モブで呼ぶってどういう意味!?
目をぐるぐるさせているわたしに気づいて、皇先輩は軽く笑った。
「ごめんごめん、急だったよな。部活じゃ話せないことだし、早く伝えたくて。昼休憩短いし、食べながら聞いてよ」
「は、はい」
わたしは持ってきていたお弁当を膝の上で広げて、もそもそとお箸で口に運んだ。
味なんて全然わからなかった。
「美緒は声優になりたいんだろ? だったら、行動を始めるのは早い方がいい。せっかく放送部にも入ったんだし」
「で、でも、わたしまだ中学生だから」
「オレだって中学生だよ」
笑いとばした皇先輩に、わたしは顔を赤らめた。
たしかに。
でも、皇先輩は特別だ。
小さいころから子役をやってたって聞いた。
――わたしとは違う。
不安そうなわたしを見て、皇先輩は励ますように説明を続けた。
「今回の仕事はオーディオドラマの収録でさ。部活でやったラジオドラマと同じで映像がないから、技術的にはそんなに難しくないよ。モブっていうのは『その他大勢』って意味で、名前のない端役のこと。シンデレラのお付きA、Bみたいなやつな。台詞は一言しかないし、抜き録りで対応してくれるから。気軽に職場体験だと思ってさ」
「抜き録り?」
「ああ、作品ってチームで作るから。基本的には出演者全員集まって収録するんだけど、忙しくてスケジュール合わない人とか、特別な理由がある場合は、1人だけで録るんだよ。他の出演者がいると、あの人たち圧あるし、失敗した時にテンパっちゃうからさ。俺から監督に頼んだんだ」
笑顔で言う皇先輩は、わたしを安心させようとして言っているんだろう。
なるべくわたしが気負わなくていいように、って気をつかってくれている。
それはわかるけど。
やっぱりわたしには、全部が急すぎて。
「どうして1人で決めちゃうんですか?」
思った以上に泣きそうな声が出て、わたしは膝の上でぎゅっと手を握った。
「わ、わたし、たしかに声優に憧れてるって言ったけど。そんな急に色々言われても、まだ無理です」
まだ中学生になったばっかりだし。
部活だって、まだまだこれから。
なのに急に、大人の人と、お仕事なんて。
「まだ、ってさ。ならいつならいいの?」
少し低いトーンにどきっとして、おそるおそる顔を上げた。
皇先輩は、またあの怖いくらい真剣な目をしていた。
「2年生になったら? コンクールに出たら? それとも声優の勉強をもっとしてから? 準備万端になったら、また同じチャンスが来ると思ってる? よく言うよね、チャンスの女神は前髪しかないって。通り過ぎてから手を伸ばしても、届かないよ」
「で、でも……っ、今のわたしじゃ、迷惑になっちゃうし」
「これは美緒が無理やり頼んだんじゃなくて、オレの判断で持ってきた仕事じゃん。そりゃ段階を踏まないと危ないことはあるよ。跳び箱の3段が跳べないのに、いきなり5段を跳ぼうとしたら怪我するよな。けど美緒が、この前3段が跳べたのを見たから。なら4段にチャレンジしよう、って言ってるんだぜ。オレは跳べると思ってる。美緒は? ずっと3段でいいの?」
(そんなこと、言われても)
わたしは黙ったまま、唇を引き結んだ。
皇先輩は、すごい人だからそんなふうに言えるんだ。
どんどん高く跳べるから。
わたしは、何十回も3段を跳ばないと、4段にはチャレンジできない。
返事をしないわたしに、皇先輩は苛立ったように頭をがしがしとかいて、封筒を渡した。
「どの道、未成年は保護者の許可がいるからさ。やるつもりなら、中の書類に親のサインもらってきて。やらないなら、封筒ごと返して。これ機密情報だから、関係者以外に持たせておけないんだ」
機密情報。
大人の世界の言葉だ。
急に、封筒が重くなった気がした。
「収録は2週間後だけど、美緒がやらないなら別の人に話を回さないといけないから、返事は3日後までにくれるかな」
「あ、そ、そっか。別の人、いるよね」
当たり前だ。
皇先輩はわたしにこの役をくれようとしたけど、わたしが断っても、ちゃんとした人がやってくれるんだ。
ほっとして、ひとりごとのようにこぼしたわたしに、皇先輩は鋭く続けた。
「そうだよ。モブのたった一言だけど、これをやりたくてもやれない人が大勢いるんだ。シンデレラと同じだよ。他のやりたい人を押しのけて、自分が掴み取るんだ。迷ったり遠慮したりしてたら、他の人に奪われるだけ。平等に、順番に、みんなにチャンスが巡ってくるわけじゃない。せっかくのチャンスを無駄にするような人には、もう1回なんてこないよ」
厳しい皇先輩の言葉に、胸のあたりが痛くなった。
だって、チャンスなんて、思えない。
失敗したら、色んな人に迷惑をかける。
紹介してくれた皇先輩にも。
いつになったら、なんて、そんなのわからないけど。
今はやっぱり、早すぎるんじゃないのかな。
そんな風に頭では考えたけど、言葉にはできなかった。
「オレ、午後は仕事で早退するから。考えといて」
「……うん」
ちょっとだけ心配そうな顔をしながらも、皇先輩は自分の教室に戻っていった。
わたしは、まだお弁当箱に残ったご飯を、口に押し込むようにして食べた。
*~*~*
「ただいまー」
家に帰ると、手洗いうがいだけ済ませて、まっすぐ2階の自分の部屋に向かう。
ドアを開けて荷物を床に放り投げると、ベッドに飛び込んだ。
「うう〜……」
今日は色々ありすぎて頭がパンクしそうだ。
布団に顔を埋めたまま、情けない声でうなる。
ずっと優しかった皇先輩が、あんなに厳しいこと言うなんて。
なんだか怖くて、もらった封筒は開けられなかった。
そのままだらだらと過ごしていると、1階からお母さんの「夕飯できたよ」という大きな声が聞こえた。
のろのろとした足取りで階段を下りて、ダイニングに向かう。
「美緒、お箸並べて」
「はぁい」
お手伝いをしてテーブルが整うと、「いただきます」と手を合わせてご飯を食べる。
お父さんは帰りが遅いから、夕食はだいたいお母さんと2人。
いつもその日学校であったこととかを話すんだけど、今日のことを話すには、まず言わなきゃいけないことがある。
「お母さん、あのね」
「なぁに? どうしたのそんなかしこまって」
「わたしね、声優になりたいの」
放送部に入る相談はしたけど、きちんと将来の夢として話すのはこれが初めてだった。
珍しくわたしが主張したのを見て、お母さんはびっくりしたあと、にっこり笑った。
「あらぁ、いいじゃない! 夢があるのはいいことだもの」
「ほ、ほんと? 応援してくれる?」
「もちろん。そのためには、しっかり部活をがんばらないとね。もちろん勉強も」
「う、うん。それは、そうなんだけどね」
なんだろう。
お母さんは笑顔だし、応援してくれるって言ってるのに。
なんだか、噛み合わない気がした。
「学校の先輩に、声優としてお仕事してる人がいて」
「え!? 先輩って、中学生でしょ?」
「そうなんだけど、子役からずっとやってた人で」
「子役! ああ、そう。声優ってそうね、芸能人なのね」
感心したようなお母さんの言葉に、わたしはお母さんが全然声優について知らないことに気づいた。
「それでね、その先輩が、わたしにお仕事しないかって」
「ええ!?」
今度こそお母さんは大きな声を上げて、お箸を落とした。
「美緒、それは無理でしょう。だってあんたまだ中学生じゃない」
「だから、保護者の許可はいるんだけど。芸能活動だから、子どもでもお仕事はできるの」
「それにしたって……そういうのって、芸能事務所? とかに入ってるタレントさんがするんじゃないの?」
言われて、初めて気づいた。
そういえば、そういうことを全然聞いてない。
皇先輩の紹介だから? どうなるんだろう。
黙ってしまったわたしに、お母さんが不安そうに聞く。
「その先輩、ちゃんとした人なの? 騙されてるんじゃないの?」
「皇先輩はちゃんとした人だよ!」
あんなに一生けん命になってくれた皇先輩を悪く言われて、わたしは思わず叫んだ。
お母さん、皇先輩と会ったこともないのに。
なにも知らないくせに。
泣きそうになっているわたしに、お母さんは続けた。
「あのね、美緒がやりたいこと見つけたっていうのは、お母さん本当に嬉しいのよ。放送部に入りたいって言った時もね、学校生活に楽しみができると思ったし、いいことだって。でも、仕事をするっていうのは、また別の話でしょう。美緒が将来どうしていくかは、これからゆっくり決めていくことなの。まずは中学校で勉強して、高校生になって、大学生になって、働くのってその後のことでしょう」
「そんなに待ってたら、大人になっちゃうよ!」
「だって仕事は大人がするものでしょう」
「それじゃ遅いの!」
遅い。
口にして、はっとした。
皇先輩は、ずっと早い方がいいって言ってた。
わたしは今、大人になってからじゃ遅いと思った。
どうしてだろう。
「遅いって、なら美緒。声優って、どうしたらなれるか知ってるの? 何歳までになるものなの?」
聞かれて、わたしは言葉に詰まった。
知らない。
なりたいって言ってたけど、それはぼんやりした憧れみたいなもので。
どうしたらなれるのかを、わたしは知らない。
「なんにも知らないのに、仕事なんて無理でしょ。そういうことも、これから将来を考えながら知っていくんでしょ。まだ1年生なんだから、焦らないの。ほら、ご飯食べちゃいなさい」
悔しい、と思いながらも、お母さんの言葉に言い返すことができなかった。
だって本当のことだから。
わたしはそのあと、黙ってご飯を食べた。
*~*~*
「声優、なり方……っと」
自分の部屋のベッドに転がって、わたしはスマホで検索した。
中学生になったら、連絡用にあったほうがいいからって、お父さんがスマホを買ってくれた。
学校ではスマホの利用は禁止だから、緊急用に持ってるだけで出さないけど。
家では、自由に使っていいことになってる。
自由に、って言っても、使いすぎたら没収ねってお母さんから言われてはいるんだけど。
出てきた検索結果に、わたしは目がちかちかした。
(こんなにいっぱい)
これだけたくさん出てくる、ということは、知りたい人がたくさんいるってことだ。
学校の情報もたくさん出てきた。
受験はまだ先だけど、と思いながら、わたしは検索結果をタップしていく。
(一般的なロールモデル……これがわかりやすいかな)
画像付きで説明された画面をスクロールして見ていく。
最初に専門学校が2年。
高卒資格を同時に取るところなら3年。
卒業時にオーディションを受けて、受かったら事務所付属の養成所に通う。
養成所は通う先によるけど、だいたいここも2年。
そこで卒業時にオーディションを受けて、合格したら事務所に所属。
(ええっと……中学校を卒業して、高校の代わりに専門学校に通うとしたら。そこでまず3年だから、卒業する時は18歳。それから養成所に合格したとして、2年通うから、事務所に入る時には20歳……と)
頭の中で数字を足して計算していく。
20歳からお仕事をするなら、大人だし普通かな、と思った。
(あれ? でも)
スマホをタップして、今度はオーディション情報を見ていく。
さっきなり方を調べた時にも、いくつか目にした。
(アニメ出演オーディション、15歳から23歳。声優アイドルユニット募集、13歳から20歳。ほしきら事務所所属オーディション……12歳から22歳……)
ほとんどのオーディションが22歳程度、高くても25歳までと書かれている。
逆に下の記載はだいたい中学生からOKで、記載がないものまである。
さっき確認したロールモデルは、順調に進んだ場合だ。
専門学校卒業時のオーディションでどこにも受からないかもしれないし、養成所を卒業できなくて何年もかかるかもしれない。
一度もつまずかなかったとしても、声優になれるのは20歳。
事務所に所属してからも、お仕事はオーディションで取っていくのだと書いてあった。
だとしたら、お仕事のオーディションを受け出すのが20歳から。
でも、受けられるのが22歳までだとしたら。
(2年間しか……オーディションに挑戦できないってこと?)
事務所に入ったら、ネットに出ているようなオーディション以外にも受けられるのかもしれないけど。
でも、どのオーディションもだいたいこれくらいの年齢で書いてあるってことは、これくらいの年齢の人にお仕事をしてほしい、ってことなんだろう。
(あれ……じゃぁ、お母さんの言うように、大学まで進んだら)
先ほどのロールモデルをもう一度確認してみる。
大学は、一般的な4年制だとして。
卒業する時には、既に22歳。
ここから2年間専門学校に通って、2年間養成所に通ったとしたら。
(26歳……)
――遅い。
その言葉が、今更ずしりとのしかかってきた。
オーディションは小学生からでも受けられる。
中学生で早すぎる、なんてことはない。
でも、大人になってから、なんて考えてたら。
遅すぎる。
少なくとも、今わたしが見ているオーディションは、どれも受けられない。
(だから皇先輩、わたしに色々すすめてくれたんだ)
わたしは、何十回もできることを確認しないと、次に進めない。
どんなことでも1回でできるようになって、どんどん次へ、なんてすごい人にはなれない。
だからこそ、早く始めないと、失敗している時間がなくなっちゃう。
今すぐできるから、じゃなくて。
できなくてもいいから、挑戦させようとしてくれたんだ。
(言わなくちゃ)
うまく説明できるかわからないけど。
お母さんに、もう1回ちゃんと言おう。
今、お仕事がしたいんだって。
せっかくもらったチャンスだから。
のんびりしてたら叶わない。
ぼんやり人任せにして、なんとなくお母さんの言うことを聞いてたら、今までとなんにも変わらない。
わたしがやりたいことだから。
わたしがなりたいものだから。
自分で調べて、自分で考えて、自分で説得するの。
(ありがとう……皇先輩)
皇先輩が厳しくしてくれなかったら、気づけなかった。
優しさに甘えて、できることだけやって、なんとなくなれたらいいな、って思うだけで終わってた。
皇先輩が、教えてくれたから。
「よしっ!」
わたしは机に向かってノートを広げた。
*~*~*
次の日、わたしは駆け足で学校から家に帰った。
手洗いうがいを済ませたら、2階の自分の部屋に荷物を置く。
それから、一生けん命まとめたノートと、皇先輩からもらった封筒を手に取った。
急ぐ心につられて転ばないように慎重に階段を降りて、リビングを覗く。
ソファに座って洗濯ものを畳んでいたお母さんに、深呼吸をしてから声をかけた。
「お母さん、話があるの」
きっとわたしは、いつになく真剣な顔をしていたんだと思う。
ぎゅっとノートと封筒を胸に抱きかかえたわたしに、お母さんは目を丸くしてから「おいで」と言った。
お母さんが洗濯ものをよけてくれたので、わたしはお母さんの隣に座った。
「あのね、昨日の話、覚えてる? わたしが、声優になりたいって言ったの」
「うん、もちろん」
「それでね、わたし、調べたの。足りないところもあるかもしれないけど、聞いてくれる?」
お母さんが頷いてくれたので、わたしはノートを開いてお母さんに見せた。
スマホの画面を見せた方が見やすかったかもしれないけど、それは人の意見をそのまま伝えるみたいで嫌だった。
わたしが自分で、色んな情報を見て、まとめて、考えた結果、どう思ったか。どうしたいのか。
それをちゃんと、わかってほしかったから。
「あのね、声優になる方法って色々あるんだけど。よくあるのは、声優になるための学校があってね――」
昨日調べたこと。
学校に通うと、どのくらい時間がかかるのか。
どれくらいの人が声優になれるのか。
まだ中学生のわたしには、なにができるのか。
お母さんは真剣に聞いてくれて、笑ったり、バカにしたりはしなかった。
けどずっと、難しそうな顔をしていた。
「美緒ががんばって調べたのは、わかった。でも、この……学校に行って、養成所に行って、事務所に入って、っていうのが、1番普通なんでしょ? 他の人たちもみんな、始めるのは高校生になってからってことよね? だったら美緒も、そうすればいいんじゃないの。すぐそばにすごい先輩がいて、自分もって焦っちゃったのかもしれないけど。今は部活だけにしたら?」
「それじゃ遅いの!」
感情的に怒鳴ってしまって、はっとした。
それじゃ、だめだ。
小さい子のわがままと変わらない。
泣いてしまいそうになるのをこらえて、わたしは意識して深く息を吸った。
「たしかに、中学生で始める人は多くないかもしれない。でも、みんなが高校生から始めるってことは、みんなといっしょにスタートしたら、わたしはみんなより速く走れないといけないの。わたしは、きっと人よりゆっくりだし、途中で転んじゃったりするかもしれないから。みんなより早く走り始めないと、間に合わないの」
夢を目指すのは、終わりのないマラソンに似ている。
声優を目指している人も、声優と呼ばれている人も、みんなずっと走っている。
その中で、前の方を走っている人だけが、お仕事をしている。
途中で疲れちゃうこともある。
あとから走り始めた人に追い抜かれることもある。
ずっと全力で走り続けることは、とても難しい。
ゴールはない。
でも、スタートはある。
だから、前の方に行きたいと思うなら。
できるだけ早く、スタートするしかない。
「お願い、お母さん。いつかじゃなくて、今やってみたいの。皇先輩がせっかくくれたチャンス、無駄にしたくない。だから、チャレンジさせて。お願いします」
サインの必要な書類を封筒から出して、ペンといっしょにお母さんに差し出した。
お母さんが納得してこれにサインをしてくれないことには、わたしがどんなにやりたくっても、このお仕事はできない。
お母さんは書類とペンを受け取ると、黙って書類の内容を読んでいた。
わたしはどきどきしながら、お母さんがなにか言うのを待った。
「……まぁ、これ1回やったからって、すぐに声優になるって話でもないしねぇ」
「お母さん……!」
溜息まじりにそう言って、お母さんは書類にサインをした。
けど、すぐにはそれを渡さなかった。
「美緒、これをやるなら、2つ約束して」
真剣な表情のお母さんに、わたしは背筋を伸ばした。
「1つは、学校の勉強を疎かにしないこと。声優になるためにがんばるのはいいけど、絶対になれるものじゃないでしょ。夢は変わるかもしれないし、できるだけ色んな選択肢が選べるようにしておきなさい」
言われるとは思っていたので、おとなしく頷く。
成績が悪かったら、きっと応援してもらえない。
だから、勉強もちゃんとがんばる。
「2つめは、皇先輩の連絡先、お母さんにも教えなさい」
「えっ?」
「仕事する相手の連絡先は書類に書いてあるけど……これ、その先輩の紹介なんでしょう? だったら、先輩の連絡先も知っておかないと。それに、向こうも中学生なんでしょ。保護者同士で話したいこともあるから」
「皇先輩のお母さんと、話すってこと?」
「そうね、そうなるわね」
なんだかちょっと、嫌な気分だった。
お母さん、皇先輩のお母さんに、変なこと言わないかな。
でも、そうしなきゃ許可はもらえない。
わたしはまだ子どもだから。
皇先輩も。
あんなにしっかりしてるけど、でも、子どもだから。
お母さんは、大人同士で話がしたいんだろう。
「……わかった。皇先輩に聞いてみる」
「お願いね」
はい、と渡された書類には、お母さんのサインがちゃんと書かれていた。
これで、わたし、お仕事ができる。
思わずじんとして書類を眺めていると、お母さんがわたしの頭を撫でた。
「お、お母さん?」
「あの美緒が、こんなにしっかり自分の意見を言うようになるなんてねぇ」
そう言ったお母さんは、なんだかすごく優しい顔をしていて、嬉しそうだった。
わたしは気恥ずかしくて、でも、お母さんはわたしがお仕事をするのに否定的だと思ってたから、ほっとして。
されるがままになっていた。
「がんばりなさい」
「……うん、ありがとう、お母さん」
*~*~*
「あのっ皇先輩! 今日、部活が終わったら、いっしょに帰れますか?」
皇先輩が部室に入ってくるなり、わたしは駆け寄ってそう言った。
言われた皇先輩は、ちょっと驚いているみたいだった。
皇先輩が部活に参加する時はいつもいっしょに帰っていたけど、それはいつも皇先輩から声をかけてくれるから。
今日はどうしても、伝えなきゃいけないことがある。
だから、勇気を出してわたしから声をかけた。
どきどきしながら返事を待っていると、皇先輩は「いいよ」と答えてくれた。
ほっとしたけど……なんだか、元気がないようにも見えた。
そのあとの部活中も、普段はなんだかんだ理由をつけてはわたしに構いたがるのに、今日はよそよそしい感じがした。
(もしかして、この前のわたしの態度に怒ってるのかな)
浮かんでしまったネガティブな考えを、ぶんぶんと首を振って追い払う。
(ちゃんと話すって決めたんだから!)
感じる距離を寂しく思いながら、部活の時間は過ぎていった。
帰り道。
皇先輩はわたしが切り出すのを待っているみたいに、なにも言わなかった。
わたしは言うぞ、言うぞ、と気合を入れて、思い切って声を出した。
「あ、あのっ!」
(っきゃーー!!)
声がひっくり返った!
顔が赤くなるが、皇先輩は無反応だった。
うう、いっそ笑ってくれたら良かったのに。
気にしてない風を装って、鞄から書類を取り出す。
「これ、お母さんからサインもらいました」
書類を見た皇先輩は、目を丸くしていた。
なにかを言われる前に、わたしは頭を下げた。
「皇先輩、ごめんなさい。皇先輩はいつも優しくて、たくさんしてくれるから、わたしそれに甘えてました。声優になりたいって思ったのはわたしで、がんばらなくちゃいけないのはわたしなのに。わたし、なんにも知らなかった。なりたいなぁって口にするのは簡単だけど、そのために行動するのは難しいってこと、わかったから。ここからは、1つだってチャンスを無駄にしたくない」
顔を上げて、背筋を伸ばして、まっすぐに皇先輩を見据える。
「わたし、お仕事、したいです」
迷いなく言い切ったわたしに、皇先輩は丸くしていた目を嬉しそうに細めた。
そして次の瞬間には、ぎゅうとわたしを抱きしめていた。
「きゃあ!?」
なにが起きたのかわからなくて、わたしはおろおろしてしまった。
「こここ、皇先輩!?」
「良かったー……」
それは聞いたことのないくらい、気の抜けた声だった。
「嫌われたんじゃないと、思った」
「えっ!? まさか! どうして!?」
「オレ、物言いキツイって言われがちなんだよな。大人と話す方が多いからさ。厳しい業界だし、そこに年齢なんか関係ないって思ってるけど。美緒はまだ、声優のことも知り始めたばっかりだし。しゃべることが楽しいって、それで十分な時期だよな。オレばっか焦りすぎたのかもって、反省した」
「そんなことないです!」
腕の中から皇先輩を見上げる。
強い口調のわたしに、皇先輩はまたびっくりしているみたいだった。
「わたし、あれから声優になる方法、調べたんです。ネットで探しただけだし、もっとちゃんと調べないといけないけど、それでも。すごく大変だし、早ければ早いほどいいってことは、よくわかりました。皇先輩がいじわるで言ってるんじゃなくて、わたしのこと本当に考えてくれてるってことも、ちゃんとわかってます。だから……ありがとうございます」
微笑んだわたしに、皇先輩もゆるく微笑み返してくれた。
「あっそうだ!」
声を上げて、わたしは体を離した。
書類を渡して終わり、ではない。
お母さんから頼まれたことがある。
言いにくそうにするわたしに、皇先輩が首を傾げた。
「あの……皇先輩の連絡先って、お母さんに教えても大丈夫ですか?」
「美緒のお母さんに?」
「お仕事は皇先輩の紹介だから、紹介した人の連絡先も知っておきたいって。あと、皇先輩のお母さんとも話したいって……言ってたんですけど……」
おそるおそる伺うわたしに、皇先輩はあっけらかんと答えた。
「ああ、いいよ」
「えっいいんですか!?」
「もちろん」
全然気にしてない様子の皇先輩にほっとして、それからやっぱりもやもやした。
「ごめんなさい。お母さん心配性で、皇先輩のお母さんにまで迷惑かけて」
「なんで? 全然迷惑なんかじゃないよ。保護者なんだから、子どもがなにをしようとしてるか、知りたいのは当然だろ」
「でも……」
「これから美緒がなにかをしたいって思った時、必ず保護者の許可がいるんだ。例えば、レッスンを受けたいって思ったら、そのレッスン費を払うのは親だろ? なににお金を払うのかわからないままお金を出してくれる人なんていないよ。まずは親を納得させること。理解してもらうこと。認めてもらうこと。そこでつまずく子も多いから、美緒のことを信じて許可のサインくれて、美緒がなにをしたいのか知ろうとしてる美緒のお母さんはちゃんとした親だよ。感謝しないとな」
皇先輩から言われて、わたしは自分のことばっかりになっていたことに気づいた。
声優のことも、皇先輩のことも、お母さんは知らないのに。
疑われたような気になって、ちょっと嫌だったんだ。
わたしばっかり、知ってほしい、わかってほしい、って。
お母さんはちゃんと知ろうとしてくれている。
疑ってるからじゃなくて、よく知りたいから、皇先輩のお母さんと話したいんだ。
「わたし、まだまだ子どもだなぁ」
「実際子どもなんだから、いいんだよ」
「でも、皇先輩みたいになりたいです」
皇先輩みたいになれたら。
わたしがもっとしっかりしてたら、お母さんだって安心するのに。
憧れのまなざしを向けたわたしに、皇先輩はにっと笑って、人差し指でわたしの額を突いた。
「10年早い」
からかうようにそう言った皇先輩の顔に、思わずどきっとした。
「オレと美緒じゃ年季が違うからなー」
「ひ、1つしか違わないのに」
「だってオレ記憶にない頃から芸能界にいるもん。大人とやりあった場数が違うよ」
赤い顔で額を押さえるわたしに、皇先輩は余裕そうだった。
女の子にも慣れてるんだろうな。
そう思うと、ちょっとだけ胸がちくりとした。
俯いたわたしに、皇先輩が不思議そうに首を傾げる。
なんでもないと首を振って、わたしは皇先輩と帰り道を歩きだした。
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