第12話 永禄十三年の事
信長がそのままの姿で、すぐに上洛したには訳があった。この事をいか様にとらえているかという事を直に感じることであった。
だが、すぐに義昭第には向かわず。
翌日まずは、最も気にしていた御所修理の準備を見に行った。
そして、永禄十二年十月十六日。
信長は、これ以上待たすのもどうかと義昭第に向かった。
そこで対面し、伊勢表の平定について報告した。
「御心配をかけ申したが、伊勢表の事、無事終わらせましてござりまする。義昭殿の心中を推し量っておりましたが、和議の御内緒を戴くに付き、すべて丸く収まりましてござる。誠にありがたきことと存じ上げる」と、信長は真面目に述べた。
それに対して、義昭。
「ご苦労であった。予の臣下が悪しきことをしたと見える。世に代わり懲罰を与えたこと感謝。しかし以て、国司北畠といえば、誰しもが讃える名家。幕府の守護でもあり、将軍義昭の命を待たずして、かような行動に出ることは、いかに信長といえども、ちと、勇んではおられぬか」と、思っていることをおもわず吐露した。
「はてさて、天下の儀はこの信長にお任せという事であったのではござりませぬか。この信長、幕府の臣下となった覚えはございませぬが」と、信長はあらためて自分の立ち位置を示した。
義昭は、手に持った扇をきつく握りしめ、ばちんとひとつ開き、そして閉じた。
ならばと、信長は畳についていた拳をあらためて付きなおして片膝を立て立ち上がった。
廻にいた両者の御付きは凍り付いた。この時の様子は、すぐに市中に伝わり、信長と義昭は、喧噪した。これは一大事が起こるのではないかと噂された。
当の信長は、
(つまらぬ男よ、灸でもすえるか)と、何も気に止めなかったが虫の居所はよくなかった。
そして、わざわざ岐阜へ暇乞いすることを義昭に伝えてきた。
上洛後、義昭に対する三度目の暇乞いである。
十月十七日、何も言わぬ信長は、静かに京を出立した。
これを聞いて慌てたのは、義昭ではなく、正親町天皇の方であった。
このまま、足利と織田が仲たがいをすれば、洛中は再び戦乱に巻き込まれる。そう思った正親町天皇は三条実澄を派遣してなだめるように伝えた。
信長はそのことを一向に介せず、実澄の引き留めに対しても聞く耳を持たずとばかりに先を急ぎ岐阜に向かい十九日には岐阜に到着した。
正親町天皇の心痛は深まる一方であった。それではと、さらに、女房奉書を与えて山科言継を岐阜へ下向させてた。
「岐阜に下向したと聞く、朕にも合わずそのように急いで下向したこと、とても驚いている。どのような趣であったかと案じている」と、問わせた。
言継が岐阜に下向したのは十一月十二日のことであった。
翌日、鷹狩りの場で出会った言継が聞かされたことは、義昭に対するさらに厳しい態度であった。
そして、信長は、京の事などはもうこれほどの関心もないとした。
帝が会いたがっているとのことでなだめた言継に対して信長はようやく、
「帝からの命を予が断ることはあり得ぬではないか、春には京に戻るつもりであるとお伝え願いたい」として、言継を京へと追い返した。
年は変わって、永禄十三年正月。信長は、穏やかな春を岐阜で迎えていた。
宮中では、正月五日に、吉日として、御所修理の手斧はじめが催されていた。
信長は、心とは裏腹に頭の中では次なることを考えていた。
一月二十三日、日乗上人と明智光秀宛に五か条書を送った。
これは、信長から義昭に対して誓詞を求めるものであった。
これで三度目となる。条書に義昭の印を押させるように両者に命じた。
内容は次のとおりである。
一 諸国へ以御内書、被仰出子細有之者、信長に被仰聞、書状を可添申事、
(諸国へ御内緒を出される場合は、信長に申し出で事前に聞いて、信長の書状を
添えること)
一 御下知之儀、皆以有御奔破 其上被成御思案、可被相定事、
(これまでの下知は皆いったん破棄し、そのうえでもう一度考えて定めるように)
一 奉対 公儀、忠節之輩二雖被加御恩賞、御褒美度候、領内等於無之ハ、信長分
領之内を以ても、上意次第に可申付事、
(公儀に対して、忠節な者に恩賞と褒美を与える時、領内、信長の領内において
も上意に申し述べること)
一 天下之儀、何様二も、信長二被任置候上者、不寄誰々、不及得 上意、分別次
第可為成敗候事
(天下の儀は、どのような場合でも信長に任せること。これは上意を得るに及ば
ない。分別次第により成敗する)
一 天下静謐之條、禁中之儀、毎事不可有御油断之事
(天下静謐、禁中の事を油断なく進めること)
永禄十三年 正月廿三日
日乗上人 明智十兵衛殿
天下布武
義昭は、どう考えてもこの時点で信長の手から離れて敵対していくことが出来ないことは重々わかっていた。義昭としては判を付くしかなかった。
天下静謐の儀としながら、自らは天下布武、すなわち、天の下に武を布を敷くとは。誰のための武であり誰のための静謐なのかが義昭には飲み込むことが出来なかった。幕府のためか、帝のためか、はたまた自らの欲望のためか、民のためか。
そして、同日、信長は諸国の将に向って号令をかけた。
「禁中御修理、武家御用、其外為天下弥静謐、来中旬可参洛條条、各有上洛、御礼
被申上、馳走肝要候、不可有御延引候、恐々謹言
永禄十三年一月廿三日 信 長 」
(禁中御修理、武家御用、その外天下いよいよ静謐のために、来る中旬に信長は洛
中に参る。各々上洛されて将軍に御礼を申し上げられ、馳走肝要に、上洛を引き
延ばすことあってはならぬ、くれぐれもよろしく)
と、触条案文を出した。伝送された諸将は次のとおりである。
大納言北畠具教、徳川三河守家康、中納言姉小路嗣頼、山名韻照・氏政と分国衆、畠山昭高と在国衆、遊佐河内守信教、三好左京大夫義継、松永山城守久秀と摂津州、松永久通、松浦総五郎と和泉衆、別所長治と播磨衆、別所右力と同名衆、丹波国衆、一色右京大夫義有と丹後衆、武田元明と若狭衆、京極高吉と浅井長政、尼子、佐々木六角承貞、木村源吾父子、江州諸侍衆、紀伊国衆、越中神保名代、熊州名代、甲州名代、淡衆名代、因州武田名代、備前州名代、池田勝正、伊丹親興、塩河、有馬、その外寄々之衆
この背景には、永禄十二年二月以降、義昭が頻繁に諸国の戦国大名や領主に対して御内書や安堵書を発給して、幕府の威厳を示そうとしていたことや、幕府の御料所、所領寄進を進んで行わせ力を持とうとしていたということがある。
いずれにしても信長は、幕府と諸将の力関係、義昭と信長をどう見ているかを確かめるためにとった行動である。
(面白くなってきた。誰が上洛し、また、誰が天下に背くのか。帝に、この信長に。義昭に。それを確かめることが肝要である)と。
「それぞれ思案もあることであろう。すぐにも支度もできぬやもしれぬ。であろうから。我らはゆるりと参る」と、家臣たちに伝えた。
それはあるいみ信長の温情であり、考え抜いての行動であった。
宮中では、二月二日。村井は信長が上洛してくることを察して、日乗を則し宮中修理を進めさせようとしていた。この日も、大工たちに烏帽子・素襖の装束で宮中に参内させ、お目見えをさせて工事を始めることを内外に知らしめていた。
信長が中旬と言いながら、結局、岐阜を出たのはニ月ニ十五日のことであった。
その日は岐阜赤坂まで出て泊り、翌二十六日に安土常楽寺に入った。
常楽寺は、佐々木六角氏の荘園があった安土豊浦の湊があるところである。湊近くは寺内町となっておりいくつかの寺院があった。信長はそのうちの常楽寺を宿とし、ここで相撲御催し観覧した。
そして、二月三十日、常楽寺湊から船で堅田に渡り、山中越えで京に入った。
信長にとっては、四度目の上洛である。
信長の上洛を聞きつけた公家や幕府奉公衆は、信長に意を表すために近江まで我先にと出迎えた。その状況は市中の民にまでおよび大勢の群衆に信長一行は迎えられた。宿所は上京の驢庵と定めた。
同日、信長の召集に呼応して上洛してきた武士は、近隣の三好義継、和田惟政、松永久秀らをはじめ、伝送したぼぼすべての者が呼応してきた。
信長の大きな勢力が確立していく。
その中で唯一、行方が見えないのが越前の朝倉氏であった。
朝倉義景は、義昭を手にしていたにもかかわらず見す見す自らの考えの浅さから、次期将軍となった義昭を手放し、さらにそれが信長の手により天下かが遠のいてしまっていたことを後悔していた。
(何が、天下静謐なものか。あのような成り上がり者に、この由緒正しき朝倉がしっぽを振ってすり寄るとでも思っておるのか。浅はかなものよ。一乗谷の力を見せつけてやらねばならぬな。上洛などはせぬ。越前衆が信長など一撃のもとで追い払ってやる)と、家臣たちに言明していた。
三月一日、信長は、わざとらしく京を出た時の義昭との喧噪などどこにあったかというような趣で、畿内一円の武士たちが従っているという姿を見せつけるように、義昭第に向かい上洛のお礼に参内した。
そのあと御所にも参内し村井が進めている禁裏修理の様子を見舞いした。
三月五日、誠仁親王を見舞うため酒を献上し参内。親王はこの時、十八歳である。
永禄十一年、元服の儀の後ろ盾となった信長は、健康状態がすぐれず譲位を考えていた正親町天皇の行く末を考え、早くも次の事を考え、次期天皇ともいえる誠仁親王に早くも接近しようとしていた。親王は、帝よりははるかに身の回りの縛りは緩く信長の参内にも快く受ける親王であった。
「信長、よくおじゃった」
「親王様におかれましては、ご機嫌麗しく恐悦至極にござります」
「近頃の市中の様子はどうであろうか」
「何事もなく、静謐でござります」
「父の事、朕のこと、天下の事、くれぐれもよろしく頼むぞ」
「かしこまりましてござりまする」
「なにかあれば、朕の耳にもいれてはくれぬか。なにかと禁裏は隠し事が多く困る。これからの世は風通しが良くてはならぬと、朕はそう思うておる」
「たしかに」と信長
これ以上、滞在していては、周りの者からあらぬ腹を探られてはならずと、信長は早々に引き上げることにした。
(新しき世とはどのような世であろうか)と、御殿を後にした。
(これからゆるゆると親王とは話す場ができるであろう)
三月七日、信長の召集に応じた兄弟分の徳川井家康がその家臣たちを引き連れて上洛してきた。信長はさっそく家康に出会い今後の事を打ち明けた。
「家康。上洛ご苦労である。どうじゃ京は。ゆるりとする間はないぞ。先の召還に天下のほとんどのものが応じて自ら上洛した。また使者をよこしてきた者もおるが、越前の朝倉と武田だけ何も言うてはこなかった。密偵の報告によると、陰で義昭が文を出し、なにやら画策をしているということも聞いておる。不穏じゃ。近いうちに行動を起こすことを考えたおる。このまま京に居れ」と信長は耳打ちをした。
「御無沙汰いたしておりますれば、早速の事。そのようなことでござりましたか。兄上の仰せ通りにいたしますれば、このまま。本多も来て折りますゆえ。万全にしておりまする」と家康。
信長は、すでに次の標的を越前の朝倉に定めていた。そしてその次は武田であることを暗に家康に伝えた。
三月十日、誠仁親王と面会をしたという情報を得た公家たちは、信長に排斥されないように、覚えめでたくと。山科言継を筆頭に続々と信長へ参賀した。しかれども、信長に参賀したまま義昭をほっておくわけにもいかず、そのまま義昭にも参賀するという行動をとった。
義昭はこのことにふ不満を持った。この順序にである。いつから信長が上になったのかと。次第に大きくなる信長の威光が目障りであった。何か手を打たなければならないと考えていた。
信長は悠々と京ですごし、十六日には気になる宮中修理の現場を視察した。
その翌日の十七日には、最も遠い距離にある毛利から使者が上洛し参集に遅れていることを詫びた。
これで主だったものは全て、足利幕府と信長に恭順したことになった。
十八日、御所侍所の檜皮葺が完成。続き、二十九日には紫宸殿の屋根吹替が完成。信長は、それを視察して宮中に報告した。
これらの立て続けに立ち回る信長の行動を見かねて、その真意を探ることと、将軍の威信を取り戻そうと考えた義昭は、四月一日に第で能を催すこととした。
宴には、摂政・関白、姉小路をはじめとする公家、洛中に参集している北畠、徳川、畠山、一色、三好、松永などの諸侯、そして信長を招き、これらすべの者が幕府の傘下にあることを示そうとした。
義昭は、上洛後の祝いの能を呼び起こさせるように、観世大夫と金春大夫を召し寄せ、一番たま井、二番三輪、三番張良、四番あしかり、五番松風、六番紅葉狩り、七番とをる。七番を演じさせた。三献の宴を過ごし、最後に信長に官位叙任を進めた。
信長はこれを断り退席した。
(もとより、予は足利の家臣ではない。なにゆえ、義昭の執り成しで官位を拝領せねばならぬ。馬鹿げておる。このような催事で予の心をとりなそうなどと思うその心が浅ましい。やはり将軍の器ではないか。まずは目の前の蠅を追わねばならぬ)と、第を後にする信長であった。
信長の宿所で、その信長と松永久秀の帰りを待っていたのは、堺の松井夕閑であった。
「あ、信長様、信長様。ご無沙汰いたしております。夕閑でおます」
「おお、夕閑か。どうじゃ近頃の堺は。賑わっておるか。儲けておるかの」
「そのようなお戯れを」
「いろいろ、調達を頼まねばならぬなと考えておったところである」
「鉄砲でおますか? それとも茶道具で。そうおもい、今日は、堺衆を代表して天下静謐のお祝いにつき献上に罷りこしてございます。堺は商人。証人として従う証でござります」
そして、夕閑は信長の前に名物を差し出した。
一、 天王寺屋宗及の「菓子の絵」
一、 薬師院の銘「小松嶋」の茶壷
一、 油屋常祐の銘「柑子口」の花入れ
一、 松永久秀の銘「鐘の絵」
信長は、召し上げるなどという事はできぬと、これからの堺との関係を考えて、銀子を与えこれらを買い取った。
これに気をよくした信長は、翌二日に夕閑が堺から呼び寄せていた利休にこれらの道具を使い手前させるため茶会を開いた。信長に、珍しく喜びひと時の涼を過ごしたであった。
五日の朝、再び宮中の作事現場を見舞い参内した。そののち、近いうちに遠出をすることを鑑み桜の馬場で騎乗した。
一方、公家や諸侯、信長を招き能宴を催して、幕府の威光が個々にあることを見せつけようとしていた義昭であったが、それらはいずれも形骸ばかりであり、義昭に味方する者どもが周りのどこにもいないのではないかという強迫観念にかられていた。
(頼りにするべきは、信長であったはず。今一度、朝倉、いや、武田あたりともよしみを持っておくことが、この先信長を好きにさせることを止めることができるやにもしれぬ)と、内々に朝倉と信玄に文を送ることとした。
朝倉は、いまさらという気を持ったが、すぐに足利を頼りにしていること伝える返書が来た。また、四月十日には、武田信玄から、幕府に新たな御料所と、取次を行う一色藤長にも御料を献上し、さらに、息四郎勝頼に偏諱を求めてきた。
義昭はそれを見て畳の上で小躍りした。
信長は、十一日、作事を見回ることを理由に御所に参内し、引き続き禁裏の動きを調べていた。そして決断した。
秀吉を呼び寄せ策を伝える。
「秀吉、よく聞け。これより我らは朝倉を攻める。すぐに若狭武田を調略せよ」
「次から、次から、まー、殿は、いろんなことを考えなさる。朝倉は市様の嫁ぎ先の浅井長政様と古くからの姻戚でもありますがな、大丈夫なんかいな」と秀吉
「何をぶつぶつほざいておる。そちは刀をぬいて走っておればよいであろう」と高笑いする信長に、秀吉はもうよいわというように頭をかいてごまかした。
そしてすぐに若狭に使いを出して武田の調略に入り、わずか五日ほどの十六日にこれを見事に落とした。
これで準備ができたとばかりに、信長は十九日にも作事を見回ると称し、朝倉攻めを伝えるために誠仁親王のもとを訪れたのである。
「親王様にお伝えしたい意義がござりまする」
「何か申してみよ」
「こたび、将軍とともに天下静謐を目指してまいりましたが、ひとりこれに歯向かっております者がおりまする」
「誰かの。六角、山名、北畠も、三好も、松永も、毛利も従っておるではないか」
「ひとつお忘れかと、武田か? いや、朝倉か!」と誠仁。
「さようでござりまする」
「そちになにかあっては、わらわは困る。父にどう申せばよい。父もさぞかし心配されると思うぞ。洛中と御所で警固をしておればよいではないか。京に朝倉が攻め入ってくるわけでもなく。問題があるのであれば、足利に命じて朝倉の守護を取り上げればよいではないか」
いや、そうではない。その義昭に問題があることを、さすがに信長は話すことはできなかった。信長は、朝倉のもとに攻め入り、義昭からの密書を詰問するつもりであったからである。
「かようであります上、本日は出陣の暇乞いに間摺りましてござりまする」と、御児御所の庭を拝見した後、ご挨拶したと退出した。
翌四月二十日、信長は、「朝敵、朝倉義景を討つ」として、家康や秀吉と3万の軍を率いて越前へと出陣していった。
軍団には、誠仁親王の許しを得て公家飛鳥井雅篤敦、日野輝資も同道した。さながら官軍である。
京一条東口から出て、近江坂本へ向かい和邇で陣を張った。二十一日に高島田中城で宿。
二十二日に若狭熊川にある松宮玄番邸に宿泊した。二十三日には越前の境目の城、佐柿にある栗屋越中守勝久の居城、国吉城に着陣し陣形を整えた。
朝倉氏との対決が始まる。
天下静謐 冬海真之 @AKIYAMASANEYUKI
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