第13話 改元・元亀元年
四月二十三日、元号を元亀と改元。
改元は、天皇の大切な仕事である。
世の中の風潮を見て不吉なことが続いたりする場合には改元を行い世の一新を図る。
元亀の改元に当たっては、兼ねてより足利義昭からの上申があった。
義昭として見れば、天皇に改元を則し、それを示現させることが実権ある者の姿を世に知らしめるという政治的な意味を持っていた。
朝廷からすれば、将軍からの上申を易々と聞くことは権力に屈服していることを世に示しているようなものであり、すぐには受け入れがたい行為であった。
そのことから義昭の上申を捨て置いていた。
しかし、ここにきて、義昭と信長の中の不仲、信長と対立する勢力が大きくなりつつあり、義昭の復活により均衡がとれたかに見えた天下の揺らぎを次第に感じ始めていた。
その空気を一新するために正親町天皇は改元を考えていた。
義昭の肩を持つことは、ある意味、信長を支えるためでもあった。
そして、改元。
その日に、信長は朝倉を攻めようとしていた。
四月二十五日、国吉城から関峠を越えて敦賀表へ侵攻した信長軍は、手筒山城の攻略に着手。
その報を聞いた正親町天皇は、すぐに内侍所で三種の神器を前にして千度祓いの神事を行った。ここで信長に死なれては困ると正親町天皇は考えていた。
信長軍・徳川軍、総勢十万の兵は、敦賀日蓮宗妙顕寺に布陣。金ケ崎城の支城に当たる手筒山城を攻めた。手筒山城は、高い天筒山に築かれた山城で、城には寺田采女正が千三百の兵で立て籠もっていた。
そこに柴田勝家が攻入り、難なく余多の首級を上げて、これを全滅させた。
引き続き、信長は二十六日には朝倉景恒が立て籠もる金ケ崎城を攻めた。
景恒は義昭が越前に入る時に一番に出迎えた者である。この時に義昭から中務大輔に任ぜられ敦賀国司となっていた。
また、義昭が信長に出迎えられ近江に下った時には、信長を苦々しくおもっていながら義昭を近江まで送ったという経歴を持っている人物である。
彼は、その信長と今、対峙している。
しかし、その攻め手の圧倒的な人数にこれまでと開城してた。
その行為は、朝倉一門から不甲斐ない者として一門破門され永平寺に遁世していく。彼はそのまま九月二十八日にこの世を去る。
信長軍はその後、近江と敦賀の境目に当たり敦賀と海津・塩津・柳瀬と結ぶ街道の間に位置する疋壇城を後詰として、滝川彦衛門と山田左衛門尉に命じて、矢倉、塀を引きおろして破却してこれを摂取させた。
四月二十八日、朝から敦賀から越前、近江から越前に向かう木ノ芽峠あたりでは、朝倉方を中心に周囲の在地勢力を交え混乱を極めているという情報がもたらされ、その中に浅井の家中の者がいるという報せが入った。
信長と血縁関係を結んでいる浅井長政がそのような暴挙にでることはないと一同は誤報であろうと高をくくっていた。しかし、それが事実として知らされることになった。
「浅井長政様。謀反。すでに大群が小谷を出て、北上しておりまする」と、使番が早馬の息を切らせて陣幕に飛び込んできた。馬から躍り出た母衣武者は、信長の御前にひざまずき大声で述べる。
「馬鹿を云え、そのようなこと虚説たるべくこと」と、はじめは聞きあわなかった信長であった。
「この目で確かめましてござる。事実にて」という言葉に。
「なにゆえ。長政。市をどうするつもりじゃ。予を裏切るとはばかげておる。あれほど目をかけたことを、仇で返すとは許し難し。予に従えばこの先も一点の曇りもないはずではないか。なにゆえ先のない朝倉などに従うか」と、信長はきっと目を見開いた。
しかし、すぐにその顔は、いつものように戻り、次の行動をとった。
「まずい、このままでは、背後を取られ挟まれてしまう。皆の者に伝えよ、退却じゃ。これより疋壇まで下がり、海津から朽木の館へ向かう。朽木元綱は今すぐ全軍の先導を行え。松永はそれに続け」と、号令を発した。そのうえでさらに。
「いますぐここへ秀吉を呼べ」と。
「はっ」と使番が金ケ崎攻めの前線近くにいた秀吉のもとへと向かった。
秀吉を待つ間も、戦局は刻々と悪くなる。朝倉方が前に押し出す一方、近江側から浅井方が到着しつつあった。
(これ以上は待てぬ)。そこへ、秀吉が到着した。
「どぇりゃ。どぇりゃ。どえりゃことだか。長政様。ああ。お市様。ああ」と、動転し、うろたえる秀吉が転がり込んできた。
「秀吉。よく聞け。浅井などはどうでもよい。よいか。これより京へと向かい全軍退却する。予の後ろは徳川だ。その後ろを明智と池田が走る。殿はお前に任せる。わかったか」と、ひと際大きな声で秀吉を鼓舞した。
「生きて戻れ。まだまだ先は長いぞ。命を粗末にするな」と、言い残してその場で馬に駆け乗り、鼻先を南に向けて、鞭を一振りすると一気に駆けだした。
あとに残された秀吉は、ただ唖然と呆然、口をあんぐり開けたまま棒立ちしていた。
「秀吉。どうするのじゃ」と、家臣たちに則されてはじめて我に変えた秀吉は、鉄砲、槍、徒と幾重に重なる様に小分けにして、幾重にも壁を作るように命じて、全体をそのままゆっくりと引きさがっていくようにと命じた。
「みなのもの、帰るぞ、京へ」と、顔は越前の方を向けたまま、ゆるりと退却を始めた。
この報は、すぐに京の朝廷にもたらされた。信長が朝倉に負けたという。
正親町天皇は青ざめていた。すぐに勅命を出し、石清水八幡宮で五常楽急百遍の神事を執り行うようにと命じた。信長のための勝利祈願を行うという祈祷であった。
義昭はこれを見て、(神頼みかいな)と、笑みがこぼれそうになっていた。
(ほれほれ、朝倉は強い。浅井は朝倉との縁が深い。思うがままじゃ。あとは武田と延暦寺と三好に、本願寺。将軍の意に逆らう者の顛末は知れたものよ)と心の中で腹を抱えた。
ところが、その神頼みが通じたのである。
三十日の子の刻、山中を駆け抜けた織田軍はようやく朽木の館に到着した。
最初に到着したのは、信長を含めてわずか十人ばかりであった。
信長は殿の秀吉を心配していたが、本軍が全滅することなく、一時期は部隊が崩れかかったが恙なく集結しつつある姿をみて安堵した。
そのまま部隊は解かず、明智光秀と丹羽長秀を若狭へ向かわせ、若狭武田氏の臣武藤上野守友益の城、石田城を破壊させて母を人質に取り、若狭から朝倉が侵入してくるのを防いだ上で、京へと向かった。
京へ到着した信長は、五月一日、身づくろいを整え何食わぬ顔で、宮中に参内しまずは禁裏修理の工事の視察を行った。
そのうえで、義昭第にお礼に上がった。信長にとってはまさしく朝倉攻めで負った痛手に対するお礼であった。
「おおお。信長殿。いかがであったか。無事であったか。なによりである。心配したぞ。朝倉はどうであったか。懲らしめることが出来たか」と、まくし立てた。
信長は平然と。いつもの所作であった。
「将軍に置かれては御尊顔を拝し奉る。宮中の作事も進んでいる様子まことに執着至極。ではまたゆるりと、御免」と、それだけを述べて退出した。
後姿を見送った義昭は、手で袖を引っ張り口を塞ぎながら扇の先で畳の縁をたたき腹を抱えた。
(信長のあのような顔を見たのは初めてじゃ。溜飲が下がった。さてさて、次の手は)
義昭はすでに信長を周りの手で葬り去ることを考えようとしていた。
目の前の蠅を追うこと。
五月八日、正親町天皇は、禁裏修理の功績を褒めるとして信長を宮中に呼び出し緞子を贈った。それは言い訳であり、実は信長の顔を見ること。朝倉攻めからよく戻ったと彼を慰労することにあった。
しかし、そのような素振りは微塵も見せず、遠くに侍る信長を見てうなずくだけで帰らせた。
翌日の九日。いずれにも暇乞いせずに、信長は全軍に対して岐阜に戻ると布告した。
そして京を発つ。
暇乞いもせず岐阜に帰ろうとする信長に対して、正親町天皇は、勅使を派遣し、「今日、また出陣の由、聞こし召され、やがて本位に属し上洛待ち思召さる」と、帝の気持ちを信長に伝えさせた。
その勅使に対して「忝いこと」と謝意を表し旅立った。
信長は、浅井長政の討伐を考えていた。
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