第8話  義昭邸の築城

禁中では、三好三人衆が再び将軍家を襲った話題で持ちきりであった。

「あぶなかったであらしゃいますな。義輝の二の舞や」と、関白二条晴良。

「あぶなおす、あぶなおす」と、勸修寺。

「あぶない、あぶない」と、一同が連呼する。


「信長はんは、間に合わんかったそうやな。残されていた公達がえろう働き召されて、なんとかもちこたえなさったそうな。いずれにしてもこの先が思いやられるわな」と万里小路が言う。


確かに危なかった。しかし、信長は違うことを考えていた。

信長が岐阜に帰った直後から、ひとつは三好一族がその隙を狙い兵を動かそうとした事実があり、虚をつかれたということはあるが、問題はそれに呼応した畿内一円の奉公衆の動きであった。


無論、それを促したのは将軍義昭としての地位であり、彼の取り巻きである御供衆の動きでもあった。義昭は距離的に信長間に合わないことを理由に近隣の奉公衆たちに内書を発し、参集することを促したのである。


いわば、それらに呼応した者たちは、将軍の直参であり近衛兵としての性格を持つものとして認識できた。信長が軍事的に大きな力を持っている中で、義昭自陣が自由にできる兵が内存すること、それがもっとも信長が懸念することであった。きしくもそのことがこの一件で露呈したことになる。


「あらぬ。あらぬわ」と、信長は村井を呼びつけた。

「いまより申し付けることをしたためよ。判もつである」と、祐筆も呼びつけた。


そして、永禄十二年一月十四日、信長は九箇条からなる『殿中掟書』を発したのである。

これは「殿中」、つまり禁裏への掟を示したものであるが、それを遂行する幕府に対してへのものとなっている。


将軍も天皇の家臣であり、政治はお上から征夷大将軍を戴き幕府が預かるのである。正しくすべての事を上意を伺って進めなければならい。それには禁裏との取次、そしてその実行の形が正しくなければ、上意は形骸化し将軍が意のままに国を動かす可能性があるからである。


そうなれば、そうなっているからこそ世が乱れているのではないかと信長は考えたのである。ある意味、信長は尊王的な立場をとっていることがわかる。


その条項はこうであった。


『殿中御掟』 義昭袖判

一 不断被召仕輩 御部屋衆、定詰衆、同朋以下 可為如前々事

  (義昭のためのお部屋衆、決まった部屋に詰める警備の衆、雑用がかりなど、その他の

   使用人はこれまでどおりのお役目をするように。)

一 公家衆、御供衆、申次、御用次 第可有参勤事

  (公家衆と御供衆、申し次を行う者、御用を仕る者は、将軍が用のある時は直ぐに参勤し務めること) 

一 惣番衆、面々可有祇候事

  (惣番衆は、呼ばれなくとも出勤していなければならない)

一 各召仕者、御縁へ罷上儀、為當番州可罷下旨、堅可申付、若於用捨之輩者、可為越度事

(幕臣が御所に用向きがある場合は、当番役のある時にだけにすること)

一 公事篇内奏、御停止之事

  (用向き以外で御所に出向くことを禁ずる)

一 奉行衆、被訪意見上者、不可有是非之御沙汰事

  (奉公衆が出した判決を将軍が決めてはならない)

一 公事可被聞召式目可為和如前々事

  (訴訟の規定は従来通り)

一 閣申次之當番衆、毎事別人不可有披露事

  (当番衆は、申次を経ずに事を将軍に伝えてはならない)

一 諸門跡、坊官、山門衆、従醫陰輩以下、猥不可有祇候。付、御足軽、猿楽随召可参事

  (門跡僧侶、比叡山延暦寺の僧兵、医師、陰陽師をみだりに殿中に入れてはならない。

足軽と猿楽は召されたときは入ってもよい)

 

 永禄十二年正月十六日                織田弾正忠信長


さらに追加として、六条の項目が足された。


『殿中御掟追加』

一 寺社本所領、當知行之地、無謂押領之儀堅停止事

  (幕臣が寺社の所領を押領することを停止する)

一 請取沙汰停止事

(沙汰を受け取ることを停止する)

一 喧嘩口論之儀被停止訖 若有違乱之輩者、任法度旨可有御成敗事 付、合力人同罪

  (喧嘩口論を禁止する。違反する者は法を以て成敗する。これに合力するものは同罪で

ある)

一 理不尽入催促儀、堅停止事

  (理不尽な催促を禁止する)

一 直訴訟停止事

(幕府が直接的に諸相を取り扱うことを禁止する)

一 訴訟之輩在之者、以奉行人可致言上事

(訴訟したい者は、奉行人を通すこと)

一 於當地行之地者以請文上可被成御下知事  1月16日

(占有地の取り扱いはしっかりと把握してから差配すること)


 これらはすべて当たり前のことのように見えるが、あらためて信長と義昭の判物で殿中に出されること事態が、すでにこれらの事が守られていないという証でもあった。


 これは単に義昭が将軍職の学びがなく、また倦怠な者というわけではもなく、すでに幕府の理そのものが崩れていたというほかにない。いずれにしても信長はとてもこの状況を憂慮していたことは間違いがない。


「えらいもんをだしてきよった」と、宮中では騒ぎになった。

「よいかいの。殿中はこれまでとなんもかわりはないがいな。それはそうとて義昭はこれをなんともおもわぬのか」と、晴良が云う。

「いよいよ、足利も転ぶかいな」と勸修寺。


「殿中に届いたか」と、信長。

「は、は。お届けいたし申し候」と村井が応える。

「よい。してどのようであったか」

「何もかわりがないものと見受けられます」

「義昭はどうか、判を添えたか」

「添えられましてございます」

「すこしは、わきまえたようだな」と、信長。


決して信長は、義昭を排他したくてこの行動をとっているわけではない。

緩み切った三歳年下の弟分に、将軍は将軍として幕府は幕府としての在り方を今一度、尊氏の頃の時代のように凛としたものに戻したいと考えていただけの事であった。

1月26日。ひと段落した信長は、禁裏が行った声明と左義長の音に惹かれて、近習の者500人を引き連れて御所へと向かった。ひとつは御所門の警固に当たろうと思っていたことであった。それを聞きつけた禁裏は、小御所に庭にて酒肴を家臣たちにふるまうゆえ待つようにと伝えてきた。信長は家臣たちと庭先の見える場所で参内していたが、まてどもそのような趣向が訪れることはなかった。


「遊ばれたか」と、館に提出することに決めた。

はるか彼方の御簾越しに帝がのぞき込んでいることなど信長は露知らずのことであった。



義昭邸の築城

義昭が今、最も気がかりであったことは、天下の事はなく禁裏の事でもない。

また、信長とのことでもなく、自らの命のことであった。


三好に襲われたことは、兄義輝の最後と重なり、なによりも自らの恐怖を呼び覚ますことでもあったからである。


未だ周りには幕府を支える奉公衆が余多あるとはいえども、今、この状況で最も頼りになるのは、やはり信長であることは、その実力と現状からも間違いがないところでもある。

そういう意味でも掟書に袖判をしたことは、当然の事であると自覚していた。


義昭は、この無防備な本國寺のことを考え、信長に邸の改修を相談していた。

信長自身も、このようなことが度々あっては困ることでもあり、一時でも持ちこたえるように第を城塞化するしかないと考えていた。


信長はその意を受け、新たに屋敷を城塞化した城として洛中城を築く決意をした。


「信長殿、わざわざのお越し、ご苦労である」、義昭が親愛を召す。

「されば、第の件。承り候。その地は二条勘解由使小路、もと武衛第であらせられた斯波義廉邸がよかろうかと存じる。そもそもそこは義輝様のお屋敷でもあり、将軍にふさわしい地かと考えておりまする」


「二条勘解由使小路斯波義廉邸には、義輝様の菩提として、予が先の七月に真如堂連光院を建てたばかりではあらぬか」と、義昭。


「蓮光院さまに置かれましては、この二十六日に新たなる寺地として一条通北詰に御移り戴くようすでに手配をすませておりまする」と、もう決めているという言いぶりで続けた。


「かの地であれば、御所にもほど近く、十分な広さも有しております故、お屋敷、御庭、皆々様の屋敷まですべてが飲み込めるものと拝察しておりますればよろしかろうとおもわれます」と信長。


「わかった。よい、そちにすべてまかす」と義昭。

義昭は、はなから信長にすべて任すしかなかった。


屋敷に戻った信長は事を進めることにした。

永禄十二年一月二十七日。


「村井と嶋田を呼べ」と呼称に言いつけると

「これに」と両名は御前に進んだ。


「義昭様の第を普請することに相成った。そちらに奉行を任す。近隣の尾張、美濃、近江、三河、畿内の諸将、若狭、丹波、丹後、播磨などから人夫を調達し、すぐに普請に取り掛かれ。洛中は長い間の太平により、敵の侵入を考えたことがないようである。御所を含め要害となりそうな場所は寺しかない。このような状況では守り抜くことできぬであろう。攻めてくるものがないのであれば、それでよかろうが。備えあれは憂いなしである。この町中に、城とはこのようなものであるということをこの信長が示してやろうと思う。その姿を仰ぎ見て幕府が再興されたことここに政治の場があることを洛中に民、天下の者どもに知ら知めなければならぬ。よいか、心して事に当たれ。すみやかに築城を終えるのだ」と、いつになく能弁に語る信長であった。


そして、二月二日から普請が開始された。


まず、方形の敷地を囲むように石塁として石垣が高く積まれた。石垣職人には、京やその周辺の寺院の石垣を積んでいた名もない地方衆が多数集められ仕事に当たらされた。この時代は、まだこのような石積みを成せる者どもは大きな職人集団として編成されてはいず、各寺院で小さな集団として囲われているという状況であった。


七日、敷地の四方には深い水濠がめぐらされ、そこに四間一尺の高さの石垣が積まれた。石垣は西の隅から積み始められ、そこには櫓台が造られた。洛中では見たことが無い威容な城作りを民は見上げていた。それは新しい政事の到来を知らしめるものとなった。


土木工事である普請は、一日に数千人という人夫を動員し、急いだ普請のこともあり、九日南之岸の石垣積みでは、途中で石垣が崩れ七、八十人もの人夫がその下敷きになるという事故も起こった。また、石垣の築石が足りぬのであれば、洛中中の石仏などを集めてこれに充てるようにとふれを出し、それにより西南辺の石垣は完成し、南櫓門、西櫓門などの石垣が次々と出来上がった。十九日には、穴蔵を持つ三層大櫓、南側の出丸などの普請はすべて完成した。二月中に普請はあらかた出来上がり、その上に作事を着手し始めた。


二月二十七日、御殿建築を始めるため鍬入れ式が行われた。信長は本國寺に命じて寺の座敷を供出させ、襖絵から、屏風、障壁画などを運び入れることに決めた。


洛中洛外からは、鍛冶、番匠、杣を招き寄せ、隣国より材木を取り寄せて、それぞれの工程に合わせてこまかな管理を行う奉行を置き、作事の準備も同時に始め、将軍の屋敷にふさわしい会所御殿の建設が進められた。御殿は将軍家にふさわしい出で立ちのものとして建造され金銀を鏤めた絢爛豪華なものとして仕上がりつつあった。


三月三日からは、会所前の庭の作事も開始された。庭の作事には信長の直接出向いていきかかわっている。


庭は庭には池泉回遊として百合と薔薇が植えられ、泉水、鑓水、築山を構えさせ、信長が義昭のために細川藤賢の屋敷にあった「藤戸石」という名石を運ぶことにした。


「この石を運ぶ。予自らが石に乗り意気をかける。笛、太鼓、鼓を用意させて、それに合わせて囃し立てよ。石は綾錦にて包み、そのまわりに色とりどりの花で飾りつけ、大綱で皆で石を引くのじゃ。石引を行う」と、上機嫌で準備を行わせた。


実際、信長は、石の上に乗り、大はしゃぎでこの名石を細川の屋敷から義昭第まで、四千人の妊婦を使い三時もかけてひかせ庭に据え付けさせた。


あわせて、八代将軍足利義政の東殿にあった「九山八海」と呼ばれた名石も同じようにひかせて持ってこられた。それだけでは飽き足らず洛中・洛外の名石・名木を集め、満足いく庭の景色を造らせたのである。屋敷の馬場には桜を植え自ら「桜馬場」と命名し、さらに屋敷の周りには、御供衆の瓦葺の屋敷を左右に築き、これを城全体の備えとした。


これらの洛中の様子を聞き及んで帝と禁裏は、三月二十日、伝聞権大納言万里小路惟房並びに右少弁広橋兼勝を勅使とし、信長に副将軍の地位を与えるように推任したが、信長はこれに返答せず固辞した。


北と東面が完成しないまま、御殿だけは四月十三日に完成しそこへ義昭は移徒した。


ルイス・フロイスがこの橋の上で信長と初めて面会したのは、この直前の三月十三日の時の事であった。フロイスは、信長から京での布教を許され、四月八日に允許状を得た。


この時、諸国からこの築城を見物するためたくさん訪れていた。そのさなかに、よからぬ行動をした家臣を信長が一刀のもと切り捨てるという事件も起こっている。信長自陣が現場の先頭に立ち命令を下している日もあったように、信長のこの築城に対する思い入れには大きなものがあった。


完成した屋敷で信長を迎え、信長への礼を尽くすため、義昭は、四月廿一日、三献の儀を催した。その場では将軍自ら酌をして、その盃と刀、馬を信長に賜った。さらに諸国から集まった面々には信長自ら礼を尽くされ、すべての輩は帰国の途についた。


その場で、先年と同じように、信長は将軍義昭に対して暇乞いを行った。義昭からしてみれば、心内を試されているような気分になった。


一方の信長は、


(一仕事終わったことでもあるので、この窮屈で息がつまるような京から逃げ出して岐阜に帰り羽をのばすこととするか。さすがに城も築いたのである、再びかようなことが起こることはあるまい)と、単純な思いだで岐阜に帰ろうとしていた。


そして、秀吉に義昭邸の警固を命じることとした。


「ええ。わしは、また岐阜に帰ることを許されねえちゃうことか」と、わめきちらし、じたばたしていていることを信長は聞いて笑っていた。

「猿よのう。働きがまだまだ足りぬは」と、勢いよく馬に乗った。


禁裏も含めて民も再び信長が洛中からいなくなることを喜ばしくはおもっていなかった。


義昭は、信長の暇乞いの言葉を聞いて思わず落涙をした。

そして、このまま門外まで見送るといいだし、さらに東の石塁の上にまで登り、粟田口に消えていく信長と一行の姿を最後まで見送った。


その義昭の姿は洛中の民も見ていた。


信長の姿がすっかりと消えたところで、おもむろに義昭は明智の方に振り向き直し、こう言い放った。


「ようよう行きおったか」と。





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