第18話  反信長勢力の抵抗

十月一日、三好長治を助け阿波を治めていた篠原長房が、安宅信康の淡路水軍とともに阿波・讃岐の軍勢を率いて中島に上陸してきた。


信長軍が撤退した野田・福島の三好勢は、籠城しながら城の防備を固め、次の隙を伺っていた。援軍の威勢を借り、信長軍の包囲の隙を突き摂津・河内へ向け兵を出して小競り合いを仕向けてきた。


織田軍の最前線の河内高屋城を守っていた畠山昭高は迫りくる一揆の波に孤立していた。五日、高屋城は包囲される。古市、西口、古屋敷、軽墓あたりで戦闘が始まった。


それに対し、織田軍は若江に三好義興、片野に安見直政を入れ、さらには伊丹、塩河、茨、高槻を固めて、三好勢を京口へ向かわせないようにした。


十二日、山城愛宕の修学院、一乗寺、松崎でも一揆が起こり、村々で放火が相次いぐ。


織田方は各地に出没する一揆衆の手当てができないままに篠原軍が山城に侵入してきた。そして、木津川・宇治川・桂川が合流する幕府方の御牧城が三好勢に占領されてしまう。


ここは、奉公衆の細川藤孝の奮戦ですぐに奪還されたが、高屋城と烏帽子形城は包囲されたままであった。


近江では、観音寺城を追われていた六角義賢父子が、菩提寺城・三雲城を拠点にして近江の金ヶ森・三宅一向衆と共に挙兵し美濃と京の交通を遮断しようとしていた。


浅井軍が琵琶湖の東側を南下してくることを監視していた横山城の秀吉と丹羽は、浅井軍が朝倉軍と西国に回ったことにより、関ケ原から岐阜への路次を確保にこだわっていると、摂津・河内からの三好軍が京へと向かい、浅井・朝倉軍と合流されると京を奪われるばかりか、織田軍の岐阜への退路として残された千草越えや鈴鹿越えまでもが東近江での六角軍や本願寺の一揆勢により失い完全に包囲されてしまうと、横山を引き払って南下せざるをえなかった。


嶋秀宣が守る佐和山、一揆が興る八日市建部へ、さらに箕作山城まで引き下がってきた両軍は、箕作山から観音寺城に入り、途中、伊勢から回ってきた徳川軍と草津・勢多で出会いった。これら織田軍は勢多橋が落ちていたため、矢橋から舟で共に志賀の明智・佐久間軍の志賀へと向かっていった。


11月16日、信長は、到着したばかりの丹羽を呼び寄せ告げる。


「このまま、退路を断たれると、逃げ場を失う。岐阜への道を確保するためにも、勢多橋だけはおさえておかねばならぬ。そちに橋をまかせる。橋は落ちたままであろう。そこに鐵綱を架けよ。その綱に舟をつなぎ止め舟橋とせよ。村井と埴原を路次警固に連れていけ」と、指図した。


「承知」と、横山から到着したばかりの丹羽はすぐに出かけて行った。


ちょうど時を同じにしてその頃、伊勢長嶋では顕如の檄を受けた願証寺の門徒が一揆を起こしていた。


この長島門徒に対峙していたのは、美濃と伊勢の国境にある小木江城である。

城には信長の七番目の弟、織田信興がいた。


一揆が動き出してすぐに、信興は信長と桑名城にいた滝川一益に援軍を要請したが、すでに信長の援軍兵は底を付いており、両者ともそれに応えることはできなかった。


そうと見ていた顕如は、この城を落とし信長の退路、背後を脅かすことを考えていた。


城は平地居館で防御も薄く、一揆勢は日ごとに城を囲みじわりじわりと攻め込んできた。


二十一日。


「もはやこれまで。兄上、無念でござる。かくなる上は、このまま攻め入られ、むざむざ骸がさらされると織田家の末代までの恥である」とし家臣に打って出るように伝えて、自らは二層の天主矢櫓にのぼり、氏家卜全、蜂須賀正ともども火を放って自害し果てた。


「信興様、小木江にて自害」。その報を受けた信長は、しばらく押し黙っていた。

「………」


そしておもむろに

「六角と和議を結び退く」とした。


信長は敗色が濃厚になってきたことを感じ取っていた。


(ここは引くしかあるまい。このまま総崩れになる前にとめねばならぬ。いまならまだ退路がある。弱腰の六角に目を向けることで、一画を崩すことは容易であろう。この先、武田や上杉が動き出せば厄介が増える。一旦は凌ぐしかあるまい。しかし、これほどまでに本願寺があちらこちらに大きな勢力を持っておったとは気が付かなんだ。叡山だけではなかったということか。いずれにしても裏で糸を引く者共も含めて始末してしまわなければ、静謐はないか)


二十二日、信長は祐筆を呼び寄せて、六角義賢、義弼に講和の誓詞を書かせ志賀に父子を迎え直々に手渡し対面した。


信長の読み通り、近江の地の多くを失いつつあり苦戦していた六角氏は、信長のへその態度に室町幕府の守護としての威厳を取り戻した気になり、信長への優位を感じてその誓詞を受け取ることにした。室町幕府の守護の面目はすでにそこにはなかった。


次いで、信長は篠原長房とも講和した。篠原も実は阿波から船で渡ってきていたが、長引く戦局に戦費もかかり兵も疲弊してくることを考えると、三好の盾になることの徳分と帝へ歯向かっているかの如くのこともあり、信長と講和することで朝廷への面目を保とうとしていたのである。


しかし、これらのことで、叡山、本願寺、朝倉・浅井が引くことではなかった。

二十五日、堅田ではさらにこれら勢力の猛攻が続けられていた。


堅田湖族の内の猪飼昇貞・居初又次郎・馬場孫次郎が織田方に内通しきた。信長は、彼らから人質を取り、これを機に坂井政尚、安藤右衛門佐、桑原平兵衛ら千の兵を堅田城に入れ防備させた。


これを見た朝倉軍は、早々に堅田を攻め落とすことにした。

翌二十六日朝倉景鏡、前波景当を筆頭に一向宗門徒と叡山僧兵が束になって山から下り降り堅田城を攻めた。


坂井軍は堅田城を囲まれてしまい孤立し壊滅した。この戦闘で信長は坂井政尚を失ってしまう。残った猪飼らは堅田城を捨て琵琶湖を渡り逃走してしまった。


信長のこの状況を救ったのは天であった。


この時期の琵琶湖は西風が強く湖上は外洋のように波が高く荒れる。盥の水が揺らぐがごとく岸から岸へと波は高まる日が続く。


湖国に雪の季節が到来した。若狭から吹き込んでくる冬の雪雲は叡山のある比良山系の西面に当たり、山頂から東側に大雪をもたらす。


このまま、叡山に居座ると朝倉・浅井軍は、北回りの道が雪で閉ざされ帰国することは困難となってしまう。


その雪雲を見た朝倉はすぐに撤退の支度を始めたのである。信長軍に神風が吹いた。


動き出した朝倉・浅井軍を見た将軍義昭は、これ見よがしに気を見て機敏に出てきて、義昭の口から朝廷を動かし、朝倉と織田にむけて和議を結ばせることを提案した。


義昭は、三井寺迄しゃしゃり出てきて、信長を前にして「救うてやる」とした。

信長はこれに対し、「義昭という男は都合の良い輩である」と、受け入れを拒否することを考えていた


十二月一日。和議を提案したとはいえ、義昭の提案は口ばかりで、実際の仕事は関白である二条晴良に押し付けた。将軍供奉衆の武田甲斐に命じ、むりやり晴良を三井寺に護送してきた義昭は光浄院で彼を迎え調停作業を進めさせた。


二日、晴良が提案する和議を朝倉と信長のもとへ届けるが、双方は異なり難航した。晴良の案は、近江湖北のうちの三分の二を織田方に、三分の一を浅井方とする案であった。


叡山、本願寺ともこれに意を唱える。彼らには何ら利がなかったからである。

しびれを切らした晴良は、自らの進退をかけて脅した。決着せねば高野山に隠遁すると。


そしもの両者とも、それでは朝廷の意に背いた逆賊となること恐れ従うこととした。ここで反しても仕方があるまいと信長も黙することとした。


「此度の朝倉と織田の和睦については、朝廷、幕府の斡旋どおりに和議に応ずるとのこと、尤も神妙である。殊に山門領荘園は従前の事く安堵する。仏法王法紹隆の基、これにすぎるものなし。以上の事をわきまえよ。これを天皇の命とする」と伝えられた。


朝倉は「兗龍の袖」として信長は「天子の憐愍」に救われただけのことと嘲ける。

それはそのまま、信長のことを心配していたのは正親町天皇であった。

天皇は、信長が無事であることを何よりも安堵していた。


十二月十三日、朝廷と義昭の仲介を受け入れ講和することとなり、誓詞を守ることを証明するために、朝倉方から青木・魚住の子、信長方から氏家直元と柴田勝家の子、義昭方から三淵藤英の子がそれぞれ人質として差し出され、壺笠山の山頂で引き渡された。さらに城の破却と引き渡しを定められた。


十四日、すべての取り交わしが済み、十五日に義昭と晴良は京へと引き上げていった。


翌日、信長軍は勢多まで引き叡山を仰ぎ見ていた。


朝倉・浅井軍は、琵琶湖越しに織田軍を遠目で負いながら堅田の陣を焼き払い高島へと向かった。


両軍は十六日、大雪の中を退き、信長は佐和山磯で一泊し十七日に岐阜に帰着した。


ここに志賀の陣は決着し、長い元亀元年がようやくおわりを告げようとしていた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

天下静謐 冬海真之 @AKIYAMASANEYUKI

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画